01.勇者と呼ばれた男は死に損なう
腐臭と、肉が焦げる嫌な臭いが風に混じっていた。
トウ=テンは丘の上から焼却場を見下ろした。
おびただしい数の獣が穴の底で焼かれている。
獣の死体が集められた穴に油と火を投げ込んだ西州軍は、腐臭混じりの黒煙を恐れて士官から一兵卒に至るまで一人残らず駐屯地に逃げ帰った。数日前の夜、自分たちに地獄を見せた黒い獣が、炎の中で息を吹き返すかもしれないと想像すらせずに。
彼は立ちのぼる黒煙の底をじっと睨んだ。
黒い爪が穴の縁を引っかいている。これで六匹目だ。炎と煙に喉を焼かれながら、折り重なる同胞の死体を足蹴にして這い出てきた。
弓に矢をつがえ、狙い、放つ。
矢は一寸の乱れなく、ちょうど穴から頭を出した獣の右目を貫いた。
次の矢に手を伸ばす。指が空を切った。トウ=テンは空になった矢筒を肩から下ろし、やがて息を吐くと、くたびれた体を引きずりながら丘を下った。
コヌサの町に戻るころには日が暮れていた。
門を見張っていた兵士が松明をかざした。薄闇から現れたトウ=テンの姿を見て、彼は露骨に眉をひそめて顎をしゃくった。
〈狩り〉が終われば傭兵はお払い箱というわけだ。
トウ=テンは踵を返して外周の古井戸まで行き、そこで顔を洗った。
爛れた頬に水が沁みた。三日前の〈狩り〉で、黒い獣の返り血を浴びた部分だ。同じように指も腕も、焼けつくように痛んだ。皮膚が赤黒く変色している。黒い獣の腐った血は、それを浴びた生き物の血肉を腐らせる毒なのだと話には聞いていたが、どうやら本当だったようだ。
外壁を背にして腰を下ろす。疲労感が泥のように全身にまとわりついた。腰に提げた刀すら重い。外周にはトウ=テンのほか、〈狩り〉で浅からぬ傷を負った傭兵たちが大勢座り込んでいた。
町の医療施設で優先して治療を受けられるのは正規の軍人だ。数あわせの傭兵、とりわけ異国人は後回しにされる。
トウ=テンは目を閉じて項垂れた。
もう立ちあがる気力もない。この調子では、治療の順番が回ってくるよりも先に命が尽きるだろう。周囲でうずくまっているうちの何人かは、すでに事切れている。自分もじきに死者の列に加わるであろうことは、想像に難くなかった。
朦朧とした頭に、三日前の夜のことが浮かんだ。
他の傭兵たちと共に最前線に配置されていたトウ=テンは、狩る者と狩られる者の立場がひっくり返る瞬間を目の当たりにした。突如として夜の底に響き渡った獣の咆哮を合図に、森の奥に蹲っていた闇が巨大な黒い塊となって押し寄せてきたのだ。
それはさながら、海岸線を飲み込む大波のようだった。
西州軍が隊列を崩して潰走するまで半刻もかからなかった。
逃げ遅れた兵士やしんがりの傭兵たちが次々と黒い牙に蹂躙されていくなか、トウ=テンは襲いくる獣を何匹も斬り伏せた。腐臭を放つ返り血を浴びるたび、皮膚に焼けるような痛みが走った。
辺りを飛び交う声は、号令と、怒号と、絶叫が重なり合って、もはや区別がつかない。
飛びかかってきた獣めがけて、トウ=テンは刀を振り抜いた。大きく裂けた腹から臓物が地面にこぼれ落ちる。彼を取り囲んでいた獣たちが刀の間合いから離れた。恐怖が殺戮の本能を凌駕したのか、尾を巻いている。威嚇の吠え声にも覇気がない。魔物には珍しく高い知性を備えているようだ。
じりじりと後退した獣たちは、十分に離れたところでばっと身を翻して逃げていった。
トウ=テンは息継ぎついでに周囲に目を走らせた。群れの大半はどうやら、枯れ木の森を抜けて西州軍の本陣まで到達したようだ。
木に登って高所から本陣に目を凝らす。西州軍は防戦一方だ。群れの勢いに圧倒されて気概が削がれている。長すぎた平和の弊害だろう。西州の軍人には戦の経験がない。こうした有事の際に、戦慣れした異国の傭兵を雇わなければ立ちゆかないほどに。
このままでは町まで襲われる。トウ=テンは弓に矢をつがえ、狙いを定めた。
群れを率いている個体を探っているとき、ふと、違和感を覚えた。腕を下ろして目を凝らし、注意深く獣たちの動きを観察する。
違和感の正体はすぐにわかった。群れで狩りをする獣には、大様にして逃げるものを追う本能が備わっている。しかし本陣で暴れている獣たちは、逃げていく兵士をそれ以上追撃しようとしない。まるで縄張りに入ってきた敵を追い払おうとしているかのようだ。
人の背丈ほどもある体躯をした、群れの中でもひときわ大きな個体が、しきりと後方――森のほうを気にする素振りをしているのが目についた。
トウ=テンは後ろを振り返った。どこもかしこも、ヒトと獣の死骸だらけだ。彼はさらに奥に目を向けた。
――あれは。
木の陰に、何かがいる。暗すぎて姿までは見えないが、その気配を捉えた一瞬、全身の皮膚が粟立つような感覚を覚えた。
向こうはまだこちらに気づいていない。
トウ=テンは迷わず矢を放った。
確かな手応えを感じた直後、空気を揺るがす咆哮があがった。
西州軍本陣を襲撃していた獣たちの声だった。森のほうを気にしていた個体が、ひときわ大きな唸りをあげた。剥き出しの牙は血に濡れ、赤く濁った双眸には凶悪な輝きが宿っている。鋭い殺気が全身の毛穴を突き刺した。激情の矛先が自分に向いていることを、トウ=テンは肌で感じた。
――当たりだったか。
群れが大挙して森に引き返してくる。
生の実感と死の予感が全身を満たした。
過去に数多の戦場で経験した、慣れ親しんだ感覚だった。トウ=テンは弓を下ろした。迫り来る群れを、彼は懐かしい友を迎えるような心境で待ち構えた。
頬に、何かが触れた。
人の手だ。
傷つき熱を持った部位を、冷たいものが拭う。骨身を苛んでいた痛みが和らいでいく。
――よせ。
拒否しようにも、死に瀕した身では声を出す気力もなかった。
薄目を開いて姿を見る。外套を目深に被った小柄な人物だ。顔は見えないが、袖から覗く白い両手が闇夜に浮かんで見える。その何者かは井戸から組み上げた水をそばに置いて、トウ=テンの体を拭き、傷を洗い、薬を塗って包帯を取り替えた。
一体なんなのだと怪しんでいると、今度は唇の端に何かを押し当てられた。口の中に流し込まれたそれは、どろりとしてほのかに甘い。重湯だ。この何者かは、本気でトウ=テンを助けようとしているらしい。重湯が一匙ずつ口に運ばれるたび、空虚だった体の内にじわじわと熱が戻って来るのを感じた。
それは夜明け前に何処ともなく去っていき、日が暮れるとまたやって来た。
三度目の夜を迎えるころには、おぼろげだった意識も普段の明瞭さを取り戻しつつあった。少なくとも、とんでもなく苦い丸薬を口の奥に押し込まれて悪態をつける程度には回復していた。
夜毎にやって来るその人物はどうやら薬師らしい。薬籠とおぼしき桐箱を背負った姿はいかにも薬師のそれであったし、引出しから小瓶や油紙の包みを取り出すところをたびたび目にした。
不可解なのは、手当をする目的が一向にわからないことだ。慈善か、金目当てか。どういうつもりであれ、ありがた迷惑な話である。
トウ=テンはここに命を捨てに来たのだから。
七度目の夜。空が白んできたころ、トウ=テンは体を起こした。指を一本ずつ折り曲げ、ゆっくり肩を回す。関節に問題がないことを確かめてから腕の包帯を解いた。獣の血を浴びて火傷のように爛れていた部分は、赤い痣になっている。散々味わった骨身を蝕む痛みはすっかり引いていた。
――生き延びてしまった。
苦々しい思いを押し殺して彼は立ち上がった。
水を汲みに行っていた薬師が、こちらに気づいて早足で戻ってきた。
トウ=テンは伸ばされた手を掴んで軽く捻った。薬師はあっけないほど軽くひっくり返った。その拍子に、それまで隠れていた顔が露わになった。
――白子か。
透き通るような白い肌、白い髪。大きく見開かれた灰色の瞳が、呆然とトウ=テンを見上げている。久鳳人の血を感じさせる柔和な顔立ち。年の頃は十代半ば。華奢な首筋を見るに女のようだが、表情は幼く、性別を感じない。
「どういうつもりだ」
質問の意味がわからなかったのか、薬師は戸惑い気味に目を瞬いた。
トウ=テンは続けて尋ねた。
「なぜ俺を助けた」
「……さ」声が掠れている。一度唾を飲み込んで、薬師は言った。「捜してたから」
「こちらはおまえのことなど知らん」
トウ=テンが手を離して背を向けると、薬師は慌てて起きあがって彼の袖を掴んだ。
「矢を撃ってた」
どうやら獣を射るところを見られていたらしい。
袖を掴む手を振り払って、トウ=テンは眉をしかめた。
「それがどうした」
「たっ……頼みたいことが、あって……」
尻すぼみになっていく声には怯えが滲んでいる。
太陽が昇った。朝日が夜の色を塗り替えていく。そのなかにあって、薬師の白い髪が銀糸のように煌めいた。眩しさに目を細めながら、トウ=テンは薬師の頭に外套の頭巾を被せた。
仕事ならほかを当たれと言いたいところだが、外周の壁沿いに転がる傭兵達は、そのほとんどがすでに死んでいた。手当てを受けていなければ、今ごろは自分も荼毘に付されるのを待つばかりの死体になっていたはずだ。
助けられたからといって感謝するつもりはない。仕事の依頼など億劫だ。しかし、一度は捨てた命である。ならば拾った者に多少は権利があるだろう。
「聞くだけ聞こう」
薬師はホッとした顔をしたあと、急いで薬箱を背負った。
コヌサの町を背にして薬師が向かったのは、黒い獣が棲む森の中だった。
薬師は迷いのない足取りで森の奥へ奥へと進んでいく。必要最低限しか言葉を交わすつもりがなかったトウ=テンも、これには黙っていられなかった。
「どこまで行くつもりだ。いつ黒い獣が出るかもわからないんだぞ」
「出ない。みんな遠くに逃げた」
二人は戦闘の跡地を避けて奥へ進んだ。
渓流沿いに出たところで、薬師は真っ直ぐ岩場のほうへ歩いて行った。倒木のそばに枯れ葉を敷いた寝床と、火を焚いたあとがある。薬師が毎日どこから来て、どこへ去っていくのかという疑問の答えが期せずして得られた。
野営の痕跡から察するに、連れはいない。一人のようだ。
「なぜこんなところに?」
薬師は足下に視線を落としながら小声で答えた。
「……ここなら、誰も来ないから。昼間はずっと隠れてる」
子ども一人で町に滞在するくらいなら、黒い獣に襲われる危険を冒してでも森にいたほうがマシだということか。
感心できることではないが、そうせざるをえなかった事情は理解できる。
コヌサには今、異国の傭兵のみならず、戦死者の財産をたかりにやって来た流れ者がひしめいている。なかでも人身売買を生業にしている連中は悪辣で、その手口たるや、深手を負って余命幾ばくもない男に近づいて遺言と家の場所を聞き出し、夫の帰りを待つ妻子をさらうのだ。
トウ=テンは改めて薬師の姿を見やった。豊かな自然のなかで暮らす西州人は骨が太く、浅黒い肌を持つ者が多い。そんな中で、この透き通るような肌の白さは否応にも人目を引くことだろう。金を持て余した好事家の垂涎の的である。こんな美味しい獲物を人買いが放っておくはずがない。
以前の西州なら、こんなことはありえなかった。泰平の世を神の如く治めた西州公が死んでから、この国の治安は年々悪くなる一方だ。
「……名前は?」
聞いているのかいないのか、薬師は自身の手のひらをジッと見つめている。心ここにあらずという様子だ。十秒待って反応がなかったので、彼は仕方なく自分から名乗った。
「俺はトウ=テンだ」
薬師はハッとしたように顔を上げ、手を閉じた。あたふたと頭巾を下ろす。こちらの顔色を窺いながら気まずそうに口ごもる姿は、演技には見えない。この子どもは少なくとも化生の類いではないようだ。
「名前を聞いている」
もう一度聞くと、薬師は目を伏せて答えた。
「……サクナギ。サクでいい」
「頼みたい仕事というのはなんだ」
サクはチラリと視線を下げた。どうやらトウ=テンの腰の刀を気にしているようだ。
「トウ、テンは……いつもは、なにをしてる人?」
「隊商の護衛や、旅人の用心棒……魔物や賊の討伐を請け負うこともある」
「……ここで獣と戦ったのも、仕事?」
「無駄口を叩くな。用件を言え」
つい凄んだ口調になる。頼みたいことがあるというわりに踏ん切りがつかない素振りを見せる薬師に、トウ=テンは若干苛立っていた。経験上、依頼人がこういう態度を取るときは大抵ろくなことがないのだ。
下唇を噛みしめたあと、サクは意を決したように口を開いた。
「家まで送ってほしいのと、あと……」一瞬、目を泳いだ。「用心棒になってほしい」
そんなところだろうと予想はしていた。
トウ=テンが重い溜息をつきながら倒木に腰を下ろすと、サクもつられたようにしゃがんだ。不安げに顔を覗き込んでくる子どもっぽい仕草が、彼をより憂うつにした。
「こんな死に損ないに用心棒を頼むとはな」
「……死にたかった?」
そうだ。だが、死ねなかった。
あの夜、獣の群れは待ち受けるトウ=テンを避けるように駆け抜けて森の奥へと消えた。死神に手を払われた彼は、自らの命を路傍に打ち捨てることで何もかも終わりにしようとした。それを拾いあげる者がいようなどとは思いもしなかった。
トウ=テンの脳裏に、今ではもう記憶の中にしかない故郷の風景や、亡き妻子の顔がよみがえった。青くけぶる山脈、繋いだ手の小ささ、伏し目にかかる睫の長さ。思い出すのが辛くなくなったときから、彼の魂は緩やかに死んでいった。
「なぜ俺なんだ」
「……正しいことをしてくれる人だって、思ったから」
西州軍の不始末を尻拭いしたという、それだけのことで善人だと思ったのか。
とんだ世間知らずだ。
「家はどこだ」
「えっと……ミアライの、山の中」
西州南部の山深い地域だ。対して、自分たちが今いるコヌサは北部の西端にあたる。
頭の中に地図を起こした。西州の北と南は街道の一本道で繋がっている。長い道のりだが、道中には宿場町がいくつかあって休むのに困ることはない。しかし、サクを連れて日中どれだけ進めるだろう。白子は日の光に弱いという通説がある。かといって夜の移動は論外だ。野盗に遭遇する危険は避けたい。短時間で距離を稼ぐには馬を使うしかないのだが、それでも雪が降り出すまでに間に合うかどうか。
そこまで考えたところで、トウ=テンは不可解に思ったことを尋ねた。
「来るときはどうしたんだ」
「山の中を歩いてきた……」
道のない山中を、徒歩で。よく辿り着けたものだ。一体、何日かかったのだろう。
サクは弁解するように小声で付け加えた。
「雪が降る前に帰りたい、けど……山を歩くのは時間がかかるし。大きな道は、いろんな人が通るから……ひとりだと怖くて」
麻の外套と着古した着物は、山歩きをするには軽装すぎる。山中の野営は凍える寒さだったはずだ。ここまで徹底して人を避けるように動いているのは、親兄弟がそう教え込んだのか、あるいは過去によほど怖い目に遭ったのか。
街道は必ずしも安全な経路ではない。
傭兵の参入は西州軍の脆弱な兵力を補うために不可欠なものだったが、軍属でない彼らは〈狩り〉が終われば野放しとなる。多くは報酬を受け取ってまた別の戦場へと流れていくが、少数は西州に居残り、本格的な冬が始まるまで街道を行き来する行商人や小さな集落に狙いを定めて略奪の限りを尽くす。
西州はかつて、絶大な神通力を持つ西州公に守られた平穏な地として知られていた。それがこのように変わってしまったのは数年前のことだ。
山野の獣が転じたか、よどみから湧き出たものなのか定かでない。それは西州公が崩御した翌年から現れ、人間を襲い、食らうようになった。
呪われた血を持つ黒い獣たち。
西州に魔物が出現したという事実は、象徴的存在だった西州公の神性を各国に知らしめ、西州の民に根づく公への畏敬と信仰をより強固なものとした。
西州で仕事をしていると、如実にそのことを感じさせる場面に出くわすことがある。
街道で積み荷を奪われた商人が、西州公が治めていたころは安全に商売ができたのにと嘆くところを見た。
志願して〈狩り〉に参加した農民が、どうかお守り下さいと西州公に祈りを捧げるところを見た。
夫を亡くした妻が、西州公が生きておられれば夫は死なずにすんだのにと泣き崩れるところを見た。
西州公亡き後、側近だったラザロ=ヤースンなる人物が指揮を執って国内の復興に尽力しているというが、民衆の心はいまだ平和だった過去に囚われたままだ。それは、この国が緩やかに衰退しつつある遠因に思えた。
それはさておき。
「報酬は?」
「帰ってからじゃ……だめ?」
トウ=テンは腕を組んで考え込んだ。
果たして他に、この依頼をまともに引き受ける人間がどれだけいるだろう。用心棒の報酬より、依頼人を売り払ったほうが金になることは目に見えている。
沈黙が長引くにつれ、サクの表情が不安で曇っていった。
トウ=テンは声もなくうめいた。
――死のうとしていたところに、どうして子どもが出てくる。
子どもはだめだ。死んだ子の年齢を数えるものではないというが、十年前に死んだ我が子が生きていたら今ごろこれぐらいの年だったろうと思うと、もうだめだった。
どうせ死ぬならあと一人、誰かの命を守ってからでも遅くはないだろう。
「わかった。引き受けよう」
サクは頬を緩めてホッと息をついた。
その日のうちに、トウ=テンはコヌサの町で黒鹿毛の西州馬を一頭買った。ほつれて薄汚れた衣を新しいものに替え、そのあと、複数の店に分けて買い物をおこなった。保存食、防寒着、荷物を湿気から守る油紙も。
馬の背に旅道具を積んで森に戻った。野営地に向かう途中、遠くのほうで微かに獣の遠吠えが聞こえた。黒い獣か、あるいはただの狼かもわからないが、トウ=テンは歩調を速めた。
渓流が見えてきたところで、対岸のほうをじっと見つめるサクの姿が目に入った。
無事だった。内心で胸を撫で下ろしながらトウ=テンが近づいていくと、サクは振り向きざまにびくっと飛び上がり、慌てて岩陰に隠れてしまった。
「どうして隠れる」
サクはおそるおそる顔を出し、トウ=テンを見上げて瞬きした。日が差しているわけでもないのに眩しそうに目を細めている。
「服が違うから、別の人かと思った。……着替えたんだ」
「あのなりで歩き回るわけにはいかんだろう」
荷物から冬用の服と、毛皮のマントを出して渡す。
「おまえの分だ。着ておけ」
サクは受け取った衣類を困惑顔で眺めた。
「でも、お金……持ってない」
「いちいち気にするな。無事に家へ帰ることだけ考えろ」
これからいよいよ寒くなる季節だ。薄着でいたら余計に目立つし、旅の途中で風邪など引かれたら目も当てられない。
「出発前にもう一度町に行く。おまえの靴が必要だ」
トウ=テンが荷物を整理しているうちに、サクは冬服に着替えた。
「あったかい」
さっきまで躊躇っていたというのに、今や笑顔でご満悦だ。
「トウテン。ありがとう」
「礼はいらん。仕事のうちだ」
粥の食事をすませたあと、サクはトウ=テンの傷を診た。
痣にすり込んでいる軟膏には、炎症を鎮める効果があるのだという。また、死にかけていたときに何度も飲まされた丸薬は、低下した体力を回復させるためのものだったらしい。年は若いが、サクの薬師としての腕前は確かのようだ。
「薬の知識は誰から学んだ」
「おかあさん。これの作り方もおかあさんに教わった」
「母親は、おまえがコヌサに来ることを承知しているのか」
サクは顔を曇らせて首を横に振った。
「もういない。死んじゃった」
「父親は」
「はじめからいない」
年季の入った薬箱は、あるいは母親から受け継いだものかもしれない。親がいないとなればコヌサくんだりまで薬を売りに来た理由も納得がいく。食べていくためには仕事をしなければならないのだ。
「他に家族はいないのか」
「コスと、チサがいる。あ……コスは兄で、チサは、コスの奥さん」
依頼人とこうして言葉を交わすことは普段、滅多にない。仕事をすませて約束の報酬を貰い、別れる。それで終わりだ。だが今度ばかりは、雇われた経緯に生死が関わっているだけに、簡単に割り切れないものがあった。
弓と刀の手入れが終わる頃には日が暮れていた。
二人で火を囲んで簡単に食事をすませた。
「トウテンはずっと用心棒をやってるの?」
「久鳳の軍にいたこともあったが、もう十年以上前の話だ」
「今も昔も、人を守る仕事をしてるんだ」
――だが。
本当に守りたかったものは何も、この手に残らなかった。
会話はそこで途切れ、しばらく薪の爆ぜるパチパチという音だけが聞こえた。
「もう寝ろ。明日出発だ」
サクは頷いて毛皮のマントにくるまったものの、一向に横になろうとしない。遠慮がちな上目遣いで、焚き火越しにトウ=テンの顔を見つめている。
まだ話したいことがあるようだ。
「言いたいことがあるなら言え」
小さく開いた唇から零れた声は、消え入るようだった。
「家に帰ったあとも……いてくれる?」
「そのつもりだが、具体的にはいつまでだ」
サクは後ろめたそうに目を伏せた。
トウ=テンは漠然と、冬籠もりの支度を終える頃までだろうと考えていた。しかしこの様子を見るに、ある程度の期間、用心棒が必要な事情があるのかもしれない。
「いつまででも構わんが、大まかな期間と理由を聞きたい」
問いかけに対して返ってきたのは、信じられない答えだった。
「……死ぬまで」
聞き間違いかと、トウ=テンはサクを凝視した。
サクは膝の上で震える手を握り合わせた。感情を抑えるように下唇を噛みしめたあと、緊張で張り詰めた顔を上げ、今度はきっぱりと言い切った。
「俺が、死ぬまで」
冗談だとしても質が悪い。トウ=テンは憤然と立ち上がった。
「ふざけるな。おまえが死ぬまで、何十年も用心棒をやれというのか」
詰め寄って凄むと、サクは萎縮して小さくなりながら、首を横に振った。
「そんなに、何年もじゃない……」
「体がどこか悪いのか?」
「違う」
不可解だ。病気ではない。それなのに、数年以内に自分が死ぬという確信がある。
これではまるで、死ぬ日取りをあらかじめ決めているかのようではないか。
「死のうと思っているわけじゃないだろうな」
サクは俯いて口を閉ざしている。
軍人なら死を覚悟して当然だ。危険な任務の前には遺書を書くこともある。だがその大多数は、死にたいと思っているわけではない。戦うのは生きるため。命懸けで死地へ赴くのは、国や家族を守るためだ。他ならぬトウ=テンがそうだった。
久鳳で軍人をしていた頃、同期や部下を何人、何十人と見送った。どれも悲しくはあったが、いちいち立ち止まりはしない。人死には諸行無常と割り切っている。
しかし、それはあくまで戦場での話だ。
血しぶき飛び交う戦場の外で、剣戟の響きから遠い日常で、よりにもよって子どもの死を看取るなど。想像もしたくない。
トウ=テンが顔を背けると、サクは今にも泣きそうな声をあげた。
「嫌いにならないで!」
「呆れてるんだ」
命が消えるのは一瞬だ。一分一秒が生死を分けることもある。避けようがない危機に陥ったとき、最後の瞬間まで足掻いてやろうという気概がない者を、どうして守れよう。
背後から微かに、引きつった息遣いが聞こえる。
トウ=テンは深く息を吐き、むしゃくしゃした気持ちを抑えた。涙目になっているサクのほうに向き直る。
「一度引き受けたからにはまっとうするのが用心棒だ。だが、はじめから死ぬことを考えている人間を守るつもりはない」
「どうしたらいい?」
「何があっても生きることを諦めるな。それが出来ないならこの話はなしだ」
サクは唇を引き結んだ。苦しげな表情から、強い葛藤が伝わってくる。
トウ=テンは答えを待った。
長い長い沈黙を経て、サクは胸の前で握りしめていた手を解いた。
「……わかった。その代わり……約束して」
サクはトウ=テンの痣だらけの手を取ると、真剣な眼差しで彼を見上げた。
「何が起こっても……そうするべきだと思ったら……迷わないで。正しいことをして」
言われるまでもない。トウ=テンはサクの手を握り返した。
「約束する」
そのとき、体の中を何かが通り抜けたような気がした。淀んでいたものが押し流され、体の芯に熱い痺れが走る。一瞬で過ぎ去ったこの奇妙な感覚は、トウ=テンの心身に形容しがたい余韻を残していった。
「トウテン。きっと守ってね」
懇願する声、握りしめた小さな手は、微かに震えていた。
サクが恐れるものが何か、今はまだわからない。だが。
守るべきものを失ったこの手を、まだ必要とする者がいるのなら。
トウ=テンは黙って頷いた。
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