崖っぷち西州事変/忘れじのオブリージュ

@satomi-akira

00.序章


 頬を濡らす雫が雨粒ではなく涙だと気づいたのは、泣き声が聞こえたからだった。

 ばらばらにほつれていた意識の糸を縒り合わせるうちに、ふと、自分の体がおかしいことに気がついた。息が苦しい。指先のひとつも動かすことができない。寒くてたまらないというのに、腹のあたりだけが妙に生暖かかった。

「おかあさん」

 そう呼ぶ声で、恐慌をきたしていた心がスッと凪いでいった。

 落ち着いて。意識しながら、か細い呼吸をゆっくり繰り返す。そうして暗い瞼の裏を見つめるうち、なにが起きたのかを思い出した。

 目を開くと、サクナギが涙で顔を濡らしながら私の体に取りすがっていた。

「おかあさん」

 ――ああ、よかった。無事だった。

 町で薬を売って、家に帰るところだった。あと少しで峠を越えるというところで野盗に道を塞がれて、揉み合いになったのだ。短剣が体を貫いたときの衝撃が、生々しく思い起こされた。

 血を流しすぎたらしい。刺された場所が悪かった。目がひどく霞んできた。さっきまで感じていた寒さまで遠のきつつある。

 もう、どうあがいても助かることはないだろう。けれどそれはお互い様だ。野盗がこの子を狙って戻ってくることは二度とない。刺し違えたとき、毒の刃を腹に突き立ててやったから。

 サクナギは私の手を握りしめて泣きじゃくった。

「やだ。死んじゃいやだ。おかあさん」

 ――そうね。私も嫌。けれど、どうにもならないの。

 指に力を込め、サクナギの手を握り返す。まだ、少しだけ猶予があるようだ。


 死に際に人は走馬燈を見るものだというけれど、いざ自分が、というときになって頭のなかに浮かんでくるのは、子どもたちのことばかり。

 コスにはひととおり薬の知識を仕込んだ。読み書きも、計算も教えた。食べていくのに困ることはない。いつでもどこでも、一人前に働くことができる。

 けれど、サクナギは。


 ――あの方のように苦しんで、苦しみ抜いて、死んでしまう。


 私にはわかっている。

 誰よりもそばに仕えたから。

 西州という国の歪みを、この目で見てしまったから。


 指の感触を頼りに、サクナギのことを思う。

 生まれたてのころは、体がとても小さくて、泣き声まで小さくて、ちゃんと育つか毎日心配でたまらなかった。そんな私の不安をよそに、サクナギは病気にかかることもなくすくすくと丈夫に育ってくれた。

 普通とは違う容姿から村の人たちはこの子を嫌い、遠ざけたけれど。そんな人々を、サクナギが恨まず憎まずいてくれたことに、私はどれだけ救われただろう。


 幸せだった。十二年、本当に幸せだった。


 上様。

 恩知らずで薄情な私は、きっと、あなたと同じところへは行けないけれど。

 来世なんてまるで信じていないけれど。

 それでも、心から願います。

 次に生まれるときこそ、あなたの命は、あなただけのものです。

 心を侵す夢からも、体を蝕む痛みからも自由になって、安心して眠って下さい。

 愛の物語にときめき、さまざまな国を旅して、大好きな詩を存分に詠んで下さい。

 かつて叶わないと諦めたあなたの夢が、いつか、今度こそ叶いますように。


 祈りを込めて、私は目を開く。


「サクナギ、よく聞いて。お母さんの言うとおりにして……」


 コスと二人で、これからのことをよく相談しなさい。

 床板の下にお金を隠してあるから、いざというとき使って。

 雪が降り出したら炭はけっして切らさないように。

 箪笥の二段目に新しい着物を用意してあるわ。

 年頃になったら山遊びはほどほどに。

 もし誰かを好きになることがあったら、その人を大事にね。

 そしてどうか、


 ――どうか、幸せになって。


 本当に伝えたかったこと。言葉にできなかった思いが、こぼれ落ちていく。

 母親としてかける最期の言葉が、こんなものだなんて。

 悔しくて、悲しくて、涙が溢れた。


「お母さんの心臓を、食べなさい」

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