24.ずっと、ずっと思ってた
その洞穴の周囲だけ雪が除かれていた。
トウ=テンは馬から降り、背中を屈めて穴の中を覗き込んだ。
まず、火を焚いた痕跡が目に入った。燃え尽きて崩れた薪はヒヤリと冷たい。熱が失われてから随分時間が経っているようだ。そのさらに奥に目をやると、ナサニエルが岩壁にもたれて身を縮めていた。
「おい。生きてるか」
呼びかけると彼はわずかに顔を上げた。こちらを無表情に見返す反応の鈍さから、見た目より衰弱しているとわかる。
一晩、洞穴で過ごしただけでこうはなるまい。中に入ると、微かにではあるが腐臭が鼻先を掠めた。目を凝らしてナサニエルをよく見れば、顎から左頬にかけて皮膚が火傷のように赤らんでいる。
黒い獣の血は、触れただけで皮膚が火傷のように爛れる毒気を含んでいる。襲われたとき、とっさにスイハを空へ逃がしたというが、自分の身を守るのは間に合わなかったのだ。
腐傷の熱と痛みの辛さは身に染みている。トウ=テンはナサニエルを担いで外へ連れ出した。最悪、死体を持ち帰る覚悟もしていたが、これで憂いの種がひとつ減った。
「スイハは無事だ」
それだけ伝えると、ナサニエルは馬上でぐったりと気を失った。
トウ=テンは馬の手綱を引いて歩き出した。
腐傷が治ったとしても消耗した体力が戻るまで数日はかかる。いくら疑り深いコスといえど、病人を雪山に放り出すことはさすがにしないだろう。そうであってほしい。それと引き替えにスイハがどうなるかまでは、ちょっとわからないが。
良くない想像を頭から追い払っていると、不意に、馬が足を止めた。指示を聞かず戸惑いがちに首を振る仕草を見て、トウ=テンは違和感に気がついた。
馬の吐く息が見えない。家を出たときは確かに、馬の吐息が白く筋を引いていた。
周囲を見渡し、まさかと足下の雪を靴先で掘ってみた。すぐに地肌が顔を出した。やはりそうだ。急速に雪解けが進んでいる。
馬を宥めながら、トウ=テンは歩みを進めた。
薄雲の広がる灰色の空、そこから降り注ぐ太陽の光は相変わらずぬるいままだ。しかし地上の空気は冬山のそれではない。土の匂い、草の香り。周辺一帯の木々の枝先からは早くも新芽が顔を出している。雪解け水がきらきらと流れる小川のそばで、巣穴から出て来たらしい獣たちが思い思いに寛いでいた。
デタラメな光景だ。
こういうことには大抵、サクが関わっている。
雪が完全になくなった辺りで、トウ=テンは声を張り上げた。
「サク! どこだ!」
手綱を引きながら少し歩いていくと、案の定、木の陰からサクが顔を出した。
「テン!」
安心したように駆け寄ってくる。寝間着に素足という格好だが、怪我も汚れも、怯えている気配もない。頬と鼻先がうっすら赤くなっているのは興奮のためだろうか。危険な目に遭ったというわけではなさそうだ。
トウ=テンは抱きついてきたサクを受け止めた。
「何があった」
「スイハが来た! スイハが……」興奮気味に捲し立ててから、サクはハッとして黒鹿毛のほうを見た。「ナサニエル?」
意識のないナサニエルに心配顔で手を伸ばす。
「黒い獣に襲われたの?」
「俺たちを追って山に入ってきたんだ。スイハを先に逃がしたはいいが、そのあと腐傷を負って動けなくなったらしい。遭難から丸一日経ってる」
長い黒髪を除けた下には、憔悴した青白い顔があった。サクはナサニエルの首筋から脈を取り、耳を寄せて呼吸を確かめた。
「下ろして」
「ここでか?」
「衰弱が進んでる。応急処置しないと」
トウ=テンは言われた場所にナサニエルを下ろした。
サクはナサニエルの服を緩めた。下顎から左頬にかけて皮膚が赤く爛れている。こうして見るとただの火傷のようだが、これが次第に膿んで腐って全身に広がっていくのだ。
サクは両手で掬った雪解け水で、爛れた皮膚を洗った。
それから鼻を摘まみ、顎を指で持ち上げる。
「息が止まったのか」
「ううん。消耗がひどいから霊素を供給する。これが一番効率がいいの」
言うなり、サクは息を吹き込む要領でナサニエルの口を塞いだ。
効果は歴然だった。血の気の失せた顔に、みるみる生気が戻っていく。
六秒の息継ぎを挟み、もう一度。ナサニエルの睫がピクリと震えた。瞼の下から、鮮やかな緑の瞳が覗く。
「これで大丈夫」
サクは口を離して手の甲で唇を拭った。
目を覚ました直後、ナサニエルはしばし朦朧としていたが、じきに起き上がり、周囲の光景を呆然と見渡した。
「なんだこりゃ……」
空を仰ぎ、地面の土に触れて、信じがたいというように目を瞬く。
「ち、地脈の異常活性……」彼は立ちあがろうとして膝をつき、息苦しそうに胸を押さえながらサクを見上げた。「そんなに霊素を垂れ流して、平気なのか」
「わかんないけど、たぶん」
トウ=テンはしゃがんでサクの様子を見た。
顔色はいい。むしろ良すぎるくらいだ。手首から脈を取る。やや興奮しているのか、速い。体温も平生より上がっているように感じられた。
「疲れてないか?」
「平気。よく寝たから」
そう答える笑顔は屈託ない。
「そうだな。よく寝てた」トウ=テンはサクの髪についた寝ぐせを直してやった。「それで、何があった? スイハがどうした?」
改めて尋ねると、サクの表情がパッと明るくなった。
「あのね、スイハが来たの。うちにいるんだよ」
「知ってる。コスは帰ってるのか」
「うん。ひどいんだ。スイハを外に放り出して。殴って蹴っ飛ばして」
サクはプンプン怒りながらコスの悪行を訴えた。
自分が出て行ったあと何が起きたか、トウ=テンは合点がいった。まさに寝た子も起きる騒ぎだったわけだ。
ナサニエルが訝しげに眉を顰めた。
「スイハがおまえに何かしたのか?」
「ううん。コスは誰が来ても怒る。鉈まで出すのはあんまりないけど……」
「鉈ってなんだ。スイハのやつ、無事なんだろうな」
トウ=テンは初めてコスと会ったときのことを思い返さずにはいられなかった。
コスは他人に対して、より正確にはサクに近づく人間に過剰なまでの警戒心を持っている。たとえ相手が少年で、一人だったとしても容赦はしない。鉈まで持ち出したのはスイハが二度と家に来ないよう脅しつけるためだろうか。あるいは、本気で殺すつもりだったのか。
「大丈夫だよ。チサがね、コスを後ろから殴って気絶させたの。でもいつ起きるかわからないから、テンを呼んで来てって」
「なら、急いで帰らないとな」
立ちあがろうとしたトウ=テンの袖を、サクが引き止めるように握った。
「どうした?」
もじもじと煮え切らない様子を見せたあと、サクは引き結んだ唇を緩めた。
「……スイハに言われたんだ。友だち……大事な友だちだって。コスがあんなひどいことしたのに。……俺はみんなと違うのに」
豪胆なのか、阿呆なのか。鉈で襲われた直後に、よくそんなことが言えたものだ。ハン=ロカに目をつけられるだけのことはある。
「……おかあさんのお腹から出たとき」少し息を溜めてから、サクは絞り出すように言った。「言われたこと、覚えてる。……獣の子、化け物って」
トウ=テンは驚きを禁じえなかった。
――生まれたときのことを覚えているというのか。
そういえば、と過去を振り返る。
あれは息子が生まれる直前のことだった。久鳳全土に侵略の手を広げる夷の蛮族を追って、西へ東へ駆け回っていたある日、臨月の腹を抱えた妻が珍しく怒った顔をして言ったのだ。
「一度くらい赤ちゃんに声をかけてあげて」
何を怒っているんだと、トウ=テンは訝しんだものだった。
「まだ腹の中じゃないか」
「お医者の先生が言ってた。この子ね、私たちの声、もう聞こえてるんだって」
赤ん坊は腹の中にいるときから外の音を聞いているのだという。
あのとき、腹の中にいた息子に自分がなんと声をかけたか。その言葉は本当に届いていたのか。今ではもうわからない。拗ねていた妻の顔が、柔らかくほころんだ瞬間だけを覚えている。
古い記憶というのは、どんなことでも時間の経過と共に薄れていくものだ。
しかし、サクは覚えている。
産婆の罵声、異質なものへの嫌悪、陰湿な猜疑心。当時その場に居合わせず、夢でしか知らないトウ=テンですら、嫌な気分になった。
夢で見た赤ん坊は、一度も泣かなかった。
「嫌われても仕方ないって思ってた。自分でも、まわりの人と違うのはわかってたし。……獣の姿を隠したって、こんな姿……見た目で、仲良くしてもらえるわけない」
これは呪いだ。
白い肌、白い髪、獣の本性。生まれた瞬間に異形であることを突きつけられた。そんな自分を、サクは呪っている。
「……だけど」
呟く声はひどく掠れていた。ようやく喉元まで出かかったそれが途切れないよう、トウ=テンはサクの肩に手を回した。
心が弾けたようにサクは叫んだ。
「だけど! 本当はずっと思ってた。誰か一人でも、俺のこと好きになってくれたらいいのにって。ずっと、ずっと思ってた!」
生まれて初めて、それも獣の姿を見られた上で、存在を受け入れられた。
爽やかな風が吹く。雪の下から芽吹いた緑が鮮やかに葉を広げる。早すぎる春の気配と雪解けの景色は、夢の中よりもよほど夢のようだった。
トウ=テンはサクの頭を抱き寄せた。
ナサニエルは地脈の異常活性だとか言っていたが、小難しい理屈はどうでもいい。
これほどわかりやすい喜び方があるだろうか。
「叶ったじゃないか」
「……うん」
「コスが起きる前に帰るぞ」
「うん!」
帰り道はサクが馬の手綱を引いた。
「テン」
「なんだ」
「好きってどんな感じ?」
何を言うかと思えば。トウ=テンは閉口した。親愛と色恋の区別もついていないだろうに。完全に浮かれている。
「教えてよ」
しつこくせがまれて溜息と共に答える。
「知らん」
「うそだ。セツのこと好きっていつわかった?」
思わず息が止まった。
セツ。亡き妻の名前だ。
「……おまえに、セツのことを話したことがあったか?」
サクは無邪気に答えた。
「夢で見たよ。シンのことも。テンの大事な家族でしょ」
懐かしくも愛おしい響き。
妻子の名前を耳にしたことで、心が遠い過去に引き戻されていく。
「テン?」
故郷が跡形もなく焼け落ちてから、セツを守ることがすべてだった。
帝都で軍に志願したのはそれしか身を立てる道がなかったからだ。
行く先々の戦場で、死に物狂いで戦った。棒の端にもかからない雑兵ゆえに、敵の戦力を測る捨て石にされたり、撤退する隊列からトカゲの尻尾のように切り離されたこともあった。だがいついかなる時も、絶望より、セツを残して死ぬわけにはいかぬという執念が勝った。旧市街の片隅に建つ崩れかけの荒ら家へ帰るために、向かってくる敵はすべて殺し尽くし、泥水を啜ってでも生きのびた。
シンが生まれたときは、これまでのあらゆる苦労が報われた気がした。これから自分たちの人生は良い方へ進んでいくのだと、故郷を失って以来初めて、未来に明るい展望を持つことができた。
それからは故郷の仇を取るためでなく、未来のために戦った。戦のない平和な世になったら軍を辞めようと考えていた。刀を鍬に持ちかえて、耕した土からその日を生きる糧を得る。身の丈に合った場所に戻って、家族と静かに暮らすのが夢だった。
妻と息子こそが人生の生きがいだった。
それなのに、二人を失ってなぜ、十年も生きて来られたのだろう。
自分は一体、何を惜しんだというのか。
*
軒下の冷たい地面に座り込んだスイハは、明るい空を眺めながら、サクがトウ=テンを連れて帰ってくるのをじっと待っていた。
チサは中で待つように言ってくれたが、さすがにそこまで図々しくはなれない。もともと先に無礼を働いたのはこちらだ。家主の不在中に家に上がりこんだ。それにしたってコスが部外者に向ける敵意は尋常ではないとも思うが、自分が招かれざる客であるという自覚が足りなかったのも事実である。
スイハは悄然と山を見上げた。
世の中そう都合の良いことばかりではないということはわかっている。
しかし、それにしたって。
カルグを助けるために力を貸すと言ってくれた友人が、実は死にたがっているというのはあんまりではないだろうか。
服の上から、懐にしまいこんだ兄の手紙に触れた。スイハの胸中にはすでに、カルグの死を受け入れる覚悟が固まりつつあった。
ふと、景色の中にある違和感を覚えてスイハは腰を上げた。歩いていって地面に膝をつき、雪を手でそっと除ける。
雪の下から初々しい新芽が顔を出している。
春の先触れ、にしては早すぎる。あるいは、ミアライ地方特有の植生だろうか。図鑑があれば調べられるのに、と柔らかな芽を指先で突いていると、雪を踏む足音が近づいてきた。
顔を上げた先にいたのは、はじめに出会った親切な青年だった。彼はコスのいる家のほうをちらちら窺いながら、こちらへ近づいて来た。
「遅いから見に来たんだ」青年はスイハを見て眉をひそめた。「言わんこっちゃねえや。いったんうちに来い。見つかったらまた殴られるぞ」
殴られたところはまだジンジン痛む。おそらく痣になっているだろう。親切をありがたく思いながら、スイハはその申し出を丁重に断った。
「ありがとう。けど、大丈夫です。何度でも話します」
青年は同情っぽく首を振った。
「話したって無駄だ。コスがいないときにまた来りゃあいい」
「いないとき?」
「あとで話してやっから。早くしろ。見つかる前に逃げねえと……」
ピンときた。
足早に村へ戻ろうとする青年を追いかけ、確認の意味で問いかける。
「白い髪の子ですか」
「会ったのか?」
青年が驚いて立ち止まった。スイハはその表情をジッと観察した。
「殴られていたところを止めに入ってくれたんです」
「よかったな。あいつなら話を聞いてくれるぞ」
裏のない顔。心からそう思っているように見える。
彼は違う、と感じた。サクを外見で忌避して迫害するような人間ではない。
「どういうことですか?」
家からは見えない森の中で気が緩んだのか、青年は饒舌だった。
「あそこはさ、もともとキキさんっていう人の家だったんだ。よそから来た薬師で、俺もガキの頃に熱を出したときは世話になったよ。おまえが会った白いのはその人の子ども。サクってんだけどな。キキさんが亡くなったあとはみんな、コスがいないときを見計らってあいつに診てもらってるんだ」
「どうしてコスさんは、村の人を診てくれないんですか」
スイハはとうとう核心に触れた。
事が事だけに、はじめから正直に答えてもらえるとは期待していなかったが、青年の返答は別の意味で歯切れの悪いものだった。
「なんか、サクが生まれたときに色々あったらしくてな」
彼はばつが悪そうに頭をかいた。
「村はずれで遊ぶんじゃねえってガキの頃はよく言われてたよ。近所のボケた婆さんもずっと、あそこにゃ獣の子がいるんだって言ってよ。けど俺らもガキだったから、そら気になって見に行くわな。そしたらほら、なんか真っ白いのがいるなって。あの頃はまあ、それでからかったり……」
「いじめてた?」
「そう言うなよ。……サクは、ずっと母ちゃんにくっついてるような大人しいやつでさ。一人でいるときに声をかけても、すぐどっか逃げちまう。それでこっちもムキになったというか……いじめるつもりはなかったんだ。一緒に遊びたかったんだよ」
ありそうな話だ、というのが率直な感想だった。
顔立ちが可愛らしく、そのうえ気性が大人しいときたら、からかって気を引きたくなるのもわからなくはなかった。しかしこの話だけだと、コスが村人を憎む理由としてはいささか弱い気がする。
「お婆さんが言っていた獣の子って、どういう意味なんですか?」
「さあな。大人たちは何を聞いてもだんまりだし、婆さんは死ぬまでサクを目の敵にしてたけどよ。俺らにしてみれば、ヤバいのはコスのほうだったよ」
心なしか青ざめた顔で、青年は身震いした。
「いつだったか……仲間の一人が、ふざけてサクの髪を引っ張ったことがあったんだ。そしたらコスが飛んできてよ。もう、目つきが普通じゃねえんだ。組みついてこう、馬乗りになってよ。泣いて謝っても殴り続けるんだぜ。石を握った拳でさ。獣の子って、こいつのことじゃねえかって思ったよ」
当時子どもだった世代が知らない、何かがあるのだ。そしてそれこそが、あの家の者と村の人間を隔てている最大の障害なのだとスイハは直感的に悟った。
「ヨキのおっちゃんは、サクはなんたら憑きかもしれねえって言ってた。もしそうなら大事にしなきゃなんねえってよ。ま、俺らにゃよくわからんわ。あいつがいるあいだは安心して山仕事ができるってだけさ」
州都では当たり前に知られている精霊憑きのことも、ミアライの辺鄙な村には広まっていない。
生まれ育った場所さえ違ったなら、と、スイハはつい考えてしまう。隣人が理解ある者たちであったなら、サクも暗い願いを持つことはなかったのではないか。
「なあ」
青年は躊躇いがちに尋ねた。
「白子ってのは都会でも珍しいもんなのか?」
「数は少ないけど、いることはいますよ。僕の妹も色が白いんです」
答えながら、ふと思った。
もしユニが町で暮らしていて、近所の悪童からサクと同じような目に遭わされたとしたら、どうだろう。
――いい気分はしないな。
母親亡き今、コスが兄としてサクを守ろうとするのは当然のことだ。
不可解なのはやはり尋常ではない敵意と、あの言葉。
(おまえらは人殺しだ)
スイハは家のほうを振り返った。
確かめなければならない。この言葉の真意を。
彼は一体、ヨウ=キキから何を聞かされたのか。
「戻ります」
「話を聞いてなかったのかよ。殺されるぞ」
すでに一度殺されかけているのだが、それは言わずにおいた。
「逃げるわけにはいかないんです」スイハは青年に頭を下げた。「色々と気にかけて下さって、ありがとうございます。ついでに厚かましいお願いなんですが。もし黒い長髪のヨーム人が村に来たら、僕はここにいると伝えてもらえますか」
「そら、構わねえけどよ……」
スイハはもう一度頭を下げてから踵を返した。
途中で、雪から突き出た新芽を見下ろす。
季節は巡る。冬が過ぎれば春が来る。
次の春にカルグはいない。
新しい国造りのために必要なもの、自分にできること。
未来を夢見て、過去を学び、今を変える。大雑把に分けて考えれば、自分に欠けているものは明白。過去に対する理解だ。
知らなければならない。
西州公とは、何者であったのか。
トウ=テンたちが戻って来た頃には、日が傾いて辺りは薄暗くなっていた。ナサニエルは馬の背でぐったりしていたが、スイハに気づくと軽く手を振って見せた。
生きていた。
安堵で胸が熱くなった。スイハは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
トウ=テンはスイハの肩を二度叩いて横を通り過ぎた。
頭を上げるとサクが真ん前に立っていた。
しばらく、互いに無言で見つめ合う時間が続いた。
「さ……」
先に口を開いたのはサクのほうだった。
「……さっきはごめん」
語尾が緊張で震えていた。
「僕こそ。お兄さんを怒らせちゃって」
何とか無難な返答ができたが、先が続かない。何を言えばいいのか見当もつかない。
スイハが気まずく黙っていると、サクが言った。
「……いつも死にたいわけじゃないんだ。たまに……穴に落ちるみたいに、どうしようもない気持ちになるだけで」
「それ……よくあるの?」
「最近は平気。テンがそばにいてくれるし……それに、スイハが友だちだって言ってくれたから」
スイハはまじまじとサクの顔を見返した。
頬には赤みが差し、灰色の瞳がきらきらと輝いている。
生きている、と感じた。命が生きる喜びを謳っているかのようだった。
「また会えて嬉しい。これからどうしたらいいか、一緒に考えようね」
そう言って、サクは柔らかく微笑んだ。
込みあげるものを飲み込んで、スイハは笑った。そうしないと涙が出そうだった。
ナサニエルに肩を貸して裏口から家の中に入ったスイハは、全身が総毛立った。
コスが目を覚ましている。彼は腕を組み、剣呑な眼差しでこちらを睨んでいた。殺されかけた感覚が生々しくよみがえり、金縛りにあったように動けなくなった。
コスは忌々しそうに舌打ちして、疲弊しきったナサニエルの姿を一瞥した。拒絶一色だった目に葛藤が浮かぶ。逡巡したのも束の間、結局は一個人としての感情より薬師としての本分が勝ったのだろう。
「グズグズするな。さっさと入れ」
背を向けて、彼はぞんざいに言った。
スイハはホッと息を吐いた。おっかなびっくり、上がりかまちにナサニエルを下ろす。手持ち無沙汰になりかけたところで、チサからお湯の入った桶を渡された。
「服を脱がすから足を拭いて」
襷で袖をたくしあげ、彼女は手際よくナサニエルの上着を剥ぎ取った。スイハが足を拭いているのにも構わず、脇の下に手を入れて布団まで引きずっていく。
いつの間にかサクも着替えて手当てに加わっていた。
「腐傷は処置したんだな?」
「うん。あとは炎症と衰弱だけ」
コスが木箱から毒々しい色をした薬種を取り出した。木の根のようなものを細かく折って薬研に入れていく。
「これと十番を六・四で合わせろ」
「五番を足して六・三・一のほうが良くない?」
「体力が戻ってからでないと副作用が出る。様子を見ながらだ」
「わかった」
薬研を引く手つきは素早く滑らかだ。迷いがない。
興味を引かれて、スイハは後ろからサクの手元を覗き込んだ。
「それ、なに?」
「体を中から温める薬。食欲も出るし、疲れによく効くんだ」
「すごいなあ。薬を作れるなんて」
感心していると、不意に背中に鈍い痛みが走った。振り向くと、コスが恐ろしい目つきでこちらを睨めつけていた。近づくなということだ。スイハはすごすごと後ずさった。部屋の隅で膝を抱えて座る。
自分の部屋がある州都の屋敷とは違う。使用人もいない、三人暮らしの小さな家だ。各々が無駄なく立ち働いている中で、邪魔にならないよう座っているというのはなんとも居心地が悪いものだった。
スイハはそっとトウ=テンを盗み見た。
囲炉裏の前に座って、じっと火を見つめている。その顔はどこか悲しげだ。亡くなった家族に思いを馳せているのだろうか。ロカやセン=タイラから彼の過去を聞いたせいか、ついそんなことを考えてしまう。
愛する家族を失う気持ちを、スイハはまだ経験したことがない。母が死んだときも大して心を動かされることはなかった。それより泣いている姉を見るほうが辛かった。
ふと唐突に、男兄弟が揃って家を留守にしていることが申し訳なくなった。年の瀬といえば忙しい時期だが、姉のことだから頃合いを見て使用人たちに年末年始の休暇を与えることだろう。一人でも大丈夫だから、と。しかしあの広い屋敷で、一人きりで新年を迎えるのはあまりに寂しすぎる。
急げば間に合うだろうか。年が明ける前に、家に帰れるだろうか。
ゆさゆさと肩を揺すられて、ハッとする。少しうとうとしていたようだ。
顔を上げると、すぐ目の前にサクがいた。
「ごめん。ちょっと寝てた」一気に目が覚めた。「ナサニエルは?」
「薬を飲んで寝てる。起きたら少し楽になってると思う」
首を傾けてナサニエルを見ると、布団の中で穏やかな寝息を立てていた。
心配がひとつ減った。
「ありがとう」
鼻先が触れないよう少し後ずさると、そのぶん距離を詰めてくる。その繰り返しで、しまいには壁ぎわまで追い詰められるかたちとなった。
まずい。スイハはサクの肩を掴んだ。息ができる距離まで押し戻す。
「ち、近いよ。どうしたの?」
「顔を見たい」
真顔で返されて、スイハは困り果てた末にトウ=テンに目顔で助けを求めた。
トウ=テンは簡潔に理由を説明した。
「サクは弱視だ」
スイハは驚いてサクを見返した。灰色の瞳に自分の顔が映っている。これまでの様子から、不自由があるようには見えなかったのだが。
「普段はどうやって人を見分けてるの?」
「においと……気配と、それから声。大事な人は手で顔のかたちを覚えるようにしてる」サクはおもむろに両手を差し出した。「触っていい?」
そんなふうに言われて断るわけがない。
スイハは胸の高鳴りを抑えながら目を瞑った。
「どうぞ」
顎から耳の付け根までを撫でる滑らかな指の感触に、背筋がぞわぞわする。
額、眉、瞼、目の下の窪み、鼻、唇、顎。手のひらと指が、上から下へ、顔のかたちを丁寧になぞっていく。
緊張と高揚の荒波に翻弄されていた心は、いつしか静かになっていた。
頬を包む手のひらが温かい。疲れた一日の終わりに布団にくるまったときのような、穏やかな心地だった。姉以外の人間からこんなふうに触れられたのは初めてだった。いつまでもこうしていたいと思った。
「あっ」
サクが小さく声を上げた。
頬を包む手のひらが離れていく。スイハが目を開くと、コスが無理やりサクを引っ張っていくところだった。
「近づくなって言ってるだろ!」
「すぐ怒る!」
隣の部屋に放り込まれそうになったところで、サクはそうはさせるかと体をねじってコスの手から逃れた。素早くトウ=テンの後ろに隠れる。
「出てこい!」
「やだ」
コスは怒りの矛先をトウ=テンに向けた。
「トウ=テン! なんで止めない!」
「ただのじゃれ合いだ。好きにさせてやれ」
「サクを連れて行かれてもいいのか」
「納得のいく説明もなしに州都へ行くつもりはない。スイハは丸腰。護衛の魔道士は手負いだ。いかようにも対処できる」
予想外の答えだったのか、コスは目を丸くした。サクが不満げに唇を尖らせながらトウ=テンに尋ねる。
「納得のいく説明って?」
「少なくとも」トウ=テンはスイハに視線を向けた。「知っていることを、すべて話してもらわなければな」
意味深な目つきで微かに顎をしゃくる。その仕草でスイハは気づいた。厳しいことを言っているようでその実、トウ=テンは水を向けてくれているのだ。サクのこととなると感情的になるコスに、こちらから話し合いの機会を求めるのは難しい。
スイハはすぐさまトウ=テンの言葉に乗っかった。
「そのためにもまず、読んでいただきたいものがあるんです」
懐から、油紙に包んだ手紙を取り出す。
「これは兄がキキさんに宛てて書いた手紙です。直接手渡すよう預かりました」
コスは顔いっぱいに不信感を露わにしつつ、奪うように手紙を取った。
スイハは正座になって膝に手を置いた。背筋を伸ばしてコスを見上げる。
「兄のカルグはヤースン家の跡目です。僕は手紙の内容を知りませんが、聞かれたことには答えます。その上で、あなた方の結論を待つつもりです」
「……」
黙って手紙を見つめるコスの顔つきは相変わらず険しいままだ。病床の兄が書いた手紙が破り捨てられるのではないかと、スイハはハラハラした。
そのとき、風呂を沸かしに出ていたチサが戻って来た。
「お風呂沸いてるから順番で入っちゃって」
コスはふいっと背を向けて、囲炉裏の前に腰を下ろした。
「行け」
「……僕ですか?」
「そのあいだに持ち物を全部調べさせてもらう」
疑り深さもここに極まれり、だ。
「手紙は読んでおいてやる。さっさと行け」
そこまで警戒しなくてもいいだろうに、とも思ったが、それで納得してもらえるなら安いものである。
コスが手紙を紐解くまで見届けてから、スイハは言われたとおり風呂場へ向かった。
白い湯気がむわっと視界を覆った。思わず声が漏れる。たっぷりのお湯が鉄釜の中でゆらゆら揺れていた。こんな山奥で湯船に浸かれるなんて、嬉しい誤算だ。
「脱いだ服はここに入れて。着替えは用意しておくから」チサは籠を置いて出ていく前に、スイハにこっそり耳打ちした。「サクと仲良くしてくれてありがとね」
細やかな心遣いが姉の面影と重なった。救われた気持ちになった。
汚れを洗い落としてから湯に浸かる。全身が内側からジワリと痺れて、寒さで強ばっていた筋肉がゆっくり解けていく。目の前が白んでいるのは湯気のせいか、眠気のせいだろうか。目を瞑ったらそのまま湯船に沈んでしまいそうだ。
窓の外が暗い。州都にいたときは、たとえ夜でも窓の外に広がる町並みにはどこかしら明かりが点っていた。
――ずいぶん、遠くまで来た。
ここまで来たのなら、戻るのも進むのも同じ距離だ。そう考えると少し楽になった。スイハは最後に熱いお湯を頭から被って、風呂から上がった。
着替えに袖を通していると、居間からこんな声が聞こえた。
「ねえ、まだ?」
「まだ読んでる」
「うそだ! さっき最後まで読んでたじゃん!」
「うるさい! 読み途中だって言ってんだろ!」
ドタン、バタンとやにわに騒々しくなったかと思えば、またすぐ、火が消えたように静かになった。スイハはおっかなびっくり居間を覗いた。
サクの姿が見えない。寝室の戸は固く閉ざされている。
手紙を読んでいるコスの邪魔をしないよう、スイハはトウ=テンにこっそり尋ねた。
「あの……今のは、兄妹げんかってやつですか?」
「こんなのは日常茶飯事だ」
生活を共にしている彼がそう言うのなら、心配するようなことではないのだろう。コスにお茶を出しているチサも、平然としたものだ。
一つのものを取り合って兄弟でケンカになるなんて、ヤースン家では考えられない。年の離れた兄たちは昔から、スイハがお願いすれば大抵のものは貸してくれたし、欲しいと言えば譲ってくれた。もちろん叱られることもあったが。
いけない。
兄たちに頼りたい気持ちに蓋をする。カルグは病気で身動きが取れない。ホノエは心労で疲れ果てている。今度は自分が兄たちを支える番なのだ。
スイハは所在なく部屋の隅、自分の荷物の近くに座った。そっと鞄を開ける。荒らされた形跡はない。というか、本当に中身を調べたのだろうか。まったくの手つかずに見える。
「おい。スイハ=ヤースン」
「はいっ!」
不意に名前を呼ばれて、スイハは思わず姿勢を正した。
「聞かれたことには答えると言ったな」
「はい。なんでも聞いて下さい」
コスは手紙から顔を上げ、寸時躊躇ったあと、口を開いた。
「ヤースン家は精霊憑きの家系か」
「聞いたこともありません」
「西州公の死因を知ってるか」
「いいえ。たぶん知っているのは父と、限られた医術師だけだと思います。西州公様の死因は公表されていないんです」
コスは手紙を折り目通りにたたみ直した。刺すような敵意は消え、顔つきまで落ち着いている。手紙を読んで心境が変わったことは火を見るより明らかだ。
知りたい。彼が何を知り、そして今、何を考えているのか。
スイハの心を読んだかのようにトウ=テンが言った。
「コス。おまえの考えを聞きたい」続けて、こう付け加えた。「今後の指針になる話だ。まず情報をまとめていこう。俺でも相づちくらいは打てる」
相づち云々は彼なりの冗談だろうか。
「なんだよそれ。鍛冶屋じゃあるまいし」
コスは軽く笑い、深く息をついた。
「チサ。サクを寝かしつけてくれないか。色々決まったら、ちゃんと話すから」
「……わかった。あんまり根を詰めないでね」
チサが寝室に入ってから、コスはたっぷり時間をかけてゆっくり茶を啜った。
ほどなくして戸が細く開いた。隙間から出てきた手が、ぐっと親指を立てる。寝かしつけが完了した合図だ。
コスは湯飲みを置いた。
「殴ったことは謝る」
スイハに一瞥を投げてから、彼はトウ=テンに顔を向けた。
「ずっと、ヤースン家の人間を悪だと思っていた。そばに仕えながら、西州公を……白い獣の一族を利用していると」
「おまえたちの母親がそう言ったのか?」
「いいや。……俺の勝手な思い込みだ。教わったことを頭の中で繋ぎ合わせたら、そうとしか思えなくてな」
「今はどうだ」
コスは膝に置いた手紙を再び手に取り、トウ=テンに差し出した。
「俺は母を信じている。だから……カルグ=ヤースンの話は、信じるに値すると思う。あんたも読んでくれ、トウ=テン。ここに書いてあることは、俺が昔、母から聞いたことばかりだ」
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