41.わたしを知らないで
朝早くから山に入って、やっと峠を越えました。
山の南側の一部は春になっちゃったけど、北側はまだ真っ白です。このあたりはクマやオオカミの縄張りで、普段から人はほとんど立ち入りません。今日はここで薬の材料と、食べ物を集めます。がんばって、背負った籠をいっぱいにして帰るのです。
「テン、ついてきて」
「気をつけろよ」
寒さの厳しい冬は、まだまだ続きます。チサが元気でいられるように、お腹の赤ちゃんがすくすく育つように、栄養のある食べ物をたくさん蓄えておかないと。
拠点を作ったら行動開始です。
まずは雪の下に埋まった自然薯を掘ります。雪をどけて土を掘り進めていくと、夏から目をつけていた自然薯が頭を出しました。
傷つけないように、細かいところはテンに任せます。
「おっ、こいつは大物だぞ」
かたちは歪だけど、まるまる育っておいしそうです。五本だけ採って、あとは残しました。籠の重さに胸が弾みます。
魚を捕る仕掛けを川に沈めたら、お昼までに拠点に戻るという取り決めをして別行動を始めます。テンは狩猟、わたしは採取に出かけます。
今回のお目当ては樹脂、鉱石、動物の骨です。薬を作って余った分は、ヒバリの薬種問屋に卸してお金にします。いくらになるのかは知りません。おかあさんもそうだったけど、コスはお金の話は絶対にしないのです。
夢中になっていたら、いつのまにか太陽が真上を過ぎていました。
急いで拠点に帰ります。
テンがお昼ご飯を作って待っていてくれました。
「ごめん。遅くなっちゃった」
「先に手を洗ってこい」
川の水は冷たくて、指先がジンジン痺れます。
テンの狩猟の成果はウサギが二羽。もう『お肉』と『毛皮』になっていました。約束の時間より早めに戻ってきて、血抜きと解体をすませておいてくれたのです。気を遣わせてしまって申し訳ないと思うのに、結局わたしは、その優しさに甘えてしまいます。
沸かしたお茶を飲んで一息ついたら、テンが焼いてくれた魚を食べます。皮ごとかぶりついて、ほくほくの身を頬張ります。脂がのっていておいしい。
「何かあったのか」
「ううん。集中しすぎちゃった。二人の赤ちゃんが生まれるから。お金、あったほうがいいと思って」
「気が早いな。生まれるのは早くても来年の春だぞ」
――来年の、春。
「いいの。今から準備しとくの」
わたしはここに、帰って来られるのでしょうか。
別人とはいえ記憶が連続している以上、ホーリーとサクナギの境界は、とても曖昧なのです。もう自分は教導官ではない、その資格もない。頭でわかっていても、割り切るのは難しいものです。だって家族を守りたいというサクナギの思いは、ホーリーの人類愛となんら矛盾するものではないのですから。
――でも。
食後のお茶を飲むふりをしながら、わたしは上目であなたを見る。
灰色混じりの頭髪。精悍な顔。出会った頃は声音がとげとげしくて、剣呑で、髭も生やしっぱなしで、どこか自暴自棄な気配があって怖かった。
それなのに、いつからだろう。こんな気持ちが生まれたのは。
たくさん、あなたの夢を見た。
辛い過去も、幸せな思い出も。
不幸に負けず一生懸命、生きてきた。あなたの記憶が、臆病なわたしに運命に立ち向かう勇気をくれた。
ボロボロに擦り切れていたあなたが、少しずつ、本当に少しずつ、元のあなたに戻っていくことが。
――わたしは、自分のことのように嬉しかった。
「州都は遠いな」
焚き火に薪を足しながら、テンが言いました。
「一度出発したら、もう引き返せないぞ」
「うん。しばらく帰れないから、やり残しがないようにしないとね」
テンは黙ってこちらを見つめています。心配そうに眉間に皺を寄せて、まだ言いたいことがあるけれど、ためらっている。そんな感じです。
わたしは尋ねます。
「どうしたの?」
「……逃げられるなら、逃げたいか」
いけないことだとわかっているけれど。
あなたの優しさに触れていたくて、ほんの少しだけ、わたしは惑う。
逃げたいと言えば、テンはきっと、一生そばにいてくれるでしょう。そして、たとえ世界の果てまででも、一緒に逃げてくれることでしょう。
だからわたしは、微笑んで首を横に振りました。
「いいの。ありがとう。ごめんね」
「……いいや。俺こそ悪かった」
テンは苦笑して、しばらく黙って目を伏せていました。
なんて言葉をかければいいかわからなくて、わたしは意味もなく焚き火を棒で突っつきます。優しいこの人に、何をしてあげられるだろうと考えます。彼がなにも望まなくても、わたしにできることがあるなら何でもしてあげたい。そう心が叫ぶのです。
「おまえが大事だ」
息が、止まるかと思いました。
胸が、痛いくらいにドキドキしています。
わたしは焚き火から顔を上げて、テンを見ました。
テンは、真っ直ぐにわたしを見ていました。
「不幸になってほしくない。おまえも、あいつらも、生まれてくる赤ん坊も。だからな……自分を粗末にしてくれるな」
そんなふうに思ってくれていたなんて。
「……うん」
嬉しい。嬉しい。
なんて、幸せ。
――お願いだから、知らないで。
「一度荷物を置いたら、晩飯用に山菜でも採りにいくか」
「天ぷらにして」
「ああ、いいぞ」
――どうか、知らないままでいて。
わたしは、とても醜いのです。
あなたの優しさに触れるたび、幸せを感じるたびに、不安が泡のように浮き上がるのです。後ろめたさに足を掴まれるのです。
誰にも言えない、おぞましい秘密を隠しているから。
「テン」
「ん?」
「テンも気をつけてね。ケガしないでね」
ずっとなんて望まないから。今だけでいいから。
もう少しだけ、隣にいさせて。気づかないふりをして、そばにいて。
――お願い。お願いだから。
お別れするその日まで、わたしを知らないで。
*
サクの心の奥底には、いつか夢で見た景色が広がっていた。
曇天に覆われた薄暗い山道に、女が倒れていた。
ほどけた黒髪が地面に広がっている。虚ろな双眸は、もうほとんど光を映していない。赤みの失せた白い手を握りしめて、サクが泣いている。そうしているあいだにも、腹の刺し傷からじわじわと血が流れ続けていた。
急所だ。助からない。
血の池に横たわるヨウ=キキの姿は、トウ=テンに、妻子の死を想起させた。躊躇のない刺し傷。冷え切った血。まさか同じ死に方をしていたとは、夢にも。
ふと、違和感を覚えた。
――同じ?
違う。
この女の死に様は以前、見たことがある。
がらんどうの穴。
ヨウ=キキは、胸を開かれて絶命していた。
――これから、なにが起きる?
「サクナギ、よく聞いて。お母さんの言うとおりにして……」
息も絶え絶えの声に鳥肌が立つ。
虚ろな瞳の奥に、やにわに光が瞬いた。それは死にかけの女が己の深淵から絞り出した、ドス黒く燃えさかる末期の執念だった。
母親の最後の言いつけを聞こうと、サクがその口元に耳を寄せる。
(よせ。聞くな)
目に映る世界が大きく歪む。
「お母さんの心臓を、食べなさい」
呆然とするサクの顔から、みるみる血の気が引いていった。
苦しそうに喘ぎながら、できない、と首を振る。
「いいえ、やるの」
無情に命じるヨウ=キキの目には涙が浮かんでいる。
「やるのよ。……できるわ。だって、サクナギは私の、お母さんの子なんだから。……遠い昔に墜ちた、船なんて……なんの関係も、ないんだから」
点と点が、線で繋がる。
彼女の目論見を理解すると同時に、トウ=テンは戦慄した。
教導官ホーリーは、ただの乗組員ではなかった。
(――艦長は、改造の過程でホーリーに制約を設けた。第一に、人類を傷つけてはならない。第二に、自分の命よりも常に人類の生命を優先しなければならない)
制約を破れば、ホーリーは教導官ではいられない。
それを聞いてから、トウ=テンも一度は考えた。ホーリーの記憶と決別する、〈CUBE〉と関係を断つもっとも手っ取り早い方法は、サク自身の手で他人を害することだと。
だがすぐに、現実的ではないと諦めた。サクは薬師だ。人見知りで臆病だが、その芯には、人を助けたい、守りたいという生得がある。人を傷つけることなど、絶対にさせてはならない。
それを、この女は。
――なんという。なんという、ことを。
怒りと、やるせなさで、トウ=テンは震えた。
ヨウ=キキは自身の腹に刺さった血まみれの短剣を――どこにそんな力が残っていたのか――引き抜いて、サクの手に握らせた。
そのまま、刃先を心臓に向ける。
「……あなたの手で、終わらせて」
とどめの一刺しを請う母の手を、サクは振り払えない。もう助からないとわかっているから。我が子の将来を案じる母の思いを、理解できてしまうから。
「これでいいの。これで、いいのよ」
――いいわけが、あるか!
過ぎたことは変えられない。それでも。
短剣の刃先がヨウ=キキの胸に食い込む寸前で、トウ=テンはサクの手を掴んだ。これまで夢に干渉できたことはなかった。初めて、触れられた。生身の感触とは違う、静かで巨大な脈動を感じた。
短剣が手から零れ落ちる。
トウ=テンは、茫然自失としているサクの肩を掴んだ。
「サク。しっかりしろ。これは夢だ。目を覚ますんだ」
サクは焦点の合わない目でトウ=テンの顔を見返し、自身の手に視線を落とした。
そして、絶叫した。
「あっ、あっ、あ、ああああ、あああああっ!」
慟哭がトウ=テンの脳を揺らす。
視界がチカチカと瞬いて、意識が飛びかける。
その隙に、サクが手の中をすり抜けていく。
「どうして! どうして、どうして!」
散り散りになりそうな意識をかき集めて、トウ=テンは何とか視界を取り戻した。
いつの間にか、サクの両手は、鮮血で真っ赤に濡れている。
ヨウ=キキの胸は、がらんどうだ。
「なんでいるの! なんで、なんでここにいるの!」
サクの叫びは完全に恐慌を来していた。
トウ=テンは己の過ちを悟る。
夢を介して強引に呼び戻すのではなく、たとえ時間がかかっても、サクが自分で目覚めるのを待つべきだったのだ。生い立ちを夢で見て、ホーリーの記憶を聞いて、サクのことをすべてわかったつもりになっていた。なんという思い上がりだろう。言いたくない秘密があることも、一緒に打ち明けられていたというのに。
「知られたくなかった……!」サクは涙を流しながら、荒れ狂う激情のまま吠えた。「テンにだけは! 知られたくなかった! 知られたく、なかったのに!」
激しい目眩に襲われた瞬間、トウ=テンは正面から突き飛ばされた。
強制的に弾き出されて、肉体に戻った彼の目に飛び込んできたのは、光のように門を駆け上がっていく真っ白い狐の姿だった。
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