40.船を降りる日


 十五歳の自分を、後になってから何度も振り返る。

 何もしない、何もできない。それによって何かが失われる。

 それが我慢ならなかった、向こう見ずの自分を。


 怪我人、老人たちを残して、一足先にスイハは走り出す。

 無人の廊下に響くのは、自分の足音と息遣い。思いも寄らないことばかりが起きて心臓がドキドキしている。これは嵐の前の静けさではない。嵐が過ぎたあと、分厚い暗雲が千切れて光が差し込んだときの感じに似ている。

 きっと、時代が変わる予感というやつだ。

 黒い獣はもうおらず、人々を苦しめてきた腐傷はじきに癒える。傷さえ癒えれば、西州は前へ進める。官民一体となって、国を立て直すことに全力を注ぐことができる。

 将来を設計するには、まだまだ議論が足りない。

 知見が足りない。人手が足りない。資源が足りない。

 足りないものだらけだ。

 だから。

 典薬寮を抜けて前庭に続く出口へ向かうと――おそらくは、西州公の眷属の筆頭格であろう――あの、巨大な灰色狼がいた。

 一瞬の躊躇をかなぐり捨ててスイハは足を進めた。

「サクと公子様は!」

 低く唸る灰色狼の頭の上で、赤いリボンを首につけたネズミ、バンブ三世が両腕を広げて体で外を指す。

 スイハは頷いた。

「ありがとう。すぐにトウ=テンたちも来る。案内を頼むよ!」

 建物から出て早々、目の前の光景に絶句する。

 前庭はひどい有様だった。

 平らだった地面は盛り上がったり沈んだり、まるで下から突き上げられたかのようにボコボコになっている。こうなると水路も無事ではなく、人工池からの逆流で辺りは水浸しだ。泰然と佇んでいた木々は無残に折れ、中には根元から倒れているものもあった。

 こんな光景は初めて見る。

 獣たちが建物の壁際に集まり、身を寄せ合って震えていた。

 地震、雷雨、竜巻、洪水。本の中でしか知らない天災が、もし今後、実際に起きることがあったら。国中のあちこちが、こうなってしまうのだろうか。

 呆然と辺りを見渡していたスイハは、崩れた階段の亀裂にあるものを見つけた。この木彫りの腕輪は、見間違えるはずがない。ナサニエルのものだ。すぐさま飛びついた。ひび割れに挟まっていたのを力尽くで引っこ抜く。

 その途端、ぐいっと腕輪に引っ張られる感覚があった。

 スイハは疑わなかった。引っ張られるほうへと駆け出した。

 隆起した地面を乗り越え、靴を濡らし、折れた木々の下を潜って。

 大橋に通じる、門の前。

 まずサクの後ろ姿が目に入った。軸が一切ぶれない立ち姿、苛立ちが透けて見える横顔で、中身が〈CUBE〉のままだとすぐにわかった。

 凍りつくような視線の先で、ユウナギが倒れていた。恨みがましく〈CUBE〉を睨みながら、唇を噛みしめて涙を流している。追い詰められて死を覚悟した顔だ。ナサニエルが体を張って庇っていなければ、最悪のかたちで決着を迎えていたことだろう。

 緑の瞳がこちらを向く。

 スイハは腕輪を強く握りしめて、阿吽の呼吸で跳んだ。

 高く、高く。〈CUBE〉の頭上を越えて。

 体を脱ぎ捨てたかのような浮遊感に空を仰ぎ、息を呑む。彩雲の名残が薄く、遠くまで広がっている。この光景を、これから先きっと、生きているうちに何度も思い出す。そんな確信がスイハの胸中を満たした。おかげで着地のさい体勢を崩したが、腕輪に引っ張られて転倒は免れた。

 ナサニエルの格好といったら、外套は泥や土にまみれ、ほつれた黒髪は分け目がわからないくらいボサボサになっている。まるで嵐の中を抜けてきたかのようだ。

 二人は寸時、見つめ合い、ほとんど同時に笑みを浮かべた。

『あとは任せる』

『任された』

 目で会話して頷き、スイハは振り返って相対する。

 サクの体を借りた〈CUBE〉と。

 彼は眉間に深い皺を刻み、険しい眼差しでこちらを睨む。

「危ないから離れなさい」

「〈CUBE〉!」

 名前を呼ぶと、ピクリ、と瞼が震えた。

 スイハは息を大きく吸った。

「ごめんなさい! さっきの、あなたとサクの話を全部聞いてました!」

 〈CUBE〉は眉を顰めたまま、ゆっくり両目を見開いた。信じられないものを見るような目つきでスイハを凝視する。会話を盗み聞きされた怒りが全身から滲み出ていた。

 覚悟の上だ。

 ここをなあなあにしては不誠実が過ぎる。

「サクは僕たちに言いました。あなたのことをみんなに知ってほしいって。それから……他の人がいる前だと、あなたは素直になってくれないってことも」

「……ホーリーめ」

「僕も、あなたのことを知りたかった」

 〈CUBE〉が纏っていた険が、やにわに和らぐ。

 勢いを得てスイハは言った。

「これまでの、代々の西州公様の数だけ……あなたもいて。今のあなたは、公子様にひどいことをした〈CUBE〉とは別人なんですよね?」

「立ち聞きで知った事実を本人に確認するとは。随分と、面の皮が厚いことだ」

 出鼻を折られてウッと呻く。

 〈CUBE〉は皮肉っぽく口角を上げ、目をすがめた。

 少しは溜飲が下がったのか、淡々と口を開く。

「この〈CUBE〉が教導官を介して人類と接触したのは、これで二度目です。あなたの言う『ひどいこと』に覚えはありません」

「うそをつくな! この、悪党!」

 ユウナギが叫んだ。

 石を掴み、投げつけようとしたところをナサニエルが押さえ込む。

「嘘じゃない」

「うそつき、うそつき! そいつを信じないで!」

「落ち着くんだ、ユウナギ」泣きわめくユウナギに、ナサニエルは辛抱強く言い聞かせた。「スイハはあんたの味方だ。わかるだろう。スイハ=ヤースンは公正で、勇敢で、窮地に陥った人間を決して見捨てたりしない。〈CUBE〉に騙されるような馬鹿でもない」

「でも、でも……」

「信じてくれ」

 ユウナギはしゃくりあげ、涙を拭いながらナサニエルを睨んだ。

 かと思えば、パチリと目を瞬いた。

「……おまえ、変な顔。なに、その顔」

 背中を向けていても、わかる。

 スイハはゾワゾワした。たぶん自分も今、ナサニエルと同じ、ユウナギが言う『変な顔』をしている。顔が熱い。耳まで熱い。汗が出る。恥ずかしいような、照れくさいような、今すぐこの場から身を隠したい気持ちでいっぱいだ。

 ナサニエルは嘘をつかない。

 そんなふうに思われていたなんて、寝耳に水だ。悪い気分はしない。

 でも。

 ――言ったほうまで照れるな!

 〈CUBE〉が鼻で笑う。

「記憶中枢に刻んでおきます。スイハ=ヤースンは公正、勇敢、馬鹿ではない、と」

「そ、れは! 今は置いといて!」

 スイハは深呼吸して頭から熱を払った。

 気を取り直して続ける。

「ひとつ前の〈CUBE〉と、あなたは別人だ」

「とはいえ、根本は同じです。条件が揃えば同じ行動を取るでしょう」

「同じ条件は二度と揃わない」

「断言する根拠は?」

「あなたは船を降りるからだ」

 〈CUBE〉は無言でスイハを見返してきた。

 本当のところ、スイハには〈CUBE〉の正体も、船の実態も、まるで実感が湧かない。サクの話を信じてはいたが、心のどこかではずっと、体を持たない魂だけの存在より二重人格のほうがまだ現実味があると感じていた。

 サクの呼びかけに応じて、声が降ってくるまでは。

「協議を、してきました」

 二人の会話を聞けて良かった。

 〈CUBE〉はこの世界のどこかに、確かに存在している。それがわかったから。

 でも、まだ足りない。

 存在の重みを実感するには、まだ。

「僕だけじゃない。みんな、あなたのことを知りたいんです。会って、顔を見て、話をしたいと思ってる」

 借り物の姿ではない、〈CUBE〉自身と。

 〈CUBE〉は、数秒の間を置いてから無表情に口を開いた。

「そんなことをしている場合ではない。見なさい」

 そう言って、荒れ果てた前庭を指さす。

「産生炉の暴走によって被害が出ている。〈CUBE〉はこの問題を看過しない」

「怪我人はいませんし、壊れたものは直せます。取り返しがつかないことはひとつもありません」

「次もそうなるとは限らない。ホーリーの一割程度の出力でも、人類には十分な脅威となる。予備の産生炉はこちらで回収後、解体する」

「〈CUBE〉。あなたとホーリーが作ったこの国は、西州は、れっきとした法治国家です。ユウナギ公子のしたことは、もちろん反省は必要だけど、死刑になるようなことじゃない。サクだって嫌がるだろうし」

 そうするべき、と判断したら、独断専行も辞さないのが〈CUBE〉だ。しかし、彼には明確な弱みがある。教導官ホーリーの存在だ。サクに相談したら、死刑はやり過ぎだと反対されるに決まっている。

 〈CUBE〉は露骨に顔を顰めた。

「具体的に、適用される刑罰は?」

 こういうとき次兄なら、スパッと過去の判例を答えられるだろうに。

 西州には、刑期を終えた犯罪者の社会復帰を支援する制度がある。そういう一般常識は知っていたが、肝心の具体例までは把握していなかった。

「ええっと……専門家に聞いてみないと」

「話にならない」

 〈CUBE〉は呆れ顔で尊大に腕を組んだ。

「スイハ=ヤースン。ひとつ教えてあげましょう。再発の抑止力にならない刑罰に意味はない」

「待ちなされ!」

 パン、と手を叩く音が辺りにこだました。

 音がしたほうに顔を向けて、〈CUBE〉がギュッと目を細める。

 スイハは気づいた。これは睨んでいるのではない。視力の悪い者が、相手をよく見ようとして目を細める仕草だ。

 灰色狼が群れの一部を率いて、老人たちを背に乗せてやって来た。足場が悪い中ここまで来られるか心配だったが、どうやら獣たちが気を利かせてくれたようだ。

「噂をすれば。専門家が来ましたよ」

「……彼らは?」

「西州公様が守ってきた人たち。西州公様を支えてきた、この国の重鎮たちです」

 サク以外に、〈CUBE〉の心を動かすことができる者がいるとしたら。

 それは、西州公の人となりや見目形を知らないスイハではない。生涯をかけて誠心誠意、西州公に仕えてきた老人たちだ。あるいは、サクはこうなることを見越して、彼らを謁見の間に呼んだのかもしれない。

 健脚を誇るオルガとラカンは、自分の足で難なく獣の背から降り立った。一方で、普段から片足を引きずっているコルサは重心が安定せず、降りようとして大きく体勢を崩した。

 危うく獣の背からずり落ちそうになったところを、〈CUBE〉が素早く近づいて支えた。

「気をつけなさい」

「かたじけない」

 彼は続けてミソノに手を貸した。

「足下をよく見なさい」

「ありがとうございます。ああ、どうかそのままで」

 ミソノは地面に降り立つなり、待ちわびたように巻尺を伸ばして〈CUBE〉の背に当てた。肩幅、身幅を手際よく測り、数字を手の甲に書き込んでいく。

 オルガが額に青筋を浮かべながら〈CUBE〉に頭を下げた。

「兵部省のオルガと申します。〈CUBE〉殿。どうか仕立屋のご無礼をお許し下さい。仕事熱心なだけで悪気はないのです」

「はい、どんどん行きますよ」

 採寸されながら、〈CUBE〉が目だけでミソノの動きを追う。

「サクナギ様はまだ背が伸びますね」

「仕立屋」

「ミソノと申します。ところで、〈CUBE〉殿はどんな色がお好きですか?」

「……考えたことがない」

「それはいいですねえ。生地を選ぶのが楽しみだ。公子様と、サクナギ様の衣装を仕立てたら、次はあなたの番ですからね」

 ミソノが胸囲、腹囲を測っているあいだに、ラカンがユウナギのそばに膝を突いた。

「ユウナギ。ああ……よかった。よく無事で」

 骨張った指で、顔についた泥を拭う。

 ユウナギはぎゅっと唇を噛みしめたあと、ラカンに抱きついてわっと泣き出した。

「うわああーん!」

「怖かったね。大丈夫、もう大丈夫だ」

 頭を撫でられながら泣きじゃくる彼女はまるで、小さな子どものようだった。

 お守りから解放されたナサニエルが、ホッと息をつきながら立ちあがった。乱れた髪を雑に後ろでまとめる。さすがに疲れが顔に出ていた。

 〈CUBE〉はユウナギを冷ややかに一瞥したあと、口を開いた。

「さきほど、この〈CUBE〉に異議を唱えたのは誰ですか?」

「私です。図書寮のコルサです」

「続きを聞かせなさい」

 コルサは恭しく頭を垂れ、教え諭す口調で話し始めた。

「刑罰とは、犯した罪の重さを知らしめ、反省を促すためのもの。それだけでは再発の抑止力にはなりえません」

「では、何を以て再発を抑止する?」

「その問いかけは、人はなぜ罪を犯すのか、という問題と表裏一体です。罪を犯す者には理由、あるいは目的がある。例えば、そう――」

 彼は顔を上げた。

「仮に、宮中に火を放った者がいたとしましょう。この罪人に対して、あなたはどのような刑罰を与えますか」

「死刑、もしくは無期懲役」

 〈CUBE〉の回答は淀みない。次兄がもしここで一緒に話を聞いていたら、スイハは一生、コルサを許せなかっただろう。

 拳を握りしめて沈黙を守る。

 コルサは真摯な眼差しで〈CUBE〉を見つめた。

「犯した罪はもちろん、法によって裁かれなければならない。しかし社会というものは正しさだけでは立ちゆきません。死刑は、罪を犯さない人間は死者だけであるという暴論です。生きている以上、誰にでも罪はある。ですが、罪を犯した者すべてが悪人だとは限らないのです」

「コルサ」老人の名前を呼ぶ〈CUBE〉の声は思いのほか穏やかで、そこはかとなく、この問答を楽しんでいる風情があった。「私に、何を教えたい?」

「初代西州公様は、犯罪者の更生を支援する制度をお作りになられました。目的は社会復帰と自立の促進です。奉仕労働によって適性を検査し、職能訓練を行い、課程を卒業した者には紹介状が与えられます」

「件の放火犯の更生は、成功したのですか」

「彼は罰を受けたあとも自らを罰し続け、今は死に瀕しております。あなたが感染者と呼んだ者のことです」

 現役官僚の巧みな話術に、スイハは脱帽した。

 相手を聞く姿勢にさせた上で、話の流れをユウナギの助命嘆願から、後回しにされていたひとつの問題へと切り替えた。予期せぬ銃声、ユウナギの乱入がなければ、〈CUBE〉が最優先で取りかかっていたであろう『感染者』の保護。ここでそれを持ち出すのか。

 袖丈を測られながら、〈CUBE〉は抑揚のない声で尋ねた。

「……彼は、なぜ放火を?」

「あるものを燃やすためにやったそうです。私は見たことがありませんが、歴代の西州公が幼少期に使用していた教科端末だと」

 〈CUBE〉は瞬きせず前を見ていた。

「――過去のホーリーが、〈CUBE〉を忘れてしまったのは……。ドローンが、他の感染者を検知しなかったのは……」灰色の瞳が陰る。「教科端末。……そうか。それが、感染源だったのか」

「感染源?」

「そうです。その病原体は、汚染された端末から視覚を経由して脳に感染する。初期の症状は、」

 続きを引き取ったのはラカンだ。

「頭痛、不眠、食欲不振ですね」

 ユウナギの背中を撫でる老医師に、〈CUBE〉が視線を向ける。

「あなたは?」

「典薬寮のラカンと申します。感染者の主治医です」

「ドクター。報告を」

「典薬寮は当初、彼の持病は精神的なものが原因だと考えていました。しかし年々、症状は増悪していき……今では感覚の鈍化や、体温調節機能にも支障が出ています」

「抑制剤の投与は?」

「そんな薬はありません。対症療法だけです。典薬寮はこの六年間、ただでさえ腐傷の対応と研究に掛かりきりでした。彼の病を解明する余裕はとても……」

 違う。次兄が遠慮したのだ。

 スイハには容易に想像がついた。どれだけ忙しくても、医術師たちが目の前にいる病人を放っておくはずがない。入院して治療に専念することを勧めたはずだ。だが、ホノエは首を立てに振らなかった。カルグが腐傷に冒された時点で、自身が療養するという選択肢はなくなったのだ。

 ――自分がもっと早く生まれていれば。大人だったなら。

 悔しさで握りしめた拳が震えた。

「この感染症にかかった患者の大多数は、遅くとも三年以内、侵食深度ⅠからⅡで発症します。発症と同時に病原体は自壊し、患者は侵食深度に伴って記憶こそ失うものの、後遺症はなく予後は良好。しかし彼の侵食深度はⅤ。ここまでの重症患者は当艦でも過去に一件しか記録されていません」

「発症したら廃人になると言っていましたが……」

 冷静さを保とうとしたが、心臓が苦しくて、スイハは聞かずにはおれなかった。

「治せるんですよね?」

「過去に侵食深度Ⅴまで達した患者は、発症と同時に昏睡状態に陥り、二度と覚醒することなく息を引き取りました」

 告げられた事実は残酷だった。

「いやだ、兄さんを助けてよ!」

 ちょうど採寸を終えたミソノが一礼して下がる。

 〈CUBE〉はジロリとスイハを睨んだあと、腕を組んで沈黙した。その眉間には深い皺が刻まれていた。

 サクと話していたときの発言が本心なら、船を降りた自分に価値はない、と〈CUBE〉は考えている。

 おそらく。

 これはあくまでスイハの推測だが、おそらく〈CUBE〉は自信がないのだ。過去の感染者は発症後、治療の甲斐なく死亡した。それでも悩んでいるということは、発症前なら助けられる可能性があるということだ。しかし果たして、船を降りた状態で成し遂げられるかどうか、〈CUBE〉には確証がない。

 役に立つことだけが存在価値ではない、と言われても、人類の助けとなるべく生み出された彼にとって、『人を助けられなかった』という事実が確定するのは、何より耐えがたいことなのではないか。

 どうすれば、〈CUBE〉は船を降りてきてくれるだろう。

 ホノエのことだけではない。西州の足りない部分を埋めるには、〈CUBE〉の助けが必要なのだ。それにサクがいなければ〈CUBE〉と意思疎通できない現状のままでは、サクがいつまでも家に帰れない。

 そのときだった。

「助けてやらないのか」

 トウ=テンだ。

 シュウに肩を借りながらではあるが、自分の足で歩いてやって来た。ラカンの注射で痛みを抑えられていても、血が足りないせいで顔色は砂のようだ。

 〈CUBE〉は呆然とトウ=テンを見つめたあと、呆れたように口を開いた。

「その体で動き回るとは正気を疑います。トウ=テン」苛立ちを込めて顎を引く。「教導官ホーリーならば感染者を助けようとするでしょう。もちろん〈CUBE〉に異論はありません。当艦の設備なら治療は可能です」

「海の底に連れて行くのか?」

「――」

 船は海の底に沈んでいる。

 絶句する〈CUBE〉の反応からして、それは事実なのだろう。しかし、トウ=テンはどうやって知ったのだろう。船の場所はサクだって知らないことなのに。

 トウ=テンはシュウから離れた。人に預けていた体重を己の足で支えることが、今の彼にとってどれだけ困難なことか。顎から滴る汗が如実に物語っていた。

「わかっているはずだ。船を、降りなければ……おまえは、はじまらない」

「……知った風な口を」

「ああ。おまえの望みを、知っている」

 呼吸を整えながら、トウ=テンは言った。

「おまえは人類を、終わらせたくなかった。だから、やり直すことにした。人類の、善き友人であれという、父の願いに……次こそ応えようと」

「――……つくづく、人類という種は……解釈の生き物だ」

 〈CUBE〉の皮肉は、精一杯の虚勢にしか聞こえなかった。言葉が続かない。瞬きもできない。彼は明らかに動揺していた。

 トウ=テンは喉の奥でくぐもった咳をした。きっと口の中は血の味がしている。

 顔に汗をかきながら、彼は目を細めた。

「あのとき、本当はどうしたかった」

「……」

「時間は、あるぞ。〈CUBE〉」

 後ずさる〈CUBE〉の前に、オルガが進み出て膝を突いた。

 年老いても真っ直ぐに伸びた背筋と、軍人らしい厳格な顔つき。彼は〈CUBE〉の前で頭を垂れ、手を組んだ。ゴツゴツと骨張った手指は長年の研鑽の証だ。

「〈CUBE〉殿。我々を見て下さい。この国で生まれ育ち、三人の西州公様に仕え、主君の死を見送り、年を重ねて参りました。七〇歳を過ぎて、まだ現職にしがみついている老骨ばかりです。西州公様の治世に生かされてきた我々は、あなた方の息子も同然。この六年間、事態を解決へ導くことができなかった未熟をお許し下さい。そしてどうか、次の世代のために薪となる我らの働きを、最期を、見届けて下さい」

 初めて黒い獣が現れた当時、オルガはもう六十代の半ばを過ぎていた。その年齢なら引退して後進に道を譲ることもできただろう。しかし、彼は踏みとどまった。それまで経験もしたことのない災禍の最前線に身を置いて、常に批判の矢面に立ち、他国の傭兵を使い捨ててでも西州の民を守ろうとした。塵になるまで燃え続ける、薪となる覚悟で。

 瞑目する〈CUBE〉は何を思うのか。

 話を聞いていたラカンが、顔を背けて背中を丸めた。

「私は……オルガのようには思えません。病を得た西州公たちがどれほど苦しんだか。夜通し痛みに耐えて、ろくに眠ることもできず……。何年経っても、あの部屋の暗さを忘れられない。あなたには恨み言がたくさんある。……ですが、もう許します。悲しみも憎しみも……抱え続けるには重すぎる。ユウナギがこうして生きて戻ってきてくれて、サクナギも無事に育ってくれた。だからもういい。それだけで……」

 ラカンは声を詰まらせて、両手で顔を覆った。

 震える肩にユウナギが手を添える。

「……ラカン。泣いてるの?」

 彼女は戸惑いながら、ぎこちない手つきで老医師の背中をさすった。

 処分するよう命じられたユウナギを生かし、サクを身籠もったヨウ=キキを逃がした。怒りによる造反。それが巡り巡って『西州公が殺害される』状況を、異変のきっかけを作り出すこととなった。

 それでもスイハは、彼の怒りを否定できない。

 母親が命と引き換えにして産んだ赤ん坊を、どうして死なせることができよう。耐えられない。そんな命令はクソ食らえだ。そう思ってしまう。例えそれが、国が滅ぶ遠因になったとしても。生まれた命に罪はないのだから。

 沈黙したままの〈CUBE〉に、ミソノが手を合わせた。

「〈CUBE〉殿。船を降りるっていうなら、できるだけお早くお願いしますよ。なにせほら、みんな、いつお迎えが来てもおかしくない歳でしょう。私はね、指先と目がだめになったら店じまいです。役に立つだけが価値じゃないってサクナギ様は仰いましたけど、私はずっと思ってるんですよ。仕立屋を続けられない人生には、なんの意味もないって。そう言うと、そんなことないって妻や娘たちは怒ります。でも、だめなんです。あなたならおわかりになるでしょう? だからね、どうか生きてるうちに会いに来て下さい。仕立屋のミソノは、それはもう、素晴らしい仕事をするのですから」

 指先と目が仕事で使い物にならなくなったら命を絶つと、彼は言っているのだ。穏やかな老後などいらないと。それは、一つのことを極めて生きてきた職人の矜恃と覚悟だった。

「……あなた方の話は理解しました」

 長い沈黙を破って、〈CUBE〉は顔を上げた。

「スイハ=ヤースン。意見は?」

 慎重なのか、臆病なのか。

 思わず笑みが込みあげた。あれだけ得体の知れなかった〈CUBE〉に、親近感を覚えたのだ。心の中で答えが出ていても、誰かの後押しが欲しいときはある。まさに旅立つ前、スイハが病床のカルグを尋ねたように。

「このあいだ、生まれて初めて町の外に出たんです。知らない人と出会うのは、自分の世界が広がる感じがして、すごく充実してた」

 ナサニエル。セン=タイラ。西州軍のキリムと、兵士たち。トウ=テン。サク、コス、チサ。ハッコウ傭兵団。

 彼らとの出会い、経験したこと。

 酸いも甘いも、すべてが糧だ。

「〈CUBE〉は前、言ってましたよね。未成年者には教育を受ける権利があるって」

「はい」

「義務を果たすために、僕の権利を使わせて下さい」

「義務?」

 スイハは背筋を伸ばした。

 老臣たちの視線が自分に集まっているのを感じる。はてさて、ヤースン家の末子は何を言うつもりなのだろう。期待と不安が、スイハの肌を粟立たせる。しかし、気後れするほどのことではない。こういうのは得意分野だ。泰然とした顔で、真っ直ぐ立つこと。相手の目を見てはっきり喋ること。ラザロから家督を放り投げられても狼狽えず、毅然とした態度を貫いた次兄のように。

「我が父祖は、西州国の執政官にして西州公の真の忠臣。いやしくもその末席に名を連ねる者として、スイハ=ヤースンには責任があります」

「具体的には?」

「西州を再建することです。人種や貴賤の別なく、誰もが安心して暮らせるように」

 自分は、ヤースン家の由緒ある血統を受け継いでいない。義務や責任なんてものは、本当はない。

 でも。

 この世には、取り返しのつかないことがある。友だちが用水路に落ちたときの、重たい水音。賊の手で、理不尽に命を奪われた無辜の民。思い出すたびに胸が詰まる。

 終わったことはどうしようもないけれど。これから起こる悲劇は、努力次第で防ぐことができるはずだ。仕方のないことだったと諦める前に、やれることがあるはずだ。

 西州公がいなくても。

 自分たちの手で未来を作る。そのために旅立ち、帰って来たのだから。

「そのために何が必要か、どうか教えて下さい。僕は一日でも早く一人前にならないといけないんです。病気の兄さんに無理はさせられないから」

 小さな拍手が鳴った。ミソノだ。続けてコルサ、オルガ、ラカンも手を叩いた。彼らは頷く。それでこそ。それでこそだ、と顔を綻ばせる。

 スイハは顔が熱くなった。

 〈CUBE〉はトウ=テンの前に立った。

「トウ=テン。あなたの意見を聞きたい」

「……子どもを育てるのは、初めてじゃないだろう」

「皮肉ですか」

「息子が、いたんだ」

 突然の告白に、スイハはドキッとした。

「十年前に死んだ。生きていれば、こいつらと同い年だった」

「スイハ=ヤースンと、あと誰のことですか」

「サクだ。……こいつが、どんなふうに笑って、何に怒るのか」

 〈CUBE〉はトウ=テンの瞳を、そこに映るサクの顔を、じっと覗き込んだ。伸ばしかけた手を引っ込めて、自身の、表情のない顔を撫でる。

 そこにサクはいない。

 傷の痛みを堪えながら、トウ=テンは苦笑を零した。

「〈CUBE〉。おまえがサクを知るのは、これからだ。おまえたちは、これから出会うんだ。生きるというのは……そういうことだろう」

「――あなたはという人間は、本当に……気に障る男だ」

 そう吐き捨てる声は諧謔を帯びていた。

 スイハは確信した。

 近いうちに、〈CUBE〉は船を降りるだろう。

 サクと出会う「これから」のために。

「いいでしょう。〈CUBE〉は、スレイマン博士の最高傑作。現行人類の要望を叶えるなど造作もないこと。速やかに船外活動用素体の生成に取りかかります。あなたに説得されたからではありません。友人の提案を受け入れただけです。感染者の治療を最優先に、緊急性の高い案件から順に処理します。それまで予備の処分は保留。地上の運営方針も含めて、教導官ホーリーと改めて協議を行います」

 そう言うと、〈CUBE〉はトウ=テンの体に腕を回した。

 親愛の抱擁、というわけではなさそうだ。トウ=テンの服をグシャグシャに握りしめ、恨みがましい上目遣いをしながら口を開く。

「トウ=テン。先ほどから何度呼びかけても、ホーリーの意識が戻らない。あなたが目の前で負傷したせいだ。あなたのせいだ」

「ああ……」

「責任を取って、必ず呼び戻して下さい。私の、友人、を」

 不意に、サクの膝が折れた。

 糸が切れたように力の抜けた体を、落とさないよう大事に抱えながら、トウ=テンはゆっくり膝を突いた。サクの顔にかかる前髪を指で除けて、安堵の息を吐く。

 ナサニエルが様子を窺いながら、胸をなで下ろした。

「〈CUBE〉は、抜けたんだな」

「ナサニエル、手を貸してくれ。サクを起こしたい」

 トウ=テンは重傷だ。本当なら一刻も早く、典薬寮に戻って安静にしなければならないのだが、そんなことは彼自身、百も承知だろう。

 説得は時間の無駄だ。

 ナサニエルは頷いて、腕輪を指で撫でた。

「普段見てる夢と要領は同じだ。これまでは開いた窓を外から覗くだけだった。今度は、中に入るんだ。おれが手引きする。あんたの顔を見ればサクも目を覚ますさ」

 目を閉じているサクは、ただ眠っているように見えた。しかしその心は、〈CUBE〉の声も届かない深みにいるのだ。

 夢で繋がる感覚というやつは、スイハには理解できない。

 だから信じて、見ていることしかできない。できないのだが。

 妙な胸騒ぎを覚えた。

 窓から中を覗くのと、部屋に入るのとでは、まるで意味合いが変わってしまう。窓が開いているからといって、入っていいものだろうか。招待されたわけでもないのに部屋に立ち入るなんて。もし自分が部屋の主なら、見られたくないものを隠す時間が欲しいし、引き出しに鍵を掛けたい。

「やめといたほうがいいのに」

 スイハは驚いて振り返った。

 ユウナギが、トウ=テンとナサニエルを責めるように見ていた。

「公子様。やめたほうがいいって、どういうこと?」

「スイハは知らない? 自分じゃないものが入ってくると、頭がグルグルになるんだよ。あいつらはわかってると思ってた。ねえ、サクナギを捕まえておいたほうがいいよ。どこか行っちゃうよ。わたしみたいに」

 そこまで言われてやっと、事態の深刻さを理解した。

 スイハは急いで向かう。項垂れているトウ=テンの膝の上で、目を閉じているサクのもとへ。屈んで、膝をついて、手を伸ばす。腕でも、足でも、どこでもいい。体の一部を掴めれば。

 刹那、閃光が弾けた。

 あまりの眩しさに顔を背ける。耳のすぐそばを、風を切る音が駆け抜けていく。

 トウ=テンが叫ぶ。

「サク!」

 眩んだ視界の中で、スイハは見た。まるで地上から打ちあげられた星のように、門を駆け上っていく真っ白い狐の姿を。

 後を追おうとするトウ=テンを、咄嗟に押さえた。痛み止めに傷を塞ぐ効能はない。これ以上無理をしたら本当に死んでしまう。それにしても、重傷だというのになんという力だろう。振り払われないよう全身でしがみついているのがやっとだ。

「待て! サク、行くな! 戻って来い!」

 血の泡を吐きながら、トウ=テンはなおも叫ぶ。

 必死に呼び止める声は、届かなかった。

 サクはあっという間に門を乗り越え、スイハたちの前から姿を消してしまった。


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