42.ナサニエル、帰る
ヨーム王国は西方、城塞都市ゼーフォートにて。
ナサニエルは、麓を一望できるテラスにいた。
昼夜問わず稼働し続ける眠らない製鉄所から、煙が上がっている。鉄鉱石をドロドロに溶かして不純物を除去、精錬した後、商品に加工しているのだ。都市を発展させた主要産業のひとつだという話だが、ナサニエルの興味を引いたのは、高炉の管理を魔道士が担当しているということだった。
六十年以上前に起きたサナン解放戦争の当事者も年老いて、魔道士に対する偏見は徐々に、本当に徐々にではあるが薄れつつある。とはいえ、差別は依然として存在する。ヨーム本国領内の貴族の多くは、魔道士の有用性は認めても精々が『便利な道具』止まり。値踏みして使い捨てるばかりで、まともな人間扱いなどしない。そんな中、主要産業で魔道士を雇用しているゼーフォートは、新興にして異端の都市だ。
魔道士のことだけではない。
市街地を行き交う人々にはヨーム人のほか、サナン人の姿も多く見られる。彼らは出稼ぎ労働者ではなく、この地に定住する領民だ。ゼーフォートはサナンのシャハ族と同盟を結ぶ親善都市なのである。人種と文化の多様さにおいては、北方辺境都市コル・ファーガルをも凌ぐだろう。
小さな村から始まり、十年の時をかけてめざましい発展を遂げた。時代の変化を肌で感じさせてくれるこの光景を見ていると、ナサニエルは柄にもなく、西州にいる年若い友人に思いを馳せてしまうのだ。
「――悪疫終息宣言。州都に慰霊碑を建立。六年越しの即位布告に、先王国葬。それが終わったら今度は各国から賓客を招いて記念式典か」
背後から鈴が鳴るような可憐な声が聞こえた。
振り返り、テラスの手すりにもたれる。
瀟洒な白い丸テーブルでお茶を飲んでいるのは、ナサニエルが西州へ行く切っ掛けを作った張本人。チェカル家のセレナだ。以前から垢抜けた少女ではあったが、十二歳で背が伸びて、母親譲りの美貌がいっそう際立つようになった。
彼女は口角を上げて笑い、ナサニエルが書き殴った報告書とも呼べない箇条書きのメモ――西州の向こう半年分の日程――をテーブルに滑らせた。
向かいの席に深く腰掛けた老人が、無言で紙を取って文字列に目を走らせる。
「これでチェカル家は、本国の王侯貴族より一歩先んじて西州と繋がりを持つことができる。またひとつ、お父様とお母様に親孝行ができたな」
勝手な言い草に、ナサニエルはいささか腹が立った。
「なにが親孝行だよ。世界の均衡はどうなった?」
「当面の危機は去ったとも。ナサニエル、改めて礼を言うぞ。だが忘れるな。この二年間、おまえが金銭に不自由することなく使命に従事できたのは、お父様の並々ならぬ支援あってのものだということを」
それを言われるとなにも言い返せない。根無し草のナサニエルが西州を調査するにあたり、チェカル家の援助はなくてはならないものだった。しかも依頼を受けてから師匠に助言をもらうまでの一年間は、無駄飯食らいと誹られても文句は言えぬ。
これまで黙っていた老人が、口を開いた。
「苦労をかけたな、ナサニエル。よくやった」
「本当にな」
テーブルの空いている席に座って、ナサニエルは師を見やった。視線が報告書から外れない。世界の均衡が崩れる危険は去った、とセレナは言ったが、果たして〈竜殺し〉はこの結末をどう見ているのだろう。
以前、二人で交わした会話を思い返す。
師匠は、ホノエがおこなった焚書を評価した。ソラの叡智は人類にはまだ早い、と。その他にも、今回の真相を知らなければ出てこないようなことをいくつも口にした。
西州公の先代と次代は、同じ記憶を持っていても同一の存在ではなく、その意識に連続性はない。今にして思えば示唆的な言葉だ。その極めつけが、腕輪を鍵に見立てたときの一言である。
『本当の意味でのオリジン』
それはまさに、西州公たちを形作る精神の鋳型の元となった、ホーリーのことではないか。
そうだ。オブライエンは、四十年前から知っていたのだ。当時の西州公に会い、均衡が崩れる兆しを見た。彼だけが知っていた。遅かれ早かれ、異変が起きることを。
――よくやった、の一言で納得できるわけがない。
確かめなければ気がすまない。
「師匠。セレナ嬢も。あんたたちは知ってたのか」
セレナが怪訝な顔をする。
「なんのことだ?」
「ホーリーと〈CUBE〉のことだよ」
ふむ、と少女は真顔になって腕を組んだ。
「かなり古い記憶だ。おぼろげだが覚えている。犬は死んだ。船は止まった。どちらも死者だ。その二人を、現世の西州公と結びつけて考えたことはなかった」
嘘ではない。竜の活動時間を考えれば、遙か過去に死んだ者の名前を覚えていただけ上等だろう。
問題は師匠だ。
「ふむ」老人はやっと報告書から目を離した。「そんなことより、次代の安否が気がかりだな。深追いしなかったのは賢明だが、行方を見失ったのは痛い」
追及をかわしてこちらの痛いところを突いてくる。
サクナギの失踪に、ナサニエルは責任を感じていた。
あのとき。
サクは突如として獣の姿に転じて駆け出した。門を越え、橋を、市街地を抜けて、光の軌跡を残して野に消えた。あまりの速さに息が続かず、ナサニエルは追跡を断念するしかなかった。
南へ向かったようだと、曖昧な報告しかできなかったナサニエルを、トウ=テンは責めなかった。夢の窓を通じてサクの深層心理に潜り、そこでなにがあったのか。彼は黙して語らず、現在、典薬寮に入院中だ。
「サクナギのことは、トウ=テンが捜しに行く」
「まあ、任せるしかあるまい。契約者なら気配を追える」
獣の性に流されて野山を徘徊していたユウナギのことを考えると、サクもすでに正気ではないだろう。トウ=テン以外の人間が追いかけたところで、怯えさせ、警戒させるだけだ。
「契約者……」
ナサニエルはふと、思い出したことを口にした。
「前に言ってたよな。正当じゃない契約なんて本当にあるのか?」
「あるとも。他人を騙して利用しようとする輩はいくらでもいる。力のある無知な子どもならなおのことだ。次代は運が良かった」
オリジンの力を悪用されること。師匠はそれを懸念していたのだ。
〈CUBE〉の言が事実なら、サクは契約を一方的に破棄できる。自分のそばにいる契約者が、真に信頼に足る人物かどうか。判断するにはホーリーの記憶と分別が必要だ。そのために、記憶を戻すよう働きかけた。
「師匠のまじないで、サクはホーリーの記憶を鮮明に思い出したよ。ただ初っ端に〈CUBE〉が出てきたせいで、おれは死にかけたけどな」
多少の恨み節を込めてナサニエルは言った。
体を張った。命を賭けた。自分には、真相を知る権利がある。
師匠は肩を竦めた。
「秘密は魔道士の力の源だ。弟子といえど……」
「なにが秘密だ。下らん」
師匠の言葉を遮ったのは、セレナだった。不機嫌そうに眉を顰めながら、焼き菓子のカスがついた指をペロリと舐める。
「ああ、思い出すのも忌々しい。その女さえいなければ、貴様など骨の髄まで燃やし尽くしてやったのに」
その女。
まるでこの場に、いや、師匠の傍らに女がいるかのような言い方ではないか。
怪訝に思いながら、ナサニエルは師匠を見やる。物心ついてから独り立ちするまで、彼の周囲に女の影を感じたことは一度もなかった。今でもそうだ。ゼーフォート郊外にある自宅は物が少なく、質素で、華やかさとは無縁の有様だった。
師匠は鈍色の目を眇めて笑うばかりで、なにも言わない。
布巾で指を拭い、セレナは自分のカップにお茶のおかわりを注いだ。テーブルに飛沫が飛び散る。よほど腹に据えかねているようだ。
わざわざ藪を突く趣味はない。出てくるのが大蛇ではなく竜ならなおさらだ。
ナサニエルは師匠に向き直った。
「別に、秘密に踏み込むつもりはないんだ。ただ、ホーリーと〈CUBE〉のことを知ってたなら、先に教えてくれても良かったんじゃないか?」
せめて情報を伏せた理由を知りたいと、情に訴える。
師匠は、やれやれ、と息をついた。
「それはだめだ」
返答に落胆したのも束の間、
「おまえは、わたしを信じすぎる」
ナサニエルは口を閉じて悪態を飲み込んだ。
テーブルに肘をつき、師匠は顎の下で指を組んだ。
「自分で言うのもなんだが、〈CUBE〉に対するわたしの認識は偏向している。人類の生殺与奪を支配した狂気の廃棄物。その事実は〈CUBE〉という存在の一側面に過ぎない。頭では理解しているが、わたしは根が正直者なのでね。なまじ嘘を嘘と見抜けてしまうおまえの前で、西州公の正体に触れるわけにはいかなかった」
「……先入観か」
一から十まで説明することで、可能性の芽を潰してしまうこともある。そういえばロカは、スイハに直接尋ねられるまで遺児のことを黙っていた。あれも先入観を与えないためだった。
ハン=ロカという男が、ナサニエルはそんなに好きではなかった。陰気で疑り深くて、魔道士という存在を能力でしか評価しない。しかし、そう悪いやつでもなかった。彼がスイハにかけていた言葉には、真心があった。嘘がなかった。二度と会うこともあるまいが、そういうところが嫌いになりきれなかったのだ。
「〈CUBE〉を船から降ろすのは、間違いだと思うか?」
「災いの種を迎え入れたようなものだ」
緊張するナサニエルを和ませるように、師匠は片目を瞑って笑った。
「おまえも知っての通り、西州の人間は、飼い慣らされた家畜のように疑うことを知らない。その愚かな善良さを〈CUBE〉は生身で目の当たりにするわけだ」
「良いのか悪いのか、どっちだよ」
「それがわかるのは、先のことだ。これからだ」
これから。
ヤースン家の悪疫終息宣言によって、西州の人々は知ることになる。黒い獣がいなくなったこと、もう腐傷を恐れる必要はないのだということを。
西州公の庇護を失った人々が、なにを選択し、どう生きていくか。
先のことはまだ、なにも決まっていない。
ただ一つ確かなのは、これからも世界は続いていく、ということだ。
異変に翻弄された六年間を最前線で耐え忍んだ、名も知らぬ多くの人々の頑張りが、未来を繋いでくれた。
「ところで、西州公の葬儀におまえは参列するのか?」
「ああ。どうせ戻るし」
「わたしの分の席も頼む」
〈CUBE〉は船を降り、サクナギは行方不明。今の西州に、魔道士を無力化できる存在はいない。それがわかった途端にこれだ。
図々しいと言うか、要領がいいと言うか。指摘したところで、適度に人に寄りかかって生きるのが長生きの秘訣だと戯けられるだけだろう。
席をひとつ追加するくらい、スイハに頼めばどうとでもなる。
遺児を見つけて連れ帰った功績が評価されて、スイハは今、西州のあちこちを駆け回っている。病み上がりの長兄、半病人の次兄をはじめ、官僚たちの指導を受けながら、催事の準備に追われる日々だ。
みんな人使いが荒すぎる、忙しくて休む暇もないと当人はぼやいていたが、それだけ周りから期待されているということだ。兄たちの思惑としてはおそらく、末弟の将来を見越して、その顔と名前、存在感を今から国民に示しておく狙いがあるのだろう。
スイハが子どもでいられる時間はきっと、残り少ない。
今のうちに、ナサニエルには叶えてやりたいことがあった。
「席の追加は任せてくれ。その代わりに頼みたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「ホノエ=ヤースンを助けてほしい」
ナサニエルは事の経緯と、ホノエの病状を説明した。
なぜ師匠にこんなことを頼むのかと言えば、〈CUBE〉が本当にホノエを助けられるかどうか、わからないからだ。
〈CUBE〉の船では過去、ホノエと同じ病気だった患者が発症と同時に昏睡状態に陥り、二度と目覚めなかったという。死亡例が出た以上、病気の研究と治療法の開発が進められたはずだ。しかし、それが実践されることはなかった。あるいは、あったとしても成功しなかったのだ。もし新たな治療法によって末期から回復した実績があるのなら、〈CUBE〉がその事実を黙っている理由などないのだから。
「ホノエを助けるにはきっと、医学だけじゃ足りない。頼む、診てやってくれよ」
ナサニエルはテーブルに手を突いて頼み込んだ。
師匠が意外そうに言う。
「おまえが人のために頭を下げるとはな」
「おれが頭を下げてんのは、おれの勝手さ」
〈忌み者〉の手を、疑いもなく握り返した。臆することなく話しかけてきた。子どものくせに、ナサニエルの尊厳を守ろうと何度も前に出た。
あのスイハ=ヤースンを、一欠片だって損ないたくない。貴重な少年時代の終わりを、『兄の死』という一生消えない傷で締めくくるようなことだけは絶対にさせない。
誰のためでもない。すべて自分のエゴだ。
「ナサニエル。顔を上げろ」言われたとおり顔を上げると、師匠は口角を上げて笑っていた。「おまえの読み通り、ホノエを助けるには神秘からのアプローチが必要だ。いい機会だから教えておこう。その理由を」
彼はパチン、と指を鳴らした。
ポットの注ぎ口からお茶が吹き出し、宙へ浮き上がる。それは螺旋を描きながらテーブルの中央に集合し、薄い膜を広げてひとつの球体を形作った。
「この星には〈記録者〉と呼ばれる存在がいる。おそらくホノエはそれだ」
「どういうものなんだ?」
「その前にまずは、〈記録者〉が生まれた経緯から説明させてもらおう」
球体の一部が不意に、大きくえぐれた。
「船が墜落するまで、この星に人類は存在しなかった。つまり我々は、この星にとって彼方から飛来した未知の生命体だったのだ。便宜上、ここからは星のことを彼女と呼ばせてもらうが――彼女は、突然現れた生命体のことを知ろうとした。しかし存在のスケールが違いすぎて、直接の意思疎通はできなかった」
球体の中に捻れた帯が現れる。
「そこで彼女は、自分なりの方法で情報を集めることにした。地上の生命は死後、循環する霊脈を遡って星の中枢を経由し、再びこの世に生まれ出る。入植した人類とて例外ではない。遡上の終点にして、循環の出発点。彼女は目の前を流れていく無数の魂から、生前の記憶を吸い上げることにした。個々の記憶はとても曖昧なものだ。しかし人類には例外が存在した。目で見たものを正確に脳に写し取る、記憶能力者たちだ」
球体の中の帯がほどけて、崩れていく。
「記憶能力者のことを知った彼女は、こう思った」
球体に文字が浮かんだ。
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「そして、自身の中枢から新たに魂を生み出した。人類の記憶能力者とは似て非なるもの。『観察・記録・保持』の性質を付与された、星に情報を持ち帰るためのレコーダー。それが〈記録者〉だ」
前世と来世の分岐点で、魂は生前の記憶を星に吸い上げられる。ごく稀に、経験したはずのない物事を覚えている者も存在するというが、そういう仕組みなら食い残しが発生したとしてもおかしくはない。情報を得るという目的には、〈記録者〉が一人いれば十分事足りるからだ。
記憶能力者と〈記録者〉。似て非なるものだと師匠は言ったが、どうやって見分けるのだろう。
「ホノエが〈記録者〉だっていう根拠は?」
「聞く限り、頭が良すぎる」
「記憶力のある奴はみんなそうだろ」
「やや語弊があったな。情報処理能力のことだ。頭の中にある情報を、『思い出す』時間を取らず必要に応じて的確に出力できる。それが〈記録者〉の特徴だ」
確かにホノエは、長く思考することはあっても、質問の答えに詰まったことはない。ただ記憶力が良いだけではああはいかないだろう。
「世界にどれぐらいいるんだ?」
「わからん。なにせ、記憶能力者と見分けるのが難しいからな。〈記録者〉のことを詳しく知りたければ星辰教会を訪ねるといい。創始者のハンナは星の研究者だ」
星辰教会とは、本国領に総本山を構える宗教団体で、ヨームの建国時より都市国家として自治を認められている。信仰とはまったく縁のない人生を送ってきたナサニエルだが、西州に戻る前に一度、訪ねてみるとしよう。
「ここからが本題だ。なぜホノエを助けるのに、神秘からのアプローチが必要か」
ここまで懇切丁寧に説明されれば察しがつく。
ナサニエルは答えた。
「魂に付与された性質と、脳を蝕む病魔の綱引きに、体が耐えられない」
「そうだ。『保持』の特性によって侵食深度は増悪した」
軽度で発症していれば、記憶を失ったとしても後遺症なく回復する病だ。
ところがホノエの場合は、特性が発症を阻害した。六年かけて病魔に侵食され続けた脳は限界を迎えつつある。体の機能を損なうほどに。
「発症したら手遅れだ。だが、ホノエは発症しない。廃人になることなく、このまま緩やかに衰弱死するだろう」
「〈CUBE〉が脳を治療してるあいだ、おれたちはホノエの魂を体に繋ぎ止めればいいんだな」
「〈記録者〉の魂は星に引っ張られやすい。言うほど簡単ではないぞ」
「知ってるだろ。あんたの弟子は優秀だ」
師匠はニヤリと笑った。
パチン、と指を弾く。
テーブルの中央に浮いていた球体が、パチンと泡のように弾けて消えた。お茶の香りがふわりと辺りに漂う。
不機嫌にだんまりを決め込んでいたセレナが、不意に立ちあがった。
直後、テラスの入り口に女性が姿を現した。
「セレナ。こっちに来てたのね」
髪は深みのある艶やかな赤。青い瞳は、深い海を彷彿とさせる。貴婦人らしい上品な装いには一見不釣り合いな無骨な革のブーツが、溌剌とした雰囲気によく馴染んでいた。
ナサニエルは二年前、彼女と一度会ったことがある。
チェカル夫人。夫の留守中、城塞都市ゼーフォートを守る女主人だ。
「お母様、おかえりなさい!」
セレナが満面の笑みで母親に抱きつく。
「留守番してくれてありがとう」
「じいやの腰の具合はどうだった?」
「あと二、三日は安静。あとで帰ってからゆっくり教えてあげる」
娘を軽く抱擁したあと、彼女は魔道士たちに微笑みを向けた。
「こんにちは、ダレルさん。お弟子のナサニエルさんも、お久しぶりです」
ダレルというのは、師匠がヨーム王国で使っている名前だ。魔道士は基本的に本名を隠し複数の偽名を持つものだが、ひとつの名を長く使うのは珍しい。
師匠は椅子から立ちあがり、腕を広げて恭しく礼をした。
「ごきげんよう、リズ殿」
「ふふっ。良い香りがしますね」
「ご息女が美味しいお茶をご馳走して下さいました。素敵なお茶会でしたよ。次の機会があれば是非、ご一緒したいものです」
ポットのお茶は大半が香りを残して霧散したのだが、言うのは野暮だろう。
根無し草の魔道士だった師匠がなぜチェカル夫人と懇意になったかと言うと、昔に一度、命を救われたことがあるのだという。以来、彼女に困ったことが起きたとき、ちびちびと恩を返しているらしい。
「ナサニエルさん。こうしてお会いするのは二年ぶりですね」話しかけられるとは思っていなかったので、ナサニエルはギクリとした。「お噂はかねがね、夫から窺っておりました。ご無事で何よりです」
だらけていた姿勢を正し、背筋を伸ばす。
幸い、夫人は礼儀作法に寛容だった。
「西州の異変はその後、どうなりましたか?」
「おかげさまで解決しそうです。ヤースン家はチェカル卿の支援に感謝しています。近いうちに正式に書状が届くはずです。悪疫終息宣言を布告するって言ってたので」
「そうなの。よかった」
娘と手を取り合って、夫人は安心したように目元を綻ばせた。
「それはゼーフォートで暮らす難民の皆さんにとって、何よりの希望になるわ。夫に代わってお礼を申します。本当にありがとう」
黒い獣から逃れるため、国境を越えて隣国の庇護を求めた西州人もいたのだ。
ヨーム王国の騎士団は精強だ。加えてこの城塞都市ゼーフォートは、騎士と連携して戦えるサナンの戦士団が常駐している他、質の良い鋼鉄の武具に、火砲まで備えている。防衛力の高さはヨーム王国内でも随一だ。難民が故郷に帰れるまで今しばらく時間がかかるだろうが、ゼーフォートなら引き続き安全に暮らせるだろう。
「おれはなにも。手伝いをしただけさ」
「あら、謙遜することはないのよ」セレナが悪戯っぽく笑う。「あなたには、これからまた大仕事が待っているんだから」
続きを引き取るように師匠が言った。
「リズ殿。わたしはしばらくゼーフォートを離れます。今度の仕事は、ナサニエルの腕前を持ってしても難しい。こんな老骨でも何かしらの役には立つでしょう」
「なにか私にお手伝いできることはありますか?」
「アステルを貸していただけると助かります」
ナサニエルは師匠に尋ねた。
「誰だ、アステルって」
「コル・ファーガルの城代オズワルドの従者だ。火の精霊憑きで、こちらで三ヶ月ほど預かって手ほどきした。力の制御は下手くそだが若くて馬力がある。頭数が多いに越したことはない」
自分とは逆のタイプだ。腕前は未熟でも馬力があるのは助かる。なにせ、星の引力に逆らって魂を現世に繋ぎ止めるのだ。最後は体力勝負になるだろう。
チェカル夫人は頷いた。
「わかりました。オズワルドに頼んでみます」
「お願いします」
交渉がスムーズに進んだとしても、アステルとやらがゼーフォートに到着するまで数日かかる。今はとにかく時間が惜しい。
ナサニエルはテラスの手すりに足をかけた。
「おれは先に星辰教会に行ってくる」
不測の事態というやつは万全の状態で挑んでも起こり得る。ホノエを助けるには、もっと深く、星の神秘に関する理解を深めなければ。
飛び立とうとするナサニエルを、チェカル夫人が呼び止めた。
「待って、ナサニエルさん。星辰教会を訪ねるのなら、ナイジェルの紹介状があったほうが話が早いわ」
驚いて振り返る。
「国王の紹介状を?」
「一日お時間を下さい。段取りを整えます」
それは予想もしなかった、法外の助け船だった。
星辰教会はヨーム本国と縁深い由緒ある都市国家である。一個人、それも魔道士がいきなり訪ねていったところで、首長と会うのはまず不可能だ。面会を申し込んだとしても数ヶ月から半年、長ければ一年以上待つ羽目になる。そのあいだにホノエが死んでしまっては元も子もない。
ナサニエルは教会に忍び込んで首長本人と接触するか、あるいは創始者の研究資料を盗み見るつもりでいたが、国王の紹介状が手に入るなら話は別だ。
「そりゃ、ありがたいが……」
ナサニエルは困惑した。
チェカル夫人の思惑が読めない。
「そんなにしてもらっても、返す当てがない」
「気にしないで。これは西州の異変解決に尽力してくれたお礼です」
だとしても。
ヨーム王国の魔道士に対する偏見は根強い。本国領は特にそうだ。国王の紹介状は喉から手が出るほど欲しいが、身分に見合わぬ厚遇は余計な憶測を生む。
「おれの立ち回りによっては本国と、星辰教会を敵に回すかもしれないぜ?」
チェカル夫人はキョトンとしたあと、おかしそうに笑った。
冗談に受け取られたかと思った矢先、鋭い気迫がナサニエルを刺し貫いた。
「敵になるというのなら受けて立ちます。その程度でゼーフォートは揺らぎません」
冷や汗が、全身から吹き出す。
城塞都市ゼーフォートの女主人を相手に、なぜ、軽口など叩けたのだろう。
絶世と名高き美貌。何者にも屈することのない気位の高さ。領民を惹きつけてやまないカリスマ。彼女は、ただそこにいるだけで圧倒的な存在感を持ち、王家の傍流でありながら『生まれながらの王族』であると本国の貴族たちから畏怖されているのだ。
畏れられる所以は、本人の資質だけではない。
彼女はゼーフォート領主の妻であると同時に、現国王の従妹であり、コル・ファーガル城主の妹でもある。つまりヨーム王国三大領地すべてに影響力を持つ。
難しい立場ゆえ、こちらが危惧したような修羅場など、若い頃から数え切れないほど経験してきただろう。考えればわかることなのに、愚かなことを言ってしまった。侮るなと喉元に刃を突きつけられた気分だ。
なにも言えず立ち尽くすナサニエルに対して、チェカル夫人はやにわに気配を緩めた。
目を細めて、柔らかく微笑む。
「ナサニエルさん。私は、あなた達がどんなときに頑張るのか、よく知っています。魔法使いはみんな、大事なものを守るために心を奮い立たせるの。あなた達はそうやって人知れず世界を救っているんだわ。そのお手伝いができるのなら、これほど光栄なことはありません」
嘘ではない。本心から、彼女はその言葉を口にしていた。
師匠が相好を崩して手を叩いた。
「これはまた嬉しいことを仰る。リズ殿には敵いませんな」そう言ったあと、彼は指を立てて付け加えた。「ですが、お気をつけ下さい。すべての魔道士が我々のように善良な心根を持つとは限らないのですから」
「ありがとう、ダレルさん。気をつけます」
欲望のまま誰よりも自由に生きてきた男が、よく言う。
だが、口を挟んでくれて助かった。
肝が縮み上がっている。ナサニエルは顎の汗を拭った。
天性のカリスマを目の当たりにすると、ヤースン家はやはり違うのだ、と実感する。どれだけ優れていても、彼らは王族のように、人の上に立つ素質を生まれながらに備えているわけではない。周囲に認められた役目に忠実に、あくまで一歩引いた立場で国政を担っている。
義務と責任という重荷を、自ら背負う。
過酷な道を選んだスイハのことを思うと、頭がスッと冷静になった。
大事なのは一点だけ。
スイハ=ヤースンの魂が、精神が、擦り切れてしまわないように。そのためにホノエを助けるのだ。ヨーム王国の内情なんか知ったことじゃない。国王の紹介状、ぜひいただこうではないか。星辰教会に正面から乗り込んで情報を搾り取ってやろう。
そして胸を張って西州へ帰るのだ。
――帰る。
おかしさが込みあげた。親も故郷も定かでない自分が、どこかへ帰ることを楽しみに思う日が来ようとは。実に愉快で、晴れ晴れとした気分だった。長い人生の幸せなとき、不幸なとき。どの時点の自分も、生きている限りはまだ途中なのだと知る。
今さらながら、竜から人へと生まれ変わったセレナが今生を謳歌する気持ちが、少し理解できた気がした。
「大丈夫よ、お母様。私がいるわ。ルカとセオも、あと五年もすればお父様の跡継ぎとして恥ずかしくない男子に成長するもの。みんなでゼーフォートを守りましょう」
「ええ、セレナ。頼りにしているわ」
頬を染めて頷くセレナは、この上なく幸せそうだった。
その後、ナサニエルは師匠共々、市街地の中央に位置するチェカル家の本邸に招待された。ゼーフォート開拓初期から住んでいるというその屋敷は、一家の他、十人に満たない使用人が住み込みで働いていた。
日が暮れるまでやんちゃ盛りの長男ルカーシュ、次男セオドアの遊び相手を務め、夕飯を終えたあとは次女エリシュカ、三女クローディアのお守りをする羽目になった。師匠が食事を終えて帰ってしまったために矛先が集中したのだ。セレナが妹姫たちを寝室に連れて行く頃には、ナサニエルは疲労困憊で居間の絨毯に倒れていた。
使用人たちの手でふかふかのベッドに運ばれて一眠りした翌日。
チェカル夫人の書状を手に入れたナサニエルは、泣きながら追いすがるクローディアに手を振って別れを告げ、大空に飛び立った。
次の更新予定
2024年12月1日 02:00
崖っぷち西州事変/忘れじのオブリージュ @satomi-akira
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