43.崖っぷちの先に見る景色は
西州暦八〇二年。
西州の異変が解決してから四年が経ち、スイハは十九歳になった。以前は兄たちの言いつけに従って地方の町村を小まめに訪問していたが、最近はもっぱら州都に腰を据え、議場の一番見晴らしのいい席から会議を進行する役目を務めている。
肩書きは議長代理。
申し送りのない、スイハにとってはまったくの寝耳に水の話だった。西州国の長い歴史の中でも前例のないことである。なぜこんな無茶がまかり通ったかというと、現職官僚三名以上からの推薦と、西州国の新たな君主である鎮西公主ユウナギ直々の命令があったからだ。
「スイハを議長代理に任命するよ」
そう告げるユウナギの傍らには、カルグがいた。
長兄は現在、鎮西公主専属の顧問官を務めている。君主とは名ばかりで国家を運営する能力のないユウナギに代わり、西州国の舵を取っているのだ。つまりこの人事は実質、長兄の采配なのである。
「ねっ、いいでしょ?」
綿の座布団を敷いた玉座で寛ぎながら、ユウナギはスイハに懐っこい笑みを向けた。
西州公の第一子に生まれながら後継として認められず、統治者に必要な教育を与えられなかった彼女にはまだ、時と場所、状況に応じた振る舞いというものが理解できない。夫の弟、身内にお願いをする感覚でものを言っている。
緩めた襟元からも緊張感のなさが窺えた。
ユウナギは上質な生地をふんだんに使った威厳のある衣装や、華美な宝飾を嫌う。重たいし動きにくいと言って、御服所が考案した新衣装が完成するまでは着替えのたびに女官たちを困らせていた。
臣下の立場を保とうとスイハは咳払いした。
難しい言い回しはユウナギに通じない。率直で、わかりやすい言葉を選ぶ。
「お言葉ですが、公主様。僕には大勢の意見をまとめた経験がありません。官僚の皆さんに迷惑をかけてしまいます」
「その官僚たちがスイハを推薦してるの」
すでに外堀を埋められているだと。
どういうつもりだろう。長兄や官僚たちの思惑が読めない。根回しをした張本人は、人好きのする顔でニコニコしている。
「難しく考えるな。職業体験だと思って気楽にやれ」
「周囲の負担を考えて下さい」
「大丈夫。副議長も了承済みだ」
やんわりと反論を退けて、暗に決定事項だと伝えてくる。
こうなったら覆すのは無理だ。
子どもの頃は知らなかった。同じ場所で働く立場になってよくわかった。カルグは大らかだが容赦のないところがある。今回のことだってそうだ。ホノエならまずスイハの意志を確認するところを、あらかじめ逃げ道を塞いだ上で追い打ちをかけてきた。もちろん意地悪でやっているのではない。それが必要だからだ。西州国を、鎮西公主ユウナギのもと改革していく。その覚悟の表れでもあるだろう。
正直おっかないが、そこが頼もしくもある。
形式上、スイハは鎮西公主の前で跪いた。
「わかりました。お役目、謹んで拝命致します」
それからの日々は目まぐるしかった。
代理とはいえ議場を仕切るには若すぎる、という官吏たちの意見には同意しかない。
議長代理になって初めて臨んだ会議は散々だった。準備体操なしで水に飛び込んだようなものである。あっぷあっぷもがきながら曲がりなりにも最後まで進行できたのは、副議長の補佐と、各寮の長たちが気を回してくれたおかげだ。
最初は誰でもそんなものだとカルグに慰められたが、失敗の記憶は脳裏にこびり付いて離れず、しまいには排斥運動で州都を追い出される悪夢まで見た。
落ち込んでいられるのは自室の寝床にいるときだけだ。登城すれば、立場に相応しい振る舞いを求められる。周囲の評価を気にしたり、自分の資質に悩むような時間はない。そんな余裕は議長代理に任命されたときに使い果たした。
議場に集った顔と名前を、必死で覚えた。この場で新人は自分だけ。すでに出来上がっている暗黙の了解という空気感。水面下で繋がっている関係性。それらを把握するために必要なのは、観察だ。
各寮の意見、声の調子、表情の変化、言葉の選び方。
進行しながら、気づいたことを脳内の相関図に書き加えた。議場の外でも、世間話を装って各寮の職員に探りを入れた。そうして地道に努力を積み上げて、少しずつスイハの視野は広がっていった。
そんなある日のこと。
身の丈に合わない職務に忙殺される若輩者を哀れに思ったのか、副議長が休暇をくれた。
「そろそろホノエが保養地から戻る頃でしょう。久しぶりに羽を伸ばして来ては?」
執務机を占領する書類の山から、スイハは勢いよく顔を上げた。
「いいんですか!」
「はい。カルグも、鎮西公主様も了承済みです」
自由だ。何ヶ月ぶりだろう。
立ちあがって万歳するスイハに、副議長は申し訳なさそうに眉を下げる。
「ギリギリになってしまってすみません。ここだけの話ですけどね。みんな、あなたに期待しているんです。いろんな経験を積ませたいんですよ」
「気持ちは嬉しいけど、この数ヶ月で、人間には向き不向きがあるってことを実感しましたよ」
「でも、あなたは音を上げなかった。実に将来が楽しみです。スイハ。あなたには、お父上や兄上たちにはない魅力がありますよ」
ラザロ=ヤースンの補佐を務めた人物からそう言われて、たとえ社交辞令だとしても、ここ数ヶ月の働きが報われた気がした。
「ありがとう。そう言ってもらえると救われます」
スイハは窓を開けて伸びをした。
日差しが暖かい。いつの間にか春になっていたのだ。心地よい風に胸が躍る。
喜びのあまり、スイハは窓から身を乗り出して声を張り上げた。
「兄さんが帰って来るんだ! やったー!」
敷地内を巡回していたバンブ一家が、大声に驚いて草むらから飛び上がった。
屋敷に帰るのは二ヶ月ぶりだった。
出迎えてくれた馴染みの顔ぶれにホッとする。やっと休みをもらえたと伝えると、自室で一息つく暇もなく家政婦たちに身ぐるみ剥がれて風呂場に突っ込まれた。半端に伸びていた髪を切られ、爪の中まで洗われて、最後は湯船に肩まで沈められた。
カルグは城暮らし、ホノエは保養地、メイサは久鳳へ嫁いでいった。世話を焼く相手がいなくて彼女たちも寂しいのだ。
食卓いっぱいに並んだ好物を満腹になるまで平らげ、翌日の昼まで泥のように眠った。
顔を洗って遅めの昼食を食べたあと、溜めていた手紙の返事を書いた。
これまで届いた手紙はみんな机の一番下の引き出しにしまっている。文通相手が増えるたびに手紙の束も膨れあがって、そろそろ新しい保管場所を作らなければ追いつかないほどだ。ときどき読み返しては懐かしんだり、勇気をもらったりしている。
メイサへ宛てた手紙を綴るとき、スイハはいつも感謝を覚える。
三年前。
婚礼を間近に控えた姉に、スイハは思い切って自分がラザロ=ヤースンの実子でないことを打ち明けた。母が産んだこと以外は血筋も定かでない私生児で、メイサとは血の繋がりのない赤の他人なのだと。
途中から目を見られなくて、ずっと俯いていた。
打ち明けるのは恐怖だったが、このときはすでに、黙っていることのほうが耐えがたくなっていた。姉から優しくされるたびにスイハの胸は罪悪感で濁った。資格がない、というラザロ=ヤースンの言葉が呪いのように心を苛んだ。
かといって、告白すれば気持ちが晴れるということはなく。
言うべきことを言ったあと、スイハは後悔に沈んだ。
終わった、と思った。もう姉弟ではいられない。メイサは優しいから結婚したあとも手紙くらいはくれるだろうけれど、それもいつか気まずくなって、だんだん回数も減って、次第に疎遠になっていくのだろう。想像しただけで死にたくなった。
項垂れるスイハの頬を不意に、メイサが両手で挟んだ。
「スイハ。顔を上げなさい」
おそるおそる顔を上げると、怒ったようにまなじりを吊り上げる姉と目が合った。
「なんだか避けられてると思ってたけど、それをずっと気にしてたのね」
「だって……」
「だってじゃないわ」
メイサは息を吐き、高ぶる感情を鎮めるように唇を舐めたが、それでもなお、声の震えは止まらなかった。
「……私の生まれた家はね、取り壊されて牧場の一部になったの。お母さんが亡くなって、帰る家もなくなった私は、会ったばかりの父についていくしかなかった。ヤースン家に来て初めて継母上にご挨拶したときは怖くて震えたわ。兄上は気さくに声をかけてくれたけど、歳の近いホノエとは気まずくて……とても不安だった。でもね、あなたが言ってくれたの。私のことを『姉さん』って」
覚えている。あの挨拶は、朝から何度も練習した。
(――はじめまして。こんにちは、姉さん。スイハです)
『姉さん』は、しゃがんで目線を合わせて微笑みかけてくれた。あのとき感じた幸福は生涯、忘れられない。
「あれが、どれだけ心強かったか」
メイサの瞳から涙が溢れて、零れた。
「血が、繋がってないくらいで、弟じゃないなんて……そんなこと言わないで」
スイハは頬を包む姉の手を取った。
拒絶されることへの不安や恐怖は、とっくに消えていた。
「ごめんなさい、姉さん。二度と言わないよ」
父親の知れない私生児でも。生みの母に愛されなくても。
この世の誰よりも幸せになって欲しい人を、支えることができた。
生まれてきた甲斐があったと、初めて心から思えた。
これからも、生きていける気がした。
書き終えた手紙に封をして、スイハは椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げて目を閉じる。
瞼の裏に姉の顔が浮かんだ。
久鳳のセン家に昨年、待望の赤ん坊が生まれた。議長代理に任命される前に一度、スイハは顔を見に行った。上等な絹のおくるみで大事に包まれた赤ん坊は、目元がタイラによく似ていた。男の子だという。我が子の小さな手に指を掴まれて、姉は幸せそうに笑っていた。
スイハは目を開いた。
指をほぐし、次の手紙の返事に取りかかる。
三日後にはホノエが保養地から帰って来る。次兄を無事に自宅へ送り届けたら、〈あの人〉もいよいよミアライへ向かうことだろう。せっかくだから同行しようと思い立ち、スイハは友人に宛ててその旨を書き綴った。
その翌々日。
ホノエが帰宅する予定日の、前日の早朝のことだった。
使用人から州都の外に妙な車が停まっていると報告を受けて、スイハは最低限の身支度をすませて屋敷を飛び出した。妙な車とやらにひとつだけ心当たりがあったからだ。
市民の野次馬こそ少なかったが、州都の入り口は警備兵と傭兵でごった返していた。
「お騒がせしています! スイハ=ヤースンです!」
駆けつけたスイハの顔を見て、警備兵たちの表情が和らぐ。見慣れない乗り物を警戒していた傭兵たちも「なーんだ」という顔で道を開けてくれた。
「すみません、通ります!」
人垣を抜けてスイハは外に出た。
馬車の駐車位置に黒い鋼鉄の車両が停まっている。間違いない。以前、保養地で見たものと同じだ。思わず目を覆いたくなる。州都に来るときは目立たないよう馬車を使えと、あれほど念押ししたのに。
近づいていって車両側面をコツコツ叩く。ここが乗車口だということは知っている。鋼鉄の装甲の向こうに運転手がいることも。
「スイハです。開けて下さい」
わずかに開いた窓の隙間にスイハは躊躇なく指を突っ込んだ。
男の低い声に咎められる。
「窓の隙間に指を入れるのはやめなさい」
「一日早いし、馬車じゃないし。なんで降りて来ないんですか」
「ホノエには継続的な経過観察が必要であり、日常生活の注意点と非常時の対応を屋敷の使用人に周知させるため予定を二十四時間繰り上げるべきだと判断した。自動車を採用したのは馬車の振動がホノエの睡眠の妨げとなるからだ。脳疲労の予防と回復には食事による栄養摂取と八時間から十時間の睡眠が不可欠であり」
このままでは埒が明かない。
「とりあえず降りてきて、顔を見せて下さい。怪しまれてるから」
車体を覆っていた装甲が解けて、入り口が開く。
中から男が一人降りてきた。
黒鉄の髪。琥珀色の瞳。薄褐色の肌。年の頃は三十代半ば。体つきは筋肉質で上背があり、長い手足を含めて、頭から爪先まで精巧な彫刻のように均整が取れている。継ぎ目のない黒衣を纏ったその姿は、黄昏時に出くわした影を思わせる不吉さを纏っていた。
仮面のように硬質な無表情で、無言のまま、彼は州都の入り口に集まった人々を見つめている。
やはり不審者なのではないかとヒソヒソする警備兵たちに、スイハは急いで手を振って言った。
「大丈夫、うちの者です。名前は――」
「〈CUBE〉」
紹介する前に、彼は自ら名乗った。
「私が〈CUBE〉だ。はじめまして、州都の方々」
三年ぶりに保養地から帰って来たホノエを、使用人達はこぞって出迎えた。
屋敷を出て行く直前は幽鬼のように痩せていて、蒼白い顔には常に死相が現れていた。それが今や死の気配は影も形もなく、血色の良い顔に朗らかな笑みを浮かべている。
すっかり元気になった姿にゼンは目頭を押さえた。彼だけではない。ヤースン家に長く仕えている者はみんな涙ぐんでいる。中でも兄弟を赤ん坊の頃から知っている勤続四十年の家政婦などは、ホノエから「ばあや」と親しみを込めて抱きしめられて感激のあまり泣き崩れた。
ひとしきり歓迎を受けたあと、ホノエは連れの二人をみんなに紹介した。
「彼は〈CUBE〉。命の恩人だ。こちらは向こうで従者になったリジン。いつも助けてもらっている。よろしく頼む」
前者は客人。後者は新入りだ。
スイハは言った。
「みんな。保養地から戻ったとはいえ、ホノエ兄さんはまだ病み上がりだ。日常生活で気をつけなければならないことを彼らからよく聞くように。〈CUBE〉、お願いします」
使用人たちが情報共有をするあいだ、スイハはホノエを彼の部屋に案内した。
二階にある南向きの部屋は、主が不在のあいだも清潔に保たれていた。家具の配置はもちろん、衣装箪笥や机の引き出しの中身、本棚に並んでいる本まですべて、家政婦たちのおかげで以前のまま残っている。
ホノエは物珍しそうに室内を見回した。
「ここが自分の部屋?」
「そうだよ」
実感がなさそうに机を撫でる。本棚を見つめる眼差し、引き出しを開ける手つきは遠慮がちで、まるで他人のものに触れているかのようだ。直に触れれば何か思い出すかと僅かな希望を抱いていたが、やはり、そう簡単にはいかないらしい。
落胆を悟られないよう、スイハは窓を開けに行った。
ホノエは一度死んだ。
悪疫終息宣言以降、典薬寮の警告を退けて休む間もなく政務に没頭した。限界は半年後に来た。倒れてから目覚めたあと、回復の見込みがないことを医術師に告げられたホノエは、屋敷の私物をすべて処分して――家政婦が密かに回収したが――供を連れず身一つで保養地へ移った。
州都を離れてから起きていられる時間が次第に短くなり、三ヶ月目には目覚めない日が続き、じきに呼吸が止まった。魔道士たちと星辰教会、〈CUBE〉が総力を尽くして蘇生させたが、昏睡状態から回復したとき、ホノエは記憶の大半を失っていた。
「仕事はいつ始めればいい?」
「いいんだよ、兄さん。せっかく一日早く帰ってきたんだから。今日は好きなことをして過ごして下さい」
「好きなこと……困ったな。なにも思いつかない」
覚えていたのは自分の名前と、家族のことと、罪の意識だけ。
自分のくしゃみに驚き、食器の持ち方を従者に直され、竈の火に触れようとし、靴を履き忘れ、日が暮れることを不思議に思う。次兄が忘れてしまったことは日常生活にまで及び、枚挙にいとまがない。
忘れたことは学び直せばいい、と〈竜殺し〉のオブライエンは言った。せっかくまともな頭に戻ったのだから、なくしたものを取り戻すよりも新しく積み上げたほうがよほど建設的だと。疲れ果てて寝込んでいたナサニエルも同じ意見だった。
彼らの言葉はホノエ本人や家族の心情を慮ったものであると同時に、現実的な意見でもあって、スイハはだいぶ気持ちが救われた。
――一方で、星辰教会は。
思い出すだけでも腹が立つ。
派遣員から報告を受けた星辰教会は、あろうことかホノエの身柄を教会本部に引き渡すよう要求してきたのだ。印章付きの書状を紐解いたスイハは、次兄を指しているであろう〈記録者〉や〈星還者〉など見慣れない名詞に眉を顰めたあと、それに続く『収容、管理、運用』という単語に怒り狂った。およそ自由意志のある人間に向けて使う言葉ではない。情報提供には感謝しているが断じて応じることはできぬ。
ところが、スイハが握りつぶしてグシャグシャにした書状を指で摘まんで、カルグは鼻で笑った。
「星辰教会には協力の返礼に多額の寄進をした。渡した金を相手が懐に収めた時点で終わった話だ。聞いてやる義理はない。適当にあしらえ」
長兄はこうなることを見越して先手を打っていた。
それに比べて自分は。
感情が先走って冷静さを欠いてしまった。恥ずかしい。赤面するスイハに、カルグは頼もしく片目を瞑って見せた。
「自分が許せないと思うことを知れたのは収穫だ。その自覚は、本音と建前を使い分けるのに役立つ。一歩前進だな」
まだまだ、学ぶことばかりだ。
カルグにしてやられた星辰教会は、保養地に直接使者を送った。
が、すべて〈CUBE〉が対応して追い払った。彼は治療を終えたあとも、ホノエが元通り日常生活を送れるよう残って面倒を見てくれたのだ。
ホーリーに、サクナギに会うという目標を先送りにして、なぜ彼が次兄のためにここまでしてくれたのかはわからない。
ただ、ひとつだけ。
仮面のように表情のない顔が、険しく歪んだことがあった。
ホノエが治療を拒んだときだ。
(――もう、役に立てない)
寝たきりになった次兄が朦朧と呟いた、あの一言が。
〈CUBE〉の逆鱗、あるいは琴線に触れたのだと、スイハは思っている。
「なにも思いつかないなら、兄さん。僕に付き合って下さい。兄さんに見せたい場所があるんだ」
途方に暮れていた次兄の表情が、パッと明るくなる。
「出かけていいのか?」
「もちろん。ご飯を食べたら行こう」
行き先は、市街地に新設されたばかりの図書館だ。まだ開館前だったが、職員に事情を説明して通用口から入れてもらった。
一歩立ち入った瞬間、ホノエが震える吐息を零した。一階はもちろん、二階の壁際まで本で埋まっている。
「ここにある本は、市民なら誰でも自由に読めるんだよ」
十四年前に計画が立ちあがり、西州公崩御と、焚書事件によって長らく頓挫していた西州最大の国立図書館。図書寮の尽力で、今年の始めにようやく完成したのだ。
床に敷かれた絨毯が足音を消してくれる。静寂に包まれた館内は、本の匂いがした。あちこち目移りしてホノエの足取りは覚束ない。種類ごとにまとめられた蔵書が整然と並んだ本棚を、興奮に頬を赤らめながら見つめている。
「こんなにたくさん」
伸ばしかけた手を止めて、次兄は同行する〈CUBE〉の顔色をそわそわと窺った。
許可を請うひたむきな眼差しを受けて〈CUBE〉は言った。
「あなたの向上心と知識欲は理解している。ホノエ、よく聞きなさい。現状で許容できる読書量は厳密に一日一冊までだ。一時間ごとに十五分の休憩を挟みなさい。くれぐれも、自分が病み上がりだということを忘れないように」
「はい。ありがとうございます、〈CUBE〉」
基本的に〈CUBE〉は、その人のやりたいことを否定しない。おそらく明確な犯罪行為でもない限り、個人の意志を尊重する方針なのだ。
お許しを得て、次兄はウキウキと書架を見て回り始めた。
「兄さん。図書館は気に入った?」
「すごくいい。スイハ、教えてくれてありがとう」
スイハは満足して頷く。たとえ記憶をなくしてもこんな笑顔を見られるのなら、元気になってよかったと心から思う。
「知らないことを知るのは楽しい。保養地にいたとき、一ヶ月に一度、本が届いたんだ。あの頃は自分が今どこにいるのか、西州がどんな国かもわからなかったから。とても助かったし、何より嬉しかった。差出人か誰なのかスイハは知らないか?」
一寸、スイハは返事をためらう。
「……僕の、先生だよ」
「お礼を言いたい。どこに行けば会える?」
「先生は今、西州にいないんだ。いろんな国を渡り歩いて、旅先で調べたことを手紙に書いて送ってくれるんです」
国立図書館の完成を見届けたあと、ハン=ロカは西州を旅立った。
せめて次兄が保養地から帰って来るまで待てないかとスイハは何度も引き止めたが、彼は合わせる顔がないと、そう言って目を伏せるばかりだった。
スイハの心は師を思うたびに、まだ繋がっているという信頼と、もう会えないのではないかという不安の狭間で揺れ動く。別れから早三ヶ月。定期的に送られてくる手紙が、唯一の生存報告だ。
「先生は、図書館を作るのも手伝ってくれたんだよ。完成したら兄さんを連れて行ってやりなさいって」
「いい先生だな。会えなくて残念だよ」
息を吸い、唇を引き結ぶ。
ホノエがハン=ロカから学んだ、十五歳から十八歳までの三年間。その日々を本人が覚えていなくても、伝えたかった。ハン=ロカがどんなにホノエの身を案じていたか。一ヶ月に一度の贈り物を決めるのに、どれだけ時間をかけて吟味していたか。
しかしそれは、自分の口から伝えていいことではないのだということも、スイハにはわかっていた。
選んだ本を大事に胸に抱えて、次兄はいそいそと共用の読書机についた。
表題を見てスイハは唸る。
「『第二言語の選択』……難しそうですね」
「パッと目についたんだ。……なんだろうな。ずっと昔に別れた友人を、ふとした拍子に見つけたような……不思議な感じがする」
「きっと兄さんの好きな本だったんだよ」
ホノエは目を細めて微笑み、慈しむように表紙を撫でた。
「……この図書館は、いいところだな。本がたくさんあるだけじゃなくて、遠くから見守られている気がする。好きな場所だ」
読書に集中する次兄の邪魔にならないよう、スイハは静かにそばを離れた。
見守られている。言い得て妙だ。過ぎ去った人々が守り、後世に伝えてきたもの。知識の集積地である図書館の意義を、端的に表現している。
壁際にいる〈CUBE〉に、スイハは声をかけた。
「〈CUBE〉は何か読まないんですか?」
「図書館内で私語は慎みなさい」
「サクのことを考えてたでしょう」
彼は視線だけ動かして、無言でスイハを見下ろした。
表面上は無表情でも、本当は感情豊かな人なのだと知っている。この反応はわかりやすい。図星を突かれてムッとしているのだ。
「今度、会いに行くんですよね。僕も一緒に行きます」
「理由は?」
「友だちに会うのに理由が必要ですか?」スイハは背伸びして〈CUBE〉に耳打ちした。「僕たち文通してるんです。連れて行ってくれるならサクの近況、教えますよ」
「なるほど。あなたには倫理の教育が必要なようだ」
〈CUBE〉は小声で悪態をついた。
とはいえ、久しぶりに再会する友人に手土産のひとつでも、と考えているであろう〈CUBE〉にとっては渡りに船の交換条件だ。提案を拒否しないのが何よりの証拠である。これで出発当日、車に乗せてくれるだろう。
「そうだ。教育といえば、確認したいことが」
「なんだ」
「前に約束した『教育を受ける権利』って、まだ有効ですか?」
〈CUBE〉がホノエを助けてくれたことは心から感謝している。
ただそのあいだに、スイハはもはや子どもとは言えない年齢になってしまった。歳を重ねて背が伸びただけではない。人付き合いも、任される仕事も増えた。今こそ学ばなければならないことは山ほどある。
「西州が目指す議会制民主主義について、もっと詳しく勉強したいんです」
「良い心がけです。スイハ=ヤースン」
おもむろに読書机の椅子を引いて、〈CUBE〉は相変わらずの無表情でスイハを振り返った。
「ホノエの帰宅予定時刻まで残り三時間十九分。この時間をあなたの学習に充てましょう。十分以内に参考資料を持って戻るように」
そう言ってくれるだろうと思っていた。
彼は『ためになる』ことが好きなのだ。
「ありがとう。よろしくお願いします」
スイハは本棚へ向かった。
基礎知識から学び直しだ。ワクワクする。〈CUBE〉が見てくれるのであれば、すでに知っていると思い込んでいることにも新たな気づきが得られるだろう。
学びには、理解には段階が必要だ。
この素晴らしい図書館も、長い改革のほんの始まりにすぎない。宮中のほうでは学院を設立する計画もすでに動き出している。文字の読み書きや計算だけでなく、国民がより高度な教育を受けられる場所を新たに作るのだ。
『教育を受ける権利』を万民に保障すること。それが改革の第一歩だ。
この国の人々は、ずっと西州公の庇護下で生きてきた。これからは、与えられる安寧を享受するだけではいられない。よく学び、自分の人生を、自分の意志で選ぶのだ。時には間違うこともあるだろう。痛みを伴うこともあるだろう。だが、そうして得た経験は、血肉となってその人を形作っていく。自分だけでなく、誰かを助ける力になるのだ。
困ったときに助け合える。力を合わせて困難に立ち向かえる。そういう国にしていきたいと、スイハは思う。
――ソラの叡智は、人類にはまだ早い。
かつて〈図書寮の第二の書庫〉と呼ばれていた頃、ホノエは焚書事件を起こした。
次兄は頭が良かった。
誰にも解けなかったユウヤンの秘密箱を開けてしまえるほど、初めて触れる端末を操作できてしまうほど、そこに記録されたソラの叡智を理解してしまうほど、今の人類がそれを手に入れても不幸になるだけだと想像できてしまうほどに。
それゆえに、誰にも助けを求められなかった。
自分一人で抱え込んだ。
不幸なことに、ホノエの人並み外れた賢さは彼をどこまでも孤独にした。
二階から、スイハは館内を見渡した。
開館まであと一時間足らずだ。図書館の利用者は日に日に増え続けている。ここに蓄えられた先人の遺産が国中の人々に行き渡るまで何年かかるだろう。十年、二十年、いや、もっとかもしれない。
だが、いずれは辿り着く。
そしていつの日か人類は、ソラの叡智をも凌駕するだろう。
スイハは読書に集中する次兄を遠くから見つめた。
――もう一人で背負わせたりはしない。誰にも理解されなかった苦悩を、焚書に踏み切るしかなかった絶望を、二度と味わわせたりしない。
「……兄さん。今度は一緒だよ」
小さく呟いて、スイハは政治、経済の書架から何冊か本を見繕った。
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