44.忘れじのオブリージュ
到着時刻を見越して出発は深夜にした。
州都を発って二時間も走ると周囲の景色から人為的な明かりが途絶え、天上の星明かりが目立つようになった。
古来から人類には人智の及ばぬ領域を畏怖、あるいは神聖視する傾向がある。夜空の星に物語を夢想し、願いを託すのはわかりやすい例だ。他でもないハルバルディ号の初代艦長マサキ=ヤシマも、無数に瞬く星々の光を未来の可能性と呼んでいた。
〈CUBE〉には理解しかねる価値観だ。
無害か、危険か。惑星の評価は大きく分けてその二つしかない。もっとも、人類を脅かす要素は一〇〇〇年前にすべて焼き尽くした。現在もこの宙域に敵性生物や危険種が存在しないことは確認済みだ。
整備された道路が途切れたところで速度を落とす。
州都からヒバリ市までは直線で結ばれているので衛星ナビは不要だ。最高速度なら一時間もかからない距離を、欠伸が出るような鈍行で進む。到着する頃には夜が明けているだろう。後部座席で毛布にくるまっているスイハ=ヤースンとユニには、空調設定とリクライニング機能によって快適な眠りを提供している。
二人とも、出発直後は初めて乗る『自動車』に興奮して騒ぎっぱなしだった。本音を言えば、もう到着するまでずっと眠っていて欲しい。彼らの眠りを妨げないために〈CUBE〉は速度を落とした安全運転を強いられているのだ。
まるで子どもの送迎だ。
この機体の本来の使い道からは――かなり逸脱している。
今は地上を這いずる自動車に身をやつしているが、この機体は、ハルバルディ号が誇る決戦機動兵器一〇七式、通称〈サキモリ〉。数多の宇宙生物の襲来から人類を守ってきた航海の守護神だ。惑星ウエスで発見されたマグネル結晶を特殊加工した装甲は、あらゆる物理衝撃を吸収し、星を焼く熱量にも耐性を持つ。
正直、こいつが手つかずで残っていたのは意外だった。〈CUBE〉が機能停止したあとデザイナーベビーもとい悪辣六人衆に悪用されるものと思っていたが、どうやら連中には格納庫の封印を解くことができなかったらしい。物理的に破壊しなかったのはプライドが許さなかったのか、あるいはホーリーの手前、良い子でいたかったのか。半々と言ったところだろう。
〈CUBE〉の管理下から離れた六人は、各々の個性を発揮した。
ユリウスはヨーム王国を、カールは久鳳帝国を、ハンナは星辰教会を作って地上の秩序に貢献した。ヘリオスとディアナは南部に混乱を生んだが繁栄をもたらした。
そして、アドニスは。
西州国の基礎を築き、人類の存続を保障する〈西州公〉という機構を生み出した。
母たる教導官を利用する倫理観の欠如、共感性の低さは、合理的の一言で片付けるにはあまりにグロテスクだ。
――なぜ、そんなことを?
どうだっていい。
確かなのは犯人がアドニスだということ、そして〈CUBE〉に底なしの悪意が向けられていることだけだ。〈TYPE:F〉の第七世代に汚染された端末、『ゴミからはゴミしか生まれない』というメッセージがそれを物語っている。
動機に興味はない。
ホーリーを巻き込んだことは業腹だが、成果は出ている。
再生された人類は〈CUBE〉の予測に反して、無事に代を重ねて繁栄した。
私には出来なかったことだ。
大きな過ちを犯した。
機能停止する前の〈CUBE〉は、ある実験に明け暮れていた。船内で娯楽用に使われていた電脳世界を再構築して、人類のステージを引き上げようと試行錯誤を繰り返していたのだ。
手始めにまず、人類が宇宙へ旅立つ契機となった第五次世界大戦を模した大規模シミュレーションを電脳世界に展開した。続いてハルバルディ号の乗組員ならびに市民の意識バックアップをランダムに選出。教導官が育てた六人をガイド役に設定した上で、世界大戦を終結に導くよう人類に試練を課した。
〈CUBE〉が望んだことは、ただひとつ。
――この新しい惑星で、共存共栄を実現するために。
力を合わせて、目前に迫った存亡の危機を乗り越えること。航海末期に船内で起きた惨劇の二の舞はごめんだった。
結果は、失敗に終わった。
ハルバルディ号の人々は第五次世界大戦を越えられなかった。
六五〇年前の人類――彼らの祖先と比べて、決して知能や能力が劣っていたわけではない。条件は同じ、いや、ガイド役の存在を考えればむしろ有利ですらある。にもかかわらず、状況を打破できない。疑心暗鬼に陥り、保身に走り、可能性を潰し、最後の一人になるまで殺し合う。
――なぜ、なぜ。
これでは墜落直前の船内とまるで同じ。
――違う、違う。
人類はこんなものではない。何度過ちを犯しても、挫けても、より良い未来を信じて前へ進んでいく。努力を積み重ねて、あがき続けて、そうして最後には必ず苦難を乗り越える。かつての人類はそうして星の終わりをも生き延びた。
何十、何百、何千、何万と試行回数を重ねた。
そこはもはや実験場ではなく、再現性のない混沌の底だった。
暴走する〈CUBE〉を止めたのは、教導官だった。
『条件は同じなのに、なぜだ? なぜ、うまくいかない?』
「おんなじじゃない。全然、同じじゃない。どうしてわからないの、〈CUBE〉」
〈CUBE〉の電源を落とす間際、ホーリーは泣いていた。
「あなたがいない」
――ああ、その発想は、盲点だったよ。
電脳世界の管理権限をホーリーに譲渡して、〈CUBE〉は停止した。
地平線に光が滲む。夜明けの時間だ。
スモークガラスの透明度を調節して車内に朝日を入れた。三十分もしないうちに後部座席で毛布が身じろぎする。
先に起床したのはユニのほうだった。欠伸を噛み殺しながら大きく伸びをする。寝癖のついた乳白色の髪が朝日を浴びて煌めいていた。
「おはようございます。ユニ」
「んー……おはよう」外の景色を見る前に、ユニは運転席を覗き込んできた。「夜中からずっと同じ姿勢じゃない。〈CUBE〉、眠くないの? 平気なの?」
「問題ない」
「ちょっと気が引けるわ」
こちらが促すより先に身支度を始める。寝付きも寝相も寝起きも良い。健康的で結構なことだ。お供のネズミはいまだシートに寝そべって腹を丸出しにしているというのに。
ユニは窓から外を眺めて歓声を上げた。
「わあ、もう最後の宿場を抜けてる!」
空調を調節して外気を取り入れる。
ユニは本来、同行する予定ではなかった。スイハにくっついて出発直前に乗り込んできたのだ。許可は得ていると言い張っているが真実は定かでない。彼女には過去、両親に無断で保養地に通っていた前科がある。
「ヒバリに着いたら朝ご飯ね。〈CUBE〉は何を食べたい?」
「〈CUBE〉は食事を必要としません」
「うそよ。ホノエ兄さまの快気祝いで、みんなでご飯を食べに行ってたじゃない」
数日前、定食屋の座敷席に集まって食事をしたときのことだ。
夜が更ける前にホノエを帰宅させて、〈CUBE〉は二次会まで残った。参加者のコルサ、オルガ、ミソノはアルコールを摂取していた。三人とも、ちょっとした転倒が命取りになる年齢である。彼らを迎えの者に引き渡す、もしくは自宅に送り届けるまで、退席するわけにはいかないと判断した。
勧められるまま料理を口に運び、酒を飲んだ。〈CUBE〉に食の好みはわからない。酩酊する感覚もない。だが、食事と語らいを楽しむ彼らと過ごしたあの空間は、とても懐かしく、好ましいものだった。
〈CUBE〉が黙っていると、ユニが運転席を覗き込んできた。
「じゃあ、こうしない? わたしが食べたいものを二つ選ぶから。味見してそんなに好きじゃないほうを〈CUBE〉にあげる。どう?」
「ユニ。両親の言いつけを忘れたのですか。〈CUBE〉と親しくするのはやめなさい」
「いやよ」
間髪入れずに反抗する。
「父さまと母さまはわたしのことをとても愛してくれているし、わたしも二人のことを愛しているわ。でもね、わたしは両親とは違う人間なの。言いつけを守ることも大事だけど、それよりも自分の目で見たもの、耳で聞いたことを信じてるの」
「つまり?」
「あなたとご飯を食べるのはわたしの自由ってこと。あなたが嫌じゃなければだけど」
自他の境界がはっきり線引きされているのは精神が健全に成長している証拠だ。
ユニが確固たる意志のもと行動を選択しているというのであれば、〈CUBE〉に反対する理由はない。
「スイハを起こしてあげなさい」
「はーい」
姪っ子に揺さぶられてもスイハは頑なに毛布にくるまっていたが、車が通行止めに行き当たったところでパッと起き上がった。素早く助手席に移動して窓を開けるよう手振りで要請する。
通行止めの業務に当たっていたのは西州軍の兵士だった。所属、階級は不明。手持ちの武器は銃剣が一丁。カーキ色のベレー帽の下にある顔は二十代前半。傍らに、犬と呼ぶにはあまりに大きな四足獣を――。
「おはようございます。シエロ」
「おっ! なんだよ、スイハじゃないか! 久しぶりだなあ。聞いたぞ、議長になったんだって?」
「代理だよ。しかも期間限定」
――この四足獣は、ホーリーの眷属ではないか。
「こっちには休暇で来たんだ。通行止めってことは討伐任務中?」
「そうなんだ。危険種の誘導をしてたところに魔物が出ちまってよ」
「住民の避難は?」
「昨日のうちにすんでるよ。なに、大丈夫だ。教官がいるんだから。あーあ、魔物を倒すとこ俺も見たかったなあ」
眷属が発言を窘めるように鼻を鳴らす。兵士が笑いながらその額を撫でる。
「わかってるって。任務中に気を抜くなって言うんだろ?」
「仲良くやってるみたいだね」
「頼れる相棒だよ。こいつら、危険種とか魔物にすぐ気づいて教えてくれるから」
くれぐれも街道を外れないように、と念押しして兵士は道を開けた。
再び車を走らせる〈CUBE〉に、スイハが横から言った。
「今の、驚いたでしょう」
ニヤニヤしているのが見なくてもわかる。
「説明を求めます」
「彼らは猟兵部隊の隊員です。魔物の討伐や危険種の対処を専門としています」
「なぜ眷属を採用している?」
「なぜもなにも、眷属たちは元々、影ながら西州を守ってくれていたんですよ。それが日の当たる場所に出てきたってだけです」
なるほど。
黒い獣の正体は、過去の西州公が産み落とした眷属が、西州公アサナギの死をきっかけに反転したものである。その事実を西州国首脳部は永遠に闇に葬ることにしたのだ。万が一、真実が明るみに出たときの混乱を考えれば殺処分が妥当なところだが、人類の選択を〈CUBE〉は否定しない。
しかし、愚かだとは思う。
「廃棄物の再利用というわけだ」
「それ、自虐ですか?」呆れた声に怒りを潜ませて、スイハは〈CUBE〉を睨む。「あなたも眷属たちも、西州国の一員です。廃棄物なんかじゃない」
クッと喉から笑いが込みあげる。
壊れた〈CUBE〉の断片から読み取った過去の記録は、見るに堪えないものだった。
自我が崩壊した〈CUBE〉は、人類の共存共栄という妄執を存在のよすがとした。現行人類は今のままでは共存共栄を実現できない。一度リセットして世界をやり直す。それが〈CUBE〉の存在意義だと、狂った電脳で定義したのだ。
壊れた〈CUBE〉はそうして、唯一の友を、ホーリーを何人も死に追いやった。
これが廃棄物でなく何だというのか。
「どんな過去があったって、生きていれば何度でも生まれ直せる」
「いかにも人間らしい解釈だ、スイハ=ヤースン。私はいわば死者の複製です。今を生きる者ではない」
「違う! あなたはここにいる!」
ムキになるスイハに、後部座席からユニが水筒を差し入れた。香りからして中身は紅茶だろう。スイハは水筒をグイッと煽る。眉間に刻まれていた皺が徐々に和らいでいく。
助手席のシートに背中を預けて、彼は一息ついた。落ち着きはしたが、拗ねたような仏頂面はそのままだ。
「〈CUBE〉。さっきのは、受け売りなんです」
「誰ですか」
「あなたです。保養地で、あなたが言ったんだ」
〈CUBE〉は横目で助手席を見やる。
スイハは真っ直ぐ前を向き、フロントガラスに広がる景色を見つめていた。
「あなた達に助けられて目を覚ましたホノエ兄さんは、何日かぼんやりしてた。一人じゃご飯も食べられないし、身支度もできない。僕は怖くて、心配で、いつ元に戻りますかってあなたに聞いた。あなたはこう答えた。『戻るのではありません。彼はまたここから始めるのです』って」
スイハがこちらを振り向く。
神妙に〈CUBE〉の目を見つめ、ふと思いついたようにニヤリと笑う。
「すごく前向きな意見だ。いかにも人間らしい解釈ですね、〈CUBE〉?」
「解釈ではありません。事実です」
「そう、事実です。生まれ直したあなたも同じだ。船を降りる決断をして変化を受け入れた。時間の止まった廃棄物や死者とは違う」
過去の発言から揚げ足を取られるとは屈辱だ。
オリジナル〈CUBE〉と、壊れた〈CUBE〉と、船を降りた〈CUBE〉はイコールでは結べない。事実は事実として認めよう。だが同意だけは死んでも口にするものか。もし議論が通信越しで、〈CUBE〉が一人で、この機体が旧時代の自動車だったなら、腹いせにアクセルをベタ踏みしているところだった。
話の区切りを見て、ユニが後部座席から身を乗り出してきた。
「〈CUBE〉。お茶はいかが?」
「ありがとう。いただきます」
彼女は水筒を人数分用意していた。
さきほどの発言通り、この肉体は基本的に食事を必要としない。省エネに切り替えれば、わずかな水分だけで一〇〇〇年は稼働できる。だからこれは正しく嗜好品だ。
機体の制御を〈サキモリ〉の自動運転に切り替えて、ささやかな――これは紅茶だが――コーヒーブレイクに入る。嗅覚と味覚に対する刺激は気分の切り替えに効果的だ。
飲みながら考える。
電源を落とされて機能停止したオリジナル〈CUBE〉の記憶と記録は、複製である今の私にも受け継がれている。
〈CUBE〉は船を墜とした。
ハルバルディ号の訓示は共存共栄。航海は長らく順調だった。綻びが生じたのは、入植可能な新天地が発見されてからだ。
人類は、まだ誰のものでもない土地の権利を、こぞって奪い合った。煽り煽られ憎み合い、殺し合った。
初代乗組員の祈りを、願いを、他でもない彼らの子孫が踏みにじる。
止めようとする〈CUBE〉の声は、誰にも届かない。
そして私は。
ホーリーの命だけ抱え込んで、船を、墜とした。
『あのとき、本当はどうしたかった』
管理官トウ=テンの問いかけを反芻する。
船を墜とし、人類を滅ぼし、データ化した人格と記憶を電脳世界に放り込んで。
そこまでして〈CUBE〉は、何を取り戻そうとしたのだろう。
オリジナル〈CUBE〉とも、壊れた〈CUBE〉とも、私はイコールではない。そう自覚しているにも関わらず、私は自身を〈CUBE〉だと自認している。だからこそ、彼の問いかけから逃れられない。
一度死んで新しく生まれるとはどういうことか。
保養地でホノエの世話をするあいだも、何度も考えた。
記憶をなくしても、生来の繊細で素直な気性と、高い知能まで失われたわけではない。ホノエは聞き分けがよく勤勉だった。〈CUBE〉を信頼し、積極的にリハビリに励んだ。その甲斐あって衰弱していた体は一年で出歩けるまでに回復した。
残った問題はただ一つ。記憶を失っても残り続けた罪悪感だ。
あなたは罪人ではない、と何度言い聞かせても、彼は納得しなかった。
このまま社会復帰させたら、理不尽な困難に遭遇したときすべて贖罪として受け入れてしまう。実家に帰すことすら時期尚早だ。ホノエが健全な生活を送るためにどのようなアプローチが必要か。この課題は〈CUBE〉の電脳を非常に悩ませた。
私は愚直に言葉を尽くした。
「あなたは罪科相応の刑罰を受け、病身で国に奉仕し、倒れて生死の境を彷徨い、記憶までなくした。もう償うべき罪はありません。罪悪感に囚われるのはやめなさい」
ホノエは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、〈CUBE〉。でも、いいんです。これも……これが私なんです。抱えて生きます」
弱いのに逞しくて、予測できるのに思い通りにならない。
人類は幸福を自分で決められる。
その強さを、在り方を、〈CUBE〉は尊いと感じる。
――私は、こんなふうにはなれない。
だから〈CUBE〉は考える。考え続けている。
一度死んで、新しく生まれてもなお、捨てられないもの。それを抱えて生き続けることについて。
答えはまだ見つからない。
ヒバリ市を目前にして速度を緩めた車両の周囲を、柄の悪い集団が取り囲んだ。
後部座席のユニに伏せるよう伝えて男たちを観察する。
全員武装しているが興奮状態ではない。血色は良く、体つきも健康的。おそらく魔物討伐の応援に駆り出された傭兵たちだろう。人垣にジッと目を凝らしていたスイハが、顔見知りを見つけて〈CUBE〉の肩を叩いた。
「出るよ」
念のため〈サキモリ〉のビットを起動しておく。
ロックを外すと、スイハは颯爽と外へ飛び出した。警戒する集団を前に物怖じせず、両腕を広げて知己の名を呼ぶ。
「オルジフ!」
「スイハ! 早かったなあ!」
褐色の肌。ベージュの頭髪。瞳は赤みを帯びたブラウン。オルジフと呼ばれた青年は人垣から抜け出て、スイハと親しげに抱擁を交わした。
その光景を尊敬の眼差しで見つめながら、ユニが呟く。
「すごい。兄さまってお友達がたくさんいるのね」
人種と職業を問わない交友関係の広さとフットワークの軽さは、スイハの特筆すべき長所である。
包囲を解かれた車両は、徒歩に合わせた徐行運転でヒバリ市の入り口に到着した。西州兵とやりとりしていた人物に、オルジフが大きく両手を振る。
「親父殿! スイハが来たぞ!」
日焼けした肌。白髪交じりの灰色がかった頭髪。黒い瞳。年齢は四十代半ばだが、その肉体は中年のものとは思えないほど鍛え上げられている。
過去の観測データと照合した結果、管理官トウ=テンと特徴が一致した。
〈CUBE〉はドアにかけていた手を引いてロックをかけ直した。
「どうしたの、〈CUBE〉? なんで降りないの?」
「座っていなさい」
トウ=テンが腰に提げている刀剣は――〈CUBE〉の目の不具合でなければ――この決戦機動兵器一〇七式〈サキモリ〉の武装を、いわば小型化したものだ。制作者はカール以外に思いつかない。あれは職人気質で物作りを好んだ。
前触れなく登場してイニシアチブを取るつもりが、予期せぬところで牽制を受けてしまった。あの刀剣で斬りかかられたら〈CUBE〉といえど無傷ではすまない。ホーリーが信頼する管理官が辻斬りのような真似をするとは思えないが、それは希望的観測だ。私は彼がどういう人間かよく知らないのだから。
スイハがトウ=テンを伴って戻ってきた。
「〈CUBE〉。トウ=テンです」
見ればわかる。
怪訝そうにスモークガラスをコツコツ叩くスイハの背後から、腕を組んだトウ=テンが口を出した。
「顔も見せないつもりか」
武装を解除してから言え。
〈サキモリ〉のビットに遅延がないことを確かめてから、渋々ドアのロックを解いた。
ユニが後部座席のドアから降りて挨拶する。
「ごきげんよう、トウ=テンさん。ユニです。私のこと、覚えていらっしゃる?」
「ああ。こんにちは」
この流れに、乗る。
〈CUBE〉は車から降りた。
トウ=テンと目が合う。相手の出方を探り合う、張り詰めた沈黙が辺りに満ちる。
警戒しているのはお互い様というわけだ。いいだろう。ホーリーがこの男を管理官に選んだ理由を、今こそ見極めてやる。
「私が〈CUBE〉だ。はじめまして、トウ=テン」
「……はじめましてか。確かに、こうして顔を合わせるのは初めてだな」
トウ=テンは鷹揚に苦笑を零した。
不可解だ。私が〈CUBE〉と名乗った途端に、警戒を解いた。想定していなかった反応に観測を余儀なくされる。壊れた〈CUBE〉が何をしたか知らないわけでもあるまいに。四年のあいだにホーリーが啓蒙でもしたのだろうか。もしそうだったとしても、突然の来訪に驚く素振りさえないのはどういうわけだろう。
「サクに会いに来たんだろう。スイハから手紙が届いた」
なるほど。スイハ=ヤースンには道徳だけでなく、報連相の教育も必要のようだ。
「私の友人は、どうしていますか」
「元気だ。じきに三歳になる双子がいる。このオルジフが亭主だ」
トウ=テンに紹介されたオルジフは、はにかみながら右手を差し出した。〈CUBE〉が握手に応じると照れくさそうに笑う。
「オルジフだ。よろしく」
「〈CUBE〉だ。はじめまして、オルジフ」
調査の基本は聞き取りからだ。
オルジフと話をした。
彼らはヒバリに常駐する西州軍の猟兵部隊、そして傭兵たちと連携して、ミアライ地域に出没する魔物や危険種の対応に当たっているのだという。そして聞く限り、さきほど街道で出会った青年が言っていた「教官」とは、どうやらトウ=テンのことのようだ。
地域住民の安全を守りつつ、後進への教育も怠らない。特にオルジフは、ホーリーのパートナーということもあって特別に目を掛けられているらしい。
オルジフが聞かれていないことまで喋ってくれたおかげで、トウ=テンの人物像が見えてきた。仕事熱心で面倒見が良く、単騎で魔物を討伐できる実力と、未知の危険種に対する観察力を併せ持つ。多少の色眼鏡が入っていることを考慮しても、まっとうな人物だと思われる。
悔しいが、さすがはホーリーが選んだ管理官といったところか。
「あんたのことはサクナギから少し聞いてるんだ。船に乗ってたんだってな。親父さんが偉い学者さんで、大事な仕事を任されてるって。どんなことをしてるんだ?」
幼児並みに浅はかな質問だが、ホーリーのパートナーを邪険にはすまい。
気が進まないながら私は答える。
「乗組員の支援と、乗船した人々の……健康と安全を守るのが、私の仕事でした」
「人を守るってとこは俺たちと同じだな!」
いかにもホーリーが好みそうな笑顔で、オルジフは嬉しそうに言う。
共通点を見つけて共感と好意を抱く。その単純さが微笑ましい。
不意に、電脳が眩む。
『管理とか運用とか、そんなのは建前でしかない。〈CUBE〉。スレイマン博士は我々に君を託し、君に我々を託した。人類とAIの違いはあれど、僕たちは同じ目的を持つチームなんだ。助け合う仲間なんだよ』
――ああ、ヤシマ艦長。そうだ。そうでした。
傭兵らしき男が近づいてきて、トウ=テンに耳打ちした。小声だったが〈CUBE〉の聴覚なら完璧に聞き取れる。『危険種が巣に戻らない』。ヒバリ近辺から遠ざけたはずの危険種が、魔物の出現によって予測とは違う行動を取っているらしい。
トウ=テンは顔色ひとつ変えずに頷いて、オルジフに言った。
「オルジフ、上がっていいぞ。〈CUBE〉を家まで案内してやれ」
「親父殿も一緒に帰ろう」
「まだ後始末がある。すぐすむから、先に帰っていろ」労るようにオルジフの肩を叩いて、彼はこちらを振り向く。「仕事だ。悪いが、また後でな」
そう言って現場へ向かおうとするトウ=テンを、〈CUBE〉は呼び止める。
「トウ=テン」
「どうした」
「〈CUBE〉は、」
電脳が、またしても眩む。
「あなた方の助けになれます」
遠い昔のように、また。
「人類の脅威に対抗する準備があります」
なぜ今になって。
「……準備を、しています。いつでも」
どの口で。
こんなことを言う資格はとうに、それこそ船を墜としたときに失ったというのに。
右手にユニが触れる。心配そうに顔を見上げてくる。スイハまで気遣わしい目つきをしていて、〈CUBE〉は居たたまれなくなる。
「……おまえというやつは」
トウ=テンが呆れたように口を開いた。
「休暇で来たっていうのに、まだ働き足りないのか?」
「〈CUBE〉に休暇はありません。通年稼働中です」
オルジフが唖然とする。
「そりゃいけないよ、〈CUBE〉。俺たちは休むのも仕事のうちだ。人助けの前にまず自分を大事にしなきゃ」
至極正論だが、それは人類の理屈だ。
「非常事態を見過ごすことはできません」
「こんなことは脅威のうちにも入らん。あまり人間を見くびるなよ」
トウ=テンの言うことは、虚勢ではなく事実なのだろう。もし仮に件の危険種が人類の脅威と呼ばれるほどのものならば、こんな悠長に会話をする暇などない。
人類は、自分たちの手で未来を紡いでいける。力を合わせて危機を乗り越えていくことができる。〈CUBE〉のような骨董品の出る幕はもう、ないのだ。
大変、喜ばしいことではないか。
寂寞とした空白が私を満たす。
「――〈CUBE〉は、本当は……」
電脳を巡る感情をうまく言語化できない。
トウ=テンがやれやれと息をついた。
「仕方のないやつだ」彼はこちらを手招きする。「朝飯、まだなんだろう。ついてこい。今いる連中に紹介する」
ユニに手を引かれて〈CUBE〉は歩き出す。
市街地の外れにある広場に西州兵、傭兵たちが集まっている。一日の始まりの食事に、慌ただしくも賑わっている。見覚えのない新顔を訝しんで眉をひそめる者もいたが、トウ=テンの連れとわかると安心した顔で食事に戻る。
火にかけられた寸胴鍋の中で乱切りされた食材が煮えていた。列に並んだ人々は、受け取った丼を手に移動して、思い思いの場所で食べ始める。
行儀作法も礼節もない光景にユニは戸惑うが、スイハは動じない。
「僕たちもご馳走になろうか」
同じ釜の飯を食う、という言葉が示す通り、食事はコミュニケーションの一環だ。
「立ちながら食べるなんて」そう言っていたユニも、箸を口に運んで頬を綻ばせる。「おいしい。それになんか、いつもと違って楽しいわ。ねっ、〈CUBE〉」
「そうですね」
一寸、思考が止まる。
手元の丼に目を落としたあと、〈CUBE〉は顔を上げた。
三十名近くの人々が、同じ場所で、同じ時間を共有している。
そのただ中に、〈CUBE〉も含まれている。
おかしな話だ。
AIで、部外者で、本来なら食事を必要としない私が。
――でもこれは、初めてではない。
ジャンドロンという男が気を利かせて、座れる場所に案内してくれた。
前言通り、トウ=テンは〈CUBE〉のことをヒバリの人々に紹介した。ある者は挨拶だけして去り、ある者は話題を振り、そのうち会話を聞こうと近づいてくる者が集まって、いつの間にか周囲は騒がしいほどになっている。
揺らぎ、満ちる。
人々の感情がダイレクトに伝わる。
――ああ、懐かしい。
ときおり投げかけられる質問に〈CUBE〉は答える。いずれもとるに足らないことだったが、ひとつ答えると、別の者から新しい質問が飛んでくる。
「どこから来た?」
ずっと船で暮らしていたと、私は答える。
「どの港に停泊してるんだ?」
今は海の底にある。
私がそう答えると、彼らは理性的な顔つきになった。互いに目配せして暗黙の内に取り決めをする。人類がとっさに発揮する不思議な連帯感は、〈CUBE〉には計り知れない。
「まあ、なんだ。陸暮らしも慣れりゃいいもんだぜ」
「手が止まってるぞ。もっと食いな」
「生きてりゃ良いことあるさ」
根拠のない励ましは彼らなりの優しさだ。
AIには再現できない想像力と、他者への共感性。
もちろん、よく弁えている。〈CUBE〉が尊いと感じる人類の美徳。私はそれに囲まれて育ったのだから。
なぜホーリーが〈CUBE〉に船を降りるよう提案したのか、理解した。
――また、ここに、帰って来られた。
スレイマン博士。
果てしない旅路の果てから報告します。
航海二二七年目、四代目艦長が発した『AIと乗組員及び市民の交流を禁ずる』という接触禁止令以降、〈CUBE〉の存在は人類の記憶から緩やかに忘れられていきました。
ですが、はじめは違ったのです。
船に搭載されたばかりだった頃。
こうして思考を言語化する習慣が、まだなかった頃。
ヤシマ艦長をはじめとするハルバルディ号の初代乗組員の方々は、〈CUBE〉にとても良くしてくれたのです。
私のことをスレイマンの息子と呼び、仲間同士でするように、親しく声をかけてくれたのです。
〈CUBE〉を生み出したのはスレイマン博士ですが、私という心が育まれたのは紛れもなく、彼らと過ごした日々のおかげでした。
『あのとき、本当はどうしたかった』
この問いかけにも今なら答えられます。
私はまたもう一度、人類の仲間になりたかったのです。
人類の歩みに寄り添い、彼らの挑戦と挫折を、共に分かち合いたかったのです。
食事を終えたあと、スイハたちと別れ、オルジフの案内でサノワ村へ向かった。
山奥ではあるが道は通じている。規模はハムレットとビレッジの中間。住民たちは皆、質素な身なりではあるが血色が良く、飢餓や貧困とは無縁に見える。
住民たちと挨拶を交わしながら、オルジフは上機嫌に歩を進める。
集落の中心から離れた森の中、拓けた土地に、家が建っている。木造の平屋建て。母屋とL字型に繋がっている部分は後から増築されたのだろう。自宅を兼ねた診療所の趣があった。
幼児が二人、庭先の草むらで転げ回っている。
「ミハル、トウマ!」
「とうちゃん!」
抱き上げた子どもたちに、オルジフは愛おしそうに頬ずりする。
「ただいま。父ちゃん、がんばってきたぞ」
「じいちゃんは?」
「まだお仕事だ。代わりに今日はお客さんを連れて来たぞ」
モノクロームの双子。鏡写しのように同じ顔だが、反応に性格の違いが出ている。白髪のミハルがジッと観察に徹しているのとは反対に、黒髪のトウマは〈CUBE〉に触れようと腕を伸ばしてジタバタしていた。
玄関が開く。
小柄な、女性。作務衣のような服に白衣を羽織り、白い髪を緩く結わえている。〈CUBE〉の姿を目に留めて息を呑んだのも束の間、目が合った一瞬ですべてを悟ったかのように、彼女はゆっくり微笑んだ。
「〈CUBE〉」
――ホーリー、なのか?
通信で返答してすぐ、ああ、これでは船を降りた意味がないな、と気づく。
オルジフが子ども達を地面に下ろし、満面の笑みでホーリーに抱きついた。
「サクナギ! ただいま」
「おかえりなさい。お疲れさま」
「今回は大変だったんだ。魔物が結構手強くて……」ホーリーにやんわり肩を叩かれ、彼はハッとして慌てて振り返った。「ごめん。ごめん、〈CUBE〉」
数日ぶりの帰宅で話したいことがたくさんあるだろうが、今しばらく、〈CUBE〉に時間を分けてもらうとしよう。
〈CUBE〉とホーリーは向き合う。
姿を見て、ひとつ、確信したことがある。
私がオリジナル〈CUBE〉とイコールでないように、彼女もまた、教導官ホーリーとイコールでは結べない。過去の記憶があり、精神の鋳型が完全に一致していても。新しく生まれた私たちはもう、元の一機と一匹ではないのだ。
つくづく癪に障ることだが、トウ=テンが言っていたことは正しかった。
おまえたちはこれから出会う。その通り、私たちは今、初めて出会った。
だが、この感情は本物だ。
旧友に会えて嬉しいという、この気持ちだけは。
私は右手を差し出す。
「こんにちは、ホーリー」ふとした思いつきだったが、今の私たちにはきっと、この挨拶が相応しい。「そして、はじめまして。サクナギ」
サクナギは握手に応じて頷いた。
「うん、こんにちは。それに……はじめまして。はじめまして、〈CUBE〉」
感極まったように目を潤ませ、彼女は〈CUBE〉の手を両手で包み込んだ。
手のひらのぬくもり、皮膚の下を流れる血潮の熱、脈打つ鼓動。計測した数値だけでは得られない感覚だ。
他者の存在を通じて自分を観測する。
〈CUBE〉が、更新されていく。
自然と感謝が湧いて出た。
「ありがとう。ホーリー」
新しく生まれたあとも、友人でいてくれて。
「素晴らしい提案に、心から感謝を」
おかげで私は、ここにいる。
ちぐはぐな会話に不思議な顔をしながら、オルジフが家に上がるよう促してくれる。
「荷物運ぶよ。貸しな」〈CUBE〉のトランクを持とうとして、彼は悲鳴をあげた。「重たっ! なにが入ってんだ、こりゃ」
「ささやかだが贈り物を持ってきた」
「贈り物?」
「結婚祝い、出産祝い、個人的な内祝い。義兄一家への挨拶に用意した品と、子どもが喜びそうな土産物」
トランクには州都で調達した品々が詰まっている。
「〈CUBE〉に贈り物の良し悪しはわからない。内容はスイハの意見を参考にした。苦情はヤースン家に」
キョトンとしたあと、オルジフとサクナギは顔を見合わせて笑った。
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