19.決裂
うろたえるジンをセン=タイラに預けて、スイハは脇目も振らず駆け出した。
次兄がいる部屋に飛び込み、そこで繰り広げられている光景に絶句する。
近侍のウノが、ホノエの首に抜き身の短剣をあてがっていた。
「自分が何をしているかわかってるのか、ウノ!」
乱心した同僚を、ゼンが怒りも露わになじる。
内通者はウノだったのか。
一瞬そう考えてから、スイハはすぐさま思い直した。疑惑を払拭したのは他ならぬウノの様子だった。血の気が引いた青ざめた顔。そこに張りついているのは本性を現した冷徹さでも、裏切りに対する罪悪感でもない。彼はただただ、混乱していた。日頃の役目を忘れるほどに。
スイハは生殺与奪を握られた次兄を注視した。床に膝をつき神妙にしている。口を閉ざしたまま、目顔で近づくなとこちらに訴えていた。
今にも飛びかかっていきそうなゼンを制して、スイハはウノに静かに声をかけた。
「……ウノ。落ち着いて、こっちを見るんだ」
ウノは見開いた目で、自分の手元をじっと見つめている。
「理由があるんだろう、ウノ。わかってるよ。聞かせてくれるかい。なにがあった?」
スイハは極力穏やかに、辛抱強く声をかけた。
ややあって、反応があった。ウノの口から掠れた声が漏れる。
「ホノエ様が……と、とんでもないことを……」
「とんでもないことって?」
「せ、西州公様の御子を、久鳳へ、亡命させると言ったんです」
衝撃を受けつつも、スイハは理解した。
二ヶ月前、ラザロは遺児を捜索する方針を固めた。いや、本当はもうずっと以前から決めていたのだろう。兄たちは前もって知らされていた。〈狩り〉の直前にホノエが姿を消したのは臆病風に吹かれたからではない。遺児を久鳳に亡命させる。父の目を盗んで密かに進めていたであろう計画の、最後の調整をするためだったのだ。
おそらくホノエは、護衛官のゼンに全幅の信頼を置いてすべて話していたが、ウノとジンには計画の全容を明かしていなかった。二人を信用していなかったわけではない。いつかは打ち明けるつもりで、ずっと機会を窺っていたのだろう。そして今夜とうとう、すべてを話したのだ。
それがまさか、こんなことになるなんて。
ウノの乱心は衝動的なものだ。殺意はない。しかし手元が狂えば、あの短剣の刃は容易く次兄の首を切り裂くだろう。それだけは阻止しなければならない。
「どうして……どうして亡命なんて」
「ウノ」
「だって新しい西州公様が立てば、また、前のように平和になるんでしょう」
彼は顔を上げて、スイハを見た。縋るような眼差しだった。
「〈狩り〉に行った兄は、骨になって戻ってきた。生きて帰ってきた弟は、腐傷を理由に市民の手で焼き殺されました。こんなの……世の中どうかしていますよ。みんな、どんどん狂っていくようだ」
「……そうだね。そう思うのは当然だよ」
「なのにホノエ様は、御子を久鳳へ逃がすと言うんです。それどころか、おかしかったのは昔のほうだなんて」
何百年も国を平和に治めるなんて人間業じゃない。
ナサニエルに言われるまで、スイハも意識していなかった。西州に生まれ育った人間にとって平和は当たり前にそこにあるものだった。ウノの言いたいことはわかる。
しかし、同意はできない。
「スイハ様。御子様を州都へ連れて行って下さい。西州公様さえ戻ればこんなことは終わりにできる。西州は昔のように平和になる。そうでしょう?」
少なからず、ウノが自分に心を開いている手応えがあった。
この場を切り抜けるのは簡単だ。嘘をつけばいい。必ず御子を州都へ連れて行く。新たな西州公のもと、ヤースン家は復興に全力を尽くす。そう言うだけでいい。頭ではわかっていた。
スイハは息を吸って、クッと顎を引いた。
「……ウノ。父上が今年でいくつになるか知ってるかい」この質問自体はどうでもいい。スイハは間を置かずに続けた。「七十歳だ。そのあいだに、西州公は何度、代替わりしたと思う」
困惑しているウノの前で、ホノエが眉を顰めた。
「三度だ。六年前に亡くなられた先代は四人目。三十六歳だった。西州公様はみんな、三十代で亡くなっている。一般的な西州人の平均寿命は七十代なのに、どうして西州公様だけ短命なんだろう」
スイハは思う。つくづく、自分は恵まれている。
ハン=ロカ。ナサニエル。トウ=テン。
遠い異国からやって来た彼らが、西州の異常さを教えてくれる。
「僕たちは戦争も、災害も、飢饉も経験したことがない。それなのに西州公様がいなくなった途端にこれだ。どういうことかわかるだろう、ウノ。代々の西州公様は、ご自身の命を削って国を守ってくれていたんだ」
ウノはぽかんと口を開いた。血の気の失せた顔に、じわじわと汗が滲む。
「たまたま今この時代だっただけで、西州はいつこうなってもおかしくなかった。平和は当たり前のものじゃないんだ。西州公様ただ一人の献身に依るものではなく、大勢の人間の努力と、誠意の成果でなければならない」
同じ覚悟をウノに強いるのは酷かもしれない。
だが、過ぎた時間はもう戻らない。戻してはならないのだ。
「僕たちは、変わらなきゃ」
「わ、私は、まっとうに働いてきました。誰だってそうです! これ以上、どうしろっていうんですか!」
「あなた達の働きはよく知っているし、いつも感謝してるよ。これからも僕たちを助けて欲しいと思ってる。西州を変えるにはみんなの力が必要なんだ。何年かかるかわからないけど……」
そのとき突然、ウノがホノエを突き飛ばした。
ゼンが素早くホノエを庇って前へ出る。ウノは後ずさりながら牽制するように短剣を振りかざした。
「来るんじゃない!」
「よくもホノエ様に刃を向けたな! 観念して武器を捨てろ!」
部屋全体を揺るがすような怒声だ。耳がキーンとなった。顔を真っ赤にして、これほど激怒したゼンをスイハはいまだかつて見たことがなかった。
ウノは震えで今にも取りこぼしそうな短剣を両手でしっかり握り直した。
「こんな地獄で、あと何年もなんて……!」
鋭い切っ先を自分に向ける。錯乱の果てに、ウノは自らの命を絶とうとしていた。
自らの胸を貫こうとしていた腕が、次の瞬間、大きく跳ねあがった。
ウノの体がぐらりと傾いて前のめりに倒れる。
その動きが、妙にゆっくりに見えた。数秒遅れて、スイハは悲鳴を上げた。ウノが死んでしまったと錯覚した瞬間、頭の中が真っ白になった。
「ウノ! ウノ!」
「坊ちゃん! スイハ坊ちゃん、落ち着いて」スイハの肩を掴んで、ゼンが子どもをあやすように言い聞かせた。「大丈夫、大丈夫です。よく見て下さい。ウノは生きています。気を失っているだけです」
スイハは呆然とゼンを見上げた。ぎこちなく首を動かし、倒れたウノを見やる。
微かにだが、動いている。息をしている。
「あちらの御仁が」
ゼンの目線を追って気づく。いつの間に入って来たのか、そこにはトウ=テンがいた。彼はちょうど部屋の隅まで飛んでいった短剣を拾っているところだった。
「亡命先の請負人は誰だ」
抑揚のない声はホノエに向けられていた。
スイハの襟首を誰かが後ろから引っ張った。ナサニエルだった。トウ=テンと一緒にこちらの様子を見に来ていたらしい。
ゼンに支えられて、ホノエはよろめきながら立ちあがった。ウノを見下ろす眼差しは暗く、悲しみに翳っている。
「……ウノ」
ホノエは俯いて息を吐き、顔を上げた。トウ=テンに向けて頭を下げる。
「家人を救っていただいて、なんとお礼を申し上げればいいか……」
「御託はいい。久鳳の誰と繋がっている?」
トウ=テンの表情は険しい。
無言のナサニエルに壁際まで引きずられながら、スイハは不吉な予感を覚えた。
ホノエは刃を当てられていた首筋を――恐らく無意識だろう――撫でながら言った。
「カイ殿に紹介されたのは、ゴウ=ヤエンという人物です。由緒ある名家の出で、国立の研究所を預かる高名な学者だと伺っています」
「生体研究所のゴウ博士か」
トウ=テンは露骨に嫌な顔をした。
「ご存知なのですか」
「あの男に身柄を預けるなど狂気の沙汰だ」
「トウ殿。あなたはゴウ=ヤエンと面識が?」
「そんなことより、おまえをカイ=フソンに引き合わせたのは誰だ」
ナサニエルが後ろからスイハの口を手で押さえた。今まさに制止の声をあげようとしていたスイハは、聞かれるまま質問に答える次兄の声を聞いた。
「ハン=ロカという者です。久鳳人ですが、六年前まで父の顧問役をしていました。私たち兄弟の教師役でもあります」
終わりは唐突だった。
息を呑んだかと思うと、トウ=テンはさっと身を翻して部屋を出て行った。
突然のことに、ホノエは困惑して立ち尽くしている。
苦労してようやくここまで辿り着いたのに、危うい橋は渡り終える直前であっけなく崩れ落ちた。手足をばたつかせてナサニエルの拘束から口だけ自由になったスイハは、思わず非難の声をあげた。
「ナサニエル! なんで止めたんだ!」
「状況が悪化するだけだ。それより……」
スイハを引きずっていってナサニエルは窓を開けた。
「口閉じてろ」
え、と思った瞬間、天地が逆転した。兄の叫び声が上の方から聞こえたことで、自分の体が窓の外に放り投げられたのだと理解した。とっさに体を丸めて衝撃に備えた直後、スイハは小枝をバキバキ折りながら背中から植木に突っ込んだ。
「坊ちゃん!」
スイハは窓から身を乗り出しているゼンに、手を挙げて無事を伝えた。家人の心配顔を見るまでもなく、ひどい姿を晒している自覚はあった。不安定な体勢で植木に引っかかっているのだ。頭に血が上って、背中がじわじわと痛んだ。
ナサニエルがふわりと二階から降りてきた。
「追いかけて刺激したくない。先回りするぞ」
「早く下ろしてよ!」
スイハを窓から放り投げたナサニエルの判断は、結果的には正しかったと言えるだろう。
急いで表玄関へ向かった二人は、まるで示し合わせたかのように、サクの手を引いて外へ出てきたトウ=テンと出くわした。
ナサニエルが素早く行く手を塞いだ。
「待て、待て!」
トウ=テンはおもむろに抜刀した。力尽くで奪ったのか、借りたのか――おそらく後者だろう――セン=タイラの刀だ。スイハは恐怖心を振り切って、トウ=テンとナサニエルのあいだに割って入った。
「やめて下さい! 僕たちは敵じゃない!」
「テン。しまって」
彼の背後からそう言うサクの声は、懇願でも咎めるでもなく、ただただ諭すような響きがあった。事情を説明される時間はなかったはずだが、わけがわからないまま連れ出されたという様子ではない。自らの意志でトウ=テンに寄り添っているように見える。
トウ=テンは息を吐いて、刀を鞘に納めた。それでも警戒態勢は解かない。円を描くようにスイハたちと距離を取りながら、玄関から出て来たセン=タイラに目配せする。
セン=タイラは合点承知とばかりに頷いて厩舎のほうへ向かった。前言通り、彼はトウ=テンの味方をする気らしい。それ自体は構わないが、馬を取りにいったということはつまり、ここを出て行くということだ。
「トウ=テン。僕たちも一緒に」
「いいや。おまえ達とはここまでだ」
一縷の望みはあっけなく絶たれた。
スイハは爪が食い込むほど拳を握りしめた。
「なんで……」
「ハン=ロカはおまえの師か?」
なにが正しくて、なにが間違いなのか。
わからない。正解がわからない。
ただ、この問いだけは。
「――僕の先生です」
嘘でも言えない。ハン=ロカを知らない、などと。
そんなことは絶対に言えない。
「本当は、途中まで先生も一緒にいたんです。でも……でも、あなたの名前を聞いてから、先生は様子がおかしくなって……」
頭の中がグチャグチャで、喋ることが整理できない。それなのに言葉が口から零れて止まらなかった。
「先生は悪い人じゃない。僕は……タイラがあなたを助けるように、何があっても先生の味方でいたい。でも、あなたが良い人だってことも知ってる。だってあなたは、ウノを助けてくれた」
スイハには両親から愛された記憶がない。父の言葉にも、母の面影にも、温かさを感じたことはない。だが孤独ではなかった。兄たちは、姉は優しかった。ゼンたちもそうだ。使用人達は皆、主人夫妻の目の届かない場所でスイハによくしてくれた。家族同然の存在だ。そのうちの一人であるウノを、トウ=テンは救ってくれた。
セン=タイラが厩舎から黒鹿毛の馬を連れてやって来た。
手綱を受け取るとき、トウ=テンが言った。
「道中、ハン=ロカが同行していたそうだな」
「はい」
トウ=テンの口調は責めるふうではなかったし、答えるセン=タイラにも悪びれた様子はなかった。
「なぜ黙っていた?」
「あなたが姿を消してからずっと、真実を知りたいと願っていました」
セン=タイラは手を後ろで組み、一拍置いて口を開いた。
「将軍一家の謀殺。それが十年前、ハン=ロカにかけられた嫌疑です。先日、私は本人を直接問い詰めました。彼はそんな命令はしていないと否定した。そして現に、あなたはこうして生きておられる」
「……なるほどな」
「教えて下さい。何があったのですか」
やにわに空気が変わった。
スイハの背中にぶわっと冷や汗が噴き出した。
冷徹に強ばったトウ=テンの横顔から、目が離せない。セン=タイラを見据える眼差しの、なんと冷たいことか。
乾いた唇が言葉を紡ぐ。
「やつは、俺の家族の死を嗤った」
トウ=テンは憎悪を滾らせて唸った。
「これで久鳳の未来は安泰だと、したり顔で嗤いやがった」
セン=タイラは青ざめた顔で愕然としていた。
当事者の口から語られた真実。
しかしスイハにとってそれは、到底受け入れられるものではなかった。
「ウソ! ウソだ! そんなの全然違う!」
「なにが違う」
トウ=テンの低い怒声には体を芯から震わせる怖さがあった。
「何年経っても腐った性根は変わらない。国の権力者に取り入り、その家の子弟に自分の思想を植えつけて裏から操る。安全圏から口だけ出して都合が悪くなれば雲隠れ。いかにもハン=ロカらしい卑劣さだ」
「先生は卑怯者なんかじゃない!」
ロカはいつだってスイハの意志を尊重してきた。特定の思想を強制したり、ああしろこうしろと、頭ごなしに指図するようなことは一度だってなかった。
サクが見かねたように口を挟んだ。
「テン。スイハは嘘は言ってないよ」
「だろうな。知らなければ嘘にはならない」トウ=テンは取りつく島もなかった。「今どう生きていようと、ハン=ロカと関わり合いになることだけは二度とごめんだ」
説得の余地が一切ない。喉がヒリつくほどの拒絶。これは無理だと肌で感じた。ハン=ロカの名を忌まわしく吐き捨てるトウ=テンを、スイハは絶望的な気持ちで見やった。
「昔のことを持ち出すのはやめろ」
立ちつくすスイハをわきに寄せて、ナサニエルはトウ=テンに詰め寄った。
「あんたの恨みもロカの後悔も関係ない。大事なのは今なんだ!」
胸ぐらを掴もうとする手を横からセン=タイラが押さえた。
後ろから羽交い締めにされながらナサニエルはなおもトウ=テンに食ってかかった。
「ここで逃げてどうなるってんだ。どうにもならないだろ。よく考えろ。こいつらは十五かそこらのガキなんだぞ。未来を残してやろうと思わないのか」
薄ら寒くなるほど静かな動作で、トウ=テンは再び刀の柄に手をかけた。
抜く暇を与えず、そこにサクが手のひらを重ねた。
「テン」
冷静さを欠いたトウ=テンにはサクの声しか届かないだろう。どうか彼が考え直すように説得してほしい。スイハは固唾を呑んでサクの動向を見守った。
サクは一度チラリとこちらを見て、申し訳なさそうに目を伏せた。
胸のざわめきが消えた。
スイハは悟った。はじめから答えは決まっていた。サクはすでに選んでいたのだ。
サクはトウ=テンを真っ直ぐ見上げ、言った。
「いいよ。テンがしたいようにして。どこでも行く。なにがあっても一緒にいる。絶対に離れないから」
トウ=テンの顔に初めて逡巡がよぎった。
右手が刀の柄から離れかけた、その時。
「坊ちゃん、下がって!」
ゼンの声で振り向く前に、それは起きた。
スイハは目を見開いた。
乾いた破裂音が辺りに響き渡った瞬間、トウ=テンはすでに抜刀していた。抜き放たれた刀身が一閃、闇を裂く。研ぎ澄まされた銀の煌めきに赤い火花が色を添える。
怯んで身を縮めたサクの輪郭が、不意にかき消えた。
スイハは瞬きすら忘れた。まるで時間が止まったかのようだった。
地面に崩れた服の中から尖った小さな耳が覗いた。小刻みに震える白い綿毛が、怖々と顔を出す。子狐だった。子狐は灰色の瞳を不安げに濡らしながら、しゃくり上げるようにヒンッと鳴いた。
ゼンの手から銃を弾き落とし、トウ=テンは一瞬で身を翻した。
子狐の襟首を掴み上げて懐に突っ込むと、彼は抜き身の刀を片手に携えたまま鞍に跨がり、馬の腹を蹴って一目散にその場から逃げ出した。
スイハはふらふらと、置き去りにされた服を拾いあげた。そこにはまだ人肌の熱が残っていた。
まだ夢を見ている気分で通りの向こうに目を向けると、雪が降り積もった白い道が夜の果てまで続いていた。
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