18.懇親の語らい、対等であること


 受付で借りた明かりを持って、スイハはサクと連れ立って正面玄関を出た。日が落ちた暗い通りを、向かいに立ち並ぶ商店の灯りが淡く照らしている。

 厩舎ヘ向かう前にふと、思いついたことがあった。

「馬にあげる砂糖菓子を買いに行こうよ」通りへ出て、明かりを掲げて手招きする。「大丈夫。すぐそこだから」

 若干ためらう素振りを見せたものの、サクは外套のフードを目深に被っておずおずとスイハの後をついてきた。

 見当をつけた店の戸をガラリと開く。

「ごめんください。やってますか?」

 こちらの用向きを告げると、中年の店主は奥からいくつか箱を持ってきて中を見せてくれた。花を模した落雁や、色とりどりの金平糖が入っている。ユニにあげたら喜びそうだと思いながら、スイハは店の入り口で立ち往生しているサクを呼んだ。

「色々あるみたいだ。一緒に選ぼう」

 顔を見なくとも、華奢な手指から年頃の女の子だと察したのだろう。おどおどするサクに向けて、店主はにこやかに箱を差し出した。さすが大通りに店舗を構えるだけはある。安心して買い物できそうだ。

 馬にあげる分と、家族へのお土産と。選んだものをそれぞれ包んでもらった。

「こいつはおまけだ。はいどうぞ、お嬢さん」

「あ、ありがとう」

 包みを受け取るとき、サクは遠慮がちに礼を言った。

 スイハは店主に代金を支払った。

「ありがとうございます。いい買い物ができました」

「暗いから気をつけて。すぐ帰るんだよ」

「大丈夫です。僕ら、すぐそこに泊まってるから」

 向かいの宿屋を指差し、スイハは店主に別れを告げた。

 通りを渡って宿屋の敷地へ戻る。建物の角を曲がり、白い息を吐きながら足早に厩舎へ。明かりを掲げて中に入ると、馬房から馬が何頭か顔を出した。

 サクがフードを脱いで大きく息を吸った。

 二人が近づいていくと黒鹿毛の馬は嬉しそうに首を振り、サクの肩に親しげに顔を擦り寄せた。機嫌が良いと見てスイハが同じように手を伸ばすと、ふいっとそっぽを向く。差が露骨だ。愛想良く迎えてくれる実家の馬たちが恋しくなる。

 肩を落とすスイハの手のひらに、サクが金平糖を載せた。

「スイハが買ってくれたんだよ」

 黒鹿毛は変わらずスンと澄ましていたが、意地より誘惑が勝ったのだろう。スイハの手から素早く金平糖を平らげた。ゴリゴリと心地良い音を立てて咀嚼した直後、即座に歯を剥き出す。砂糖菓子ごとき懐柔できると思うな、と言わんばかりの態度だ。

「ちぇっ。可愛げがないの」

「照れてる。本当は、スイハが一緒で心強かったって」

「言ってることがわかるの?」

「うん」

 動物の言葉がわかるなんて、それはまるで。

 こちらを見返すサクの瞳に不安がよぎる。スイハは慌てて弁解した。

「ごめん、ビックリしてた。うちの妹とおんなじだと思って」

「妹?」

「ユニっていうんだ。ネズミとか小鳥とよく遊んでる。動物と話せるなんてすごいね」

 黒鹿毛に金平糖をやりながら、サクは気恥ずかしそうに目を伏せた。

「すごいのはスイハのほう」

「え?」

「はじめて会う人とも、あんなふうに話せて……」

 消え入るような声だ。

 目立つ髪色、きれいな顔立ち。人見知りするところや人前で顔を隠していることから、なんとなく、察せられるところがあった。

 スイハはあえて明るく言った。

「コツがあるんだよ」

「コツ?」

「最初っから何か話さなきゃって気負わなくていいんだ。初めて会う人でも、元気に挨拶すれば間違いないよ。おはようとか、こんにちはとか。あとは笑顔を見せるといいね。こんな感じにさ」

 スイハが笑顔を向けると、サクは一瞬呆気にとられたあと、柔らかくはにかんだ。

「……もっと話して。スイハの話、聞きたい」

 心を開いてくれたように思えて、つい舌が滑らかになった。

「さっき妹がいるって言ったけど、あと上に兄さんが二人と、姉さんがいるんだ。一番上のカルグ兄さんはすごく年が離れててね。僕が小さい頃にはもう大人だったからあんまり遊んだことがないんだ。よく面倒を見てくれたのは二番目のホノエ兄さん。物知りで優しくて、寝る前にいつも本を読んでくれた。ホノエ兄さんがいないときは、ずっと姉さんにくっついてたなあ」

「大好きなんだね。お兄さんたちのこと」

「うん。ちょっと心配性だけどね」

 ホノエのことを思うとチクリと胸が痛んだ。

 胸中の思いを振り切って、スイハはサクに尋ねた。

「君のうちは?」

「うちはね……」

 それはどこにでもいる、なんの変哲もない家族の話だった。

 優しい母がいて、気難しい兄がいて。父親がいないことを寂しいと思ったことはなく、また不便をしたこともない。母の仕事は安定していたし、自然豊かな山の恵みや、畑から収穫できる作物のおかげで食べ物には困らなかった。

「おかあさん、植物を調べるのが好きだったの。山に生えてる珍しい草を摘んで帰ると、すごく喜んでくれたな……」

 黒鹿毛の馬にくっついて暖を取りながら、サクは懐かしそうに目を細めた。

「コスと二人になって、しばらく家の中が暗くなったけど……チサが来てくれて」

「チサって?」

「コスのお嫁さん」

「お義姉さんだね」

「うん。編み物が上手で優しいの。コスは最初、チサをうちに入れなくて。村に追い返そうとしたんだ。チサは怒ってコスを茂みに押し倒してた」

 とんでもない話を聞いてしまった。

「そ、それは……すごいね」

「二人が一緒になって嬉しい。子どもが産まれたら、いっぱい遊んであげるんだ」

 そう言って、サクは屈託なく笑う。

 スイハは改めて意識した。

 この子は自分の人生を、今を、ひたむきに生きている。血の通った人間だ。『彼』が言っていた教導官とやら――ナサニエルが言うには西州公のことらしいが――とは違う。たとえその記憶を受け継いでいたとしても。

「スイハ。聞いてもいい?」

「なに?」

「さっき、どうして部屋にいたの?」

 思考が千切れて、女の子の寝姿を見てしまった背徳感、罪の意識が頭をもたげた。スイハは冷や汗を流しながら言いよどんだ。

「ご、ごめんなさい。勝手に入って」

「それはいいの。ただ、テンが理由もなく入れるはずないと思って」

 無防備に眠っている自分のそばに、トウ=テンが理由もなく他人を近づけるはずがない。サクはそう確信しているようだった。

 スイハは白旗を揚げた。

「実は……眠りっぱなしの君をナサニエルが起こせるかもってことで、トウ=テンは僕たちを部屋に入れてくれたんだ」

「どうやったの?」

「僕はよくわかってないんだけど、記憶に作用する術だとか」

 サクは馬から体を離した。横木を潜って馬房から出て、足裏にくっついた藁を払い落としながら、ぽつりと呟く。

「そうか……。だから思い出したんだ」

「サク?」

「ホーリーのこと」

 スイハはギョッとして、思わず尋ねた。

「今、ホーリーって……。知ってるの?」

「うん。でも三歳のときにやめたの。それからずっと忘れてた」

 なにを言っているのかいまいち意味が掴めない。しかしサク自身の口からその名前を聞けたことで、謎の核心に迫ったような気がしてスイハはドキドキした。

「ホーリーは……教導官で、合ってる?」

「合ってるよ。教導官、そしてハルバルディ号の乗組員だった」

「ハルバルディ?」

「歴史には残ってない? 墜ちた星の船の記録は?」

 星の船、という単語に引っかかりを覚えて、思い出すまで一秒もかからなかった。

 神代写本だ。

 全七章で構成された、事実か虚構かも定かでないあの本は、星の船が墜ちるところから始まる。

 再編される世界の章、第一節。

 果てのない空から星の船が零れ落ちた。墜落の衝撃でえぐれた大地に雨が満たされ海になった。嵐が吹き荒れる大地に、砕けた星から降臨した神が光をもたらした。

 記述に国家の存在が見られないことから、おそらく千年以上前の出来事だと思われる。

 ハルバルディ号という名前や教導官の存在は、スイハが記憶する限り、始まりから終わりまでどこにも記されていない。

「神代写本に書いてあったのは……空から零れた星が地上に墜ちて、海ができたって」

「その本って誰が書いたの?」

「古い石碑を写し取ったものらしいんだ。元は双子の、」

「ディアナとヘリオスね。わざわざ石に文字を刻むなんて、あの子たちらしい」

 双子の巫女姫は果たして、そんな名前だったろうか。

 いやそれより。

「教えて。他にはどんなことが書いてあるの?」

 さっきまでと雰囲気が違う。包み込むような微笑、心を見通すような瞳。同い年の女の子が、急に、年上の女性になってしまったかのようだ。

 肩を回して緊張をほぐしながら、スイハは意識しないよう目をそらした。

「か、かいつまんで説明すると……」


星から降臨した神は天蓋光帯を構築して世界を昼と夜に分け、六人の使徒を遣わして地上に秩序を敷いた。

使徒たちの母が朽ちた朝、彼らは世界の理に新しく『死』を刻んだ。ところが神は『死』を認めなかった。

神と使徒は互いに主張を譲らず、争う日々が続いた。

そんなある日、永遠の命に倦んだヒトが神に暇乞いをする。しかし解放を望む声は神に届かず、ヒトは過去も未来もない生に苦み続けた。

ヒトを哀れんだ白い獣がとうとう神を殺し、使徒たちはヒトを世界に解き放った。


 全七章からなる神代写本の要約を聞いたサクは、腕を抱いて目を伏せた。深い憂いを帯びた顔は、遠い過去に思いを馳せているようだった。

「……やっぱり、そうだったの」指を握り合わせてしばらく考え込んだあと、顔をあげる。「ありがとう、教えてくれて。おかげで少しわかってきた。テンにどう話そうか悩んでたんだ」

「どういうこと?」

「ちょっと込み入った話なの」

 サクは困ったように目を伏せた。

「まだ秘密にしていい? あんまり変なやつって思われたくないから」

 秘密を持つのは構わないが、その理由には不満を覚えた。

「変だなんて思わないよ」

「うん」

「本当だよ」

 ムキになって詰め寄ると、サクは戸惑った様子で目を瞬いた。

 黒鹿毛が警告するように前足を鳴らした。

 困らせたかったわけではない。スイハは小さくなって身を引いた。

「ごめん」

「いいの。テンと相談して、考えをまとめたら二人にも話すね」

 違う、そうじゃない。

 自分たちを繋ぐのは、雪山で交わしたちっぽけな約束だけだ。トウ=テンとは話をしたけれど、サクにはまだ何も伝えられていない。こちらの目的を明かしていない。

 それなのに、寝ているところに押しかけて、このうえ秘密まで聞き出そうだなんて。虫が良すぎるどころではない。なんという恥知らず。羞恥心で顔が熱くなる。

 こんなのは公平ではない。

 スイハは思い切って顔を上げた。

「サク。実は僕たち、君を捜してたんだ」

 州都から旅立った経緯、その目的を極めて簡潔に話した。

 長兄カルグを救うために腐傷を治す方法を探していたのだ、と。

 打ち明けてから、おそるおそる、サクの顔色を窺った。怒っているふうではないが、悩ましく眉を曇らせている。

 緊張の沈黙を経て、サクは口を開いた。

「コスに相談しなくちゃ」

 あまりの軽さにスイハはずっこけそうになった。

「州都は遠いから準備もいるし」

「そ、そういう問題じゃないよ!」

 思わずサクの肩を掴んで、しまった、と思ったが、そんなことを気にしている場合じゃないとスイハはぐっと顎を引いた。

 しかしサクの出生に触れずに、どうやって危険を伝えよう。

 トウ=テンは、ヨウ=キキと西州公の繋がりを知らなかった。彼が知らないことをサクが知っているはずもない。こんな重大な事実を、このあいだ知り合ったばかりの自分が明かすのは筋違いだ。

 もどかしい。気ばかり焦る。

「僕の父親が……ラザロ=ヤースンっていうんだけど。州都のちょっと、立場のある人で……つまり、腐傷を治せる人を捜してるんだ。だから、そう。君が腐傷を治せるってわかったら大変なことになる」

「それはテンにも言われた」

「じゃあ」

「でも州都には行くよ」

「えっ」

「コヌサに行ってわかったけど、腐傷の人たちは州都近辺に集中しているでしょう。みんなを助けるには、わたしが現地に行ってマーカーになるのが一番早いと思ってるの」

「マーカーってなに?」

「座標を伝える目印」

 話についていけない。

 だけど、サクはこう言っているのだ。カルグだけでなく、腐傷で苦しむ人たちみんなを救うことができるのだと。そんな奇跡を、平然と、当たり前のように。

 衝撃のあまり思考を放棄しかけて、これはいかんとスイハは頭を振った。

「どうして、そこまでしようと思えるの?」

 ゆっくり目を瞬いてから、サクは面映ゆそうに微笑んだ。

「そういう性分みたい」

 そんなふうに言われてしまったら、もう何も言えない。

 透き通った灰色の瞳の奥に、力強い意志の輝きが見えた。目の前にどれだけ不安材料を並べられたとしても、この光が曇ることはないのだろう。

 微かに頬を赤く染めながら、サクは胸に手を当てた。

「……ちょっと前まで、考えたこともなかった。こんなふうに、自分のこと……思っていることを、人に話せるようになるなんて」

「何かきっかけがあったの?」

「テンが、言ってくれたんだ。普通の人と違っても、それでいいって。どこでも一緒に行くって」

 大きく膨らむ気持ちを静めるように、大きく深呼吸する。

「……テンと一緒にいると勇気が出る。いろんな気持ちがいっぱい溢れてきて……どんどん、新しい自分になっていくみたい」

 スイハはふと、思った。

 自分たちに、それほど大きな違いはないのかもしれない。

 スイハがロカから自信をもらったように、サクはトウ=テンから勇気をもらった。同じ時代に生まれて、別々の土地で育ち、それぞれの立場で、精一杯、自分にできることを探している。

 この人と対等でいたい。

 他人に対して、初めてそう思った。

「わかった。じゃあ僕たち、仲間だね」

 聞き慣れない言葉の意味を反芻するように、サクは呟いた。

「仲間……」

「ナサニエルの言葉を借りるなら、利害が一致した者同士ってこと。僕は役に立つよ。これからどうするか、みんなで話し合って決めよう」

「うん。……そうだね。明日また」

 スイハの胸に、未来に対する淡い期待が広がった。

 州都には心強い味方がいる。

 姉のメイサはもちろんとして、ラカンもそうだ。彼の管轄下である典薬寮に入ってしまえば、ラザロとて容易には手を出せない。宮中で刃傷沙汰は御法度だ。万が一、ハッコウ傭兵団に汚れ仕事を押しつけたとしても、こちらにはトウ=テンとナサニエルがいる。ついでにセン=タイラも戦力に数えていいだろう。

 それに、ハン=ロカだって。

 ――きっと大丈夫。

 ロカがトウ=テンの家族を殺したなんて、誤解に決まっている。

 唯一の不安に蓋をした。

「そろそろ戻ろうか。トウ=テンに怒られちゃう」

「うん」

 黒鹿毛に別れを告げて二人は厩舎を出た。

 歩き出してすぐ、明かりを忘れてきたことに気づいた。スイハはサクに先に戻っているよう言って、明かりを取りに厩舎へ引き返した。

 引き返した、といっても、目と鼻の距離だ。十秒もかからない。明かりを片手にぶら下げて、スイハはサクのあとを追って建物の角を曲がった。正面玄関に向かう最中、路上に停められた馬車が視界の端に映った。どこかで見たような四頭立ての四輪大型車。思わず二度見して、スイハは頭から血の気が引いた。

 ホノエが乗っていた馬車と同型、いや、そのものだ。

 慌てて駆け出したが遅かった。正面玄関をくぐった瞬間、目眩がするような光景が飛び込んで来た。受付の前にいた次兄が、顔面蒼白でサクを凝視していた。

 見知らぬ人間から突然不躾な視線を向けられたサクは、戸惑った足取りでホノエを避け、大回りで食堂へ向かおうとした。

 ホノエの後ろについていたゼンが、ハッと我に返ったようにサクへ手を伸ばす。

「ゼン! 待て!」

「やめろ、ゼン!」

 ホノエとスイハが同時に叫んだ、そのとき。

 ゼンの体が後ろに倒れ、縦に一回転した。

 スイハは混乱した。

 確かにくるっと回ったのだ。それなのに次の瞬間には、ちょっと足を滑らせてよろけたくらいの感じで、二本足で立っていた。回転した当人も困惑した顔をしている。

 ビックリして固まっているサクを、トウ=テンが自分のほうへ引き寄せた。さっきからいたようにも、たった今現れたようにも思える。サクを背後に庇いながら、彼はゼンを睨みつけた。

 何が起きたかわからずにいると、食堂からナサニエルが早足で出てきた。彼は素早く状況を確認すると、ボンヤリしてるなというようにスイハを手招きした。

 自分がどちら側の味方なのか、行動で示さなければならない。スイハは即座にナサニエルと合流してホノエと向かい合った。

「誰だ」

 トウ=テンの問いは短い。

 スイハは最低限の答えを返した。

「下の兄です。一緒にいるのは護衛官のゼン。うちの使用人です」

 ゼンが緊迫した面持ちで懐に手を入れた。ホノエがすかさずその肩を叩く。

 護衛官を諫めたあと、彼は受付に向き直り、慇懃な態度で宿の主人に言った。

「お騒がせして申し訳ない。あれが捜していた弟です。重ねて恐縮ですが、今晩の宿をお願いします。五人です。部屋は空いているならどこでも。お任せします」

 ――さすがホノエ兄さん。

 一目見て、サクが西州公の遺児だと気づいた。想定外の事態に動揺しても、ゼンを制止する理性を保っている。感情に振り回されたりしない。

 受付をすませたホノエは、トウ=テンの前で一礼した。

「お初にお目にかかります。スイハの兄の、ホノエ=ヤースンです。使用人の無礼をお許し下さい。この度は弟がお世話になりました。後ほど、改めてご挨拶に伺います」

 目配せする兄に頷いて、スイハは皆に向き直った。

「兄と話をしてきます。ナサニエルはサクと一緒にいて」

 ナサニエルは無言でこちらを見返してきた。

 スイハは頷いた。ナサニエルはもう自分の護衛ではない。いざというときは最善の判断を、という意味で親指を立て、兄のあとを追って階段を上がった。

 二階の、庭に面した一番手前の部屋。室内に兄弟二人を通して、ゼンが廊下から扉を閉めた。

 ホノエが振り返った。

「スイハ」

「はいっ」

 条件反射で背筋が伸びる。スイハは叱責を覚悟してギュッと口元を引き締めた。

 しかし、かけられた言葉は予想していたものではなかった。

「おまえ、何ともないか」

 エッと顔を見返せば、ホノエは心配そうに眉をひそめている。

「別に、元気だけど」

「……そうか。なら、いい」

 不安が解消された、という顔ではなかった。兄のこういうところは昔から変わらない。とことん嘘がつけない性格だ。心配事を一人で抱え込むところも。

「兄さん。先生は? 連れてきたの?」

「あんな状態で置いていけないだろう」

 まずい。トウ=テンと鉢合わせしたら一巻の終わりだ。

「早めに休ませてあげて下さい」

「ロカのことはジンに任せてある。それより、スイハ」

 改まって名前を呼ばれてギクッとする。

 弟の目を切実に見つめながら、ホノエは口を開いた。

「……彼らと知り合った経緯と、本当のことを話してくれ。大事なことだ」

 そんな顔をされては洗いざらい吐くしかない。

「兄さん。黙って抜け出してごめんなさい」まずしっかり謝ってから、スイハは言った。「ちゃんと一から説明します」

 旅装を解いて身支度を整えた兄に、スイハはこれまでの経緯を話した。

 道中の宿場で州都へ向かう伝令と出会ったところから、ホノエが迎えに来るまで。中でもナサニエルが特別な使命を帯びていることや、トウ=テンが命の恩人であることは特に強調して伝えた。なお話がややこしくなりそうだったので、教導官ホーリーにまつわることや、セン=タイラのことはひとまず黙っていた。

 ホノエは終わりまで口を挟まなかった。

「今後の方針も含めて、詳しい話は明日することになっています」

 喉の渇きを覚えながら、スイハはそう話を締めくくった。

 しばらくホノエは思案する顔で俯いていた。

「……無事で良かった」小さく呟いてから、彼は顔を上げた。「遺児と一緒にいるトウ=テン……トウ殿は何者だ?」

「傭兵です。昔は久鳳の軍人だったんだって」

「軍人……。逸脱者のことを知っているということは、元将官か」

「そう、それ。なんなんですか、逸脱者って?」

「精霊憑きとはまた異なる、特殊な能力者のことだ。視認したものを任意に破壊できるらしい。魔物以上の脅威として、国家間で情報が共有されている」

 スイハは数日前の記憶を振り返った。

 カーダンの目の前で、突如として臓物をぶちまけた黒い獣。あの意味不明な現象は、逸脱者の力によるものだったというのか。

「……トウ殿は西州の恩人だ」ホノエは物憂げに目を伏せた。「恩を仇で返すようなことがあってはならない。だが……遺児のことは、慎重に判断しなければ」

「どうするの、兄さん」

 椅子に腰掛け、次兄はしばらく黙って考え込んだ。

 そこへ、扉がノックされた。ゼンたちが戻ってきたのだ。

 使用人たちの顔を見回して、ホノエは意を決したように腰を上げた。

「これから先方と話をする。談話室を借りよう。ウノ、手配を頼む。ジンはハン=ロカ殿についていてくれ。ゼンは引き続き供をしろ」

 もう遅い時刻だというのに。

 差配する兄の様子を、スイハは注意深く観察した。

 前髪に隠れているが、額にうっすら汗をかいている。瞬きが少ない。頭の中で目一杯考えごとをしているときの顔だ。余裕のなさが見て取れた。

 ウノとジンがそれぞれ出て行ったのを見計らって、スイハは確認した。

「なにを話すんですか?」

「おまえが世話になった礼と、今後のことだ」

 ホノエは深刻に目を伏せた。

「この六年間、父上は様々な手を尽くしてきたが、今回の判断は良くなかった」

「傭兵に遺児の捜索を命令したこと?」

「そうだ。……国民は次代の西州公を望んでいる。公子の消息が知れない今、遺児の存在が知られたら混乱は避けられない。噂が広まる前に事を収めなければ」

 やはりホノエもカルグと同様、新しい西州公を迎えるつもりはないのだ。

 しかし、ひとつ懸念がある。

「ゼンたちも、兄さんと同じ考えだと思っていいの?」

 護衛官のゼンは神妙な面持ちで壁際に控えている。

 先ほどゼンがいち早くサクに手を伸ばしたことから、スイハは彼がラザロから密命を受けているのではないかと内心疑っていた。

「サクを捕まえようとしたように見えたけど」

「スイハ。ゼンにはすべて話してある」ホノエは咎めるように言った。「さっきは突然だったから……驚いてつい、手が出てしまうこともあるだろう」

 疑う前にまず庇う。こういうところが次兄の美点であり、弱点でもある。

 だが、それでいい。人にはそれぞれ相応しい役回りというものがあるのだ。

「そうなのか、ゼン?」

 視線をやると、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。

「申し訳ありません。気が動転していました」

 嘘をついているようには見えない。

 少し迷ったが結局、スイハはゼンを信じることにした。彼らのことは子どもの頃から知っている。こちらの信頼を簡単に裏切るとは思えなかった。

「ゼン。顔を上げてよ」家族にも等しい護衛官に、スイハは笑顔を向けた。「疑ってごめん。ゼンたちがついていてくれるなら安心だ。これからも兄さんを頼む」

 ゼンはもう一度、深々と頭を下げた。

 スイハは兄に向き直った。

「ホノエ兄さん。僕、わかってるから」

「なんのことだ?」

「六年前。兄さんが書庫に火をつけた理由」

 無言で見返してくる兄の眼差しは、凪いだ水面のように静かだった。

 当時も、こんな目をしていたのだろうか。焼け跡を前にして呆然とする人々の前で、自分が火をつけたと認め、それきりひとつの言い訳もせず、口を固く閉ざした。

 スイハはホノエの手を取った。

 自分はもう、兄のことを悪く言われて悔しがってるだけの子どもではない。

「読ませないためだ」

 誰に、という主語を省いたのは、答え合わせがしたかったからだ。

 手の中で、兄の指先がどんどん冷たくなっていく。

「……いるのか。遺児の中にも、あれが」

 掠れた声で呟くホノエの顔は、ひどく青ざめている。今にも気を失いそうだ。スイハは兄の意識を繋ぎ止めるように強く手を握った。

「さっきも話したとおり、ナサニエルは〈竜殺し〉の弟子です。彼のおかげであれの存在は証明された。もうひとりで悩むことはないんだ。みんな力になってくれる。正体がわかれば対処もできる」

「しかし、当のオブライエンは、四十年前の記録では……。先々代の西州公を、ヨイナギ様を見放したのだ。どうしようもないものに成り果てたと、そう言って……」

「考えてもみてよ、兄さん」

 スイハはあえて明るく言った。

「この状況だって、一年前には想像もしてなかったでしょう。四十年あれば何だって変わるんです。昔はどうしようもなかったことも、今なら何とかなるかもしれない。だから〈竜殺し〉は弟子を寄越したんじゃないかな」

 言っていて我ながら能天気すぎる気もしたが、怯えきった兄を元気づけるにはこれぐらい大げさなほうがいい。

 それに、『彼』に対する恐怖心をそのままサクに向けられては困る。そんなことをされてはサクはもちろん、トウ=テンだって良い気分はしないだろう。

 もう一押しのつもりでスイハは言った。

「サクはいい子です。それにほら、ユニに少し似てると思いませんか?」

 意外にも、この一言が効いた。

 ふと、夢から覚めたような顔で、ホノエはゆっくり目を瞬いた。

「……そう、かもな」

 今だ。

 スイハは両手で兄の肩を叩いた。

「兄さん。僕はあいだを取り持つよ。僕たち、友だちになったんです。サクは人見知りする子だから、先に兄さんたちのことを紹介しておきたいんだ」

「あ、ああ」

「待ってて。行ってきます。ゼン、兄さんを頼むぞ」

 スイハは駆け足で、まず自分たちが宿泊している部屋に向かった。

 セン=タイラには、ホノエが来たことを伝えるだけで十分だった。

「思っていたより早かったですね」彼は囓っていた携帯食の残りを口に放り込んだ。「ハン=ロカは?」

「部屋で休ませるって。トウ=テンにはバレてない……はず」

「あらかじめ伝えておきます。私はあなたの味方ですが、いざというときはトウ殿に助太刀しますのでそのつもりで」

「言われるまでもないね。作戦会議するから来て下さい」

 セン=タイラを伴い、庭に面した奥から二番目の部屋に急ぐ。名乗りながら扉を叩いた。返事はなく、代わりに中から鍵が開く音がした。扉の細い隙間からトウ=テンの鋭い眼光がこちらを見据えていて、スイハはビクッとした。

「入れ」

 お許しをいただいて中に入る。窓際からナサニエルが手を挙げた。それに手を挙げて応え、スイハはサクの姿を捜した。見覚えのない人間を連れてきたためか、衝立の端からこっそり顔を覗かせている。

「トウ=テンユウ殿」

 背後から聞こえた声は弾んでいた。スイハは怪訝に振り返り、そして絶句した。

「十年ぶりにお目に掛かります。末席ではありますが、あなたの下でお世話になりましたセン=タイラです」

 セン=タイラらしからぬ、人懐っこい笑顔。まるで少年のような目だ。

「久しいな、タイラ」

 トウ=テンが親しげに肩を叩くと、彼は感極まったように頭を垂れた。

「どこかで生きておられると信じていました。トウ将軍」

「今はただの用心棒だ。そう畏まるな」

 ――将軍?

 逸脱者を知っていることから元将官だろうとホノエも言っていたが、これはさすがに予想を超えている。だって将軍といえば、軍隊の最上位の階級ではなかったか。

 スイハは呆気にとられながら二人のやり取りを見やった。

「駐屯軍に監視されていると聞きました」

「大したことはない。見回りついでに立ち寄るだけだ」

「重宝はまだ駐屯軍に?」

「久鳳に戻すのが筋だというならおまえに預けるが」

「勘弁して下さい。そんなことをしたらシキ将軍に殺されます」

 二人ともよく喋る。親しみのある声音は十年の離別を感じさせない。

 トウ=テンが不意にこちらを見た。

「事情はナサニエルから聞いた。おまえが家を空けることをホノエは知らなかったのか」

「えっ、あっ……えっと」突然話を振られてスイハはうろたえた。「兄さんはしばらく、うちを留守にしてて……」

「迎えに来る前、ホノエはどこで何をしていた」

「久鳳大使の、カイ=フソンのお世話になってたって聞きました」

「カイ=ダヤン外相の息子です。父親は急進派の筆頭ですが、フソンは派閥争いから距離を置いています。西州へ赴任したのも本人の希望だとか」

 人物の情報をセン=タイラが補足した。

「ホノエはどんな男だ?」

「一度会ったきりなので所感ではありますが、繊細で素直な人物です。好戦的な性格ではありません。話をしたいというのも言葉通りの意味でしょう」

 普段の寡黙さはどこへいったやら。その人物評は、身内の立場から訂正する必要がないほど的を射ている。セン=タイラの鑑識眼の鋭さにスイハは驚くばかりだった。

 衝立から、サクが不思議そうに顔を出した。

「テン。ホノエはスイハのお兄さんだよ。なにが心配なの?」

「悪事を企てるような人間には見えないよな」

 ナサニエルがさりげなく言い添えたが、トウ=テンは難しい顔で腕を組んだ。

 兄が必要以上に疑われているようで、スイハは気分が良くなかった。

「何か気がかりが?」

 セン=タイラが尋ねると、彼はようやく口を開いた。

「ホノエが接触した久鳳人がカイ=フソンだけとは限らない」

 ロカの顔が浮かんで、スイハはギクリとした。

「急進派でも保守派でも、対話ができる人間はいる。中立を自認する者はそうした手合いと適度に付き合いを持つものだ。カイ=フソンの邸宅で、何者かがホノエを利用しようと近づいた可能性がある」

「よからぬことを吹き込まれていると?」

「……そうでなくとも、ホノエの供をしているあのゼンという男。あいつが臭い。サクを見るなり捕らえようと動いた。独断で、主人が止めるのも聞かずにな」

 トウ=テンの疑念はもっともだ。しかし、スイハは反論した。

「ゼンが僕たちを裏切ることはありません。何年もヤースン家に仕えてきた男です」

「あるいはラザロと通じているかだ」

 その懸念はもっともだ。ゼンだけでなく、ウノやジンにも同じことがいえる。彼らにとっての雇い主、主人と呼べるのはラザロのほうなのである。

 さっきとは打って変わって、ナサニエルが平然と言った。

「そんなに心配なら、先に全員とっ捕まえて拘束すりゃいい。まとめて眠らせておけば安心だろ?」

 使用人たちを全員拘束。

 それが安全策だと、理屈では理解できる。しかし、感情が追いつかない。ナサニエルの提案を受け入れるということは、自分から先に彼らを裏切るということだ。スイハは答えあぐねた。

 サクが衝立の陰から出て来て、トウ=テンに近づいた。邪魔にならないようセン=タイラが律儀に身を退く。

「テン。さっき、スイハから聞いたの。ラザロが腐傷を治せる人を捜してるって。それでピリピリしてるんでしょう」

 さきほど聞いたばかりの断片的な情報で、サクはしっかり現状を把握しているようだ。

「そんなに心配しなくても、俺のことなんて誰も知らないよ」

 ただやはり、そこだけが抜けている。

 本当に親のことを知らないのだ。

 トウ=テンは否定も肯定もせず、

「もしもの危険に備えるのも用心棒の仕事だ」

 と、顔色を変えずに言った。

 サクは黙って、心の内を見透かすような静かな眼差しで彼を見つめた。

 無言の圧力を受けて、トウ=テンは居心地悪そうに眉をひそめた。前髪をかき上げ、じきに観念したように息を吐く。

「サク。どうしたい?」

「話をしたい。もうひとり……」サクは一瞬、わずかに視線を泳がせた。「もしもホノエが、ほかの誰かと会ってたとしても」

 スイハは全身に鳥肌が立った。

 今の言い方。

 サクは気づいている。ロカの存在に。そしてこちらが、意図的に彼のことを隠しているということも。

「ちゃんと理由があるはずだから。それにみんなスイハを心配して来たのに、捕まえるのは変だよ」

 いの一番に拘束する案を出したナサニエルが、想定内という顔で肩をすくめた。セン=タイラはやや驚いた顔で、意外そうにサクを見ている。

 スイハは息を潜めてトウ=テンが次の言葉を発するのを待った。

「……どのみち、町からは出られないか」

 三人の中に間者がいたとしても構わない。これが結論だ。

 ヒバリの町の出入りは駐屯軍によって管理、制限されている。たとえ西州人であっても今時分、あの検問から外へ出るのは恐らく入るよりも難しい。ラザロと通じていても、密告さえできなければ問題ないというわけだ。

「みんなで話をするために、兄は談話室を借りると言っていました」

「応じよう。全員参加だ」

「伝えてきます」

 トウ=テンは冷静だ。そして、サクはこちらの気持ちを汲んでくれている。話し合いはきっと穏便にすむだろう。

 しかし部屋を出た途端、その希望は打ち砕かれた。

「坊ちゃん!」

 廊下の向こうから駆けてきたのは、真っ青な顔をしたジンだった。震える手がスイハの両肩を掴む。ロカを部屋で休ませていたはずだが、一体どうしたというのだろう。

「ああ、坊ちゃん……よかった。捜していたんです」

 ジンは傍目にもわかるほど動揺していた。

「もう、もうどうしたらいいのか……」

「落ち着いて、ジン。どうしたんだ。何があった?」

 震える手を取ってスイハがゆっくり尋ねると、ジンは今にも泣きそうに顔を歪めながら、絞り出すように訴えた。

「ウノが乱心しました」

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