15.ホノエ=ヤースン


「申し上げにくいのですが……弟君は先に出発されました」

「そうですか」

 応じる声は静かだった。

「すぐ後を追われますか?」

「いえ。それより、皆さんにご挨拶をさせて下さい。弟がお世話になりました。キリム殿、あなたも。スイハに便宜を図って下さってありがとうございます」

 応接室の扉を閉じて、キリムは待ちぼうけを食らった青年の向かいに座った。

 ヤースン家の次男。ホノエ=ヤースン。

 表情豊かで溌剌とした弟と比べて、なんと精気に欠けていることだろう。

 物憂い眼差し。血色の悪い顔。姿勢良く背筋を伸ばしてはいるものの、寂寞とした影を纏ったその姿は、まるで人生にくたびれた老人のようだ。

「……感謝されるとは驚きです。何らかの処分を覚悟していましたが」

「これは私の不徳です。話を急ぎすぎました。スイハにも考えがあるのでしょう。あれももう、大人に手を引かれる子どもではありませんから」

 言葉の発音ひとつひとつが上品で、そつがない。佇まいからも生まれの良さを感じさせる。ただ、笑顔がなかった。整った顔立ちは常に憂愁を帯びていた。もう何年も、声を上げて笑っていないのではないか。二階で静養している、ついこのあいだまで童同然だった新兵たちとそう変わらない年齢の青年が、どういうわけか、この世の喜びすべてから背を背けている風情なのだ。

 疑念が湧く。

 この青年が本当に、焚書をしたのだろうか。

 ヤースン家の次男は悪い意味で有名だ。六年前、宮中の書庫に火を放ったのである。キリムも当時は複雑な思いを抱いた。書庫は彼女にとって馴染みの深い場所ではないが、祖父が寄贈した本があったからだ。

 しかしこうして話していると、この薄幸そうな青年が焚書事件を起こしたとは到底思えなかった。

「いくら考えがあるといっても、危険な場所へ行かれるのは感心しませんわ」

「スイハが?」

「略奪の被害にあった村へ行ったそうです。じっとしていられなかったのでしょう。幸い、賊は同士討ちをしていて、弟君には気づかなかったようですが……」

 ホノエは目眩に襲われたように額を押さえた。

「……あとで本人から詳しく聞きます」

 深く息をついて動揺を鎮めると、彼は膝に手を置いて頭を下げた。

「兵部省と、現場で働く軍人の皆さんには頭が上がりません。亡くなられた方々に心よりお悔やみを申し上げます」

 その後、彼は護衛官を連れて宿場を回り、立ち働く兵士たちに労いの言葉をかけ、怪我をした新兵たちを見舞った。

 模範的な公人だ。

 兄弟を比べると違いがよくわかる。スイハは他人の機微や空気を読んで、あえて『子ども』を演じているところがあった。一方でホノエは、感情を表に出さず公人という役目に殉じている。立ち振る舞いが洗練されているのはもちろん兄のほうだが、対人技能に優れた素質があるのは弟だという印象を受けた。

 一通り挨拶回りをすませたあと、弟が使っていた部屋を見たいというので案内した。

「忘れ物があったら持っていきます」

 確かに、あれだけ慌てていたのだから、忘れ物のひとつやふたつあっても不思議ではない。

 しかし部屋に入って見つけたのは、予想もしなかった置き土産だった。

「……ロカ先生」膝を抱えてうずくまる男性を唖然と見つめて、ホノエは途方に暮れた様子で呟いた。「どうして、スイハと一緒じゃないんです」

 この男性は兄弟の家庭教師だという。さっき見かけたときとは打って変わって、今にも死にそうな顔色だ。

 ホノエは心配そうに床に膝をついた。

「気分が悪いのですか?」

「放っておいてくれ」

 ふいっと顔を背けられた瞬間、ホノエが怯んだのをキリムは見た。

 立ちあがって家庭教師から離れながら、彼は抑揚のない声で護衛官に命じた。

「ゼン。ハン=ロカ殿を馬車へお連れしろ」

「お任せ下さい」

 抵抗をものともせず、護衛官の男は家庭教師を肩に担いだ。

 二人が出て行ったあと、ホノエは言葉少なに言った。

「すぐに発ちます」

 当然だ。弟がお目付役を置いて行ってしまったのだから。

 キリムはホノエにも通行証を発行した。

「弟君はヒバリへ向かわれました。警護をつけますか?」

「お気持ちだけで十分です。ありがとうございます」

 通行証を手渡す間際、指先が触れた。ホノエの指は氷のように冷たかった。

「ホノエ様」

「はい」

「失礼ながら、あなたは」余計なことは喋るまいと考えていたキリムだが、彼女はとうとう言った。「宮中で囁かれる噂と、あまりに違うように見受けられます」

 ホノエは何も答えず、黙っている。無表情に感情を押し殺しながら、深い憂いを帯びた鳶色の瞳だけが、ただただ雄弁に彼の心を物語っていた。

「あなたは本当に焚書をしたのですか?」

「……はい」

 この六年間、何度、同じ受け答えをしたのだろう。

 ホノエがくっと顎を引いた。右下に顔を傾けて目を伏せる。

 殴られてもいいように左頬を差し出しているのだと気づいた瞬間、キリムはひどく悲しい気持ちになった。

 焚書の火災による死傷者はおらず、焼けた書庫の修繕もとうに終わっているというのに、この青年の時間は止まったままだ。青春の貴重な六年間を孤独に過ごし、名誉を回復しようとすることもなく、自らを罰し続けているのだ。

「祖父が、寄贈した本があったんです」

 キリムは静かに息を吸った。

「祖父の名前はサザン。言語学者でした。寄贈したのは、」

「『第二言語の選択』と、『音で視る言の葉』」

 即座に返ってきた答えに、胸が詰まる。

 死者の名前を記憶するが如く、燃えた書物の題名を覚えている。

 確信した。

 この青年が、望んで焚書などするはずがない。メイサだって言っていたではないか。ホノエは優しい人だ。だから心配なのだ、と。忽然と行方を眩ました次兄に恨み言ひとつ吐くことなく、ただただ、その身を案じていた。

 キリムは手を伸ばして、差し出された頬に触れた。

「元の原稿は実家にあります。必要ならいつでも仰って下さい」

 そう言った瞬間、暗く陰っていたホノエの瞳に一筋の光が差した。

 不敬を承知で頬を撫でる。

「ホノエ様。あなたの心中を推し量ることは、私にはとても適いません。ですが、信じます。そのとき、その瞬間、あなたはそうせざるを得なかった。必要に迫られて、覚悟を持って為すべきを為したのだと」

 唇を引き結んで、ホノエは苦しそうに目を閉じた。

 しばらくそうしていたあと、彼は扉のほうへ後ずさった。

「……罪は、罪です。許されてはならない」

「それでも。あなたの味方でいたいと思っている人は、きっと、思っているよりたくさんいますよ」

 何も答えず、ホノエは一礼して部屋を辞した。

 キリムは二階の窓から出発する馬車を見送った。

 ヤースン家の次男、ホノエ=ヤースン。まるで暗い夜の底を、明かりを持たずに歩いているような青年だった。力尽きるときまで孤独に進み続けることだけが、自分に許された唯一の贖罪だとでも言うように。

 彼の抱える苦しみがいつか、癒えるときは来るのだろうか。



 十五歳から十八歳までの三年間は、ホノエの人生でもっとも辛い日々だった。

 宮中の禁を犯した兄は、ある日を境に人が変わったようになった。

 数年分の記憶をすり替えられて、何を忘れたかはおろか、忘れたことにすら気づかない。言葉を交わした兄は、紛れもなく兄自身でありながら、昨日までとまるで違う人間になっていた。その異様さは彼をことさら怯えさせた。

 西州公の神通力は、人間の精神をいとも容易く変容させてしまう。

 そのときからホノエはずっと、西州公が恐ろしかった。

 兄が禁忌を犯していることを知りながら、周囲に気取られぬよう手助けしてきた自分もいつか、別人のように変えられてしまうのではないか。その恐ろしい想像は、真綿で首を絞めるように彼の精神を徐々に苛んでいった。

 人の視線に恐怖を覚えるようになった頃から、図書寮の仕事を手伝う名目で、ホノエは書庫に入り浸るようになった。

 何冊も本を読んだ。

 師の言葉を支えにして勉学に打ち込んだ。

「どんなにひどい転び方をしたって、人生の道半ばだと思えば立ち上がれるもんさ。だってそうだろう。転んだまま寝そべってるほうが、よっぽど格好悪いじゃないか」

 そうだ。自分の弱さに負けたくない。

 立ち向かうのは無理でも、逃げ出さない勇気が欲しい。

 西州の歴史を紐解き、西州公の正体を知って、恐怖を克服したい。

 そうして二年経ったある日。

 先々代の図書寮の長が封印した資料の中に、それはあった。

 その書物は開くと平面になり、遠目には白紙なのだが、ひとたび覗き込めば視線の動きに合わせて文字と図面が浮かび上がった。そして不思議なことに、指で紙面を撫でれば巻物を開くように続きを読むことができた。妙に惹かれるものがあって、ホノエは忘れ去られた無銘の書を数時間かけて読み込んだ。

 そして、気づいてしまう。

 この本に記されている摂理は、現代の常識では解明できない。

 地上の事象を観測する衛星天体。

 情報を光の速さで伝える天網。

 無限の熱量を生み出す擬似的な恒星。

 仕組みはわからなくても、結果は目に見えるかたちに現れている。

 世界中で西州だけが災害や飢饉、戦争と無縁でいられるのは、西州公がこれらの仕組みを掌握しているからだ。地上を俯瞰で観測できれば、異常を迅速に発見し、人々が気づく前に対処できる。瞬きの間に各国の情勢を掴み、常に先手を取って動くことだってできるだろう。そして極めつけが、あの神通力だ。

 無限の力、尽きない泉。

 目の前がチカチカした。

 この人智を超えた叡智によって、西州は何百年も、平穏に飼い慣らされてきたのだ。

 無銘の書と共にしまわれていた資料をよく調べてみれば、これらは、西州公アサナギの先代であるヨイナギの公子時代に使われた教材だとわかった。

 先々代の図書寮の長が遺した覚え書きには、こうあった。


――気が進まない。ヨイナギ様はあれを信じて頼るべしと仰ったが、あれは民の安寧に関心がない。道を整備するような無機質さで人の世を均す。


――恐れていたことが起きた。ヨイナギ様が先代と同じ病に冒された。日に日に、あれが出ている時間が長くなる。せめてアサナギ様を守らなければ。


――私はなにもわかっていなかった。こんなもの捨ててしまえばよかった。最近、ヨイナギ様が幼かった頃のことばかり思い出す。あの頃に戻りたい。


――記憶を戻してはならない。


 最後の一文は殴り書きだった。

 この覚え書きを、これまでの知識と繋ぎ合わせて解釈したとき、ホノエは目の前が真っ暗になった。いつまで正気だったか覚えていない。あるいはもうとっくに、自分はおかしくなっていたのだろう。

 運命の日は唐突に訪れた。

 西州公が死んだ。

 宮中の混乱に乗じて図書寮から人を遠ざけ、ホノエは書庫に向かった。

 心は凪いでいた。なにも感じなかった。無銘の書を無感情に書架に並べ、まるで他人事のように、マッチを擦った。

 手の中に収まるほど小さかった火は、みるみる大きくなった。

 書架から書架へ燃え広がる炎を見つめるうち、膝から力が抜けた。

 ――すべて燃えていく。

 端から端まで手に取った記憶がある。どんなときも変わらない顔でそこにいて、孤独を癒やしてくれた本が、炎に包まれて消えようとしている。

 視界が滲んだ。カラカラに渇いた喉から、引きつった息が漏れた。

 込みあげる衝動のまま、彼は泣き叫んだ。

 熱い空気にむせながら大声で泣いた。

 気がつけば、誰かに担がれて、燃える書庫からすんでのところで助け出されていた。



 命は拾ったが、多くを失った。

 もはや宮中に自分の居場所はない。失った信頼は二度と取り戻せないだろう。あれだけ良くしてくれた図書寮の官吏たちを裏切ってしまった。これから一生死ぬまで、恨まれ、憎まれて生きるのだ。

 それでも、焚書に踏み切ったことを後悔はしていない。

 ここから未来の礎を築く。

 西州が真の意味で独り立ちするために。誰もが自分の足で歩けるように。

 西州公崩御や火事のゴタゴタが終わったあと、記憶を取り戻した兄と話した。生き別れていたわけでもないのに、数年ぶりに再会した気分だった。

 色々な話をした。

 西州の今後。父の進退。ヤースン家の後継。ユニの処遇。ヨウ=キキという医術師のこと。ユウナギ公子の行方。

 時間はいくらでもあった。何日もかけて話し合った。いくつか見解の相違はあったが、自分たちの目的は完全に一致していた。

 もう二度と、この国に西州公が立つことがあってはならない。

 〈あれ〉を現世に呼び出してはならない。


 それさえ叶うならば。

 焚書の日に生き延びてしまったこの命を、今度こそ燃やし尽くそう。

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