16.使命
第一談話室に現れたトウ=テンは、一人だった。
「待たせたな」
ナサニエルは起きあがって場所を空けた。胡座をかいて、座敷に上がってきたトウ=テンをしげしげ眺める。
最後に別れたときと比べて身なりがこざっぱりしている。薄汚い無精髭をきれいに剃り、髪も切ったようだ。こんな格の高い宿屋に一週間も滞在すると、見た目にも気を遣わざるをえなくなるのだろう。黒い獣の血を浴びて失明は免れないと思われた右目は、すっかり完治していた。
だいぶ印象が変わった。
雪崩から掘り返した直後は死人のようだった。サクを助けに向かうときは鬼のようだった。墓穴を掘っているときは、村人の死体と一緒に自分の魂まで埋めてしまいそうな危うさがあった。この男の人間らしい表情を今、初めて見ている気がする。
トウ=テンユウ。
久鳳でその名を知らない者はいない。人食いの夷の蛮族を滅ぼし、勇者と呼ばれた男。まさかこの目で実物を見る日が来るとは思わなかった。
スイハは鳩が豆鉄砲を食ったような顔でトウ=テンを見つめた。
「トウ=テン……?」
「もう顔を忘れたのか」
ナサニエルは横から言い添えた。
「人相が随分変わったぞ」
「髭を剃っただけだ」
だけってことはないだろう、と思ったが声には出さなかった。
スイハが緊張した面持ちで頭を下げる。
「失礼しました。お久しぶりです。ギリギリまでお待たせして申し訳ありません」上目遣いで、様子を窺いながら尋ねる。「あの、サクは元気ですか?」
「あれから熱を出して一昨日から眠りっぱなしだ」
おそらく仮死状態から蘇生するときに消耗したせいだろう。
ふと気づけば、無意識に腕輪の模様をなぞっている自分がいた。
託された鍵。
これを使えばオリジンに干渉できる。次代が受け継いだ記憶を呼び覚まし、契約が正当なものであるかどうか本人に問う。そうすることで状況が動くという師匠の言葉を、土壇場で疑うわけではない。
だが、改めて思い返すと不可解な話だ。正当でない契約などありえるだろうか。
そして新たな不安要素もある。
仮死状態から蘇生したときの、サクの異様な気配だ。表情のない顔、ガラス玉のような瞳。開いた口から漏れた意味不明の言葉。
(――考え直せ。人類にはまだ早い)
思い出しても背筋が冷える。
アレは恐ろしいものだ、と直感が告げていた。
「ナサニエル」
肩を揺すられてナサニエルは我に返った。
「なんだ」
「疲れてる?」スイハは怪訝な顔をした。「サクが今日も目を覚まさなかったら、トウ=テンは一度家に連れて帰るつもりだったんだって。コスさんと話もしたいし、僕は一緒について行こうと思ってるけど、どうする?」
「んん、そうだな……」
二人の話がまるで耳に入っていなかった。我ながら、らしくもなく緊張しているようだ。ナサニエルは頭を掻いた。
「その前にまず、おれが何者で、どういう経緯で西州に来たか話さなきゃな」
「トウ=テン。ナサニエルは西州の異変について調査しているんです。どうか僕からも、お力添えをお願いします」
スイハがそう取りなすと、トウ=テンは疑り深く刻まれた眉間の皺を指で揉んだ。
「……順序立てて話せ。オリジンだの何だのと、意味のわからんことを捲し立てられるのはもうごめんだ」
雪山で詰め寄ったときのことを根に持たれているようだ。
「悪かったな。あのときはおれも必死だった」
謝罪した上で、ナサニエルは改めて身の上を明かした。
「おれはナサニエル。〈竜殺し〉のオブライエンに育てられた魔道士だ。ある筋から依頼を受けて、西州の異変について調べている」
「依頼主は誰だ」
「ヨーム王国西方にゼーフォートって町があるんだが、オブライエンがそこを治めるチェカル家と懇意にしててね。老いた師匠の代わりに西州へ行けって、ご令嬢から指名を受けたのさ」
「娘? 親ではなく?」
それについて説明したらもれなく正気を疑われるだろう。できれば省略したいが、事態の重要性を理解してもらうには避けて通れない部分でもある。
ナサニエルは五秒ほどトウ=テンの目を見つめてから、言った。
「今年で十二歳になるその娘が、オブライエンが退治した竜の生まれ変わりだと言ったら信じるか」
*
こいつはイカレだ。
もし一瞬でも息を抜いたり目をそらしたりしていたら、そう判断していただろう。
ナサニエルは静かに、真っ直ぐトウ=テンを見つめている。
「……信じられんが」トウ=テンは正直に答えた。「この世に信じられないようなことはごまんとある。おまえの話もきっと、そのうちの一つということだろう」
無知を突きつけられるたびにいちいち否定していたら視野が狭まるだけだ。
それに命を救われた事実は無視できない。スイハの手前仕方なく助けたのか、こちらを騙して利用する腹づもりなのか。どちらにせよこの男の真意を見極めるには、もう少し喋らせる必要がある。
「続けろ」
ナサニエルは心なしホッとしたように表情を緩めた。
「西州の異変には、おれたちがオリジンと呼ぶものが深く関わっている」
「前に話してくれたね。久鳳の竜、ヨームの大鷲。それから、西州の白い獣」
スイハの言葉にナサニエルは頷いた。
「そうだ。白い獣は西州公の一族を指す。オリジンは自然に生まれる命とは違い、世界の均衡を保つために作り出された。霊素を産生する炉のようなもの……だそうだ。師匠が言うにはな」
トウ=テンは不快感を覚えた。
「サクもそうだと言いたいのか。均衡とやらを保つために作られた命だと」
「サクには母親がいるんだろ。竜だって生まれ変わった今は人間と変わらない。どちらも地上に生きる命だ。おれはそう理解してるよ」
ナサニエルの声音に揺らぎはなく、呼吸は静かだ。少なくとも今この場において、彼にやましさは嘘はない、とトウ=テンは判断した。
「異変というのは黒い獣のことだな」
「そうだ。あれらは元々、西州公の眷属。人を襲うようなものじゃない。チェカル家の娘は、この異変を放っておくと世界が滅ぶとまで言った。何かがおかしくなっているんだ」
トウ=テンの中で、点と点が繋がっていく感覚があった。
黒い獣は魔物ではないと打ち明けたコスの、強ばり青ざめた顔を思い出す。
彼は知っていたのだ。黒い獣が本当は西州公の眷属であることも、サクの父親が西州公だということも。
そして、肝心の本人はなにも知らない。
成人したら明かすつもりだったのか。それとも一生、隠し通すつもりだったのだろうか。コスを問い詰めてやりたいところだが、この場にいないものはどうしようもない。
「ところで、あんたたちは山の中で何をしていたんだ?」
「……俺たちは、コヌサからミアライに下ってきた黒い獣を退治しているところだった。退治といっても、やったことはほぼ介錯だが」
「介錯だって?」
「獣たちはサクが呼ぶ声に応えて、自分から首を差し出した」
眷属。身の内から生じたもの、力を分けたもの。あのような姿に変わり果て、血に狂っても、自分がなにから生まれたか忘れることはなかったのだ。
ナサニエルは片膝を立て、思案するように顎に手を当てた。
「……自分から」
「そうだ。サクが言うには……黒い獣は生きる力とやらを失った状態らしい。おまえたちが見た白い鹿が、それを補えるという」
そして、白い鹿は自分とほとんど同じものだとも。
ナサニエルはしばし、時間を忘れたかのように思考に没頭していた。次に口を開いたとき、彼の口調はやや熱を帯びていた。
「眷属たちの状態は、霊素欠乏症という病によく似ているんだ。霊素ってのは……生命力の源だと解釈してくれ。霊素欠乏症になった生き物は、足りない生命力を補うために他の生物を食らう。そうしなければ一年も持たず体が腐って死ぬからだ」
「聞く限り、まるで魔物そのものだが……」
「話が早くて助かる。あんたの言うとおり、魔物ってのは霊素欠乏症を患った生物の成れの果てなんだよ。白い鹿が眷属の生きる力を補えるって理屈は正しい。なぜならオリジンは体内に霊素を産生する器官を持っているからだ」
まるで学者のような弁舌だ。この男の本質は魔道士でも護衛でもなく、研究者なのかもしれない。
続けて喋ろうとするナサニエルを手で制したのは、スイハだった。
「待った。整理させて。えーと……例えばなんだけど。オリジンが枯れない泉で、霊素が水だとしたら、霊素欠乏症にかかった生物は穴の空いた水袋ってこと?」
「よくわかってるじゃないか」
しっかり話が通じているとわかって、ナサニエルは殊の外嬉しそうだ。わかりやすい例えはトウ=テンとしてもありがたい。
「なるほど……。いくら水を継ぎ足しても、袋に穴が空いてたら全部流れ出てしまう。必要なのは穴を塞ぐ方法なんだね」
「ああ」
「腐傷と霊素欠乏症は同じものなの?」
「症例は似ているが、同じかというと現状はなんとも言えないな。霊素欠乏症は昔から存在する原因不明の不治の病だ。でも腐傷はそうじゃない。黒い獣の血液から感染する。そこに異変の核心があるとおれは思っている」
ナサニエルの動機は、よくわかった。ヤースン家が遺児を捜している理由も。
第三者であればトウ=テンも同じ発想になるだろう。西州公亡き今、異変の原因を探る手がかり、解決の糸口となるのは遺児だけだと。
だが生憎、サクは自分の父親のことすら知らないのだ。
「はじめに断っておくが、俺たちは何も知らん」
「それは想定内だ。異変の始まりから六年だからな。あえて状況を見過ごしているか、何も知らないか。どちらかだろうと思っていた」
六年という歳月に、トウ=テンは今さらながら目眩がする思いだった。
ここまでの情報を総合すると、白い鹿の正体はほぼ間違いなくユウナギ公子だ。人と獣、二つの姿を持つサクの、腹違いの兄姉にあたる人物。行方知れずだと噂には聞いていたが、見つからないわけだ。獣の姿で野山を徘徊しているのだから。
一体、なにが起きているというのだ。
世界が滅ぶかどうかはともかく、西州が未曾有の異常事態のただ中にあることはもはや疑いようがなかった。
ナサニエルが窺うような目つきで言った。
「ここ数日のあいだ、サクに変わった様子はなかったか?」
「さっきも言ったが、一昨日から目を覚まさない」
一昨日以前は、精神が不安定だった。
三日前の真夜中、サクがこちらの寝床に潜り込んできたことがあった。汗で布団が濡れて気持ち悪いのかと思い、シーツの取り替えを頼もうとトウ=テンが起き上がると、まるで動くのを阻止するようにしがみついてくる。どうしたのかと明かりをつけて顔を見れば、目をぎゅっと瞑って声もなく泣いていた。
(喋って。なんでもいいから、喋って)
宥めようにも、そう言って聞かないのだ。あれは困った。仕方なく、とりとめもないことを思いつくまま延々と喋った。やっと寝ついた頃には窓の外が白んでいた。
――守ってやれなかった。
後悔と自己嫌悪が胃の腑を重くする。
己の感情に蓋をして、トウ=テンはナサニエルを見据えた。
「俺たちが何も知らないことが想定内だと言ったな。それでも捜していたということは、会うことで事態が進展する目処があるということか?」
「その通りだ」
「具体的には」
ナサニエルは深刻な面持ちで口を開いた。
「白い獣は代替わりするオリジンだ。サク本人に自覚がなくても……腐傷を癒やしたり、眷属を従えたり……そういう力と同様に、知識も受け継いでいるはず。おれが師匠から教わった方法で、意識の底に埋もれた記憶を引き上げることができる。その中に異変を解決する糸口があるはずだ」
「危険はないのか」
「少なくとも命の危険はない」
「サクはどうなる」
ナサニエルは真っ直ぐにトウ=テンの目を見た。
「正直に言う。わからない。だが方法さえわかれば――もちろんあんた達の助けは必要だが――そこから先はおれの仕事だ。事態が収束して、スイハが情報を持ち帰ればラザロ=ヤースンが遺児を求める理由もなくなる」
トウ=テンは己の膝に視線を落とした。
この六年間、ラザロ=ヤースンは遺児の存在を知っていたにも係わらず、西州公の奇跡に頼らず、人の力でどうにかこの危機を乗り越えようと耐え続けた。言葉にはできない様々な葛藤、思いがあっただろう。亡き主君への忠義、世に知られぬ遺児の処遇、残された西州の民衆をどう導くか。
それがとうとう、折れた。
折れもするだろう。一般的な魔物が正気を失った暴力の化身だとしたら、黒い獣は統率の取れた軍隊だ。経験が浅い西州軍ではこの脅威を抑えきれず、戦力増強のために雇った傭兵は契約が切れた途端、略奪を働く。まさに四面楚歌だ。先の見えない日々で、頼みにしていた長男が腐傷に冒されたことも、意志を折る要因となったかもしれない。
――だが。
夢枕に立ち、我が子を守ってくれと願った女のことを思う。
その面影は一夜限りの夢か幻。だが、もしもこの世に、魂というものがあるのなら。
あれは間違いなくヨウ=キキ本人だった。
理屈に合わなくとも、トウ=テンは心で感じたことを信じた。
「……サクでないとだめなのか」
「あんたの言いたいことはわかる。白い鹿に使えっていうんだろう」ナサニエルは申し訳なさそうに眉を顰めた。「この力は一度限りしか使えないんだ。失敗できない」
獣の姿で野山を徘徊しているユウナギと、人の姿と正気を保っているサクと。一度限りの力をどちらに使うか、ナサニエルからすれば迷うまでもないということだ。
意識の底に眠る、経験した覚えのない記憶。
そんなものはない、と突っぱねることはできなかった。
湖の上で、サクが白い鹿と初めて接触した、あの日の夜のことが思い起こされる。
(――あいつに触ったら、頭がぐるぐるになって……。どっちがどっちか、わかんなくなっちゃった……)
あれは姿のことではなく、記憶のことだったのではないか。そう考えると「船が墜ちる」という支離滅裂にしか聞こえなかった言動も一転、深刻さを帯びてくる。
「その受け継いだ記憶は、本人の記憶と区別がつくものなのか?」
「いくら鮮明でも、連続性のない他人の記憶だ。一時的に混乱することはあっても、自我が混同することはない」
言われてみればそうだ。トウ=テン自身、サクの過去を夢に見ても、それを己が経験したことだと誤認することはない。サクだって、夢から覚めた直後は混乱していたが、呼びかけたらすぐ正気に戻った。
信じるかは別として、ナサニエルの話は辻褄が合っている。
サクならどうするだろう。
自分たちがこれまでやってきたこと、獣退治は、いわば対症療法にすぎない。サクが望む未来、家族の安全と幸せを叶えるには、さらにその先へ踏み込む覚悟が必要だ。
ああ、そうだ。答えはわかっている。
黒い獣を退治すると決めた時点で、サクはとうに覚悟している。
迷っているのは自分のほうだ。大切に思う相手を、危険な目に遭わせたくない。エゴが判断を鈍らせる。
長い沈黙が落ちた。
それを不意に破ったのは、スイハだった。
「トウ=テン。僕はあなたの判断に従う約束でここにいます。だけどひとつ、お願いしてもいいですか?」
「なんだ」
「僕は今このときを持って、ナサニエルの護衛の任を解きます。どうか彼に使命を果たす機会を下さい」
それは静かで、真摯な声だった。思わず顔を上げたトウ=テンと同様に、ナサニエルもまた、虚を突かれたようにスイハを見つめていた。
「おまえ、それ……どういう感情で言ってんだ?」
魔道士を見返す少年は、年齢よりも大人びた顔をしていた。
「僕たちは利害が一致してるって前に言ってたね。話を聞いてよくわかった。ナサニエルの役目がうまくいったら、たくさんの人を助けられるんだ。もう僕なんかの護衛をしてる場合じゃない。次は僕がナサニエルを助ける」
「なに言ってんだ。おまえがいたから――……」
言いかけた言葉を引っ込めて、彼はやり場のない感情をぶつけるように拳で畳を叩いた。それを見たスイハが、不可解そうに目をぱちくりさせた。
深く息を吐き、ナサニエルはどこか投げやりにトウ=テンに言った。
「やるなら早いほうがいい。どうなんだ。やらせてくれるのか?」
答えを保留してトウ=テンは尋ねた。
「おまえをそこまでさせるのは、世界を救うという使命感か?」
「何もせずに滅びを待つほど人生を悲観してないってだけだ」彼は口角を上げて皮肉っぽく笑った。「あまり見損なわないでくれよ。こちとら、子どもに世界を救えって迫るほど落ちぶれちゃいない」
トウ=テンは重い腰をあげた。
*
第一談話室を出てから案内されたのは、庭に面した奥から二番目の部屋だった。
トウ=テン、ナサニエルに続いて、スイハはそろりと中に入った。
照明の薄明かりが室内を照らしている。調度品の中で、鉄瓶の載った火鉢が目についた。小まめに換気をしながらあれで室温と湿度を調節しているのだろう。部屋の中の空気は快適に保たれていた。
間仕切りを回り込むと寝台が二つあった。サクの姿が視界に入る前に、スイハは顔をそらした。いくら保護者がいるとはいえ、本人の承諾もなしに女の子の寝姿を見るのは気が咎めた。
「落ち着いてるみたいだな」
背徳感を覚えながらも、ナサニエルの声につられて視線を向ける。
サクは左向きで体を丸めて眠っていた。トウ=テンが肩を揺すって起こそうと試みるも、すやすやと寝息を立て続けている。
つい、見入ってしまう。
閉じた両目を縁取る白い睫はガラス細工か、まるで雪の結晶のようだ。心配だった首の痣はすっかり消えている。一昨日から眠りっぱなしだと聞いていたが、とてもそうは見えなかった。髪は綺麗に梳かれ、服はヨレがなく清潔だ。室内の澄んだ空気から察するに、毎日体を拭いて着替えさせているのだろう。身内に病人がいるスイハには、サクがどれだけトウ=テンから大事にされているかよくわかった。
起こすのを諦めてトウ=テンは肩を落とした。
「一昨日からこの調子だ」
「医者には診せたのか?」
「眠っている以外に異常は見当たらないそうだ」
「霊素は安定してる。呼吸と脈が正常なら、本当に寝てるだけなんだろうな」
二人は寝台を挟んで向かい合った。
「とはいえ、そろそろ腹も減る頃だ。あんたさえ良ければ始める」
「具体的には何をするんだ」
「魔術で精神に干渉する。おれの専門分野じゃないが、師匠が用意した術式だから失敗することはまずないだろう」
「……それで目を覚ますのか?」
「よほど鈍くなきゃな」
トウ=テンの表情には強い葛藤が見えた。
じっとサクのことを見つめたあと、彼は意を決したように言った。
「やってくれ」
「わかった。……ちょっと待て。準備する」
あれ、とスイハは違和感を覚えた。言葉の端にためらいが感じられた。まさか不安なのだろうか。深呼吸をしているナサニエルに近づいて声をかける。
「僕にできることはある?」
「ない」即答した次の瞬間、彼は思い直すように首を振った。「おまえ、トウ=テンの近くにいろ」
「なんだよそれ」
「いいから行けって。集中させろ」
シッシと手で払われて、スイハは渋々トウ=テンのいる側に立った。
ナサニエルは腕輪を外した。
精巧な木彫りの腕輪。旅のあいだ、寝るときも風呂のときも肌身離さず身につけていた。よほど大事なものなのだろうと以前から察してはいたが、ここでそれを外すということは、今から彼が始めることの重要性も推し量れるというものだ。
スイハは黙って成り行きを見守ることにした。
「今から呪文を唱える。終わるまで声をかけないでくれ」
トウ=テンが腕を組んで口を閉ざした。
ナサニエルは両手で挟んだ腕輪を覗き窓に見立て、サクに向けた。
その手から、ほのかな光の粒子が立ち上る。薄暗い室内で幻想的に瞬くそれは、夏の終わりの蛍のようだった。いつまでも見ていられる、儚く優しい光だった。
ナサニエルの唇が開いた。
滑らかに、典雅に、声が呪文を紡ぐ。
「――月の満ち欠け、日の差すところ。天体中枢【ヴィオラ】が要請する。開きたもう、応じたもう」
立ち上っていた光の粒子が、霧散した。
明かりが絶えて室内が一層暗くなったのも束の間、一秒後、周囲にパッと明るい光が広がった。まるで昼間のように視界が明瞭だ。
そんな中、サクがむくりと起き上がった。
目を覚ました。
しかしまだ意識が朦朧としているようだ。薄く瞼を開いた目は虚ろで、顔を覗き込むトウ=テンにも反応していない。
うまくいったのだろうか。
寝台の向かいにいるナサニエルに尋ねようとして、スイハは異変に気づいた。
「ナサニエル!」
彼は両手で胸を押さえ、膝を折ってくずおれていた。
スイハは急いで駆け寄よった。
呼吸がおかしい。まるで溺れているような息の仕方だ。苦しげに歪んだ顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「ど、どうしよう。どうしたら……」
「――凍結を解除」
静かな声が告げた。
ナサニエルの喉から、勢いよく息が通る音がした。激しくむせ返る彼の背を撫でながら、スイハは今しがた聞こえた声のほうをゆっくり見上げた。
――他に、誰がいるというのか。
サクが冷ややかにナサニエルを見下ろしていた。
「衛星を介して防壁を突破するとは」
なにを言っているのか、理解できない。
「……心肺機能の欠陥を、霊素で補っているのですね。この手で人類を死なせるわけにはいきません。処遇は管理官に委ねるとしましょう」
豹変した姿から目を離せない。
衝撃から覚めて、はじめに頭に浮かんだ感想はひどくありきたりなものだった。
――これは、誰なんだ?
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