14.ヒバリで待ってる
スイハは馬車に乗らなかった。
兄に怪しまれる前に、とっさに出てきた言葉がこれだった。
「部屋に荷物を置きっぱなしなんだ。取ってくる」
「それならウノに……」
「いいよ、すぐだし。兄さんは先にキリム殿に会ってきて。荷物を取ったら僕も挨拶に行くから。先生は一緒に来て!」
ロカの手を掴んでスイハは建物に駆け込んだ。中に入る間際にこっそり兄たちの様子を窺うと、ホノエのそばで人払いをしているゼンとウノ、そして、みんなから離れて一人厩舎のほうへ向かうジンの姿が見て取れた。
――行動が速すぎる。
子どもの頃から、さんざん手を焼かせてきた使用人たちである。スイハの逃走を懸念して足を押さえようというのだ。これで次兄がキリムと話しているあいだに馬で脱出することはできなくなった。
ナサニエルは忽然と姿を消していた。セン=タイラもいない。ホノエを説得できる自信がないスイハは、二人に何か考えがあることを期待するしかなかった。
廊下でキリムと行き会った。
「どうしました。そんなに急いで?」
「兄が来たんです、僕を連れ戻しに! すみませんが足止めをお願いします!」
目を丸くするキリムをその場に残して、スイハはロカを引きずるようにしながら寝泊まりしている部屋に飛び込んだ。
外套を羽織って鞄を掴み、ロカの荷物を持ち主に渡す。
「ここを出よう、先生。今すぐ!」
ロカはさすがに困惑していた。
「慌てすぎだぞ。ホノエと話さないのか」
冗談ではない。何があったか兄に話したが最後、有無を言わさず家まで一直線だ。
「先生がいないあいだに色んなことがありすぎたんです」スイハは一拍、息継ぎした。「略奪された村に行きました」
「なにっ。なぜそんなことを」
「いいから聞いてよ!」
ロカの言葉を強引に遮ってスイハは一気に捲し立てた。
「兵士たちから、山の中で白い髪の子に助けられたって聞いて捜しに行ったんです。あの子は賊に捕まっていて、村の人たちはみんな殺されてた。僕たちで助けるしかなかった。賊は全員死にました」
「まさかナサニエルが?」
「いいえ。久鳳人の……トウ=テンという人が戦ってくれたんです」
トウ=テンの名前を出した瞬間、ロカの顔から一気に血の気が引いた。額にみるみる冷や汗が滲む。声もなく唇をわななかせ、今にも倒れそうだ。
尊敬する師がこれほどまでに度を失った姿を、スイハは初めて見た。
「タイラは彼のことを恩人だって言ってました。先生は、トウ=テンと……」
壁に手をついて体を支えながら、ロカは掠れた声で絞り出した。
「……そんなはずはない。死んだはずだ」
それは否定ではなく、どうか嘘であってくれという懇願だった。
スイハは唇を噛みしめた。
ロカはきっと、もともとトウ=テンの死に半信半疑で、けれど本心では死んでいてほしいと願っていたのだろう。犯した罪の重さがのしかかる。過去の亡霊が実は生きていたと聞かされて、彼はすっかり怯えていた。
伝えるのは気が引けたが、言わないわけにはいかなかった。
「これから会う約束をしています」
期日が迫っているのだ。
「先生にも来てほしいんだ。ナサニエルが言ってました。あの子はオリジン……西州公様の子だって。年齢もヨウ=キキが州都を出て行った時期と合ってる。この機会を逃したら次はないかもしれない!」
スイハはロカの腕を掴み、説得に熱を込めた。
「先生。先生とトウ=テンのあいだに何があったかなんて知らないけど、先生だってもう昔のままじゃないでしょ。自分が悪いことをしたって思ってるなら、ちゃんと謝ってけりをつけよう」
「そんなことできるわけがない!」ロカは声を荒げてスイハの手を振り払った。「謝ってすむものか……俺は……」
真っ青な顔で後ずさり、壁を背に座り込む。
「先生」
あれほど頼もしかった背中が、小さく丸まっている。
スイハは行き場をなくした手をゆっくり下ろした。予期せず加害者になってしまったかのような、あるいは手酷い裏切りにあったような、とにかく最低な気分だった。早く顔を上げて何か言ってほしいのに、ロカは頭を抱えてうずくまったまま動かない。今まで感じたことのない、様々な感情がスイハの胸の中をぐるぐる渦巻いた。
何年も一緒にいるのに、支えることも、分かち合うことも出来ない。身動きが取れなくなるような辛さや苦しみを想像すら出来ないのは、自分がまだそれを経験したことのない子どもだからだろうか。
強く強く、拳を握りしめる。
セン=タイラの忠告は正しかった。
二人を会わせてはだめだ。今は、まだ。
「僕は行きます」
スイハは早足でロカの脇を通り過ぎた。
ロカがハッと顔を上げた。
「だめだ。行くんじゃない」
縋るような声。スイハは振り返らなかった。
「ヒバリで待ってる」
それだけ言って部屋を出た。
ロカがあとを追ってくることはなかった。
一階に降りると階段下でキリムが待ち構えていた。
「これを」彼女は一通の封書をスイハの手に握らせた。「通行許可書です。ヒバリの検問で見せなさい」
「キリム殿。ありがとうございます」
「このあとホノエ様からもお話を伺いますからね。道中、くれぐれも気をつけて」
彼女の指さしに従って、スイハは裏口から外へ出た。
表より雪が深い。足を取られそうになりながら辺りを見渡すと、黒鹿毛の馬に跨がったセン=タイラが右手側からやって来た。いち早く脱出の準備を整えていたのだ。
スイハは手を伸ばした。
「行こう!」
セン=タイラはスイハの腕を掴んで馬上に引っ張り上げた。
喋ると舌を噛みそうな激しい揺れの中、スイハはロカが顔を出していることを期待して宿場の二階を見上げた。すると思いも寄らなかったことに、顔なじみになった兵士たちが窓から手を振っていた。
みんな笑顔だ。
不意に胸が熱くなった。大声で返事をしたいところだが、そんなことをすれば即刻ホノエに脱走を悟られてしまうだろう。スイハは込みあげるものを堪えながら、彼らに向けて大きく手を振り返した。
黒鹿毛が街道に躍り出た。宿場が豆粒ほどの小ささになったあたりで、上空から滑空してきたナサニエルが真横に並んだ。風除けの防寒衣を頭から被り、口元を隠していても、緑の瞳ですぐに誰かわかった。
セン=タイラが手綱を緩めて馬の歩度をナサニエルに合わせた。
「ロカはおまえを逃がす囮に?」
「先生は……あとから来る」
「そのときはおまえの兄貴も一緒だろうな」
スイハは少しムキになって反論した。
「今は時間がないだけだ。ホノエ兄さんなら話せばわかってくれる」
「だといいがね」
ナサニエルが地面を蹴った。どうやら低空を飛んでいるあいだは最低限の風を纏い、蹴った勢いで推進力を得ているようだ。
道を曲がり、丘を越え、雪の中をひた走る。ロカのことを考えないよう、スイハは景色に集中した。思えば、旅の前半は馬車の中で揺られるばかりだった。馬に乗っていると臨場感が段違いだ。街道が封鎖されているおかげで誰とすれ違うこともない。
景色に没頭しているうちに、ホノエのことが頭に浮かんだ。行方不明のあいだ、久鳳大使カイ=フソンの世話になっていたと言っていた。
「タイラ」
「なんですか」
カイ=フソンについて聞こうとして、スイハは思い直した。今は少しでもトウ=テンのことを、これから会う相手のことを知っておくべきだ。
「トウ=テンは、死んだことになっているんですか?」
セン=タイラはしばらく黙ったまま答えなかった。
やがて彼は言った。
「……トウ殿は十年前、戦死しました」
沈黙の間には慣れたが、いかんせん声が小さい。スイハは耳を澄ませた。
「確認したのはシキ=セイラン将軍でした。お二人は家族ぐるみの親しい交友があったので、多くの者は彼の話を疑いませんでしたが……私は信じませんでした。信じたくなかったというのが本当です。死に際も遺体も見ていないのに納得できるわけがありません。夷の蛮族を討ち滅ぼし、逸脱者を圧倒したあの方が、そう簡単に殺されるはずがない」
話すにつれてセン=タイラの声は感情的になっていった。
スイハは背中に冷や汗をかいた。今の話の中に、ひとつだけ聞き捨てならない言葉があったからだ。
この問いを声に出すにはなかなかの勇気が要った。
「トウ=テンには……家族が?」
体に腕を回しているために、スイハはセン=タイラが大きく息を吸ったのがわかった。
「……奥方と、五歳になるご子息がおられました」
過去形の語尾が不吉に響いた。
自分から聞いておいてなんだが、スイハはそこから先を聞きたくなかった。
トウ=テンにしたことを、謝ってすむことではない、とロカは言っていた。切れ切れの情報から連想してしまったが最後、もう取り返しがつかなかった。心臓がバクバクした。馬の揺れのせいか、緊張のせいか、軽い吐き気がする。
「西州に来る前、ハン=ロカが久鳳の宮中で働いていたことはご存知ですね?」
そこへセン=タイラがとどめを刺しに来た。
「この際だからお話ししましょう」彼の声音には一欠片の悪意もなく、むしろスイハに同情的ですらあった。「ハン=ロカは、トウ殿とその家族を謀殺した嫌疑によって失脚したのです」
「トウ=テンは死んでない!」
「その通りです」
セン=タイラは真っ直ぐ前を見据えていた。
「私はずっと真実が知りたかった。先日、やっと本人を問いただしました。彼は一貫して『自分は殺していない、殺すよう命じたこともない』と弁明していた」
昨日までならその言い分も信じられたが、今となってはなんの救いにもなりはしない。ロカが本音ではトウ=テンの死を願っていることを、スイハは知っている。
(――先生)
これまでの思い出が頭の中を巡り巡っていく。
「切り替えていけよ」
スイハはナサニエルのほうを振り向いた。緑の瞳に内心の迷いを見透かされるようで、ギクリとした。
「おれはな、ずっとオリジンを捜してきた。それが世界のためになると信じて、やっと手が届くところまで来たんだ。はっきり言うぞ。ここから先は過去を引きずってるやつは邪魔なんだ。ロカを置いて行くことになっても、おまえは前へ進め」
スイハは俯いて黙りこんだ。
人間たちの思惑に関係なく、馬は真っ直ぐヒバリを目指して駆けて行く。
旅の終わり、あるいは新たな始まりへと。
ヒバリとは西州を縦断する街道の終着点であり、ミアライ地方最南端に位置する商業都市である。建設されてからまだ三十年と歴史は浅いが、近辺に点在する集落からも商いに人がやって来る活気のある町だ。なんでも時には山脈を越えてサナン人が、海を越えてヨーム人や久鳳人がやって来ることもあるという。西州第二の都市と呼ばれる所以だ。
到着した頃には辺りは暗くなっていた。
キリムの署名が入った通行許可書のおかげで、スイハ一行は難なく検問を通ることができた。公務ではなく私用での訪問というていである。
「この二人は護衛です。武器の携行を許可してもらえるでしょうか」
「飛び道具がなければいいですよ」
スイハが黒鹿毛の馬に積まれた弓矢を指差すと、兵士は笑って首を振った。
「駄目なのは鉄砲ですね。あれは危ないんです。おっと失礼、こういうことは久鳳の方のほうがよくご存知ですよね」
話を振られたセン=タイラは無愛想に目礼だけ返した。
苦笑いする兵士に対して、スイハは三割増し愛想の良い顔をした。
「ヒガン大隊長によろしくお伝え下さい。所用をすませたらすぐ州都へ戻ります」
「お疲れ様です」
三人は検問を抜けて町に入った。
整然とした街並みと、低い屋根が印象的だった。スイハは辺りを見渡してから大通りを進んだ。日が落ちた時間帯であることを差し引いても人通りは少ない。いくつかの商店は軒先の品物を引っ込めて早くも店じまいに入っているようだ。
ナサニエルは風除けの防寒着をずらして顔を外に出した。
「随分と寂しくなっちまったもんだ」
町に入ったら飛ばない約束だ。
「前に来たことあるんだ?」
「暖かい時期にな。そのへんを振り売りが歩いてたり、露店がわんさか出てた」
スイハはゆっくり瞬きして、大勢の人が行き交う景色を想像してみた。
商店の軒先に灯る橙色の明かり、呼び込みの声、楽しげな家族の会話、家路を急ぎながらつい脇見をしてしまう町人の姿。気持ちが少し明るくなった気がした。ヒバリ本来の活気のある日常を取り戻せるかは、これからの自分たちの頑張り次第だろう。
赤い柱の宿を探して視線を巡らせていると、セン=タイラがしきりと後ろを気にしていることに気がついた。
「タイラ? 何かあるんですか?」
まさか追っ手だろうか。
やや緊張気味に尋ねると、彼はじっと検問のほうを見つめた。
「トウ殿の刀を取り戻したいのですが」
スイハは脱力した。
「無理ですよ。理由を説明できないし、僕たちと関わりがあるってわかったらトウ=テンに迷惑がかかる」
「どのみち宿には見張りがいるのでしょう?」
遅いか早いか、結局は時間の問題だとでも言いたげだ。
「あれはただの刀ではありません。ヒガン大隊長とやらに事情を説明した上で、刀を取り戻し、監視を解くべきです」
スイハは少し考えた。
セン=タイラの意見は強引だと思えたが、一理あるようにも感じられた。しかし果たして、悠長にヒガン大隊長と会っている時間があるだろうか。ホノエがいつ追ってくるかわからない。まずトウ=テンと情報共有しなければ、後々事態がややこしくなる予感があった。
「どうしたらいいか……」ロカがいれば、という甘えた考えを頭から振り払う。「正直、わからない。とりあえず、トウ=テンと話します」
「監視の目があっては会話に差し支えるのでは?」
今日に限ってやけに突っかかってくる。トウ=テンが西州軍に監視されていることがよほど気に食わないようだ。こんな扱いは不当だという憤りを感じた。
セン=タイラに連れられた黒鹿毛が、早く早くと急かすように手綱を引っ張った。
「差し支えるようなら、そのときに対策を考えます。今は……」
目印を見落とさないよう周囲に目を走らせたスイハは、道の向かいから歩いてくる西州兵の二人連れを発見した。痩せぎすの背高と、茶髪の癖っ毛。
これを逃す手はない。彼は素早くナサニエルに目配せして荷物を押しつけ、兵士たちに近づいた。手を挙げて声をかける。
「こんにちは!」
兵士たちは突然のことに面食らったものの、相手が子どもだとわかるや、笑顔で挨拶に応じた。気持ちにゆとりがある証拠だ。市内の見回りを終えて詰所に帰る途中だろう。
とりあえず探りを入れておこうと、スイハは尋ねた。
「ちょっとお聞きしたいんですが、赤い柱の宿を捜しているんです。ヒバリに来たのは初めてで。この道で合っていますか?」
「ああ、それなら」痩せぎすの背高が親指で後ろの道を指し示す。「あそこの角を曲がってすぐだよ」
「ありがとうございます」
彼は用心深い眼差しで、後方にいるナサニエルとセン=タイラを一瞥した。
「あの二人は君の連れ?」
キリムが言っていたとおり、異国人は警戒されているようだ。
「あは、町の入り口でも同じことを聞かれました。ヨーム人と久鳳人なんて、珍しい組み合わせでしょう。護衛を頼んでいるんです」
さりげなく検問を通過してきたことをアピールした。不審な点があれば入り口で弾かれる。こうして堂々と往来を歩けはしない。痩せぎすの背高は納得したのか頷いて、後方の二人に労うような笑みを向けた。職務に忠実かつ、人の良い男のようだ。
では、残る相方はどうだろう。
スイハはこれ見よがしに伸びをした。
「うーん。どうも街道で何かあったみたいですね。途中の宿場でも急かされちゃって。ずっと馬に乗ってたからクタクタなんです。部屋が空いてるといいんだけど」
「それなら大丈夫。さっき寄ってきたけど、いつも通りスカスカだったから」
茶髪の癖っ毛は喋るといかにも気さくな雰囲気で、取っつきやすそうだった。
スイハはわざとからかうように言った。
「寄ってきたって、仕事中にお茶でも飲んでたんですか?」
「巡回だよ。異常がないか見て回るんだ」
「宿屋は色んな人が来ますもんね。事件はありました?」
「幸い何にも。まあ、念のためだから」
痩せぎすの背高に肘で小突かれて、茶髪の癖っ毛はじゃあ、と相方のあとを追って仕事に戻っていった。
スイハは横から突っ返された荷物を胸に抱えた。ゆっくり歩き出しながら、ナサニエルに小声で確かめる。
「聞いた、ナサニエル?」
「ああ。トウ=テンは軍に監視されてはいるが、四六時中見張られているわけじゃないみたいだな」
その通り。宿泊客がほとんどいない宿屋をわざわざ巡回するのは、そこに監視対象がいるからだ。最初のうちは見張りが常駐していたかもしれないが、一週間経った今は市内の見回りついでに立ち寄る程度。警戒はだいぶ緩くなっている。これから二人に会うにあたり、邪魔が入る心配はないだろう。
「そんなわけで、タイラ。刀は近いうちにトウ=テンに返されると思います」
セン=タイラは無言で目を細めた。口角がやや上がっている、ように見える。機嫌を損ねているのか感心しているのか、いまいち感情が読み取れない。
ナサニエルが含み笑いを漏らしながらポンと背中を叩いた。
「おまえ、ああいうの本当うまいな」
率直に褒められて、スイハは少しだけ得意な気分になった。
一つ目の角を北に曲がると、教わったとおり向かって左側に、入り口の赤い柱が鮮やかな建物が見えた。
「あそこだ」
建物の周囲は綺麗に雪かきされている。生け垣の向こう側は庭になっているようだ。入り口のわきに案内板が掲げられていた。厩舎の利用込みの料金設定を見るに、なかなか上等な宿らしい。建物は三階建てになっていて、一階に食堂と浴場、二階と三階に客室、そして各階に談話室が設けられている。
扉を開くと呼び鈴が鳴った。
西州兵の姿がないことを確認してから、スイハは右手の受付で従業員に用を告げた。
「こんにちは。部屋を一つお願いしたいのと、ここで人と会う約束をしているんです。先に泊まっているはずなんですが、取り次いでもらえますか?」
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「スイハです。相手はトウ=テンという久鳳人の男性です」
受付係は分厚い宿帳をめくり、顔を上げた。
「確認いたします。こちらでお待ちください」
「馬を厩舎へ入れても?」
「係の者が案内いたします」
受付係に呼ばれた若い男が、外から裏手の厩舎へセン=タイラを案内していった。
玄関口で待ちながら、スイハは懐にしまいこんだ兄の手紙に服の上から手を置いた。
ヨウ=キキが亡くなっているなら、これは誰に渡すべきだろう。彼女の仕事を引き継いだコスという男か、それとも実子であるサクのほうか。
中身を検めたい欲求を抑えていると、ナサニエルが声をかけてきた。
「おい。見てみろ」
彼が見ていたのは壁にかけられた掲示板だった。
スイハは近づいていって目を凝らした。貼られているのはおもに、商店のチラシや求人広告のようだ。
ナサニエルはその中のひとつを指差した。
その黄ばんだチラシには『薬種調合承リマス』と、それだけ書かれていた。端のほうに久鳳語で同じ意味合いの文言が小さく載っている。
スイハはすぐに気づいて身を乗り出した。
「これ、先生が言ってたやつ!」
「ああ。トウ=テンがここを選んだのは偶然じゃない」
紙面の隅々まで見ても、名前や連絡先の記載はない。おそらく用心のためだ。宿屋の主人を介して依頼を受ける。ロカもそうしてコスと会っていた。
受付係が戻ってきた。
「二階の第一談話室でお会いになるそうです」
用心深さではトウ=テンも負けていない。
自分たちが泊まる部屋に荷物を置いて、スイハは身だしなみを整えた。全員が落ち着かない気分でいるのがわかった。ナサニエルは壁にじっと耳を当て、セン=タイラは扉と窓のあいだを行ったり来たりしていた。
談話室に行く前に緊張を和らげたかった。スイハはセン=タイラに話しかけた。
「タイラ。昔、トウ=テンの世話になったって言ってましたよね」
彼は足を止めて窓をじっと見つめた。
「具体的には何があったんですか?」
「家に連れ戻されるところを、軍に残れるよう取り計らって下さったのです」
セン=タイラの実家は久鳳でも有数の商家だ。その跡継ぎ息子が軍に身を置いているのも妙だと思っていたが、家族と何らかの確執があるのだろうか。
姉が嫁ぐ家のことである。スイハはもう少し踏み込んでみることにした。
「家に帰りたくなかった?」
「あそこは私の家ではありません」
それは聞き捨てならなかった。
「なんだって? どういうこと?」
「……」
「おい。事情によっては姉さんと結婚なんて許さないぞ」
スイハが詰め寄ると、セン=タイラは渋い顔で溜息を吐いた。
「……つまらない話です。セン家の当主は跡継ぎの男児に恵まれず、仕方なしに愛人が生んだ子を引き取った。愛人は金と引き換えに我が子を手放した」
地雷を踏んだ。
後の祭りだ。スイハが気まずさのあまり黙っていると、聞かれてもいないのにセン=タイラは続きを語った。
「たとえ親でも物のように扱われるのは屈辱的です。セン家の人間になってから、初めて私の意志を尊重してくれたのがトウ殿でした。親や生まれに関係なく、何を選び、どう生きるか……。あの方のおかげで今の自分があると思っています」
いつもより心なしか明るい声にスイハは顔をあげた。
出自を打ち明けた彼の表情は、どことなくすっきりしていた。
「生まれ育った家でなくとも家督は継ぎます。老い先短い父の、最後の頼みですから」
「……自分で選んだってこと? 姉さんと婚約したのも?」
「そうです」
スイハはずっと、この婚約は家同士が決めたものだと思っていた。当人たちの意志は二の次だと。
だが、そうではなかった。そうではなかったのだ。
不思議と胸のつかえが取れた。
「なら、いいです」言ってから、大人しく認めるのも癪だと思い直した。「まあ、姉さんがあなたを好きになるとは限らないけど」
セン=タイラは口角を少し上げて笑った。
「あなたの憎まれ口にも慣れました」
「くそったれめ」
スイハは精一杯の悪態をついた。
第一談話室にまだトウ=テンは来ていなかった。
スイハは靴を脱いで座敷に上がった。物珍しく内装を見回す。久鳳人同士の商談でよく使われる部屋なのだろうか。異国の文化がそこかしこに垣間見える。人数分の座布団。低い卓。衝立には足の長い鳥が描かれている。
ナサニエルが畳にゴロリと寝そべった。
「行儀悪いよ」
「久鳳式はこれがいいんだろうが。おまえこそ、そこ上座だぜ」
「えっ」
膝立ちであたふたしているところに扉が開く音がした。
ニヤニヤするナサニエルをひと睨みしたあと、スイハはとりあえずその場に正座して出迎えの姿勢を取った。
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