09.用心棒の仕事


 不意に聞こえたささやき声に瞼を開く。

 横になって休んだはずなのに、目を覚ましてみればなぜか囲炉裏の前で座っている。平生であれば困惑するところだが、トウ=テンはもう何度も経験した感覚で、これが夢であるということにすぐ気がついた。

「早く明日にならないかなあ」

 あどけない声。

 ――まただ。

 はじめはただ漫然と、目に映る光景を眺めているだけだった。慣れてからは、意識的に状況を観察するようになった。

「おかあさん。ちゃんと起こしてね。おいて行かないでね」

「もう。自分で早起きするんでしょう?」

 囲炉裏を挟んだ向かい側を見る。母親の膝を枕に、安心しきった様子で目を閉じているサクは、今より少しだけ幼い。十二歳くらいだろうか。暗い陰のない顔をしている。

 白い髪を撫でる手の先から視線をあげて、トウ=テンはサクの母親の顔を見た。

 いつかの夢で、胸を開かれて死んでいた女だ。

 現実で一度も会ったことがないのに、奇妙なほど存在感がある。黒々とした髪には艶があり、質素な身なりながら佇まいに品があった。美しい女だった。ほのかな明かりに照らされた伏し目がちな顔に、一日の終わりの気だるげな気配が漂っていた。

「ヒバリは大きな町なの。人がたくさんいて、山の中とは全然違うのよ。約束したこと、覚えてる?」

「うん。ひとりでフラフラしない、知らない人についていかない」

「あともうひとつ」

「獣にならなーい」

 緊張感のない浮かれた返事に、母親が苦笑を零す。

(――はじめて町に連れて行ってもらえるって、とても喜んでた)

 チサの言葉を思い出してトウ=テンは愕然とした。

 これはサクの母親が死ぬ、何日か前の光景だ。

「もっと真面目に聞けよ」コスが隣の部屋から出てきて言った。「人がたくさんいるってことは、悪いやつだっているんだぞ」

「怖くないよ。おかあさんと一緒だもん」

「危機感を持てって言ってんだ、馬鹿」

「ばかじゃないもん」

 サクはコスに向けてべっと舌を出して、ごろんと母親の膝に顔を埋めた。

「たくさんいるなら、誰か、ひとりでも……いるかもしれないもん。変な目で見ないで、ふつうに話してくれる人……」

 尻すぼみになっていく言葉を聞きながら、コスは険しい顔でガシガシと頭をかいた。

 ヨウ=キキが宥めるようにそっと言った。

「心配しないで。リンさんに薬を届けて買い物をしたらすぐ帰るから」

「やっぱり俺も行くよ」

「あなたには留守のあいだのことをお願いしたいの。ミツさんのところのノエくんが風邪を引いているでしょう。また熱がぶり返すかもしれない。気にかけてあげて」

「俺は半人前だし」

「あと足りないのは自信と経験ね。大丈夫よ。あなたはもう一人前の薬師だわ」

「ひいき目に見過ぎだって」

 コスは憎まれ口を叩いて顔をそらしたが、口元が嬉しそうにはにかんでいた。

「さあ、明日は早起きしないとね」ヨウ=キキはそう言うと、半分眠っているサクの肩を優しく揺すった。「サク。そろそろお布団に行きなさい」

「いいよ。運ぶから」

 むずがって体を丸めるサクを、コスが慣れた手つきで抱え上げる。

 二人が引っ込んだ隣の部屋を振り返って、ヨウ=キキが声をかけた。

「先に休んでて。私もここを片付けたら寝るから」

「うん。おやすみ、母さん」

「おやすみなさい」

 彼女は中腰で手を伸ばして、戸を閉ざした。

 トウ=テンはなんとも言えない気分で、囲炉裏の火に照らされた後ろ髪を見つめた。

 最近続けて見ている夢は、たいてい場所も時間もばらばらだったが、決まってサクを主軸としている。夢を通じて他人の過去を見るなど、こんなことがありえるのか。そもそもこれは本当に、実際にあったことなのか。

 なんにせよ、夢である以上、この光景も瞬きの間に消え去るだろう。

「……いつも考えていたわ」

 不意に、ヨウ=キキが言った。

 トウ=テンは、夢から覚めるつもりで閉じた目を再び開いた。

 そこはまだ夢の中で、ヨウ=キキが振り返ってこちらを見ていた。

「この子たちは将来、どうなるのかしらって」

 目と目が合う。

 ――馬鹿な。

 トウ=テンは困惑した。これはもはや過去の再現を超えている。目の前にいるヨウ=キキの存在感は、生きている人間となんら変わらない。

 夢の中で、トウ=テンは初めて口を開いた。

「これは夢だ」

「ええ。あなたは夢を見ている」

 会話が成立したことで、いよいよ感覚が現実味を帯びてきた。

 亡くなった者の霊魂が夢に立つ。よくある迷信だと思っていたが、この世はどうやら自分が思っているほど単純、かつ都合良くは出来ていないらしい。

 トウ=テンはうんざりした。

 初めて夢に現れた死者が、なぜ赤の他人なのだ。一目でも会いたいと願った者とは、ついぞ会えたことがないというのに。

「どうせ夢枕に立つなら、自分の子どものところへ行け」

 ヨウ=キキは何も言わず、困ったように微笑んだ。死者とはいえ、霊魂であるその姿には血が通っているように見える。蝋のように真っ白だった死に顔とは大違いだ。

「……惨い死に様だった」

 久鳳の軍にいた頃、トウ=テンは戦場の最前線で何十、何百と人を殺した。用心棒を始めてからも、目の前に立ち塞がったならず者を斬ったことは一度や二度ではない。人間は殺し、殺されるものだ。だが、この世のあらゆる不幸を、よくあることだと笑い飛ばせるほど彼は剛毅ではなかった。

 ヨウ=キキの死に様は常軌を逸している。

「本当にあったことなのか」

 彼女は目を伏せて胸に手を当てた。

「……そうよ。他に、どうしようもなかった。自分でもひどい母親だと思うわ」

 チサから聞いた話では、下手人は隻腕の傭兵だったという。

 夢の中で以前見た夢のことを思い出すのもおかしな話だが、ヨウ=キキが死んだ場所は人気のない山道だった。隻腕とはいえ、相手は武装した大の男だ。子連れの女が敵う相手ではない。取れる選択肢は限られていた。

 襲われた一部始終まで見たわけではないが、想像はつく。ヨウ=キキは子どもだけでも逃がそうと男に立ち向ったのだ。そして死んだ。

 これをひどい母親だというのなら、身を挺して守ろうとした息子ごと殺された妻はどうなる。当時のやりきれない思いが蘇って、トウ=テンは黙っていられなかった。

「ひどいのは殺したやつのほうだ。殺したあと、胸を開いて心臓を抜き取った。狂っているとしか思えん。まともな神経を持った人間のするじゃない」

「やめて」

 ヨウ=キキは真っ青になって首を振った。

「言わないで」

「なぜ。あんたは一番の被害者じゃないか」

「違うの。そうじゃない……」

 消え入るような声に、トウ=テンは口を閉じた。女の目には涙が滲んでいた。

 ヨウ=キキは唇を噛みしめて俯いた。微かに肩を震わせる姿は、深い悲しみに打ちひしがれているように見えた。

 しかし、そうしていた時間は十秒にも満たなかっただろう。

 次に顔を上げたとき、彼女の双眸には仄暗い憎しみが燃えていた。

「サクナギは私の子よ。絶対に渡さない」

「敵は誰だ。誰に狙われている」

 二人の視線が交錯する。

「船に気をつけて」

「なんだって?」

「あいつが出てきたら、私がどうやって死んだのか思い出して」

 不意に、明かりが落ちたように視界が暗転した。

 意識が現実に引き戻される、その間際。

 ――お願い。

 トウ=テンは音にならない声を聞いた。

 ――サクナギを、どうか、どうか守って。

 そこで目が覚めた。



 山裾に広がるヒバリの町は、州都から派遣された大隊の駐屯地と化していた。

 町長が出した救援要請を受け、州都から派遣された軍が到着してから五日。三百人の規模からなる大隊は接収した自警団の詰所を本部として、現在、黒い獣を警戒しつつその捜索に当たっている。

 山の中腹に立ち、トウ=テンは単眼鏡で眼下に広がるヒバリの市街地を眺めた。

 隊列を組んで町の外へ向かう兵の装備に、火器類はない。コヌサで見たときもそうだった。西州の軍には、鉄砲や大砲どころか、火槍すらないのだ。西州公の治世では必要のないものだったのだろうが、これではあまりに心許ない。そこらにいる傭兵のほうがよほどいい装備を持っている。

 街道から運ばれて来た怪我人たちの証言によれば、黒い獣は二匹一組で行動しているという。主観が多分に盛り込まれた恐怖体験を耳にしたヒバリの町民は、皆一様に不安を募らせているようだが、トウ=テンは逆に安心していた。

 町の診療所で手当てを受けている被害者には共通点がある。遭遇した黒い獣に対して、頼りない武器を手に、無謀にも立ち向かったということだ。

 先に手を出して、返り討ちにあった。にもかかわらず生きている。

 つまりヒバリ近辺を徘徊している黒い獣に、積極的に人を殺す気はないのだ。

 なにせ人並みか、それ以上の知性を持つ獣である。やつらが本気で人間を殺す気なら西州軍に打つ手はない。

 トウ=テンはコスから聞いた話を脳内で反芻した。

 ――黒い獣は魔物ではない。

 話しているあいだ、コスは逐一こちらの反応を窺いながら、慎重に開示する情報を吟味していた。

 明かされた事実はごく一部に過ぎない。すべての疑問が解消されたわけでもない。

 だが、信じるに値する。

 トウ=テンは己の無知を知っている。故郷を失ってからずっと、足りないものをかき集めて、埋め合わせて、どうにか生きてきた。これまで経験したことのない新たな知見。人生はその連続だ。

 そして何より、これほどの秘密を長年一人で抱え込んできた苦労と、打ち明けてくれた信頼に報いなければなるまい。家族で静かに暮らしたいというコスの願いが、どれほど切実なものか。かつて同じことを願って叶わなかったトウ=テンは身に沁みて理解できた。

 必ず無事に帰さなくてはならない。

 トウ=テンは単眼鏡を下ろし、隣で白い息を吐いているサクを見下ろした。

「西州軍が町を出た。街道で黒い獣を捜索するつもりなんだろう」

「どうしよう……」

 無意識だろうか。白い手が心細そうにトウ=テンの袖を掴む。

 サクは助けを求めるような上目遣いで彼を見つめた。

「……どうしたらいい?」

 こうなるだろうと思った。

 トウ=テンは眉を顰めた。

 サクは先日、ヒバリから帰ってきたコスの体から黒い獣の血の臭いを嗅ぎとった。

 息をつく暇もなく問い詰められて、コスはとうとう、診療所に請われて怪我人の治療の手伝いをしたと白状したのだ。

 黒い獣がコヌサからミアライに下ってきたと知って、サクは山を下りると決めた。

「俺が連れて来たようなものなんだから、なんとかする」

 とはいえ、そんなことをコスが許すはずもない。平行線の押し問答はいつしか物理的な取っ組み合いに発展した。トウ=テンは手も口も出さなかった。

 暴れるサクを布団で簀巻きにしながら、コスはきつい口調で怒鳴った。

「おまえは、自分がどれだけ運が良かったかわかってない!」

「知らない! ばか、ばか!」

「馬鹿はおまえだ! 春まで寝てろ!」

 簀巻きにしたサクを寝室に放り込んで、コスは乱暴に戸を閉じた。家全体が揺れたと錯覚するような音だった。チサが腰に手を当てて、怒った顔でコスを睨んだ。やり過ぎた自覚はあるのだろう。彼は言い訳はしなかった。乱れた髪も服もそのままに床に座り込み、苦々しく歯ぎしりした。

 チサが寝室に入っていくのを見届けてから、トウ=テンはコスに尋ねた。

「運が良かったとはなんだ」

 ――あの話を聞いたときの衝撃は、忘れられない。

 トウ=テンは改めてサクを見やった。

 兄とケンカをして、感情のまま勢いで飛び出し、行き詰まれば大人に助けを求める。

 精霊憑きを思わせる不思議な力、普段は隠されている獣の姿。そんなものは、サク個人の人格とはなにも関係がない。一緒に過ごしていれば、中身は単なる世間知らずの子どもだとわかる。それゆえに、コスも過敏にならざるをえないのだろう。

 震える肩に手を添えてトウ=テンは静かに声をかけた。

「今ならまだ引き返せる。帰るか?」

 サクはぶんぶんと首を横に振った。

「だ、だめだよ。コスが、危ない目に遭うかもしれないのに……」

 コスはたびたび山を下りては、ヒバリを中心に薬の商いをしている。黒い獣に直接襲われることはなくとも、報奨金目当ての傭兵が集まって町の治安が悪化すれば、それだけ危険に遭う可能性が増すだろう。

「なんとかしなくちゃ……。わかってる。……でも」

 俯いて、サクは喉から絞り出すように呟いた。

「俺のせいで、トウテンまで……おかあさんみたいに死んじゃったら……」

 トウ=テンはしばし呆気にとられた。

「どうしておまえのせいなんだ」

「……一緒に行きたいって、わがまま言った」

 昔のことを思い出したのか、サクは小さくしゃくり上げた。

「約束したのに……守れなくて。……ずっと、家で留守番してればよかった。ついていったせいで、おかあさん死んじゃった……」

 途切れ途切れの泣き声を、トウ=テンは黙って聞いていた。

 ヨウ=キキの死は、誰の身にも起こり得る不幸な事故だ。子どもがいようがいまいが、結果は変わらなかっただろう。ところが、サクはそうは思わなかった。サク自身、目の前で母親を無惨に殺された被害者だというのに、犯人を恨み憎むのではなく、自分を責めることでしか気持ちに整理をつけることができなかった。

 化けて出るはずだ。これでは、ヨウ=キキは死んでも死にきれないではないか。

「そんなふうに言うものじゃない」

 トウ=テンは言わずにはおれなかった。

「おまえの母親は、命懸けでおまえを守ったんだ」

 彼は十年前に死に別れた妻を思った。

 同じ村で生まれ、同じ景色を見て育った。生まれつき体が弱く、人見知りではにかみやだったが、心を溶かすような優しい笑みを浮かべる女だった。

「私、生きててよかった。……がんばってよかった」

 息子が生まれたときに妻が言ったことは、今でも一字一句覚えている。

「ありがとう、テン。ずっと私を守ってくれて。これからは私がこの子を、テンが帰って来る場所を守るから」

 ――忘れたことはない。これからも、ずっと忘れない。

 明かりが落ちた暗い家の中でトウ=テンが見つけたとき、妻は息子をしっかり抱きしめて、庇うように覆い被さりながら死んでいた。最後まで息子を守ろうとしたのだ。

 妻のことを思うと、トウ=テンは寂しい気持ちになった。同時に、夢枕に立ったヨウ=キキが、死してなお子どもの身を案じていたことが強く胸に迫った。

「……ああ、守るとも」

 その声は、吐息に混ざってほとんど音にならなかった。

 戸惑い顔で見上げてくるサクに、トウ=テンは笑いかけた。

「立ち話で少し冷えたな。休める場所を作る。手伝ってくれ」

 本当なら山を下りて宿でも取るべきなのだろうが、母親を失ったトラウマを抱えるサクの心情を思うと、町へ連れて行くことは憚られた。

 トウ=テンは馬の背に積んだ荷物から、柄を切り詰めた平たいスコップと、薪用のノコギリを取り出した。

 キョトンと見ていたサクが、あっと思い出したような声をあげた。

「もしかして、イグルー?」

「知ってるのか」

「う、うん。だけど、作ったことない」

 イグルーとは、四角く切り出した雪の塊を半円球状に積み上げた即席建築のことだ。これがあるかないかで傷病者の生存率が大きく変わる、雪中行軍に必須の技能である。行軍中だと限られた時間の中で作らなければならないので見た目は不格好になりがちだが、実際に出来上がったものに入ってみるとなかなか快適なのだ。

「作り方を覚えると便利だぞ。二人ならそこそこの広さがあればいいだろう。雪を切り出すから、この線に沿って一段目を組んでくれ」

 トウ=テンはスコップを足下の雪に突き刺した。

「少し柔らかいな」

「柔らかいとだめなの?」

「積むときに崩れやすくなる。できれば締まった軽い雪がいいんだが」

「ちょっと待ってね。やってみる」

「ああ――なに?」

 言うなり、サクはトウ=テンが引いた円の上をくるくると回り始めた。

 一体何をしているのだろう。

 謎の動きを追いながら、トウ=テンは目を瞠った。

 雪の上に足跡がない。

 三周目でサクは立ち止まり、ふうと息をつきながら額を拭った。

「できてるかな」

 トウ=テンはスコップをもう一度、雪に突き刺した。さっきと手応えが違う。穴を掘ったところから側面にノコギリを入れて四角く切り出した塊は、重すぎず軽すぎず、イグルーの部品として極めて理想的だった。

「すごいぞ。どうやったんだ?」

「あ、あのね、水の上を歩く感じで……ちょっと足下を固めてみたの」

 トウ=テンは素直に感心した。

「器用だな。あとでコツを教えてくれ」

「えへへ……。いいよ!」

 サクは頬を染めて嬉しそうに笑った。

「疲れてないか?」

「平気! 早く作っちゃお!」

 イグルーが形になるまで一時間もかからなかった。

 外と中から横穴を掘って入り口が開通した。ずっと外で作業していたサクは、中に入って目を瞬かせた。

「ふわあ、すごい! 広いねえ!」

 天井の隙間から太陽の光が白く透けている。小さな隙間だらけだが、足下から掘り出した雪の分だけ床が低くなっているので、座っている二人の体に隙間風が吹きつけることはない。一晩の宿としては十分な出来映えといっていいだろう。

 焚き火を起こし、トウ=テンはカップで雪を溶かしてお湯を沸かした。

「気をつけろ。熱いぞ」

「ありがと」

 二人して熱いお湯をちびちび飲む。

 干し肉を囓りながら、トウ=テンはサクを見やった。ちまちまと革袋から木の実を摘まんでいる。体を動かしたおかげか、血色が良い。目が合うとニコリと無邪気に笑った。イグルー作りが丁度いい気分転換になったようだ。

 良かった。そう思うと同時に、後悔の念にかられた。

 なぜ馬鹿正直に、西州軍が町を出たことを伝えてしまったのだろう。おかげで引き返せなくなった。あのとき何も動きがないと嘘をついていれば、様子見という名目で一度家に帰る選択も取れただろうに。

 ――今さらだ。

 トウ=テンは空になったカップを置いた。

「今後のことについて話す前に、言っておきたいことがある」

 サクは神妙な顔で頷いた。

「今回の黒い獣の被害に関して、おまえにはなんの責任もない。獣たちが本当におまえを追いかけてきたのだとしてもだ」

「でも……責任はなくても、関係がないわけじゃない」

「そうだな。コヌサから帰るときに街道を選んだのは俺だ」

 一瞬硬直したあと、サクは当惑したように胸を押さえた。

「あっ……。ち、違うよ。トウテンのせいじゃないよ」

「だが無関係じゃない」

 同じ言葉を返すと、サクは理解が追いつかないという顔をした。

 トウ=テンは久鳳にいた頃、同僚から言われたことを思い出した。

「こういうことは、気づかないふりをするのが一番楽だ。……そうしたほうがいいときもある。だがどうやら、俺もおまえも、そういう器用な性分ではないらしい」

 おまえは生き方が下手だ、と。

 かつて正面からトウ=テンを罵倒した男は、頼りになる同僚であり、妻の恩人であり、家族ぐるみで付き合う友人でもあった。由緒ある武家の棟梁。七人いる将軍の中でも三本の指に入る実力者。彼からは多くのことを学んだ。

「自分だけが当事者だと思うな。二人いればどうにかなる。切り替えていくぞ」

 トウ=テンが肩を叩くと、少し遅れてサクの頬にふわっと赤みが差した。一人ではないと、ようやく実感できただろうか。コクコク頷く頭を軽く撫でて、彼は言った。

「家でも話したが、俺たちにできることは二つある。診療所で腐傷患者を治療するか、軍に先んじて黒い獣を退治するか」

 実質的に選べるのは後者のみだ。

 なぜならば。

「俺は黒い獣を退治するほうを取りたい。西州軍は兵も装備も脆弱だ。放っておけば怪我人はどんどん増える。つまり……診療所の手伝いをしても解決にはならないからだ。たとえ、おまえが腐傷を治せるとしても」

 黒い獣の血は、それを浴びた者の血肉を腐らせる。俗に腐傷と呼ばれる死の病だ。トウ=テンもコヌサで経験した。骨の随まで焼けつく痛みと、血が煮えるような高熱に体力を奪われ、死ぬはずだった。

 皮肉なものだ。

 同じ傷を負いながら、医者の手当てを受けた兵士は今もなお苦痛に苛まれ続け、命を捨てるつもりだった自分が助かってしまうとは。

 腐傷は根治ができない。助かる方法は、腐れの炎症が全身に広がる前に損傷部位を切り離すことだけだ。サクの母であるヨウ=キキは、子どもが生まれる以前、宮中で医術師をしていたという。そこらの町医者よりも人体の構造と薬学に精通していた彼女ですら、腐傷を治すことは適わなかった。

 その不治の傷を、サクは事もなく治してしまった。

「増え続ける怪我人をおまえ一人で治療していくのは、現実的に考えて無理だ。もどかしいだろうが体力にも気力にも限界はある。わかるな?」

「うん」

 誰かに知られたら取り返しがつかない。

 サクはコヌサでトウ=テンの命を救った。トウ=テンがいた外周は、軍人も町民も見回りに来ないような寂れた場所で、周囲にいたのは半死人と死体だけだった。おかげで腐傷を治すところを誰にも見られずにすんだ。コスが言うように、本当に運が良かったのだ。

 もし腐傷を治せる者がいると知れたら、奇跡に縋ろうと多くの人間がヒバリに殺到するだろう。そうなればサクはただではすまない。傷ついた人の列と、絶え間なくこだまする救いを求める声に、心身ともに疲弊して押しつぶされてしまう。

「黒い獣を退治する。誰にとっても、それが一番いいのは……わかる」

 自信なさげに言いながら、サクは膝頭に爪を立てた。

「でも、トウテンが危ないかもしれない。獣たちを止めるのが間に合わなくて、もし襲われたりしたら……」

「獣に遅れは取らん」

 トウ=テンが断言すると、サクはきょとんと目を瞬いてから少し笑った。

「……そうだね。コヌサのときも、トウテンは怪我してなかった。顔とか手とか、血で汚れたところは痣になってたけど」

「そういうことだ」

「本当にいいの?」

「俺は用心棒だ。おまえが行くなら、どこであろうと共に行く」

 命があるから人は生きていられる。しかし、命だけあっても生きているとはいえない。

 サクは母親の死に傷ついた。それは振り返って死を見てしまうほどに、深い傷だった。

 それが今ようやく、立ち上がろうとしている。

 獣に遅れは取らないと大口を叩いたが、全盛期を過ぎた体でどこまでやれるか、正直なところ確信はなかった。しかし、それでサクが前を向けるなら、トウ=テンは無茶を承知で手を貸してやりたいと思うのだ。

 サクは俯いて深呼吸したあと、顔を上げた。灰色の瞳に、これまでにない強い意志と、気力が漲っていた。

「やるよ。獣たちを捜す。どこにいても絶対に見つけ出す。もうこれ以上……誰も傷つけさせない」

 トウ=テンは焚き火を消した。



 見渡す限り白一色の雪原に、二人分の足跡が刻まれていく。

 先を行くサクの後ろを、トウ=テンは黙ってついていく。不思議なもので、サクが歩いたあとを辿ると雪に足を取られることがない。水の上を歩く感覚でいけるというが、道なき道を当たり前のように歩くということは、トウ=テンにはまだ難しかった。

 山中はどこまでも白い雪に覆われていた。天候は穏やかで、薄雲を透かして太陽の輪がぼんやり光っていた。これから獣を殺しに行くとは思えないほど、心は静かだった。まるでこの世の終わりか、始まりのときに立っている気がした。

 白い世界は、そこに迷い込んだ黒い獣の姿を浮き彫りにした。サクが足を止めたときには、トウ=テンにも、紙に垂らした墨のごとくその姿態を捉えることができた。

 木立の奥で黒い獣が二匹、硬直してこちらを凝視している。

 サクの口から漏れた白い吐息が、風に流されていく。

 二匹の黒い獣は雪の中を這うように近づいてくると、サクの前で頭を垂れた。これまでその凶悪な爪と牙によって、数え切れない人間を引き裂いてきたのだとしても、雪上に晒された獣の姿は見る者の哀れを誘った。まるで斬首を待つ罪人だ。毛が抜け落ちた体は骨が浮き出るほど痩せこけ、固まった膿が両目をほとんど塞いでいる。

 獣たちは震えながらサクを見上げ、情けを請うように鳴いた。

 サクはしばらく呆然と立ちつくし、やがて噛みしめた唇を解いた。

「斬って」

 トウ=テンは一刀のもとに黒い獣の首を切り落とした。

 雪の中に落ちた首は、すべての苦しみから解き放たれたかのような、穏やかな顔をしていた。腐った血肉は雪に溶け、あとには黒ずんだ骨だけが残された。

 獣の骨は、乾いたヘチマのように中がスカスカだった。軽く踏んだだけで砕けてしまいそうだ。トウ=テンは既視感を覚えた。その根本にある記憶を紐解くのに、そう時間はかからなかった。

 ――夷の蛮族。

 久鳳の辺境を住処としていた、人食いの悪鬼たち。十年以上前に彼が討ち滅ぼした故郷の仇も、このような不気味な骨をしていた。

「抵抗しなかったな」

 しゃがんで獣の亡骸を見つめていたサクが、辛そうに顔を歪めた。

「……こいつらは、役目を持って生まれた」

 トウ=テンは血を払った刀身を鞘に収めた。

「役目?」

「姿を隠して、みんなの暮らしを陰から守ってた。ずっと何年もそうしてきた。でも……あるときを境に、歪められてしまった」

 サクは指先で獣の骨に触れた。

「……泣いてた。悔しい、悲しいって。こんなはずじゃなかったって。……どうして、こんなことになったんだろう」

 トウ=テンはうずくまるサクの肩を支えた。

「今日はもう休もう」

 二日間でトウ=テンが斬った黒い獣は、全部で五匹に及んだ。サクの呼びかけに答えて姿を見せた獣たちに、コヌサで見られたような狂気や獰猛さはすでになかった。彼らは痩せ細った体で雪をかき分け、疲れ果てながら、しおらしく首を差し出した。

 獣が死ぬたび、サクはその亡骸に手を合わせて冥福を祈った。

 馬を繋いだ場所に戻ったときには、日が落ちかけていた。

 トウ=テンは近くの宿場へ馬を走らせた。

 頭の中に地図を開く。現在地はヒバリから街道筋に北上した山の中だ。二日間、手持ちの食料や狩りで得た肉で食いつなぎ、イグルーで小まめに野営をしてきた。極力、体力の消耗を抑えて行動してきたが、サクの負担を考えるとそろそろ限界だ。屋根のある場所で温かい食事を取らせて、少なくとも一日はゆっくり休ませたい。

 ヒバリを出発した西州軍の動向も気がかりである。

 西州軍は大隊を分けておよそ百人の兵を街道に向かわせた。街道を南下してきた黒い獣が最後に目撃されたのが町にもっとも近い宿場だというから、軍が想定する警戒範囲もその辺りだろう。

 いかに弱小といえど、戦果のひとつもなしに町へは戻るまい。おそらく宿場の一部を接収して拠点にしているはずだ。

「町に行くの?」

 後ろから声をかけられて、トウ=テンは考え事を切り上げた。

「いいや、今日は宿場に泊まる」彼は後ろを振り向いた。「疲れたか?」

「またそれ」

「ん?」

「トウテン。昨日も今日も、疲れたかって。そればっかり」

 そう指摘する顔は、どこかむくれているように見える。

 うるさく聞いている自覚はなかったのだが、もしかしたら喋るたび、無意識に一言付け加えていたのかもしれない。そういえば昔、妻にも似たようなことで怒られたことがあった。頭の片隅で過去を思いながら、トウ=テンは弁解した。

「歩き通しだったからな。雪に足を取られないよう、ずっと気を張っていただろう」

「これくらい平気だよ」

 嘘ではないようだが、疲れや眠気を訴えないことが逆に気がかりだった。

 精霊憑きの力は無限ではない。久鳳にいた頃、消耗した魔道士が糸が切れるように昏倒するところを見たことがある。サクが自分自身の限界に気づかず、ふとした拍子に倒れてしまうことがトウ=テンは一番心配だった。

「少しでも変だと思ったらすぐに言え」

 目的地の宿場は予想通り西州軍が駐屯しており、傭兵の姿もちらほら見られた。

 以前訪れたときは暗くなっても茶屋に明かりが点っていたが、旅人向けの商店は軒並み閉まっているようだ。これは当てが外れたかと落胆したのも束の間、旅籠の入り口に足跡が続いている。トウ=テンはサクの頭に外套を目深に被せた。

 玄関は炭が焚かれていて暖かかった。傭兵らしき男が数人、たむろしている。探るような視線を感じながら、トウ=テンは受付の男に宿泊したい旨を告げた。二階の部屋が一つだけ空いているという。金と引き換えに鍵を受け取り、彼は階段を上がった。

 部屋を覗いて、空いていた理由がわかった。広すぎる。寝台だけでなく、窓際に椅子と卓が置かれた空間があった。おそらく他の部屋より割高だろう。

 支払った料金には納得しているが、下にいた傭兵連中に金があると誤解されたら厄介だ。とはいえ、西州軍の目と鼻の先で盗みを働くやつがいるとは思えないが。

 トウ=テンは刀以外の荷物を置いた。

「鍵をかけて先に休んでいろ」

「どこ行くの?」

「馬を預けるついでに様子を見てくる」

 部屋の鍵が内側からかけられた音を確かめてから、彼は下へ降りた。

 ひとつ気がかりなことがあった。ヒバリを出たときより、西州軍の数が減っている。

 厩から戻ったあと、一階で暖を取っている傭兵を捕まえて話を聞いた。

 なんでも、山中の小さな村がならず者に占拠されたのだという。見張りの目を盗んで逃げて来たという村人から請願されて、軍は黒い獣の捜索を一時中断。兵力を分けて村の救援に向かった。

「今日の正午過ぎに出発して、まだ戻っていないと?」

「夜が明けたら、残った連中で様子を見に行くそうだ。斥候なら俺たち傭兵を雇えばいいのに、村を襲ってるのも元傭兵だから信用できないんだと」

 聞いただけで頭痛がしてくる。想定外の事態が起きたならまず、ヒバリにいる本隊に報告して指示を仰ぐべきではないか。西州軍の指揮系統はどうなっている。

「現場の指揮官はどうしている?」

「救援部隊を率いて真っ先に出ていったよ。馬鹿丸出しだ、まったく」男は鼻で笑いながら、ひび割れた指先を炭に翳した。「こんなとこに長居しても仕事はないぜ。あんた、子連れだろ。さっさと抜けたほうがいい」

 トウ=テンは男に礼を言って部屋に戻った。

 扉を開けると、サクが待ちかねたように近寄ってきた。

「なにかあった?」

「近くの村が略奪にあったそうだ」

 サクは不安そうにトウ=テンの袖を掴んだ。

「村の人たちは……」

「軍が救援に向かった」

「トウテンも行く?」

 トウ=テンは黙って首を振った。

 久鳳人の自分が手出しをする筋合いではない。たとえどれだけ西州軍が無能で、略奪を働く傭兵が狡猾であったとしても、そこに介入することは一介の用心棒の分を超えている。

「獣は推定でまだ一匹残っているが、討伐は打ち切る。略奪は想定外だ。街道を引き返してしばらく様子見に徹するぞ。意見はあるか」

「襲われた村を助けたい」

 トウ=テンは我が耳を疑った。

 信じがたい思いで隣を見下ろすと、サクは震える両手を胸元で握り合わせていた。

 略奪者が危険な存在であることを、頭では理解しているのだろう。ただ、感情に折り合いがつかないのだ。気持ちはわからないでもないが、こればかりはどうしようもない。

「軍に任せておけ」

「だって、うまくいってないんでしょう」サクはわずかに逡巡してから、上目遣いでトウ=テンを見つめた。「トウテン、イライラしてる」

 気取られないよう感情を抑えていたつもりだったが、徒労だったようだ。相手の感情の機微を読み取ることに関して、サクの勘の良さには目を見はるものがある。

 指摘された通りだ。トウ=テンの胸はふつふつと煮えていた。

 指揮系統が崩れた軍隊はもはや集団として機能しない。烏合の衆だ。

 トウ=テンは強固な仲間意識で結ばれた集団の強さを、黒い獣に見た。本能としてそれを備えた獣とは違い、人間は教育と訓練によって団結を得る。西州軍の脇の甘さはコヌサでうんざりするほど見たつもりだったが、指揮官不在は問題外だ。

 救出に向かった部隊と半日も連絡がつかないのは、どう考えてもおかしい。

 だが。

「助けようよ」

「だめだ」

 トウ=テンはサクの目を見ながら言った。

「俺たちの目的は黒い獣を退治することだ。それに村の状況がわからない以上、おまえを連れては行けない。かといって、ここにひとりで残して行くわけにもいかん」

 その言葉にうつむきながらも、サクは小さな声で食い下がった。

「だけど……トウテンはずっと用心棒をして、たくさんの人を助けてきたのに……」

「今はおまえひとりで手一杯だ」

 サクは口を真一文字に結んだ。

「夕飯を買ってくる。鍵をかけて待ってろ」

 略奪された村は心から気の毒に思うが、サクをむざむざ危険に晒すわけにはいかない。無抵抗で首を差し出した獣たちとはワケが違う。他者から奪うことに慣れた人間は、どんな残忍なことも平然と行うのだ。

 トウ=テンは下に降りて二人分の食事を頼んだ。質素なものしか出せないがと恐縮する主人に代金を支払い、料理の出来上がりを待つあいだ、さきほど話した傭兵を捜した。ひとつ確かめたいことがあった。

 見張りの目をかいくぐって村の危機を報せに来たという村人は今、どこにいるのか。

「さあ。そういや見ないな。案内役でもしてるんじゃないか?」

 他にも何人かに聞いて回ったが、男の所在を知っている者はひとりもいなかった。

 仕組まれた罠。

 真っ先にその可能性を考えた。村人を名乗る男は略奪者の一味か、あるいは家族を人質に取られたのかもしれない。どちらにせよ確かなことは、暢気に夜明けを待っていていい状況でないということだ。

 サクにはああ言ったが、見て見ぬ振りにも限度がある。

 トウ=テンは外へ出た。白いものが視界の端をかすめる。雪が降ってきたのだ。彼は憂うつに白い息を吐きながら、通りを下っていった。

 宿場の外れでは、西州軍の兵たちが火を囲んでいた。遠目にも浮き足だっているとわかる。そわそわと体を揺らし、隣り合った者同士で私語が絶えない。しばらく耳をすませて待ってみたが、規律の乱れを正そうとする声は聞こえなかった。

 トウ=テンは兵士が固まっている火の近くへ向かった。

「おい、兵隊ども!」集団に一声かけて、十人以上の視線を集めたところで彼はおもむろに声を張りあげた。「もう早馬は出したのか?」

 戸惑いがさざなみのように広がっていく。

 兵士達に考える暇を与えず、トウ=テンは畳みかけた。

「とぼけることはないだろう。おまえたちの隊長は筋金入りの傭兵嫌いだな。出発前に言っていたのを俺は聞いたぞ。日没までに戻らなければヒバリの本隊に報告。州都に応援を要請するよう大隊長に進言しろ、と」

 無論、でまかせだ。

 それをあえて全員に聞こえるよう声を張りあげたのには理由がある。

 ここに残された連中はすでに軍隊の体を為していないが、全員が思考停止しているわけではない。少なくとも一人か二人は、この状況を大隊本部へ報告するべきではないかと迷っているやつがいる。そうした者にとって、このまま夜明けを待つのは苦痛でしかないだろう。

 ならばこうして尻を叩いてやればいい。

「まだ報せを出していないなら、俺が行ってやろうか!」

 兵士の輪から二、三人の影が抜け出ていった。それを見届けたトウ=テンは、適当に悪態をつくふりをして宿へ戻った。

 ――これで最悪の事態は避けられるだろう。ならず者を増長させて第二、第三の被害を増やすようなことは。

 食事を受け取りに行くと、主人は目を丸くした。

「お一人ですか」

「どういう意味だ?」

「さっきお連れさんが出て行ったんで、てっきり一緒に戻って来るかと」

 トウ=テンは急いで二階へ駆け上がった。部屋はもぬけの殻だった。彼は階段を飛び降りて外へ飛び出した。

 周囲にぐるっと目を凝らしたが、それらしい影は見当たらない。地面に目を落とす。新雪に刻まれた小さい足跡を見つけた。彼は祈るような気持ちで微かな痕跡を辿った。

 足跡は宿場の外、街道から外れた森の中へ続いていた。それほど長い距離でもなかったが、無事な姿を認めるまで時間が止まっているように感じられた。

 サクは小川のほとりに立っていた。

 安堵の息を吐くと同時に、怒りで頭にカッと血が上った。トウ=テンは猛然と雪を蹴散らして斜面を滑り降りた。

「サク!」

 怒声をぶつけられてサクは飛びあがった。

 逃げるように川を飛び越え、振り向きざまに叫ぶ。

「怒らないで!」

「部屋で待っていろと言ったはずだ!」

 トウ=テンが構わず前進すると、サクは怯みながらも声を振り絞った。

「俺が行くところなら、どこでも一緒に来てくれるって言った!」

「屁理屈を言うな!」

「聞いてよ!」

 木の枝に降り積もった雪の塊が、音を立てて落ちた。

 トウ=テンは水際で足を止めた。腕を組んだのは怒りを抑えるためだ。

「なんだ」

 サクは木の陰からおそるおそる顔を出し、ためらいがちに口を開いた。

「……獣を退治するのはいいのに、どうして……どうして、村の人を助けに行くのはだめなの?」

「獣はおまえを襲わない」

「今度は相手が悪い人だから? 俺が邪魔になるから行けないの?」

 トウ=テンは首を横に振った。

「いいか。繰り返しになるが、今回は、昨日までとまるで状況が違う。村の状態も、略奪者の数もわからない。危険が大きすぎる」

  略奪を働くような無法者が、女子どもに何をするか。口にするのもおぞましい所業というものが、この世にはたくさんある。サクの場合、稀少価値があると見なされて命は奪われずにすむかもしれないが、どのみち人間としては扱われないだろう。

「すまない。諦めてくれ」

 サクは開いた口をぐっと閉じた。上目遣いでトウ=テンを睨み、目を泳がせ、眉間に皺を寄せながら地面に視線を落とす。

「きっ……昨日も、今日も……俺は、役に立ったでしょう?」

「サク。そういう話をしているんじゃない」

「そういう話だよ!」

 突然の激昂にトウ=テンは驚いた。こうして二人でいるときにサクが癇癪を起こしたのは、今回が初めてのことだった。

「違うっていうなら、俺ひとりで手一杯だなんて言わないで! わからないことがあるなら調べようよ! 俺はトウテンより速く走れる! 雪につまずいたりしない! 集中すれば遠くの音も聞こえるし、においだってわかるんだから!」

 とっさに反論できなかった。すべてその通りだったからだ。

 サクの身体能力は常人のそれを遙かに上回る。特に視力の悪さを補う聴覚、嗅覚の鋭さは驚異的だ。それに加えて不思議な力の働きで積雪をものともしない。性格は臆病だが一度腹をくくると剛毅で、母親から受け継いだ薬学、医学の知識もある。

 探知能力に優れた、機動力のある衛生兵。そう考えるとイメージしやすい。だがもちろん、サクは訓練を受けた兵士ではない。いくら適性があるとはいえ、十五歳の薬師に斥候の真似事をさせる馬鹿がどこにいる。

 すると、こちらの考えを見透かしたかのようにサクが言った。

「どうしたらいいか教えて。言うとおりにやれるから」

 トウ=テンは眉を顰めた。

 闇夜に紛れて敵状を探り、そこで得られた情報を西州軍に渡す。可能か不可能かでいえば、可能だ。ただ、相手がそれを信用するかどうかはまた別の話である。情報の信憑性を他人に納得させるには、相応の根拠と説得力が必要なのだ。

 黙っていると、サクが意を決したように木の陰から出てきた。

「トウテンはこういうことを今までたくさん見てきたんでしょう。人が殺したり殺されたりするのは、当たり前のことなの?」

「そんなことは、ない」

 よくあることだからと、それを当たり前のものとして受け入れてしまったら、人の世はどんどんおかしくなってしまう。

「……だったら」

 雲の切れ目から差し込む月の光が、積雪を撫でていく。小さな氷の粒がきらきらと星のように瞬いて、サクの足下を照らしていた。

「諦めないで。どこでも一緒に行くよ。守られるだけで何もできないなんて思いたくない。なんとかできたかもって、あとになってから何度も、何度も……もう、そんなふうに思いたくない」

 トウ=テンは瞬きをして目を細めた。

 眩しいのは雪だけではない。髪の色味のせいだろうか。サク自身が、ほのかに光っているように見える。それはなんとも不可思議な光景だった。

 ――あのとき、ああしていれば。

 この手の後悔は一生、残るのだ。ふとした瞬間に、降り始めの雨のようにポツリと心に落ちてきて、止まらなくなる。

 ――なぜ、なぜ、なぜ。

 よりにもよって、なぜ、あの日だったのだろう。

 妻の誕生日だった。家族三人で、日帰り旅行に行く予定だった。

 緊急の呼び出しを無視していれば。仕事を早く切り上げていれば。あと一時間でも早く、家に帰っていれば。

 考えても仕方のない後悔を、十年間、し続けている。

 単純な話だ。

 サクがここまで頑ななのは、母親を失った後悔と、残された家族まで失うのではないかという恐怖の裏返しだ。村人を助けたいという気持ちに嘘はないだろうが、第一の目的はぶれていない。

 おそろしいものを大事な人から遠ざけるために。仕事に出かけていくコスが、明日も明後日も、無事に帰ってこられるように。根底にある思いはきっと、それだけなのだ。

 トウ=テンは川を渡り、サクと向き合った。

「……おまえの気持ちは、よくわかる」

 故郷を失ったあと、トウ=テンは、もう二度と奪われないために戦うことを選んだ。数え切れないほど多くの戦場で、数多の命を奪った。奪われないためには奪い続けるしかなかった。殺される前に殺すしかなかった。

 必死でやってきたつもりだったが、自分はきっと、どこかで何かを間違えたのだろう。

 結局、命以外の何もかもを失った。

「俺にも昔は家族がいた」

 神妙な顔をするサクに、トウ=テンは静かに語りかけた。

「もう誰も、俺の帰りを待っていてはくれない。こんな人生は……生きる意味がない。それでもどうにか十年近く、一人で生きてみたが……空しいだけだった。それからは死ぬことばかり考えていた」

「……今も?」

「今は少し考えが変わったんだ」

「どんなふうに?」

 トウ=テンは口の端に苦笑を浮かべた。

「おまえが無茶ばかりするから、それどころじゃなくなったよ」

 かつての自分が重なる。

 戦場に身を投じた十四の春。危険だとわかっていても、そうせずにはいられなかった。自分に唯一残された、大事なものを守るために。

 理屈ではない。衝動だ。

 だからここは折れるしかない。

 意固地になったサクが、夜中にこっそり宿を抜け出す。ありそうなことだ。もし出て行くときに気づいたとしても、サクが本気で逃げたらトウ=テンの足ではどうあがいても追いつけない。想像するだけで頭が痛くなる。自分の手が届かない場所で危険な目に遭われるくらいなら、とことん付き合ったほうがマシだ。

 トウ=テンはサクの肩に手を置き、腰を屈めて目線を合わせた。

「いいか。今から言うことをよく聞け」

「うん」

 トウ=テンは傭兵から聞いた話をかいつまんで説明した。

「先行した西州軍はおそらく指揮官不在の状態で遭難している。連絡が取れなくなってから半日以上経っていることから、全滅も視野にいれなければならん。今必要なのは指針を定めるための情報だ。宿場に残留した部隊、そしてヒバリにいる本隊に、正確な状況をいち早く伝える必要がある」

「遭難した兵士の人たちを見つけて、連れて帰るってこと?」

「そうだ。生存者がいない場合は遺留品を持ち帰る。情報があっても相手に信用されなければ意味がないからな」

 宿場を出発してから先行隊に何が起きたのか。略奪者は何者で、何人からなる集団なのか。村の被害状況はどれほどか。最低でもこの三つは押さえておきたい。ある程度までは遺体の状態や遺留品からでも読み取れるだろうが、一番の手がかりは生存者だ。なんといっても当事者の証言に勝るものはない。

 宿場から出した伝令がヒバリに到着すれば、本隊にも動きがあるだろう。

 生存者を救助した場合、もしくは遺留品と情報を持ち帰った場合。どちらでもあえて報酬を要求する。そのほうが警戒されにくいからだ。自分たちは襲われた村の関係者ではないし、西州軍と縁もゆかりもない。傭兵は損得勘定で仕事を決める。それが「報酬はいらない」などと口にしようものなら、余計な疑いを生むだけだ。それでもケチをつけられたら、そのときは西州軍の不甲斐なさを罵倒してやろう。西州の民が略奪者の脅威に晒されているのは、おまえたちが軍隊としてまともに機能していないからだと。

 なんにせよ、情報は渡す。そこから先の判断はこちらの与り知るところではない。

「出発は三時間後。夜明けまでに片をつける。山に入ったら、おまえの感覚が頼りだ」

「任せて。近くに行けば匂いと、あとは息をする音でわかると思う」

 昨日と今日でサクの探知能力は証明されている。最短最速で西州軍の居場所を探り当てられるはずだ。

「俺は足が遅い。ひとりで先走るなよ」

「おいてったりしないよ」

「はぐれたら引き返して宿で合流だ。万が一、ひとりでいるときに略奪者と遭遇したらすぐに逃げろ。逃げ切れないと思ったら大人しく捕まって助けを待て。必ず迎えに行く」

「うん!」

 サクはひとりでも最低限の判断はできる。コヌサにいたときも、人気のない夜を待って行動していた。危険なものに自分から近づくことはない。夜の山中ならば、誰と出くわしても逃げ切ることができるだろう。

「無茶はするな」

「大丈夫。トウテンと一緒なら」

 トウ=テンはサクの頭にフードを被せた。

「宿に戻って腹ごしらえだ。食べたら出発まで眠っておけ」



 冬山は夜になるとほとんど視界が利かない。

 しかしそれは、人間であればの話だ。

 トウ=テンは足下に注意を払いながら、前を進んでいくサクの気配を辿った。

 一寸先すら見通すことが適わないこの暗闇も、サクにとっては障害にならない。生き物が発する音を聞き取り、臭いを嗅ぎ分け、気配を読む。その精度は、才能や鍛錬では届かない獣の領域だ。

 不意に、サクが立ち止まった。

「どうした」

「変なにおいがする」

 トウ=テンの鼻は何も感じなかった。冷たい空気が喉の奥を撫でていった。

「どんな臭いだ」

「山のにおいじゃない」

 それは元々山にあるものではなく、植物や生物から作られた薬の類でもない。

 となれば、臭いの元は外から持ち込まれたものだろう。

「……似てるの、コヌサで嗅いだ気がする」

 嫌な予感がした。

「焦げ臭さは?」

「ちょっとだけ」

 火薬か。

 トウ=テンは眉根を寄せた。

 村を占拠したならず者たちの中に、銃火器を装備している者がいる。それ自体は可能性のひとつとして考慮していたが、問題は連中が銃だけでなく爆弾を所持していた場合だ。もし雪崩でも起こされたらひとたまりもない。

「あと、遠くから血のにおい……」

「兵士のものかもしれない。人の気配がしたら止まって教えてくれ」

 それからどれだけ歩いただろうか。

 サクは立ち止まり、人がいるとおぼしき場所を口頭で伝えた。

「汗と血のにおい。近くにいる。二時の方角に三人、十時に五人、三時に四人。あと……もう少し先に五人くらい。散り散りになってる」

「どんな様子かわかるか」

「……息が震えてる。短くて速い」

 寒さと緊張、または恐怖によるものだと考えられる。十中八九、遭難者だ。

「人数が固まっているところへ案内してくれ」

 サクのあとをついていくと、不自然に盛りあがった雪の塊に行き着いた。

 一箇所に人が屈んで通れるほどの穴がある。雪洞を掘ったのだ。トウ=テンはサクを後ろに下がらせて、風除けに被せられた枝葉を指で軽く開いた。

「生きているか」

 外からそう声をかけると、

「だ、誰だ……?」

 震えたか細い声が返ってきた。存外、若い声だった。

 トウ=テンは中を覗いた。まだ二十歳前後の年若い青年が五人、身を寄せ合って寒さを凌いでいた。わずかな火に照らされた彼らの顔は不安と恐怖に引きつっていた。

「村の救援に向かった西州軍の兵士だな?」

「あんたは……」

「依頼を受けて捜索に来た。じきに応援が来る」トウ=テンは一番手前にいた青年の肩を叩いた。「よく耐えたな。もう大丈夫だ」

 強ばった体からみるみる力が抜けていった。ひとりが堪えきれずに嗚咽を漏らすと、それで他の四人も緊張の糸が切れたのか、互いの肩を抱き合いながら涙をぼろぼろ流した。

 トウ=テンは彼らが落ち着くまで待ってから、なにが起きたのかを尋ねた。

 青年たちは全員農村の生まれで、新兵ゆえに詳しいことは知らされていなかったが、そのおかげで先入観や思い込みのない、ありのままの状況を聞くことができた。

「俺たちは列の後ろのほうにいたんだ。村から逃げて来た男に案内されて、山の中を真っ直ぐ進んでいった。そうしたら……」

 村が見えてきた、そのときだった。

 辺りに乾いた破裂音が響いた。その直後、前のほうから逃げろと誰かが叫んだ。隊長の声ではなかった。戸惑っている彼らの頭上に、先に聞いたものと同じ破裂音が断続的に降り注いだ。

 始めは何が起きているのかわからなかった。倒れた仲間が腕から血を流しているのを見て、ようやく攻撃されていることに気づいたという。

 前方にいる仲間が次々とやられていく中、敵の姿は見えず、隊長からの指示もない。彼らは慌てふためいた。どうしたらいいか判断できず、結局、恐怖に駆られてその場から逃げ出した。背後で誰かが倒れる音がしたが、構ってはいられなかった。どこをどう逃げたかも覚えていない。雪に足を取られながら息が切れるほど走った。いつしか破裂音は止んでいて、ふと我に返って辺りを見渡してみれば、隊は散り散りになっていた。

 互いに仲間を捜してこの五人が合流できたものの、誰も状況を理解している者はいなかった。どうにか日が落ちる前に雪洞を掘ったが、今にも血の臭いを嗅ぎつけた黒い獣に襲われるのではないかと、一睡もできず震えていたのだという。

 一通り話を聞いたトウ=テンは、外で待っているサクにかいつまんで事情を説明した。

「夜の下山は無謀だ。兵たちは心身ともに疲弊しているし、中には手当が必要な怪我人もいるだろう」

 略奪の報せが届いてから半日以上経っている。村がならず者に占拠されているのは確実で、生存者の数は不明。仮にいたとしても、明日の朝まで生かされることはあるまい。

 村を占拠したならず者どもは軍隊相手に発砲するような連中だ。よほどの戦好きか、あるいは西州軍を端から舐めてかかっているか。どちらにせよ、逃げ散った兵士たちを見て味を占めただろう。救援部隊は戦わずして潰走した。その時点で村人は人質としての価値を失ったのだ。

 不意に、左手にぬくもりが触れた。トウ=テンは自分が無意識に、刀の柄を強く握りしめていたことに気がついた。深く息を吐きながら強ばった指をほどく。

「……大丈夫?」

「ああ」

 顔を見なくとも、こちらの胸の内は筒抜けのようだ。

 今は感傷に浸っている場合ではない。

 敗残兵たちが帰還すれば、西州軍に情報を渡すという目的は達成できる。

「生存者を一カ所に集めるぞ。仲間が近くにいれば互いに励みになる」

「うん」

 サクはトウ=テンの手を離した。

「みんなを連れてくる」

「待て。ひとりで行くな」

「トウテンはここにいて。目印だから」

 そう言い残して、サクは素早く駆けていった。

 後を追おうにも、姿が見えなければどうしようもない。信じて任せる他ないようだ。トウ=テンは雪洞に引きこもった五人に、外へ出るよう促した。

「今、おまえたちの仲間をここに連れてくる。手を貸せ」

「で、でも、黒い獣が……」

 今にも暗がりから黒い獣が飛び出してくるのではないかと、彼らは怯えきっていた。この様子では、木の枝に積もった雪の塊が落ちただけでパニックになりそうだ。

 トウ=テンは仕方なく言った。

「近くに黒い獣はいない。俺たちで退治した」

 雪を掘った地面に白樺の皮を重ねて火をつける。パチパチと音を立てて燃えあがった火が、周囲を赤く照らした。雪洞の一番手前にいた青年がおそるおそる顔を出した。周囲に危険がないか、注意深く観察する眼差しが、不意にぎょっと大きく見開かれた。

 怪訝に思って振り向いたトウ=テンは、同じくぎょっとした。

 闇の中に一筋の光が見える。不可解な現象の正体はすぐに知れた。散り散りになった兵士を迎えに出かけたサクが戻ってきたのだ。足下に光の筋を引きながら歩くサクの少し後ろには、傷つき支え合う三人の青年たちがついてきていた。

 焚き火の明かりが届く範囲まで来ると、サクは早足でトウ=テンに駆け寄ってきた。外套のフードからわずかに顔を覗かせて、得意げに微笑む。

「連れてきたよ。次はあっちに行ってくる」

 体が仄かに発光している。

 呆気にとられて言葉が出ないトウ=テンを尻目に、サクは次の要救助者のもとへ駆けていく。その一歩一歩に呼応するかのように、雪がきらきらと煌めいていた。

 いつのまにか雪洞から出てきた五人も、新しく連れてこられた三人も、皆が皆、まるで夢でも見ているかのように呆然としていた。

「あ、あれ……。あれ、なんなんだ」

「仕事中だ。構うな」平然とした顔を装いながらも、トウ=テンは内心、肝が冷えっぱなしだった。「元気な者は薪を集めろ。火を絶やすな」

 その後、サクは信じられない機敏さで西に東に駆け回って、散り散りになった兵士たちを次々と見つけては連れてきた。

 その夜、見つかった兵士の数は十七人だった。

 残りは捕まったか、殺されたか。ひとまず、これだけ生存者を発見できれば上等だ。

 トウ=テンは火の回りでうずくまる兵士たちを横目で見やった。

「獣に食い殺されるはいやだ……いやだ……」

「どうかお守り下さい……西州公様」

 震えながら必死に祈っている。誰も彼も、寒さと恐怖で判断力をなくしていた。

 やむなしだ。トウ=テンは腹から声を発した。

「全員、装備を確認しろ。手当の道具が要る。負傷している者は一カ所に集まれ」

 兵士たちは戸惑いつつも、のろのろと動き出した。

 不幸中の幸いというべきか、負傷兵の怪我はどれも命に関わるものではなかった。応急手当をする分には、兵士ひとりひとりに支給されている医療道具で事足りるだろう。

 サクが手際よく怪我人を手当てしていくのを見ながら、トウ=テンは兵士たちに指示を飛ばした。

「怪我をしていない者は三組に分かれろ。かまくらの作り方は知っているな」

 悪い想像や不安を頭から追い払うには、暇なく体を動かすことが一番だ。血の巡りが良くなれば、そのうち気持ちも落ち着いてくる。

 一時間後には三つの不格好なイグルーが出来上がった。朝までに雪が降ったとしても、これでどうにか凌げるだろう。

「交代で火の番を回せ。眠れなくても体を休めておけよ。日が昇ったら、おまえたちには自分の足で下山してもらう」

 青年たちの返事には気力が戻っていた。

 かつて久鳳の軍にいた自分が、西州の兵士に指示を出す羽目になろうとは。当時の同僚たちに見られたら何を言われるかわかったものではない。今回は仕方がないが、金輪際、こうした状況は御免被りたものである。

 怪我人の手当てが終わるのを待って、トウ=テンはサクを連れて兵士の輪から離れた。

「次は何する?」

 トウ=テンは答えず、フードの下に隠れた顔に触れた。

 頬が熱い。呼吸も速い。慣れないことをしたからか、あるいは疲労のせいだろうか。気分が変に高揚しているようだ。そして当の本人は、そんな自分の状態にまるで気づいていない。先ほどまで光を纏っていたという自覚も、おそらくないだろう。

「今日はここまでだ。疲れたろう」

「まだ疲れてない」

「ゆっくり深呼吸してみろ」

 サクは急いで息を吸おうとして案の定、激しくむせた。

「十分よくやった。もう寝ろ。俺も休む」

「……うん。わかった」

 焚き火のそばに戻る。最初に会った雪洞組が火の番をしていた。サクを休ませたいので雪洞を空けてくれないかと頼むと、彼らはもちろんと快諾してくれた。

「おかげで助かった。その子……ずっと働きっぱなしだったけど、大丈夫か?」

 サクはトウ=テンの腕にしがみついて、ぐったり項垂れている。具合が悪いように見えるが眠っているだけだ。

「それに、なんか光ってたような……」

「余計な詮索はするな。自分たちが無事に帰ることだけ考えろ」

 トウ=テンはさっさと雪洞に引っ込んだ。

 風よけに使われていた松の枝葉を敷いた即席の寝床に、サクを寝かせた。寝心地がいいとは言えないだろうが、何もないよりはマシだろう。毛皮の外套に包まれば最低限の暖は取れる。

 トウ=テンは外へ出て、兵士たちを改めて見回した。

 見つけたときは今にも死にそうな顔をしていた兵士たちも、散り散りになった仲間たちと再会できたことで人心地ついたらしい。無事を喜び合う声が聞こえる。いささか緊張感に欠けるきらいはあるが、立ち直りが早いのはいいことだ。

 生き残った者には何が起きたか報告する義務がある。明日の朝には、この十七人を宿場へ帰さなければならない。

 段取りを考えていると、外套の裾をぐいっと強めに引っ張られた。雪洞からサクが腕を出している。トウ=テンは屈んで中に戻った。

「どうした」

 寝ぼけ眼のサクに睨まれる。

「……トウテンも休むって言った」

「あとで休む。先に寝てろ」

「やだ。一緒がいい」

 サクは首を振り、トウ=テンにぎゅっと抱きついた。疲れたせいで子ども返りしているのだろうか。無理やり引き剥がしてぐずられても面倒だ。それに彼自身、疲れてもいた。仕方なく、トウ=テンはサクを懐に抱えて横になった。



 うつらうつらと朝を待つあいだ、こんな夢を見た。

 山の中だった。木々の枝振りや地形に、覚えがある。サクの家の近くにある獣道だ。季節は秋の頃。辺りでは十歳前後の子どもらが五人ほど、茶色い落ち葉を蹴散らしながら駆け回っていた。

「出てこい、獣の子!」

 木の陰からサクが飛び出した。六歳くらいだろうか。両腕で抱えた籠には、粒の大きな栗が何個も入っている。早く逃げたいのに、籠の中で跳ねる栗を気にして本気で走れないようだ。あっという間に悪童たちに取り囲まれた。

「おい、逃げんな!」

 肩を突かれてサクは尻餅をついた。それを見て、勢いづいていた悪童たちは躊躇した。あまりに軽い手応えに怖じ気づいたのだろう。

 どうしてよいかわからない戸惑いは、じきに憤りへと変わった。

「おまえ、いつも逃げてんじゃねえよ!」

 一人が口火を切ると、伝染したように周りもそうだそうだと声を合わせた。

「こっち見ろ!」

 籠を抱えて丸くなっていたサクは、おそるおそる顔を上げた。灰色の瞳を潤ませ、唇をきゅっと引き結んでいる。小刻みに震えているところが怯えた小動物を思わせた。

 悪童たちは毒気を抜かれたように目を瞬き、顔を見合わせた。

「……なんだよ。尻尾なんてついてねえじゃん」

「ヒゲもないぞ。耳も」

「隠してるのかもしれねえぞ」

 悪童の一人が手を伸ばして、白い髪を一房つまんだ。サクはビクリと体を縮めた。

「すげえ。見ろよ、こいつの髪」生え際を見せるように髪を引っ張る。「根っこのとこから真っ白だ」

「やめろよ。今に泣くぞ」

 隣にいた仲間がそれを諫めた、次の瞬間。

 サクの髪を引っ張っていた悪童に、誰かが飛びかかった。

 彼らとそう年の変わらない子どもだった。顔かたちを見て、トウ=テンはすぐにそれが少年時代のコスだと気づいた。

 コスは悪童に馬乗りになり、怯えて歪んだ顔に躊躇なく拳を振り下ろした。何度も、何度も。相手が泣きながら許しを請うても止まらない。両目をカッと見開いたまま無表情で殴り続ける。悪童の仲間たちは、その異様な迫力に気圧されて棒立ちになっていた。

 血に濡れた拳が石を握り込んでいるのを見て、トウ=テンは思わず止めに入った。振り上げられた腕を掴もうと伸ばした手が、空を切る。

 愕然としてから、ハッと我に返った。

 これは夢だ。いくら止めようとしたところで止められるものではない。しかしそうとわかっていても、焦燥感がじりじりと神経を焦がした。

 殴られている顔は血と涙でグチャグチャだ。

 このままでは殺してしまう。

「やめて!」

 サクが叫んだ。

 コスは殴るのは止めたが、今度は悪童の襟ぐりを掴んで首を絞めにかかった。

 こんなものはケンカではない。明確な殺意を持って息の根を止めようとしている。目の前で行われようとしている凶行に、トウ=テンは薄ら寒いものを覚えた。

「コス! やめてぇ!」

 前のめりになって首を絞めていた体から、不意に、力が抜けた。

 コスはふらりと立ちあがって肩で息をした。血が滴る拳を震えるほど握りしめる。悪童を見下ろす目にはまだ、燃えるような憎悪が漲っていた。

 今しがたまで、コスは自身でも止められない激情によって一線を越えようとしていた。それがなぜか、急に止まった。だらりと垂れ下がった両腕は、鉛のように重たげに見える。

 制止したサクですら、状況を理解できずに困惑していた。

 そこで目が覚めた。



 夜が明けた。

 木立に薄く差し込む朝日を、兵士たちが歓声で迎えた。

 昨夜は暗くて確認できなかったが、明るくなってみると一目瞭然だ。この場にいる兵士たちはみんな、二十歳未満の若者ばかりだった。これは偶然だろうか。トウ=テンは違和感を覚えながら、互いの無事を喜び合う彼らに軽食を取るよう指示を出した。

 雪洞に戻ると、サクが湯気の立つカップを差し出した。

「おはよう。昨日はお疲れさま」

 トウ=テンは白湯を受け取った。

「おまえも。眠れたか?」

「うん。あのね、トウテンの夢を見たよ」

「俺もおまえが夢に出た」

「ほんと?」サクの声が嬉しそうに弾む。「夢に出てきたトウテン、すごくかっこよかったよ。髪も服もシャキッとしてた。ねえねえ、ヒゲはもう剃らないの?」

「まだ寝ぼけてるみたいだな」

 トウ=テンはサクの額に触れた。幸い、熱はないようだ。

「今日はあいつらを無事に山から下ろさなければならん。おまえを頼りにしているんだ。腹ごしらえがすんだら怪我人を診てやってくれ」

 残り少ない食料を分け合い、簡素な食事を終える。

 負傷者のもとへ向かうサクを見送りながら、固まった腰を伸ばした。サクの疲労も心配だが、トウ=テン自身も好調とは言いがたい。四十にもなると若い頃とは疲れかたが違う。一晩ですっかり回復というわけにはいかないのだ。

「ありがとう。昨日は助かったよ」

 凝り固まった肩を回していると、雪洞組が緊張感のない顔を並べてやって来た。

「おかげでみんな生きて帰れる」

「まだ無事に帰れると決まったわけじゃない。気を抜くな」

 トウ=テンが厳しい声音で告げると、彼らはあたふたと弁解した。

「でも、黒い獣はもういないんだろ?」

「そうだよ。あんた言ってたじゃないか。退治したって」

 暢気というか、図太いというべきか。

「すべて退治できたとは限らん。それに肝心の賊は野放しだ。警戒を怠るな」

 新兵であろうと、いかに練度が低くとも、彼らは正規の軍人だ。脅かすつもりはないが、最低限の緊張感は持ってもらわなければ。

「ひっ!」

 不意に聞こえたサクの叫び声に、トウ=テンは振り向いて目を剥いた。隠していた白い頭髪が露わになっている。兵士がいたずらにフードを剥ぎ取ったのだ。好奇の視線に囲まれて、サクは顔を覆ってうずくまった。

「サク! こっちに来い!」

 そう言いながら、トウ=テンは自ら近づいていってサクを後ろに庇った。

 直前まで手当てを受けていた兵士を睨む。

「何の真似だ」

「ど、どんな顔してんのか気になって……」

 兵士は悪気はなかったのだと言わんばかりに青ざめて首を振った。

 訓練を受けた軍人とは思えぬ精神性に、トウ=テンはいよいよ耐えかねた。

「貴様らは現状が理解できていないようだな。指揮官を失い、任務も果たせず、野垂れ死にしかけておいてヘラヘラと。ひとつの村が地図から消えようとしているのがわからないのか! 恥を知れ!」

 和やかだった空気が、一瞬にして重いものへ変わった。

 自分たちが助かることを喜んでいる場合ではない。ここにいる兵士たちの任務は村人の救助および、ならず者の退治だったのだから。任務を果たせなかった敗残兵がその自覚まで失ったら終わりだ。

 萎縮する兵士たちを睨んでいるトウ=テンの袖を、後ろからサクが引っ張った。

「怒らないで」

 小声の訴えに、彼は深く息を吐いた。

「下山の準備を急げ」

 兵士たちが野営の片付けをしているあいだ、彼らから離れたところで、トウ=テンはなるべく心を無にするよう務めた。サクはときおり兵士たちほうを見つめ、浮かない顔をしていた。

「……トウテン」

「なんだ」

 言い過ぎを窘められるものと思っていたトウ=テンは、次の言葉に不意を突かれた。

「さっき言ってた……村が消えるって」

 ――とんだ失言だった。

 サクは不安そうに眉を曇らせた。

「村の人たち……助けるの、間に合わない?」

 トウ=テンは答えあぐねた。

 若い頃は何度も賊の討伐に駆り出された。経験からわかる。今回のような場合、生存者がいる可能性は限りなく低い。発覚から時間が経ちすぎた。何よりも致命的だったのが救援部隊の潰走だ。

 道理が通じないならず者を相手にするときは、初手から容赦なく力の差を知らしめ、徹底的に叩きつぶさなければならない。それが出来なければ賊をどこまでも増長させてしまう。久鳳が夷の蛮族を滅ぼすのに何年もかかったように。

「トウテン」

「……わからん」

 トウ=テンは目をそらした。

 略奪にあって滅んだ故郷の村を思う。

 家の中に隠れていた隣人たちは火によって炙り出され、夷の蛮族に生きながら食われていった。人のものとは思えぬ断末魔が耳の奥にこびりついて、しばらく眠れなかったことを覚えている。

 自分の復讐が終わっても、世の中には相変わらず理不尽が溢れている。

「準備できた」

 兵士がオドオドと報告に来た。

 身支度を調えた兵士たちを見やる。皆が皆、緊張した顔をしていた。

「歩けない者はいないな」

「ああ」

「六、六、五で班を組め」

 トウ=テンはあえて突き放すような物言いをした。

「あ、あんたらも一緒に来てくれるんだろ?」

 そう尋ねる兵士の声は縋るようだった。

 返事をするようサクに袖を引かれてもトウ=テンは答えなかった。固唾を呑む十七名を冷ややかに見渡して、ふいと顔を背ける。

 そのとき。

「待ってくれ!」

 雪洞組の一人が、大きな声を上げた。

「さっき、みんなで話してたんだ。その子、精霊憑き……なんだろ?」

 思わぬことを言われて、トウ=テンは振り向いた。

「精霊憑きを知っているのか」

 彼らは「やっぱり」と言わんばかりに顔を綻ばせた。トウ=テンの後ろからこっそり顔を覗かせるサクを嬉しそうに見やる。

「みんな知ってる。習ったんだ」

「習った?」

「座学の時間に教わった。まれに精霊に憑かれて生まれる人がいるって」

「数がすごく少ないって聞いてたけど、本当にいたなんて。こんな幸運はないよ」

 西州は近隣諸国のなかでも精霊憑きに寛容だ。こうして末端の兵士まで教育が行き届いているのを見て、トウ=テンは改めてそのことを実感した。

 精霊憑きに対する迫害と偏見は、巫女姫が統治していた時代のサナンが発端であると言われている。南方の彼の国は、かつて精霊憑きの力を戦争に利用していた。魔の道を歩む者、『魔道士』という呼び名も、そのとき生まれたのだ。ゆえに軍隊に相当する組織に所属する者は、大抵の場合、直接目にする前から座学でその脅威を教えられる。

 触れれば障りがあり、殺せば祟りをもらう。

 それが魔道士だ。すなわち敵対すること自体が危険なのである。

 ところが彼ら西州の兵士は、精霊憑きに会えたことを幸運だと言った。

「精霊憑きがいる土地は豊かになるって聞いたよ」

「加護があるんだよな。光ってたし、雪の上をすいすい歩いてたもんな」

 ――逆転の発想だ。

 危険性を伝えるのではなく、はじめから吉兆の証であると刷り込んでしまえば、結果的に祟りは起こらない。西州と諸国の精霊憑きに対する認識の差には、教育という名の下地があったわけだ。もっともそれは、サノワ村のような辺境の集落にまでは浸透していないようだが。

「西州の兵は、弱い人を守り助けるためにあれ」

 一人がそう言うと、周りの兵士たちも神妙な顔つきになった。

「兵学校を創設したとき、当時の西州公様が生徒達にかけられたお言葉だそうだ。あんたから見れば俺たちなんてガキ同然だろうけど、やるべきことは知ってる」

「言ってみろ」

「ヒバリにいる大隊長殿に、何が起きたか報告する。そして今度こそ任務を果たすんだ。困ってる人を助けるのが俺たちの役目なんだから」

 かつての西州公が唱えた、西州軍の理念。

 民を守り助ける。戦にとことん不慣れな兵士たちは、そのために賊の討伐に向かい、黒い獣の狩りにも身を投じるのだ。西州に徴兵制はない。つまり、ここにいる青年たちは自ら志願して軍人になったのである。

 今は弱く頼りないが、生きのびれば将来、西州を支える柱になるかもしれない。

「……次の指針を決めるのに、おまえたちの持つ情報が必要だ。無事に帰還できるよう俺たちで支援する。さっきのような悪ふざけは二度とするな」

 兵士たちは背筋を正して頷いた。

 これで心置きなく下山を始められる。

 そう思ったのも束の間、雪洞組の一人がわきから口を挟んだ。

「すみません。報告のことでちょっと、相談があるんですが」

「どうした」

「この二人が」彼が指した二人のうち片方は腕を吊り、片方は頭に包帯を巻いている。比較的、怪我が重かった者たちだ。「村へ向かうとき、隊列の前のほうにいたって言うんです。賊の顔も見たって。だけど……」

 左腕を吊った青年が後を引き継いだ。青白い顔からは、心身ともにひどく憔悴しているのが見て取れた。

「何が起きたか……今もわからないんです」

 彼らは後方との連絡役で、事が起きたとき隊長のすぐ後ろにいたのだという。

「村は目前でした。物見櫓に、男がいて。手に何か持ってました。それを空に向けたら、パンパンって音がしたんです。たぶん合図だったんだと思います。すぐに入り口から、仲間っぽい男が三人出てきました。こっちに近づいてきて、戦いになると思った。だから槍をこう構えて号令を待ったんです。そうしたら、急に、隊長がぐらっと倒れてきて……」

 次第に早口になりながら、彼は体の震えを抑えるように吊した腕に触れた。

「受け止めきれませんでした。潰されて雪に沈んで……起き上がろうともがいてたら、隊長の顔がすぐ横に来て……俺、心臓が止まるかと思った。隊長は……顔が、血でぐちゃぐちゃで……頭が割れて死んでいたんです。周りでは戦いが始まってた。誰かの叫び声が、ずっと聞こえてました。俺は雪の中で、隊長の死に顔を見ながら、叫ぶのをずっと我慢してた。音が止むまで……ずっと、じっとしてた。だから、う、腕が、いつ折れたか……全然覚えがなくて」

 膝から崩れそうになる青年を、横から仲間が支えた。

 続けて、頭に包帯を巻いた青年が口を開いた。彼はボロボロになった背嚢を前に抱えていた。

「僕は隊長が倒れたのとほぼ同時に、頭に……痛みが走りました。立っていられないほどの痛みでした。手で押さえても血がダラダラ流れてきた。頭の中が真っ白になって、とにかく逃げなきゃって……疲れて動けなくなるまで、雪の中を這って逃げました。たぶん、途中で力尽きて気を失ったんだと思う。起きたら辺りは暗くなり始めていました。起き上がったら、背中が妙に軽くて。背嚢がこんなふうになってたんです」

 差し出された背嚢を受け取ったトウ=テンは、思わず眉をひそめた。

 縦に大きく裂けている。中に入っていたものの殆どは、この大きな穴から零れ落ちたのだろう。しかし妙だ。生地の切れ端が襤褸のようにビラビラとなびいている。剣で斬られたとしても、銃で撃たれたとしても、このような痕跡にはならない。まるで直接、力尽くで引き裂かれたかのようだ。

「サク。こいつの頭の傷はどういうものだ?」

「大きな鉤爪で引き裂かれたみたい。切れてるんじゃなくて裂けてる」

 腕の骨折、頭部の裂傷。即死した隊長は頭が割れていた。投石を受けた場合、このような被害が出る。しかし背嚢の損傷は説明がつかない。

「おまえたちの前に出てきた三人の賊は、どういう武装をしていた? 具体的に何をされたか思い出せるか?」

 腕を吊った青年が項垂れて首を振る横で、頭に包帯を巻いた青年は記憶を辿るようにこめかみを押さえた。

「えっと……腰に剣と、手に持っていたあれは多分、銃……。銃は実物を見たことがないので、自信はありません。でも、これだけは覚えています。あいつらが何かする前に、隊長は倒れました」

 賊の行動を振り返る。

 敵側に、数の不利を覆せるだけの勝算と自信があったのは間違いない。行動がそれを物語っている。物見櫓に見張りを立てながらギリギリまで西州軍の接近を許したこと。たった三人で、部隊の前に姿を現したこと。

 顎に手を当てて、トウ=テンは呟いた。

「……顔を」

「はい?」

「顔を見たと言ったな」

「み、見ました。確かに見ました」腕を吊った青年が勢いよく頷く。「三人並んで、こっちに歩いてきたんです。真ん中のやつは酒焼けした赤ら顔で……」

「顔を目視できる距離まで、向こうから近づいてきたんだな?」

 トウ=テンは語気を強めて確認した。当事者たちはうろたえて顔を見合わせたあと、困惑と共に頷いた。

「トウテン?」

 サクに袖を引かれても、トウ=テンはすぐには反応できなかった。

 もしこの予想が当たっていたのなら、先遣隊が壊滅するのも当然だ。敵の危険性は黒い獣に匹敵するか、場合によってはそれすらも上回る。

 四肢に血が巡る。心臓が熱い。体はすでに臨戦態勢に入っていた。

「逸脱者がいると伝えろ」

 首を傾げる兵士たちに詳しく説明している暇はない。

「わかる者ならばそれで通じる。あとは見たままを報告すればいい」

「で、でも、信じてもらえるかどうか……」

「それは上官が決めることだ」彼はサクのほうを向いて言った。「サク、こいつらを麓まで送ってくれ。ここからは別行動だ。俺は村へ向かう」

 一瞬固まったあと、サクは素早くトウ=テンの腕にしがみついた。

「やだ! なんで? どうして?」

 兵士たちをその場に待たせて、トウ=テンは木の陰までサクを引きずって行った。

 目線の高さを合わせて声を潜める。

「山の中はおまえの領分だ。黒い獣からも守ってやれる」

「なんでトウテンだけ一緒じゃないの?」

 そう聞いてくる顔は今にも泣き出しそうだった。

 話そうか迷ったが、トウ=テンは正直に考えを打ち明けた。

「村を襲った賊は狡猾だ。巧妙な手口で軍隊を誘い出し、真っ先に指揮官を殺した。若い兵士を逃がしたのは情報を攪乱するためだ。そんな連中の中に本当に逸脱者がいるのなら、取り逃すわけにはいかん」

「いつだつしゃ?」

「常人にはない異能を持っている。国家間で情報が共有される例外的な存在だ」

「よくわかんないけど……すごく危ないってこと?」

「そうだ」

 逸脱者の異能は、その目に映るすべてのものに及ぶ。賊がわざわざ先遣隊の前に姿を見せたのは、隊を率いる指揮官を排除するため、その姿を目視する必要があったからだ。

 対象を視界に捉えたら、あとは破壊のイメージを投影するだけでいい。逸脱者の思念が鮮明であればあるほど、力は強く顕れる。

 トウ=テンは過去に二度、逸脱者と戦ったことがある。一度目は運が良かった。二度目は、魔道士の支援を受け、傭兵団と連携し、同僚と三人がかりで制圧した。特務機関に貸しを作ったと考えても割に合わない、と同僚のひとりがぼやいていたが、同感だった。目に見えない破壊の力は常人の理解を超えている。

「危険でも誰かがやらなければならん。賊のうち、誰が逸脱者なのかを確かめる」

 サクは拳を握りしめ、恨みがましい涙目で地面をじっと睨んでいる。

 下手な言葉よりもよほど訴えるものがあった。トウ=テンはサクの肩に手を置いた。

「先に山を下りてくれ。おまえは大丈夫だ。精霊憑きだと思われているうちは誰も手を出さない」

「……一緒に行きたい」

「だめだ」

 こぼれ落ちそうな涙を指で拭いながら、トウ=テンは諭すように言った。

「あいつらにはまだ助けが必要だ。助けた命に責任を持て」

 サクは目も合わせず地面を睨んでいたが、じきに観念したようにしょんぼり頷いた。

 トウ=テンは兵士たちの輪へ戻った。

「待たせたな。もう大丈夫だ。あいつがいれば黒い獣に襲われる心配はない」

「本当に一人で行くんですか?」

「様子を探るだけだ。あとで合流する」

「ならいいけど……」

 兵士たちは離れた場所で立ちつくすサクを心配そうに見やった。

「あの子、あんたと離れて大丈夫なのか?」

「人慣れしていないんだ。もう脅かすなよ」

「娘さんのためにも早く戻ってきてくれよ」

 トウ=テンはあえて誤解を解かなかった。親子だと思わせておいたほうが都合が良い。

 一夜を震えて過ごした兵士たちは今や、息を吹き返したような気力ある顔をしていた。皆、信じているのだ。山を下りるまでのあいだ、精霊憑きが黒い獣から自分たちを守ってくれると。

 一方で、期待をかけられている当人はというと、俯いたまま動こうとしない。

 トウ=テンはサクの傍らに立った。フードの下からチラリと覗いた目は、気弱に潤んでいた。

「サク」

「……トウテンは」サクは消え入るような声で呟いた。「……俺がいないほうが、うまくやれる?」

「馬鹿を言うな」

 そんなことを気に病んでいたのかと、トウ=テンは自嘲混じりの苦笑を零した。

 一人で出来ることなどたかが知れている。

「……若い頃」ぽつりと、昔の思い出を口にしていた。「仲間とはぐれて、山の中を夜通し歩いたことがある」

 突然始まった脈絡のない話に、サクは怪訝そうに顔を上げた。

「月も出ていない暗い夜でな。道も方角もわからなくて、なにも見えないのにどこからか獣の声がする。あれには参った。おかげで今でも夜の山は苦手だ」

 振り返れば、嫌な記憶ばかり思い起こされる。夷の蛮族から必死で逃げた恐怖や、仲間とはぐれて一人きりでさまよった孤独。しかし夜の山が苦手だなどと、みっともなくて、亡き妻を除いて誰にも打ち明けたことはなかった。

 今までは。

「山の中で、おまえほど頼もしいやつはいないよ」

 見通しの悪い闇の中を、安心して歩ける日が来ようとは夢にも思わなかった。

 サクはポカンとトウ=テンを見つめてから、むず痒そうに目を伏せた。口元が緩んでいる。それは夢の中で見た、ヨウ=キキに褒められたときのコスとよく似ていた。

 血の繋がりはなくとも、やはり一緒に育った兄弟なのだと感じた。

「行けるな?」

「ん……」サクは一瞬逡巡したものの、頷いた。「……うん。やってみる」

「頼むぞ」

「暗くなっても帰って来なかったら迎えに行くからね」

「ああ。おまえが来てくれるなら安心だ」

 トウ=テンがそう応じると、サクは胸に点る火を抱くように柔らかく笑った。



 山のさらに奥深くへ足を踏み入れたトウ=テンの心は、急速に冷えていった。

 雪上に、何人もの人間が倒れ伏している。西州軍の兵士と、おそらく山村の住民であろう、みすぼらしい身なりをした男たち。両者とも、とうに冷たくなっているが死体の状態が異なる。兵士たちが全身を乱雑に斬りつけられているのとは裏腹に、男たちは、頭や胸といった急所を一撃で突かれて絶命している。

 返り血で汚れた衣が、末期の表情が、ここで起きた悲劇を物語っている。

 賊たちは村人に武器を持たせ、あろうことか抵抗する術のない兵士を殺させたのだ。実利とは関係なく、嗜虐心を満たすため。一時の享楽のためだけに。

 死者の血はまだ乾いていない。

 トウ=テンは死体のあいだを歩いて通り抜け、刀に手をかけた。

 五感が、神経が研ぎ澄まされていく。全身を熱い血が巡る。

 風の音に寸時、雑音が紛れた。嘲笑の含み笑い。

 目線を交わす気配を追う。木の陰に三人。

 認識した瞬間、トウ=テンは踏み込んでもっとも手近にいた者を斬った。忘我の貌が張りついた肉塊がずるりと切断面から滑り落ちる。その間、風体を素早く検分した。三十代半ばのサナン人。曲がり刀と短銃を腰帯に差している。短銃のほうは見覚えがあった。久鳳軍で初めて採用された単発銃。重くて狙いがつけづらく、耐久性に難がある粗悪品だ。数年前に払い下げられた装備が巡り巡って傭兵の手に渡ったのだろう。

 北東の木の陰からヨーム人らしき色白の男が、同型の銃を構えて飛び出した。瞬時に木の陰へ身を潜める。離れた場所で乾いた樹皮が弾ける音を聞きながら、トウ=テンは死体の腰帯から短銃を引き抜き、狙いを定めて撃った。右の眼窩を撃ち抜かれた男は背中から倒れた。

 残るは一人。

「軍に雇われた傭兵か?」

 割れたダミ声が響いた。発砲音と共に、銃弾が虚空を貫いていく。

 トウ=テンは刀を構えて木の陰から体を出した。

「馬鹿が!」

 男は発砲した。

 ――こいつも違う。逸脱者ではない。

 右脇腹を穿つはずだった鉛玉の軌道を刀身で逸らし、トウ=テンは一気に距離を詰めた。男が剣を抜くよりも先にその体を木の幹に叩きつける。

 後頭部をしたたかに打ちつけた男は呻きながらトウ=テンを睨み、しかし次の瞬間、真っ青になって震え出した。その歪んだ双眸は、地面に転がる男自身の右腕を凝視していた。

 刀についた血を払いながら、トウ=テンは眉をひそめた。

 ――あまりにも鈍い。

 若い頃と比べて体力は衰えているはずなのに、昔と同じか、それ以上に体が軽い。

 奇妙な感覚を覚えつつ、トウ=テンは男に短く尋ねた。

「仲間は何人いる」

 男は両目を血走らせながら、残された左手で肘から先がない腕を抱え込んだ。その横腹を蹴りあげて、トウ=テンは男の片耳を削ぎ落とした。

「人数だ。言え」

 顔半分を血で濡らしながら男は叫んだ。

「はっ、は……八人! 俺たちを入れて八人だ!」

「残りの仲間はどこにいる」

 目を泳がせる男の鼻筋に刀の切っ先を突きつける。

「答えねば鼻を落とす」

「む、村だ。まだ村にいる。今頃、ガキどもを運ぶ算段をつけてるところだ。売って奴隷に……サナンの仲買人と、は、話がついてるんだ」

 驚愕を禁じえなかった。

 戦争が終わって六十年が経とうというのに、サナンではまだ奴隷が売買されているというのだ。巫女姫の独裁政治を終わらせた革命の英雄トビアーシュも、サナン全土に根づいた奴隷制をなくすことはできなかったということだろう。

 年端もいかない子どもを奴隷にするなど、到底許容できることではない。トウ=テンは強い嫌悪感を覚えた。

「屑め」

「ま、待ってくれ!」

 男は亀のように体を丸めて必死に命乞いした。

「勘弁してくれ、仕方なかったんだ! やつに逆らったら殺される!」

「誰のことだ」

「カーダン! 飲んだくれのカーダンだ!」

 聞き覚えのない名前だ。あるいは、悪辣極まる賊を束ねるその男こそが、逸脱者なのだろうか。

 考え込んだ一瞬の隙に、高い笛の音が空気を引き裂いた。

 血まみれの左手で笛を握りしめながら、男が高笑いをあげた。

「馬鹿が! すぐ仲間が来る! おまえを殺しに」

 言い終わる前に、上の方から爆発音が響いた。

 地面が揺れた。

 激しい音と共に、雪煙が間に空を覆い隠した。片腕をなくした男が呆然と空を仰ぐ。その光景を最後に、逃げる暇もなくトウ=テンは頭から白い波に飲み込まれた。

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