08.外からの風景


 白い息の向こうに、手を振るロカの姿が見えた。

 肩からずり下がってきた荷物を背負い直し、スイハは手を振り返しながら急いで州都の正門まで走っていった。

「すみません。遅れました」

「そんなに焦らなくていいんだぞ」

「ううん、急がなきゃ。早く行こう、先生」

 スイハはロカの背中を押して出発を急かした。

「おいおい。どうしたっていうんだ」

「街道に黒い獣が出たって聞いてから、姉さんの心配性が始まっちゃって。やっと抜け出してきたんです」

「護衛を雇ったことは言ったんだろう?」

「言ったけど聞かないんだ。どうしても行くっていうなら、兵部省に頼んで一個分隊をつけてもらうなんて言い出すし……」

 昨夜の言い合いを思い出して、スイハは気が滅入った。

 メイサが言う一個分隊とは、人員十名前後からなる小部隊だ。そこに編成される人たちは当然、国に仕える軍人である。それを私用で動かすなど正気の沙汰ではない。

 黒い獣が出た現地にはすでに軍が向かっているし、ロカが魔道士を護衛に雇ったから心配はいらないと、スイハは必死で姉を宥めた。

 説得はうまくいかなかった。今朝起きると、玄関は姉の息がかかった使用人に押さえられていた。スイハは仕方なく朝食後、部屋に籠もるふりをして窓から脱出してきたのだ。

 必ず帰るから許して欲しいと、自室の机の上に残してきた書き置きを、姉は読んでくれているだろうか。

 計画を打ち明けたときは賛成してくれたのに、と。昨夜は裏切られた気分になったものだが、一夜明けて頭が冷えてみれば、反対するのも当然だと思えるのだ。このあいだは立場が逆だった。コヌサに行くメイサに対して、スイハが反対する立場だった。

 ロカが難しい顔でうなった。

「メイサは黒い獣の被害者を直に見ているからな」

 スイハは罪悪感で胸がチクリとした。

 行く前も、帰ってきてからも、姉はずっと気丈に振る舞っていた。それが不意に、堰が切れたように泣いて取り乱したのは、やはりこれまで相当、無理をしていたということだろう。元々、心根が優しくて繊細な人だ。黒い獣と直接対峙することはなくとも、ロカが言うように、後処理でたくさんの怪我人や死者を目にしただろう。体は無傷でも、心に小さな傷をいっぱい負っている。

 できることなら、そばにいて守ってあげたい。

 だがもう、時間がないのだ。

 街道の騒ぎが落ち着くのを待てば安全は確保できるだろう。ただし、そのときカルグが生きていなければ元の木阿弥である。

「姉さんには帰ってから謝ります」

「……そうか」

 スイハは胸元にしまった封書に、服の上から触れた。

 最後に見舞いに行ったときカルグから託されたものだ。ヨウ=キキに宛ててしたためたものだという。迫り来る死への覚悟が出来ているとはいえ、兄とてこのままで終わるつもりはないということだ。

 ――この手紙を遺書にはしない。必ず届ける。

 ロカと並んで歩きながら、スイハはふと気になって尋ねた。

「ところで先生。護衛といっても、魔道士は何ができるんですか?」

「魔道士は精霊を使役して奇跡を起こす……と、もっともらしいことを言っておいてなんだが、俺も詳しいことはわからなくてな。彼らは基本的に秘密主義で詮索を嫌う。独特の価値観を持った人種だ」

「どうやって知り合ったんです?」

「文献を探してあちこち巡っていたときに、向こうから声をかけてきた。西州の歴史に興味があるとか……どこまで本当かわかったもんじゃないが、実力は確かだ。だから護衛に雇った。あそこに……」

 街道の脇に停まっている馬車を指差して、ロカは驚いたように目を見開いた。スイハもあっと声をあげた。

 馬車の周囲に男が四、五人、青黒い顔をして地面に倒れている。

「人が倒れてる!」

「スイハ、待て……!」

 忠告を聞かずに倒れている人間に近づいた。

 いずれも州都の住民ではない。異国風の顔つきや、腰に武器を提げているところを見るに、おそらくよその土地からやって来た傭兵であろう。死んではいないようだが、皆が皆、目を剥き出して口の端から泡を吹いている。

 まさか毒物中毒だろうか。

 スイハは一人の肩をおそるおそるつま先で突いてみた。

「どうしたんだろう」

「酸欠で気を失ってんのさ」

 突然知らない声が降って来て、スイハはぎょっと顔をあげた。馬車の荷台から、黒髪を垂らしたヨーム人の男がこちらを見下ろしていた。

「あなたは?」

 年の頃は二十代前半か、半ばほどだろうか。次兄ホノエと同年代に見える。長い髪を刺繍が入ったバンダナでひとつにまとめ、木彫りの装飾をあちこちに身につけている。端正な顔立ちに似合わぬ奇妙な格好だが、それよりも、鮮やかに煌めく緑の瞳が印象的だった。

 男はスイハを値踏みするように眺めたあと、ロカに皮肉めいた目線を送った。

「聞いてたよりガキだな」

 藪から棒に失礼なことを言われてスイハはムッとしたが、ここで怒りを露わにするようではまさしくガキだ。おそらく彼が護衛の魔道士なのだろう。自ら未熟を証明してロカの顔を潰すわけにはいかない。

「スイハ=ヤースンです。あなたが先生に雇われた魔道士ですか?」

「ナサニエルだ」

 彼は馬車から降り来ると、そう名乗って手を差し出した。

 ――なんだ、口は悪いけど友好的じゃないか。

 拍子抜けしながらスイハは握手に応じた。

「ここで倒れている人たちは?」

「どこの誰やら。馬車を奪おうとしてきたんで返り討ちにしてやったんだ」

「ひとりで? どうやって?」

「おいおい。おれは子守に雇われたのか?」

 勘弁してくれと言わんばかりに彼は眉を顰めた。

 スイハは口を噤んだ。魔道士は秘密主義で詮索を嫌う。ロカに言われたばかりなのに、好奇心が勝ってつい質問攻めにしてしまった。

 慌てて頭を下げる。

「気分を悪くしたのならごめんなさい。気になったので」

「まあまあ不愉快だが、正直なやつは嫌いじゃない」

 なにはともあれ、スイハは礼を述べた。

「馬車を守ってくれてありがとう、ナサニエル。心強いよ。これからよろしく」

 ナサニエルは目を瞬き、不意に口角を上げて笑った。

「あらかじめ言っておくが」と、前置きして彼は言った。「ロカと組んだのは利害が一致したからだ。守ってもらえるなんて期待するなよ。おれは護衛なんて柄じゃないんでな」

 スイハが絶句しているうちに、ナサニエルは手を振って御者台のほうへ行ってしまった。

「まあ、なんだ……」

 ロカが取り繕うようにスイハの肩を叩いた。

「魔道士としては優秀な男だ」

 ならず者たちを警邏に引き渡して、彼らは州都を発った。

 馬車を引くのは二頭の若い西州馬だ。西州馬は西州原産の品種で、優れた軍馬として久鳳から高い評価を得ている。我慢強さと負けん気を併せ持った気性と、環境を選ばない強靱な肉体が軍役に適しているらしい。

 スイハは揺れる馬車から顔を出し、はじめて州都の全容を外から眺めた。遠ざかっていくにつれ、この先に待っている世界への期待と、故郷を離れる寂しさが同時に襲ってきた。それは旅立ちの実感だった。

 ガタガタと音を立てていた車輪が、滑らかに回り始めた。降り積もった雪に車輪が線を引いていく。このあたりの雪かきは州都の管轄だが、黒い獣を警戒して回数を減らしているのだろう。

 州都が見えなくなったところで、スイハはロカに切り出した。

「先生。聞きたいことがあります」

「なんだ?」

「遺児のこと。半地下では話せなかったこと、たくさんありますよね。誰に聞かれるかわからなかったから」

 ロカは虚を突かれた顔をしたあと、憚る目つきで御者台のほうを見やった。

 手綱を握っていたナサニエルが体を半分こちらに向けた。ロカと目が合うや、彼は皮肉っぽく目をすがめた。利害が一致しているというが、二人のあいだで詳しい情報共有は行われていないようだ。

 逆にちょうどいい。

「三人で情報を共有しておきたいです」

「いいのか、おれを信用して?」

 ナサニエルはためらうロカを露骨に揶揄していた。

 スイハは御者台のほうに顔を向けた。

「ナサニエルにも聞いてほしいんだ。僕は先生を信じているから、先生が見込んだあなたのことも信じる」

「へえ?」

 ナサニエルは御者台からくるりと振り返った。緑の美しい瞳に好奇心の輝きを湛えた顔は、握手を交わしたときよりも親しげに見えた。

「おれのことをどう聞いてる?」

「西州の歴史を調べているって」

「そうだ。でも本当に知りたいのは、教科書に載るようなありきたりの歴史じゃない。西州公の一族のことだ」

 彼の物言いはあまりに明け透けで、スイハは驚きを禁じ得なかった。

「遺児ってのは西州公の子どものことだろう」

「耳が早いね」

「二年前から個人的に調査しててね。ヤースン家が血眼で捜してることも知ってる。見つけたらどうするつもりだ。無理やりさらってきて西州公でもやらせるのか?」

 初っ端からうんざりした。家の中では父親に反発している自分も、外から見れば『ヤースン家』の一員なのだと思い知らされる。会ったばかりで仕方ないとはいえ、傭兵を使って遺児を捜し出そうとしている父と一括りにされるなど心外だ。

 誤解を解き、目線を合わせる必要がある。

 スイハはきっぱりと言い切った。

「そうさせないために会いに行くんだ。腐傷の兄を助けて、西州公に依らない新しい国を作る。それが僕の目的だよ」

「腐傷を治せるのは奇跡だけ。結局、州都に連れて行くことになる」

「生まれがなんであれ、どう生きるかはその人の自由だよ。ナサニエル」

 スイハは緑の瞳を真っ直ぐ見返した。

「自分でも傲慢だと思うけど、僕はすべて叶えたくて州都から出てきたんだ。兄を助けることも、遺児の自由を守ることもね。あなたの目的は知らないけど、僕の方針を聞いた上でまだ利害が一致していると思うなら、このまま話を聞いてほしい。もし納得できないなら今すぐ馬車を降りてもらう」

 ナサニエルは指を組んで言葉の裏を探るようにスイハをじっと見つめていたが、やがてヘッと息を吐いて肩をすくめた。

「本当にガキだな。嘘をつく頭もないときた」

 彼はスイハに向かって何かを放った。

 それは鳥を象った木彫りの根付けだった。

「やるよ。持っておけ」

「これは?」

「お守りさ。力を送る目印になる。護衛なんて柄じゃないが、降りかかる火の粉くらいは払ってやるよ」

 もらった根付けを握りしめるとジワリと手の中が熱くなった。かと思った次の瞬間、ひんやりとした空気が指のあいだをスッと通り抜けていった。スイハは驚いて手を開いた。その様子を見ていたナサニエルがくつくつ笑う。愉快そうに細められた目の奥から覗くそれは、イタズラが成功したときに湧きあがる静かな喜びだった。

 外の世界には、こんな力を持った人がいたのだ。

 早速、新しい経験ができた。木彫りの根付けを懐にしまって、スイハは魔道士に笑みを向けた。

「いいね。よろしく頼むよ」

 隠し事など、大なり小なり誰でも持っているものだ。秘密を持ちながらも開けっぴろげな、取り繕わないナサニエルの性格をスイハは好ましく感じた。

 いい護衛を選んでくれた。

 ふと見れば、ロカは暗い顔で俯いていた。

「先生?」

 声をかけると、彼は白昼夢から覚めたように顔をあげた。

「いや、なんだ……」珍しく言いよどんだかと思うと、力なく肩を落とす。「……少し、昔を思い出してな。まあ、そんなことは今はいいんだ」

 ロカは夢の残滓を振り払うように、努めて普段通りの態度を装った。

「遺児の話……だったな」

 お待ちかねの本題だ。長い話になるだろう。スイハは尻の下に畳んだ毛布を敷いて、背筋を伸ばした。

「自分でどこまで調べた?」

「西州公様の侍医だったヨウ=キキが姿を消したのが十六年前。そのとき彼女のお腹には赤ん坊がいた。西州公様の子で間違いないそうです。典薬寮のラカン先生が教えてくれました」

「俺の話を鵜呑みにせず、ラカンから裏を取ったんだな。良い判断だ」

 ロカの声には静かな喜びが滲んでいた。

 緩みそうになる口元を引き締めて、スイハは話を進めた。

「先生は典薬寮で話を聞いたわけじゃないんですよね。ヨウ=キキのことをどこで、どうやって知ったんですか?」

「実を言うと、名前だけは昔から知っていた」

「えっ。まさか知り合い?」

「同じ学院の先輩後輩……といっても、会ったことはない。噂で聞いただけだ。医学部の卒業生が、西州の典薬寮に入ったって。俺が中等部に入った頃だから、もう二十年近く前になるのかな。その噂の人物がヨウ=キキだったんだ」

 学院に流れた噂の出所は今となっては調べようもないが、それが事実であることをロカが知ったのは、卒業後、宮中で働くようになってからだ。

「これは後から調べたことなんだが、学院にいた頃のヨウ=キキは医学部の特待生で、麻酔の研究をしていたそうだ」

「麻酔?」

「当時の久鳳は戦争続きで怪我人が絶えなくてな。痛み止めの麻薬自体は昔から使われていたが、戦地の医療現場では、より精度の高い麻酔薬とそれを安全に運用できる専門医が求められていた。ヨウ=キキは期待の才媛だったわけだ」

「必要とされてたのに国を出たんですか?」

「そこはまあ……条件が合わなかったんだろう」

 そう言いながらロカは目をそらした。

 事情は知っているが、言いたくない。そういう顔だ。

「昔のことはいいから話を今に戻せよ」

 ナサニエルが外野から野次を飛ばした。

 この遠慮のなさがありがたい。彼の言うとおり、本題から逸れている暇はないのだ。スイハはすかさず言った。

「余計な質問でした。すみません、先生。続きをお願いします」

 ロカは頷いて口を開いた。

「……俺が次に彼女のことを思い出したのは、西州に来てからだ」

 きっかけは、ヤースン家に居候していたときにラザロと交わした何気ない会話だった。

 久鳳の社会では落伍したらそれまでだが、西州は違う。人種の別なくあらゆる者に再起の道を与えてくれる。永住するにはいくつか条件を満たさなければならないが、まっとうに働いていれば特別難しいものではない。

 亡命してきた自分を迎え入れてくれて感謝している。ロカはテーブルの向かい側にいるラザロに謝辞を述べた。

『礼には及ばない。西州公様のお心に添ったまでのこと』

 そう答えたラザロの声や表情は、西州公を心から信奉しているとわかる敬虔で穏やかなものだった。

「ラザロと話していて、そういえばと思い出して尋ねたんだ。ヨウ=キキのことを」

 自分と同じく母国を捨てて西州で人生をやり直した人間に、ふと興味が湧いたのだ。噂が正しければ、その女は典薬寮にいるはずだ。しかし、ロカがヨウ=キキの名を出して尋ねると、ラザロの穏やかだった表情がやにわに険しくなった。

 ロカは苦笑した。

「そんな女は知らんと一蹴されたよ。まったくらしくなかった。知っていると白状したようなものだ」

「父上は、ヨウ=キキに良い感情を持ってない?」

「おそらくな」

 スイハは短くうなった。

「関係が悪かったのかな」

「考えても仕方がない。推察するには情報がなさすぎる」

「事情によっては、ヨウ=キキは僕らと会ってくれないかも……」

「それなら心配ない」

 頭に疑問符を浮かべるスイハに、ロカは単刀直入に言った。

「結論から言うと、ヨウ=キキはすでに亡くなっている」



 馬車の揺れも、尻の痛みも忘れて、スイハはロカの話に聞き入った。

「俺がここ数年のあいだ、古書蒐集のために各地を回っていたことは知っているな。彼女の名前を聞いたのは意外な場所だったよ」

 それはミアライ地方にある、ヒバリという町でのことだった。

 町で一番大きな宿屋に立ち寄ったロカは、入り口わきの掲示板に『薬種調合承リマス』と書かれた古い貼り紙があるのを見つけた。数ある掲示物のなかでなぜそれだけが目についたかというと、紙面の隅に同じ文言が小さく久鳳語で書かれていたからだ。

「宿の主人に貼り紙のことを聞いたら……今にして思うと、俺が久鳳人なのを見て親切で教えてくれたんだろうな。キキさんのところなら安心して診てもらえると彼は言った」

 頭の片隅に謎のまま取り残されていた名前を耳にして、ロカは思わず身を乗り出した。

「あのヨウ=キキかと、つい聞いてしまったんだ。通っていた学院の卒業生だと説明すると、世間話ついでに色々話してくれたよ。彼女は腕の良い薬師で、ヒバリを中心に何人か得意客を抱えていた。残念ながら三年前に亡くなってしまったが、仕事のほうは教え子が引き継いだという話だ。そのとき俺はまだ、ヨウ=キキに子どもがいるとは考えもしていなかった。だが虫の知らせというか……まあ、性分と言ってしまえばそれまでだが。ラザロがあんな態度を取った理由が気になってな」

 ヨウ=キキは月に何度か町を訪れたが、どこでどのように暮らしているのか、誰にも私生活を明かさなかったという。

 ロカは疑問を覚えた。

 久鳳の学院を卒業し、西州の典薬寮で働いていた才媛が、なぜ、人目を忍ぶようにミアライでひっそり暮らしていたのか。

「ヨウ=キキのことを調べるために、俺はヒバリで暮らしている久鳳人を訪ねて回った。その中に最低でも一人は、ヨウ=キキの世話になった者がいるはずだと考えたんだ」

「西州に定住してる久鳳人はそれほど多くないんですよね」

「ああ。見知らぬ他人が同郷のよしみで訪ねてきたとして、金の無心ならともかく、久鳳語が通じる薬師を捜していると聞かれて突っぱねるやつはいない」

 ロカがヒバリ在住の久鳳人を網羅するまで、そう日数はかからなかった。

「俺が訪ねた久鳳人の大半は、ヨウ=キキのことを詳しく知らなかった。だが例外が一人いたんだ」

 一筋の光明を与えてくれたのは、町の片隅にある長屋で一人暮らしをしている老婦人だった。

「その婆さんは旦那を亡くしてからずっと独り身でな。しっかりした西州語を喋るんだが、ボケているせいかたびたび久鳳語が混ざるんだ」

「混ざる?」

「何十年と異国で暮らしていても、年を取って物忘れがひどくなると人は無意識に故郷の言葉を話すようになるものでな。俺が久鳳語で話しかけると彼女は大層喜んだ。おかげで話を聞くことができたようなものだ。彼女はヨウ=キキとそれなりに親しい付き合いがあったようで、嬉しそうに昔のことを話してくれたよ。これはそのとき聞いたことだ」

 ロカはスイハの目を見ながら言った。

「三年前。最後に訪ねてきたとき、彼女は子どもを連れていたそうだ。十二歳くらいの、雪から生まれたような白子だったという」

 雪のように白い肌と髪。ユウナギ公子と同じだ。

 スイハは鼻息荒く身を乗り出した。

「間違いないよ。先生、その子は……」

「慌てるな。座れ」

 ロカはスイハを押しとどめ、一息入れるように煙草を口にくわえてマッチを擦った。

 火をつける寸前で、煙草の先端が足下にポトリと落ちた。斜めに切れた断面から、中に詰まっていた葉がポロポロと零れ落ちた。

「煙草は嫌いだ」

 ナサニエルが不機嫌な顔でロカに向けていた指先を下ろした。

「……これは失礼」

 ロカは駄目になった煙草を袋にしまった。

 スイハは興味津々にナサニエルの指先を見つめた。

「今のはなに?」

「魔道士は多くを明かさないもんさ」ナサニエルはしれっと質問をかわして、逆にスイハに尋ねた。「ひとつ確認したい。ユウナギ公子と遺児は、別人なんだな?」

「あ、ごめん。説明が足りなかったね。西州公様の子どもは世間的には公子様だけだと思われてるけど、実はもう一人いるんだ。といっても、僕も最近まで知らなかったけど。父上が狙ってるのが遺児、ヨウ=キキの子どものほう。ユウナギ公子様は西州公様が亡くなられたときから行方不明なんだ」

「ヤースン家はなぜ公子を捜さない?」

「これも大々的には公表されてないけど、公子様のことは、いなくなってからカルグ兄さんがずっと捜してた。一年前、黒い獣に襲われて動けなくなるまでは」

 ナサニエルは眉をひそめて黙り込んだ。

 ロカが咳払いをして話を戻した。

「とにもかくにも、俺はこういう性分だからな。ヨウ=キキが連れていたという子どもの姿を直に確かめたかった。手がかりは彼女の教え子だけだ。俺は宿の主人に頼んで嘘の依頼を出し、持病があるふりをして彼と接触した」

 それは、西州のどこにでもいるようなごく普通の青年だった。

「彼は久鳳語に堪能だった」

 持病によく効く薬を探していると言うと、青年はぶっきらぼうながら親身に話を聞いてくれた。

 とはいえ、彼から情報を得るのは容易ではなかった。

「ヨウ=キキの話題を振ると露骨に素っ気なくなってな」

 ロカがしつこく質問を繰り返すと、青年は次第に苛立ち始めた。

 ヨウ=キキから仕事を引き継いだのは確かだが、あくまでそれだけだ。他は何も知らない。そう言って彼はロカを突っぱね、とうとう帰り支度を始めた。

「彼は唯一の手がかりだった。俺も焦ってたんだろうな。どうにか引き止めようと、ヨウ=キキの墓の場所を尋ねたんだ。それが余計に彼を怒らせてしまった」

 ヨウ=キキは久鳳に親族がいる。異邦の地で亡くなった彼女を骨だけでも故郷へ帰してやりたいのだと、ロカはもっともらしく言った。青年を引き止めようとする苦し紛れの発言だったことは否めないが、その感傷はまんざら嘘でもなかった。

 青年は激昂した。大きなお世話だ、と。

「久鳳ではな、身内に供養されなかった魂は死霊になると言われているんだ。俺がそう言うと、彼はこう怒鳴った。『俺たちで墓を作ってちゃんと弔った』と」

 会話の流れからして、『弔った』という言葉に、家族的な意味があることは明らかだった。その青年にとってヨウ=キキは、墓の場所、骨の在処を聞かれて冷静ではいられなくなるほど、大事な人だったのだ。

「おそらく彼はヨウ=キキのことだけでなく、遺児のこともよく知っている。一緒に暮らしている可能性もあるな」

「その人の名前は?」

「コスという薬師だ。年齢は二十歳前後。背丈は俺より若干高くて体格は筋肉質。暗い茶系の髪に、黒い目をしている。どこで暮らしているかは貼り紙の場所を貸している宿の主人も知らないそうだ。ただ、新しい依頼がないかマメに顔を出すらしい」

 ロカは地図を出して床に広げた。

「遺児の居場所を知るにはもう一度、彼に会わなければならない」

 スイハはロカの指先を目で追った。街道沿いに大きな宿場の印が五つ。その中の一つには軍隊が駐留しているはずだ。ヒバリまでの道のりに大きな心配はないだろう。

 コスに会うには宿屋から依頼を出すしかない。だが黒い獣の目撃情報が出ている上、ただでさえ冬が差し迫ったこの時期に、果たして都合良く会えるだろうか。

「先生。先生が初めて彼に会ったのはいつですか?」

「半年前だ」

 スイハは思わずロカの顔を見返した。

「僕にヨウ=キキのことを教えてくれたとき、先生はもうその人に会ってたってこと?」

「黙っていてすまなかったな」

「ううん。それは別に、事が事だし……」

 スイハが心を動かされたのは、ラザロがもっとも欲している情報を、ロカが半年ものあいだ胸の内に隠し通してきたということだ。

 父にも話さなかったことを、自分に明かしてくれた。

 スイハはそれが殊の外、嬉しかった。

「どうして先生は、そこまでしてくれるんですか?」

「おまえの言葉を借りるなら、それが俺の選んだ自由というやつさ」

 体の芯から力が湧いてくる。

 スイハは地図に目を落とした。

「ヒバリに着いたら、その宿に泊まることにしましょう」

「彼と会うとき俺は同席しない。心証を損ねるだろうからな」

 ナサニエルが皮肉っぽく喉で笑った。

「ま、それが賢明だろうな。坊ちゃんの面倒は代わりにおれが見てやるよ」

 スイハはナサニエルの格好を上から下まで改めて一瞥した。

 ――どちらにせよ怪しまれるだろうけど。

 不安はなかった。希望は繋がっている。肝心のヨウ=キキが亡くなっていたことは残念だが、彼女から教えを受けたという薬師がいて、遺児も存在しているのだから。

 うまくいくだろうかとか、駄目かもしれないとか、うだうだと悩んでいられる時期はもう過ぎたのだ。ここまで来たら、やれることをやるしかないのだとわかっていた。

 雲に覆われた空が暗くなり始めたころ、一つ目の宿場に着いた。

 ここはどうやら、街道沿いで噂になっている黒い獣の被害を免れたらしい。軍が駐在している様子はないし、宿泊客も何人かいるようだ。しかし水を打ったように静まり返った建物内からは、衣擦れの音ひとつさえ憚るような緊張感、拭いきれない不安が感じられた。

 スイハは受付で宿代を支払うロカを見ながら、日が暮れるまでまだ時間があるのにもう休むなんて、と不満を覚えたが、それがとんだ心得違いであることにすぐ気づいた。

 部屋に荷物を置いたあと、姿の見えないナサニエルを捜して歩き回ると、彼は馬車を引かせている馬の体を藁で丹念に撫でてやっていた。

 スイハは気づいた。

 ――馬のための休憩なんだ。

 馬たちは荷物と人間三人分の重量を引きながら、一日に何里もの距離を走る。州都から目的地まで十日はかかると聞いた。旅はまだ始まったばかりだ。事故や怪我なく辿り着くには十分な休息が不可欠である。

 スイハはナサニエルにやり方を教わって、見よう見まねで馬の世話をした。

 馬具を外し、水と飼料を与え、どこか異常がないか調べる。

「初めてにしちゃ手際が良いじゃないか」

「姉さんが世話してるところをよく見てたんだ」

「メイサ=ヤースンだろ。コヌサで見たぜ。あんなところに行かされてかわいそうにな」

 同情がこもった声に、スイハは顔をあげた。

「ナサニエル。コヌサに行ってたの?」

「捜し物が見つかるかと思ってな」

何を、と聞こうとしたとき、馬にぬるっと顔を舐められた。スイハは堪らず「うへえ」と情けない声をあげた。ナサニエルの笑い声を浴びながら、彼はベトベトになった顔を洗いに行った。

「好かれたみたいでよかったな」

 手拭いを投げてよこしたナサニエルの声には、まだ笑いが残っていた。

 舐められた感触を打ち消そうとスイハは顔の水気をごしごし拭った。

「さっき言ってた捜し物って?」

「白い獣」

「ふうん?」

 曖昧な相づちを打ちながら手拭いから顔を上げると、ナサニエルと目が合った。

「なにか知らないか?」

 口角は上がっているが目が笑っていない。張りつけた表情の裏側に必死さが透けて見える。

 スイハは少し考えた。

 実を言うと、白い獣という単語にひとつ心当たりがあった。

「先生から借りた本に、確かこう書いてあった……」

 濡れた前髪をほぐしながら、スイハは記憶を振り返った。



 ある日、ヒトが神に暇乞いをした。

 本来、限りある命を持つヒトの性だった。子に命を繋いで老いて死にたいと願った。しかし願いが聞き入れられることはなく、ヒトは自ら命を絶とうと試みたが、神の庇護下ではいかなる傷もたちまち癒えるばかりだった。

 終わりのない生を嘆き悲しむ姿を見かねた白い獣は、神に魂の経験について説いた。神ならぬ者が生き死にの輪から外れることは不自然なことなのだと諭した。

 地上の生き物たちが何世代と入れ替わった。

 それでもヒトが解き放たれることはなかった。

 長き年月にわたり説得を重ねてきた白い獣は、聞きわけのない神に怒り、とうとう牙を剥いた。首を噛み切り、大地を割り、二つの権能をもちいて地中深くに神を封じた。



 久鳳語の原文をどこまで正確に訳せたかはわからないが、おおむね、こんな意味の内容だったはずだ。

「白い獣が神を討ったことで、人は永遠の命を失った。そうしてようやく世界の一部になることができた。それが神殺しの章、第三節」

「読んだ本の内容、全部覚えてんのかよ」ナサニエルは感心したようにスイハの髪をぐしゃぐしゃにかき回した。「ロカが自慢するわけだ」

「やめろって」

 スイハは不平っぽい口ぶりでナサニエルの手を払った。しかし内心では、自分が知らないところでロカが教え子自慢をしていたと聞いて、まんざらでもない気分だった。

「しかもそいつは神代写本だな」

「神代?」

 ナサニエルは真面目な顔で頷いた。

「人類が繁栄する以前の歴史を神代っていうんだ。おまえが読んだのは、サナンの神殿の石碑に刻まれた神代の歴史を写し取ったもの。大昔、実際にあったことなんだよ」

「そんなこと誰がわかるんだよ」

「生き証人がいる。おまえも聞いたことくらいはあるだろ。久鳳の竜、ヨームの大鷲。そして、西州の白い獣。こいつらは神代から現存する世界の要石だ」

 浮ついていた心が一瞬で現実に引き戻された。

 ヨームの国旗には確かに大鷲が描かれているし、久鳳に竜がいたというのも有名な話だ。

 しかし。

 ――西州の白い獣?

「白い獣って……まさか、西州公の一族がそうだっていうの?」

 怪訝そうにするスイハの反応が、ナサニエルは逆に腑に落ちないようだった。

「本当に知らないのか? ヨウ=キキが連れてた子どもの毛色を聞いて、『間違いない』って言ってたのはなんだったんだよ」

「だって、公子様と同じだと思って」

「会ったことがあるのか」

「一度だけね」

 その姿を見たのはまだ幼い頃、大人の目を盗んで宮を探検したときのことだった。

 閉ざされた小さな緑の庭に、その人はいた。

 光を束ねたような白い髪、透き通る白い肌。あんなに綺麗な人は、後にも先にも見たことがない。実は人間ではない、と言われても納得できるほどだ。

「宮を探検してるうちに僕が入り込んだのは、公子様のお住まいだったんだ。捜しに来たときのカルグ兄さんの顔ったらさ。あの頃はわからなかったけど、今にして思うと相当ヤバいことをしたなって思うよ。奥の宮に入ったことがバレたら死刑だからね」

「死刑とは物騒だな」

「ナサニエル」

 自分たち二人を除いて周囲には馬しかいなかったが、スイハは自然と声を潜めた。

 この魔道士の言うことは、これまで学んできた歴史とあまりに乖離している。だが与太話とも思えることを口にするナサニエルの顔は間違いなく真剣だったし、彼に自分を騙す理由がないことは明白だった。

「神殺しとか、白い獣とか……習った歴史にそんな話はなかった。神代写本に書かれたことがもし事実なら……」

 スイハが遺児を捜すことを決める以前から、ロカは知っていたことになる。神代と呼ばれる時代があったこと、そしてその当時、西州公が白い獣と呼ばれていたことを。

「これって久鳳やヨームでは普通に知られてること?」

「そんなわけないだろ。神代写本は公には存在しないことになってる禁書だ。知らずに一生を終える人間のほうが多い」

「先生は、どうやってあの本を手に入れたんだろう」

「あいつは昔、久鳳の偉い官吏だったんだろ。写本自体を持ち出すのは無理でも、中身を読んだり書き写したりするくらいならどうにでもなるさ。書庫の警備は手薄だしな」

 事も無げに言うナサニエルを、スイハは呆れて見やった。

 ――ナサニエルが神代写本の内容を知っているのはつまり、そういうわけか。

 神代の背景が綴られた神代写本。久鳳が所蔵しているそれに類するものが、西州にもあったかもしれない。とはいえ、今となっては確かめようがないことだ。宮の書庫にあった文献は六年前、その大半が灰になった。次兄ホノエの手によって。

 隠された歴史に、消された記録。スイハは不穏なものを感じた。

「ま……なにが真実かなんて、おれにもわからないがな」

 話を切り上げて部屋に戻ろうとするナサニエルを、スイハは急いで呼び止めた。

 ひとつだけ、確かめておかなければならないことがある。

「ナサニエル。白い獣を見つけて、どうしたいんだ?」

 彼は肩越しに目元だけで笑った。

「おれたちは利害が一致してる。今はそれで十分だろ」

 これは喋る気がないやつだ。

 ここまで興味を持たせておいて突き放すなんて、意地が悪いにもほどがある。自覚的にやっているならなおさらだ。

 スイハは腹が立った。つい責めるような口調になる。

「いい加減なことばっかり言ってさ。西州公の正体が獣だなんて信じられないよ」

「そうかい。何百年も平和に国を治めるなんて、それこそ人間業じゃないと思うがね」

 痛くも痒くもない、というようにナサニエルは肩をすくめた。

 早めの夕食をすませたあと、部屋で横になりながらスイハは白い獣について考えた。

 初代西州公は白い獣で、人ではない。何百年も平和を守り続けることなんて、人間には出来ないとナサニエルは言う。

 ――そうかもしれない。

 西州の人々はもう何百年ものあいだ、奪うことも奪われることもなく、与えられる平穏を享受して生きてきた。不作も戦乱もない、地上のどこよりも平和な国。それが西州という国、だった。

 亡くなった西州公は今でも民から惜しまれ、崇められている。まるで神のように。

 ――神殺し。

 人間に永遠の命を与えた神と、不死から解き放たれた人間のために箱庭を築いた西州公と。かたちは違えど、両者は本質的によく似ているように感じられる。

 考えすぎで熱が出そうだ。スイハは音を上げた。

「先生」

 教え子の口から神代写本の名が出るとは思ってもみなかったのだろう。ロカは布団を整えていた姿勢のまましばらく固まったあと、眉根を寄せて魔道士を睨んだ。一方ナサニエルはどこ吹く風で、腕を枕にして寝っ転がりながら鼻歌を口ずさんでいる。

 ロカは小さく溜息をついてスイハに向き直った。

「神代写本……正確にはさらに写しだが。あれを渡したのは、あらかじめ白い獣のことを知っておいてもらいたかったからだ」

 ロカは授業のさい必ず資料を用意する。それらは皆、学者の論文や歴史家が綴った史書といった出所が確かなものだ。

「何章まで読んだ?」

「七章まで全部読みました」


 第一章『再編される世界』

 第二章『新生される秩序』

 第三章『旧き文明の再建』

 第四章『喪失』

 第五章『臨界戦争』

 第六章『神殺し』

 第七章『播種』


「頭に入れただけで、全部を理解できてるわけじゃないけど……」

「十分すぎる」

 ロカは口元を綻ばせて頷いた。

「久鳳には竜が実在した記録がある。ヨームでは十数年前、王都に突如として大鷲が現れた事件があった。どちらも、その姿を実際に目にした人間が大勢いる」

 四十年ほど前まで、久鳳人にとって竜は身近な脅威だった。スイハにはわからない感覚だが、ロカにとって神代写本の信憑性は、竜が実在したという事実だけで十分なのだ。

「竜や大鷲がいるなら、白い獣も比喩ではないってこと?」

「姿形はともかく、西州公が人智を超えた力を持っていたことは事実だ」

 ロカは長話をするときの癖で足を崩した。

「先代の西州公は、ヨームやサナンと小競り合いを繰り返してきたクザン帝が唯一、手を出してはならないと学んだ御仁だ。久鳳の軍艦が西州の海域を越えて陸地に辿り着けたことは一度としてない」

「ぐ、軍艦? 久鳳って、西州を侵略しようとしてたの?」

 驚きのあまりスイハは危うくひっくり返るところだった。

 ロカは苦笑した。

「クザン帝は統一国家……月並みに言えば世界征服を目指していた。それでも現実には、先代皇帝が放置していた国内の問題……反乱分子の平定や蛮族の討伐、辺境の治水事業に尽力せざるをえなかったがな。他国との戦闘は、国境沿いの小競り合いが精々だ。ヨームの騎士団は精鋭揃いだし、サナンの戦士の勇猛さは広く知られている。西州なら海から一気に攻め込んで落とせると思い立ったのだろうが、結果は散々だった。送り出した艦隊は一隻も欠けることなく帰ってきた」

「無事に帰ってきたのに散々な結果って?」

「身も蓋もないことを言うと、戦争には莫大な資金がかかるんだ」

「ああ、そっか……」

 スイハは納得した。船の燃料も、船に乗る人たちの食べ物も、タダではないのだ。

「さっきも言ったが、艦隊はそもそも西州に辿り着けすらしなかったんだ。同じ海域をぐるぐる、霧の中をさまようように航海し続けて……艦に積まれた食料が尽きる寸前で、彼らはやっとそこから抜け出すことができた。しかもこの話には後日談があってな。艦隊が帰還した翌日、狙い澄ましたかのように西州公の親書が届いたんだ。そこには軍艦に乗船していた兵たちの安否を気遣う文章が綴られていた。噂に聞く西州公の神通力がまやかしでないことを、クザン帝は身を以て思い知ったわけだな」

「全然知らなかった。西州公様って……なんていうか、本当にすごかったんですね」

「俺はな、スイハ」

 ロカが改まった声で言った。スイハは背筋を正した。

「神代写本に書かれたすべてが真実だとは思っていない。だが、まったくの虚構ではないとも思っている。西州公が白い獣と言われていることには根拠があるだろうし、人の姿でいるのにも理由があるんだろう」

「僕が昔見た公子様は、人の姿をしていました」

「おまえは希有な経験をした」

 ロカはスイハの肩に手を置いた。

「いざ遺児を前にしたら、俺は先入観なしにその人を見ることはできないだろう。だが、おまえは違う。おまえはこう言ってくれた。どう生きるかはその人の自由だと」

 彼は願いを託すように手に力を込めた。

「これから何があっても、どうか、その気持ちを忘れないでほしい」

 スイハは戸惑いながらも頷いた。それ以外に適切と思える返事が見つからなかった。

 夜になると急に冷え込みが厳しくなった。

 窓を開いて外の様子を見る。しんしんと雪が降っていた。

 寝床に体を横たえながら、じっと目を閉じて、開いて、スイハは天井の影を見つめた。

「ナサニエル」

「……あぁ?」

 ちょうど寝入りばなだったのか、ナサニエルの声は不機嫌だった。

 尻込みせずスイハは尋ねた。

「さっきの話。西州公様が船を迷子にしたって。ちょっと思ったんだけど、魔道士でも似たようなことできるんじゃない?」

「当たり前だろ」

「当たり前って? どういうこと?」

 ナサニエルはチッと舌打ちして、面倒くさそうに答えた。

「精霊ってのは元を辿れば、自然界の霊素がオリジンの体内で結晶化したものなんだよ。オリジンの力の欠片に、性質や色をつけたもの……それが魔術だ」

 オリジン。初めて耳にする単語だった。

 スイハが戸惑い黙っていると、ナサニエルはぼそっと付け加えた。

「世界の要石」

 少し前に交わした会話を思い出す。神代写本に載っていた竜、大鷲、白い獣。彼はこの三頭のことを『世界の要石』と呼んだ。

 オリジンの体内で精霊が生まれ、それが人に憑いて精霊憑きになる。

 スイハは、精霊憑きが生まれるのは土地が豊かな証だと教わってきた。ナサニエルの言うことが本当なら、西州公の死は、これまで自分が認識していた以上に大変なことなのではないか。

「じゃあ精霊って……」

 隣の寝台から身じろぎの気配がした。

 スイハは息を詰めてロカの様子を窺った。一寸途切れた寝息が、少しして再び規則正しく流れ始める。時刻は夜半を回っていた。好奇心は尽きないが、そろそろ切り上げ時だ。

 明日、また続きを話せるとも限らない。スイハは最後にもどかしく尋ねた。

「精霊が憑いてるって、どんな感じ? 話せるの?」

 くぐもった声でナサニエルはなげやりに言った。

「夢を見んだよ」

「夢?」

「おれたちは心を結んでお互いの記憶を夢に見る。そうやって、相手がどんなやつか知るんだ。どんなにひねくれたやつだって、夢の中では嘘をつけないからな」

 それと似たようなことを、つい最近どこかで聞いた気がした。

 少し考えて、スイハは目を見開いた。

 ――遺児に嘘や誤魔化しは通用しない。

 カルグは、確かにそう言っていた。

「……ありがとう。おやすみ、ナサニエル」

 返事はなかった。

 スイハは窓を細く開けて、息を吐き出した。白い吐息が闇夜に溶けていくのを見つめながら、雪が降り積もるささやかな音に耳をすませる。

 このご時世に、顔も知らない人間を捜しに旅に出る。

 危険は覚悟の上で、決断した。一大決心だった。だからといって、自分が世界の中心だと驕るつもりはない。この国には、ずっと前から、何年も前から続いていた『何か』がある。スイハにとって想定外だったのは、その『何か』が、ずっと身近で起きているらしいということだった。

 初代西州公は、神殺しの白い獣。人よりも精霊に近い何か。

 西州の史書には載っていない隠された歴史を、外の視点から得られたのは幸運だった。久鳳人のハン=ロカ、そしてヨーム人の魔道士ナサニエルとの出会いがなければ、スイハは何も気づかず、知らないままだっただろう。

 真っ暗な夜空を見上げ、兄たちのことを思う。

(――知らないのなら、知らないままでいろ)

 先日、ユウナギ公子のことが話題になったとき、カルグはそう言った。

 そして六年前、焚書の直後にホノエは父にこう弁明したのだ。

(――神代の風習に囚われる時代は終わりました。西州公亡きあと、これからの西州は……人間の、人間による、人間のための国であらねばなりません)

 スイハは身震いした。

 ――兄さんたちは、なにを知ってる? なにを考えてる?

 自ら飛び込んだ渦中の深みに、底が見えない暗闇に、少しだけ肝が冷えた夜だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る