28.帰る場所
「テン!」
不意に強く腕を引かれて、トウ=テンは我に返った。
体が不自然に傾いている。右足が脛まで水に浸かっていた。もし掴まれていなかったら湖に落ちていただろう。
「ごめん。いったん戻ろう」
話を中断して、サクは早足でトウ=テンを岸まで引っ張って行った。
足裏で地面の感触を確かめた。ほんの十数分離れていただけなのに、久しぶりに戻ってきたという気がする。水に浸かったはずの右足は乾いたままだ。こんな奇妙なことも、今は些事に思えた。今しがた、打ち明けられた事実に比べれば。
サクを見やると、目を伏せて気まずそうに指をこね回している。
「……ずっと、おまえが俺を見つけたと思っていた。だが、どうやら違ったらしい」
以前、なぜ助けたかと聞いたとき、サクは言った。
捜していた、矢を撃っていた、と。
穴の底から這い出ようとする獣を射殺していたところを、どこかで見ていたのだろうと考えていた。しかし、サクはひどい弱視だ。鼻が付くほどの距離でなければ人の顔もはっきりしないのだから、遠くで誰かが弓を射る姿など、ましてやそれがトウ=テンかどうかなどわかるはずがない。
そして、あのときコヌサは獣が焼ける臭い、血の臭い、死の臭いが充満していた。そんな場所でサクに人捜しなど出来るはずがないのだ。
手がかりでもない限りは。
「俺があのとき森で射ったのは、おまえだった。そうなんだな?」
「……うん」
サクは頷いた。
状況的にそれしかありえないと頭ではわかっていても、本人の口から事実として認められてしまうとことのほか堪えた。
「気にしないでいいよ。肩にちょっと穴があいただけだから」
無理だ。
深く溜息をつくと、サクはまるで叱られたように肩を縮めた。
「……ごめん。テンが気づいてないの、わかってて黙ってた。傷も塞がってたし……変なやつって思われたくなかったの」
トウ=テンは外套の裾を尻に敷いて、岸辺に腰を下ろした。ちょい、と指を曲げて、サクにも座るよう促す。サクは少し迷ってから、おずおずとトウ=テンの隣に収まった。
二人で並んで、しばらく凪いだ湖面を見つめた。
「自分に矢を射かけた相手が怖くなかったのか」
「……怖いより、助けなきゃって気持ちのほうが大きかった。転がされたときは……ちょっとビックリしたけど」
そういえば、そんなこともあった気がする。
死のうとしたところを助けられて、あのときは腹立たしく思ったものだ。
ふと、視線を感じた。
何かと思えば、サクが神妙な顔でこちらを見つめている。
「なんだ?」
「あ……えと。……ヒゲ、どうして剃ったのかなって」
ヒバリでの苦い記憶が蘇り、トウ=テンは顔を顰めて顎を撫でた。
「宿のおかみさんにどやされたんだ。おまえは覚えていないかもしれないが、あのときは兵士が毎日見回りに来ていてな。怪しまれるのは人相が悪いからだと」
といっても、見回りに来る兵士たちが緊張を保っていたのはせいぜい一日、二日のことだった。茶髪の癖っ毛と痩せぎすの二人組。監視とは名ばかりで、髪とヒゲを整えて来いと宿屋から叩き出されたトウ=テンを、親切にも床屋まで案内してくれた。
目を丸くしたあと、サクは小鳥が囀るように笑った。
「今度会ったらお礼言わなきゃ。ヒゲないほうが好き」
「毎朝剃るのは手間なんだぞ」
何気ない会話を通じて、懸念が晴れていく。暗闇で手を繋いだ相手の顔を、明るい場所で確かめたような安心感があった。
ホーリーの記憶が戻っても、サクは、サクのままだ。
「話を戻すが」
「うん」
「整理させてくれ。墜落した船の名前はハルバルディ号。生存者の名前はホーリー。ならば〈CUBE〉とは何者だ?」
サクは思案する顔で両手の指を合わせた。
「なんて言ったらいいか……。〈CUBE〉はね、人間じゃないの。船に搭載された人工知能なの」
早速わからない。
「人工知能……?」
「えっとね……本当に大昔、船が旅立つ前の話なんだけど、人類の数がすごく減っちゃった時期があったんだって。当時の人たちが、自分たちの助けになる存在を必要として発明したのが人工知能。人類の特性……なにかを作ったり、過去の出来事から未来を予測したり……そういう高度な知性を再現したものなの」
「……人間でいう、脳みそか?」
「うん。だけどホーリーにとっては、人間の乗組員たちと同じか、それ以上に大切な仲間だった。ハルバルディ号の機能全体を統括していたのは彼だったし、いつもお喋りに付き合ってくれたから」
人間のように思考する船。
とても信じられないが、それを言い出したらそもそも、人類が一度は滅び、生き返ったという時点で現実味のない話だ。
死者は蘇らない。トウ=テンの考えでは、仮に蘇ったように見えてもそれは、故人の面影を持った別人でしかない。
「あいつは、おまえを教導官ホーリーと呼んだ。人類を絶滅させてやるとも」
「……人類を再生することに、〈CUBE〉は最初から反対だった」
サクは悲しげに顔を曇らせた。
「墜落する少し前……船の中は争いが絶えなかったの。イデオロギーとか格差とか……よくわからない理由をつけて、みんな毎日のようにいがみ合っていた。それが墜落の原因になったんだって。最後まで争いをやめられなかった人類に、〈CUBE〉は不信感を持ったんだと思う。人類全体の意識が新たなステージに到達しなければ、また同じことが繰り返されるって……そう言ってた」
人類全体がどうとか小難しい話はよくわからないが、要するに、大昔から人類の本質はなにも変わっていないということなのだろう。だからといって、船の人工知能だとかいうよくわからないものに生殺与奪を握られるのは単純に不愉快だ。
「〈CUBE〉とやらはなぜ、おまえに取り憑いている?」
「ホーリーの権限がまだ生きてるんだと思う」
「わかるように言ってくれ」
サクは顎に指を当てて、しばし考え込んだ。
「えっと……役職持ちの乗組員には権限が与えられるんだけど、その中でも、ホーリーは例外中の例外だったの」
「教導官という役職が?」
「ううん。例外の理由は、ホーリーが人間ではなく、犬だったこと」
トウ=テンは思わずサクを二度見した。
「犬?」
予想通りの反応だったのか、サクは苦笑した。
「艦長の飼い犬。普段は託児所にいて、乗組員の子どもたちのお世話をしてた」
「それがなぜ教導官になったんだ?」
「……ある日、いつもより遅れて子どもを迎えにきた乗組員が、ホーリーにはまったく別の生き物に見えた。それは船内に侵入した不定形知性体レダが擬態した姿だったの。レダっていうのは、テンが前に教えてくれた危険種みたいなやつ。繁殖期になると社会性を持つ生物に擬態して、その群れに紛れ込むんだって」
水棲系の魔物に、それと似たような性質を持つものがある。水面に映った生き物に擬態して本体に襲いかかるのだ。その正体は腐ったヘドロで、大して強い魔物ではないが、あれに高度な知性があったら実に厄介だろう。
「〈CUBE〉のセンサーでも区別がつかなかった擬態を見抜いたことで、ただの子守犬に過ぎなかったホーリーは教導官に抜擢された。……といっても、やることはそれまでとあまり変わらなかった。デザイナーベビー……新世代の人類を、赤ん坊から育てるのが仕事だったから」
同じ船に乗り合わせながら争いをやめられなかった当時の人間たちは、子どもの養育を犬に任せるほど疑心暗鬼に陥っていたのだろうか。あるいはレダとやらの擬態を警戒してのことか。いずれにせよ理解しがたい話だ。どれだけ賢くとも犬である以上、意思疎通には限界があるだろうに。
すると、サクが考えを読んだように言った。
「ホーリーを教導官にすることに賛成する乗組員は、ほとんどいなかった。船員会議の原則は全会一致。でも、艦長が独断で強行したの。ただの犬に人間並みの処理能力を持たせるために、体を改造して、脳をいじくって……最後に〈CUBE〉と接続して、ホーリーは教導官になった」
「そんなやり方では誰も納得しない」
「そう。だから艦長は、改造の過程でホーリーに制約を設けた。第一に、人類を傷つけてはならない。第二に、自分の命よりも常に人類の生命を優先しなければならない」
〈CUBE〉は以前、こう言っていた。
――この手で人類を死なせるわけにはいかない。
あれはナサニエルに情けをかけたのではなく、教導官を守るためだったのだ。
「ホーリーは処理能力の大半を〈CUBE〉に依存していたし、これまでと同じ仕事を任せるだけならって……。乗組員たちは結局、折れるかたちで受け入れた」
「ホーリーの権限が生きているというのは……」
「接続できている以上、少なくとも〈CUBE〉の認識において、俺とホーリーは同一の存在なの。本物のホーリーはもう、とっくに死んでいるのにね……」
しばしの黙考を経て、うっすらと状況が飲み込めてきた。
〈CUBE〉の干渉を断つ一番の方法は、権限を放棄することだ。それ自体は難しいことではない。ホーリーを教導官たらしめる条件、つまり制約を破ればいい。
しかし、サクに人を傷つけることなど。
そんなことはしてほしくないし、させたくない。
「何かないのか。権限を手放す方法は」
湖を見つめる横顔に、矢を引き絞るような緊張が浮かぶ。
サクは口を真一文字に結んで、険しい顔でしばらく黙り込んだあと、口を開いた。下唇を噛みしめた跡が白くなっていた。
「〈CUBE〉に伝える。わたしはもう、教導官ではいられない……。わたしたちはもう、あの頃のままではないんだって」
ホーリーは死者だ。しかし、その死の直後から、サクの意識は始まっている。連続する自意識と記憶に、はっきりとした境界を見出すことはできない。
切り離せないものなら、すべてを引っくるめて受け入れるだけだ。
「伝えて、納得するのか。あいつが」
「納得するかは別として、事実は事実として認めるのが〈CUBE〉だから。話せばわかってくれると思う。でも、今はまだ……そのときじゃない」
「どうしてだ」
「腐傷患者みんなを助けるにはハルバルディ号が必要なの」
教導官の権限があれば、カルグだけではなく、州都と、その周辺の医療施設に集められた腐傷患者たちを、まとめて救うことができるという。
「ナサニエルの腐傷を治療したときの情報を〈CUBE〉に転送した。あとは船の機能を使えば、ナノマシンを……特効薬を作れる。それを上空から〈CUBE〉に散布してもらうの。俺が州都に行けば座標の目印になる」
「〈CUBE〉は人類を滅ぼそうとしている敵だろう。こちらに協力するはずがない」
特効薬とやらについては、サクが出来るというのなら信じるだけだ。
問題はその先だ。さすがに無謀ではなかろうか。人類を滅ぼすと明言した相手に、人類を救う手伝いをさせようなどと。
「それとも何か、勝算があるのか?」
サクは上目遣いでトウ=テンを見上げた。
「勝算ってほどのものじゃないんだけど」困ったように眉を曇らせる。「〈CUBE〉はすごくプライドが高いの。船体を統括する人工知能であることに誇りを持ってる」
言われてみれば、慇懃無礼で鼻持ちならない印象は確かにあった。
「それが?」
「教導官は、人類の生命を優先しなければならない。その申請を無視して我を通すなんてこと、彼には絶対にできない」
船のことを、まるで人間のように言う。いや、ホーリーの記憶ではそのような認識なのかもしれない。なにせ仕事の相棒のようなものだったのだから。
コホン、とサクが乾いた咳をした。
掠れた声に頬を赤くしながら、喉を整える。
「……こんなにたくさん喋ったの、久しぶり」照れ笑いのあと、目を伏せて小さく頭を下げた。「最後まで聞いてくれて、ありがとう」
伏し目にかかる睫の白さが、妙に際立って見える。
トウ=テンはサクを見つめた。
黙り込んで、不自然に目を合わせようとしない。こちらの反応を戦々恐々と待ちながら、なにを言われても甘んじて受け入れようという覚悟を感じさせる。
「おまえの身に危険はないのか」
「気をつける」
つれない返事だ。用心棒がすぐ隣にいるというのに。
「俺にできることは」
「……信じてくれるの?」
「信じる信じない以前に、よくわからんというのが本音だ。だが、おまえが自分なりに筋の通った理屈を持っていることは知っている。思い詰めたら頑固になるところもな」
トウ=テンはおもむろに手を伸ばして、サクの手に触れた。
三歳だったサクが、母親の涙にどれだけショックを受けたか。それから十二年の歳月を経て、過去の記憶のことを改めて他人に説明するのに、どれだけ勇気が必要だったか。
冷え切った指先は強ばっている。
トウ=テンはサクの手を取った。
両手で包み、熱を分ける。
伝わってほしいと、祈りを込めた。
泣いて取り乱した母親の、その涙は、拒絶ではない。
「サク。これだけは言っておくぞ」
しっかりと目を合わせてから、トウ=テンは言った。
「おまえは得体の知れない何かなんかじゃない。この場所で生まれ育ったサクナギだ。キキの大事な子どもだ」
灰色の瞳が揺れる。目の縁から今にも涙が零れそうだ。
サクは顔を歪めて唇を噛みしめた。
「……わからない」絞り出した声は震えていた。「こんな見た目で、苦労ばかりかけて……。お、おかあさんは……本当は、後悔してたかも……。生むんじゃなかったって。そうすれば、あんな、あんなふうに死ぬことだって……」
「馬鹿を言うな」
親が苦労する姿を見て、後ろめたさを覚える必要などないのだ。
「前に、ヨキが言っていた。キキは亭主から逃げてきたのだと。身重で、頼れる知り合いもいない。サノワ村に辿り着くまで、決して楽な旅じゃなかったはずだ。だがそれでも、キキは子どもを産むことを諦めなかった。おまえは望まれた子だ」
溢れた涙がとうとう頬を濡らした。
まるで堰が切れたように、サクは顔を覆って泣きじゃくった。
「……ごめんなさい」嗚咽を漏らしながら切れ切れに言葉を紡ぐ。「ずっと、謝りたかった。あのとき、テンを助けたのは、自分のためだったの……」
自分に矢を射かけた相手に、本当は何をさせたかったのか。
答えを待つトウ=テンの胸の内は、静かだった。
サクは何度もしゃくり上げた。
「おかあさんがいなくなってから、ずっと死にたかった。自分が得体の知れない何かだって思ったとき、もっと死にたくなった。いつか頭がおかしくなって、みんなを、平気で傷つけるようになるんじゃないかって、怖かった。だから矢を撃った人を捜したの。その人ならきっと……きっと俺を殺してくれるって、思ったから」
身を守るためではなく命を絶つために、この腕を必要とした。
はじめから、用心棒ではなかった。
「それで、死ぬまでか」
「ごめん。ひどいことした」
「……謝るな」
泣きはらした目をするサクに、トウ=テンは微笑んだ。
「俺が依頼を引き受けたのは、おまえが帰りたいと言ったからだ」
死ぬまで用心棒をしてくれと、そう口にしたときサクが絶望していたことは確かだろう。自分は遠からず死ぬべきだと理性で判断しながら、しかし、それでもサクは帰りたかった。あと少し、もう少しだけと欲を出した。生まれ育った家に、自分の帰りを待つ家族がいる家に、帰りたかったのだ。
「はじめは……死ぬ前にこれぐらいは、というつもりだったが」
帰れる場所がある。帰りを待つ人がいる。それが何より力になることをトウ=テンは知っている。どれだけ重い過去の記録よりも、結局は、今を生きている人間が強い。サクは三歳のとき、ホーリーの使命よりも母親を選んだ。新しい人生を、未来を望んだ。
真っ直ぐ家まで駆けていく背中が、懐かしい。
「引き受けてよかった」
「テン。でも……」サクは消え入るように呟いた。「話してないこと、まだ、たくさんあるの。でも、言いたくないの……」
「隠し事くらい誰にでもある」
「でも……」
後ろめたさから俯くサクの肩を、軽く叩く。
「困ってるんだろう。四の五の言わずに助けさせろ」
強ばり縮こまっていた肩から、やにわに力が抜けた。
トウ=テンの肩口に顔を寄せて、サクは鼻をすすりながら微かに笑った。
「助けさせろって……。用心棒から、それ言うの?」
「俺は腕が立つぞ。これでも十年前までは、久鳳で四番目に強かったんだ」
宮廷に上がってからの日々はある意味、実戦よりも辛かった。一位と縮地の限界を競った悪夢の日々。二位に何度も反復練習させられた宮廷作法。亡き三位が直々に指南してくれた弾きと去なしの技術。どれも吐いて倒れて悶絶するほど大変だったがしかし、彼らがいなければこの十年間、無傷で用心棒を続けることなど到底適わなかっただろう。
あの日々があったから、ここへ辿り着けた。
彼らのおかげで、助けを必要としている者に、こうして手を差し伸べることができる。
「思うようにやってみろ。前も言ったろう。どこでも一緒に行ってやる」
瞬きの間に景色が変わる。
辺りの雪が冷気だけを残して消え去り、代わりに緑の草が生い茂った。周囲の変化に思わず腰を浮かせたトウ=テンに、サクが抱きついた。涙の跡を胸に擦りつけて、次に顔を上げたとき、その頬は薄紅色に染まっていた。
「ありがとう、テン。ありがとう……」
サクは法外の喜びを噛みしめるかのように、繰り返し礼を口にした。
「待ってて。全部終わって帰ってきたら、うんと働く。それでね、おいしいもの、たくさん食べさせてあげる」
「悪くないな」
「……みんなにも話すよ。戻ろう」
手を引かれてトウ=テンは立ちあがった。
去り際、湖のほうを振り向いた。早朝までの景色とだいぶ変わっている。自分たちがいた周辺だけ緑が生い茂って、いずれ来る春をいち早く迎えていた。
同じことが起きた昨日に思いを馳せる。
サクが、セツとシンの名前を口にしたとき、ほんの一瞬、二人が生き返ったように錯覚した。記憶の中でおぼろげに霞んでいた面影に、もう一度、会えたような気がした。
以前、ナサニエルが言っていた。
夢は魂の繋がり。夢を通じて相手の心を、開いた窓を覗いているのだと。
理屈も仕組みもわからないが、もしそれが本当なら、これほど幸いなことはない。
サクは夢の中で、セツとシンの在りし日の姿に出会った。
トウ=テンは熱いものが込みあげる胸に手を当てた。
灯台もと暗しとはこのことだ。もう二度と会えないと思っていた妻子は、ここにいた。こんなにも近くに。自分の中にいたのだ。
(――セツ。シン)
遠い日の記憶が浮かぶ。
亥の蛮族の討伐後。あれは、人生で最も目まぐるしい日々だった。
将軍など、なりたくてなったわけではない。戦果の褒賞がどれだけ身に余るものであったとしても、断れば不敬に当たるというから受け取った。質素な拵えの刀一振り。帝室が保有する至宝のうちの一つ。あれを授けられる意味を知っていたら、はじめから式典に出ることもなかっただろう。
昨日まで届かぬ星のように仰ぎ見ていた顔ぶれが同僚となった。足を踏み入れたこともない一等地の屋敷に引っ越すことになった。
いくらなんでも分不相応にもほどがある。角が立たないように辞退する方法をシキ=セイランに相談しようとしたが、友の出世を我が事のように喜ぶ顔を見たら、軍を辞めたいとはとても言い出せなかった。
まだ小さなシンを抱いて駕籠を降りたセツは、屋敷を見上げてしばらく目を丸くしていた。無理もない。新しい住まいについて、今より大きな家だとしか伝えられていなかったのだから。
家の中を見て回るあいだ、トウ=テンはばつが悪かった。
ところが、驚き戸惑うばかりだったセツがふと、ある場所を目にした途端に笑顔になった。
(――お庭がある。すごい、きれいね)
その一言で後ろめたさが吹き飛んだ。
(――今年はもう過ぎちゃったけど、春になったらお花見しようね)
次の年、家族で花見をした。
その日は朝から快晴だった。桃色の花が青い空によく映えていた。舞い散る花びらをシンが鼻息荒く捕まえようとするところを、セツと並んで縁側から見守った。
幸せだった。
「テン。どうしたの?」
死んだら会えるのではない。
生きて思い続ける限り、共に在るのだ。
妻子を亡くしてから十年間、埋まることのなかった空洞が、満たされていく。
「まだ言っていなかったことがあった」
「なに?」
「サク」
手遅れになる前で良かった。自分の命ごと、また二人を失うところだった。手放した命を拾い上げてくれる者がいて、助かった。
「あのとき、助けてくれてありがとうな」
胸のつかえがすべて取れたような、晴れやかな顔でサクは笑った。
「ううん。こっちこそ、ありがとう!」
帰り道の途中、家のほうから馬の嘶きが聞こえた。トウ=テンとサクは互いに顔を見合わせてから同時に駆け出した。
「テン、思いっきり走っていいよ。合わせるから」
「前には出るなよ」
いつでも刀を抜けるように意識を高めながら、トウ=テンは足を速めた。
体が軽い。視界が妙に鮮明で、開けている。
この感覚は覚えがあった。固く閉ざされていた扉が、ふとした瞬間に開いたような呆気なさ。自分の体はこんなふうにも動けたのかという開放感。経験で到達できる領域とはまた別の、新たな境地。
速すぎるだろうかと、並走するサクを一瞥する。その足取りは軽やかで、気を抜いたらこちらが置いて行かれそうだ。
なにも心配することなどなかった。
気を引き締めて、視線を前に戻す。
木々の連なり、入り組んだ梢の先に、自宅が見えた。
トウ=テンは隣を走るサクを制しながら自身も足を止めた。
白い鹿だ。
四肢を張って、屋根の上に陣取っている。帰ってきた二人に反応して、家の中の様子を探るように傾けていた首をおもむろに持ち上げた。何を考えているかわからないが、敵意は感じられない。星を散りばめた瞳の奥に理性の光が瞬いている。
「サク。俺の後ろに回れ」
しばらく睨み合っていると、白い鹿はどこか大儀そうな気配を出しながら屋根から地面へ飛び降りた。着地する音で、家の中にいる者たちも外の異変に気づいただろう。
――どうする。
カルグの手紙を読んで、なまじ白い鹿の正体を知ったことがトウ=テンの判断を迷わせた。サクは守れる範囲にいる。ユウナギに敵意はない。遭難したスイハを助けたという話もある。
追い払うのは早計ではないか。
間もなく玄関の戸が開き、チサが顔を出した。彼女は目を丸くした。
「な、なに?」
白い鹿は優雅に首を傾けて、驚いて固まっているチサをジッと見つめた。なにか興味を引かれたのか、ゆっくり首を伸ばして顔を近づける。
突如、地面に影が躍った。トウ=テンが一瞬遅れて反応したときにはすでに、サクが白い鹿に肩から突進していた。
不意打ちを食らってよろけながら、白い鹿は素早く飛び退いた。甲高い音――威嚇の声があたりに響く。それを打ち消すようにサクが怒鳴った。
「あっち行け!」
「ちょっと、サク。どうしたの」
チサが宥めてもサクの白い鹿に向ける怒りは解けない。噛みしめた唇が、握りしめた拳が、激情によって震えていた。放っておいたらまた飛びかかっていきそうだ。トウ=テンは急いで両者のあいだに割って入った。
騒ぎを聞きつけて、家の中からコスが飛び出してきた。
「どうした!」
人数が増えたことで警戒心を強めたのか、白い鹿はじりじりと後ずさりを始めた。不愉快そうに前足で雪を掘る。刀の柄に触れながら、トウ=テンは周囲を警戒した。空気に微かな威圧感を感じる。護衛役の黒い獣が近くに身を潜めているはずだ。
水面下に緊張が走る。
一触即発の状況に終止符を打ったのは、スイハだった。
「待って、公子様!」
両手で、カルグの手紙を握りしめている。
衝動的な行動だったのだろう。自ら声を上げて引き止めておきながら、スイハはうろたえていた。動揺が額の汗に滲んでいる。縋るような必死な眼差しだけが、白い鹿をこの場に止めているように思えた。
「あなたは、六年前……」
言いかけた言葉の、その先を飲み込んで、少年は腹をくくったように顎を引いた。
「……ユニを……ユニのことを、覚えていますか」
ユニ、という名前を聞いた途端、白い鹿が前のめりになった。
スイハの声に力が入る。
「ユニは生きています。元気にしています。もう赤ちゃんじゃない。おしゃべりが大好きで、読み書きの勉強を頑張っていて……」
白い鹿は忘我の表情で聞き入っている。
「今年で、九歳になったんです。このあいだも、背が伸びたって喜んでた。公子様、大きくなったユニを見たくないですか。おしゃべりしたり、手を繋いで一緒に歩いたり。きっと、すごく楽しいと思うな」
なんのことを言っているのか、トウ=テンにもやっとわかった。
手紙に書かれていた娘のことだ。生まれてすぐ奪われたという、カルグとユウナギの娘。生きていたのだ。
白い鹿はソワソワしながらスイハの話に耳を傾けていた。
このまま正気を取り戻してくれたなら。
「もう西州公はいません。もう誰も、あなたの自由を侵したりしない。大丈夫。カルグ兄さんも、ユニと一緒にあなたを待っています」
それが最後の一押しだった。
星が瞬く静寂の夜の瞳に、朝焼けが差した。太陽の光を反射する川面のように白い毛並みがキラキラと煌めき、四肢の先から緑が芽吹く。春の息吹を伝播させながら、白い鹿はスイハに近づいた。
その柔らかな表情はもはや動物のそれではなく、高い知性と喜びに溢れていた。
ユウナギは礼を言うように少年の額を鼻先で小突くと、踵を返して一切の迷いなく雪山へ消えていった。
人の姿には戻らなかったが、十分だ。
ユウナギの心には、人として生きていた頃の記憶が残っていた。
腰を抜かして座り込むスイハに、トウ=テンは手を差し出した。
「やったな」
「うまく……いったんでしょうか」
「俺はそう思う」
曖昧な笑みを浮かべながら、スイハはトウ=テンの手を取って立ちあがった。
「チサ、大丈夫? どこか変じゃない?」
「平気よ、なんともないわ。匂いを嗅がれただけ」
涙目でチサに抱きつくサクを見て、コスが呆れたように眉を顰めた。
「大げさだな」
「大げさじゃないもん!」サクはキッとコスを睨んだ。「チサのお腹に赤ちゃんいるの、わからないの!」
数秒の間を経て、
「……は?」
「まあ!」
コスの間の抜けた声と、チサの弾んだ声が重なった。
戸惑いと喜びを含んだ夫婦の視線が交わる。
直前までの反動で空気がゆるゆるに緩みきったところに、一部始終を玄関口から見ていたナサニエルが初めて発言を投げた。
「おまえら、とりあえず中に入れよ」
全員が家の中に戻ったあとも、コスはしばらく上の空だった。遅めの朝食を取っているトウ=テンの後ろでは、兄が腑抜けになっている隙にと、サクがこっそりカルグの手紙を読みふけっている。
スイハとナサニエルは地図を広げて話し合っていた。
「公子様の行き先はわかる?」
「北の方角に直進中だ。州都を目指してる。今のところはな」
「本当は一緒に行動できたら良かったんだけど……」
「こちらの状況は〈風のたより〉で伝えておく。ユウナギにどれだけ理性が戻っているかわからないが、やらないよりマシだ」
位置情報の把握だけでなく情報伝達まで可能とは、伊達に〈竜殺し〉の弟子を名乗っていない。護衛としては三流だが、ナサニエルが一流の魔道士であることはもはや疑いようがなかった。
手早く朝食を終えたトウ=テンに、コスが声をかけてきた。
「話がある。チサも、こっちに来てくれ。全員に関係ある話だ」
チサは手を拭いてコスの隣へ。囲炉裏を挟んだ向かいで、ナサニエルとスイハが姿勢を正す。サクはトウ=テンの後ろから隣へ移った。
「コス。話を始める前に確認させて」
サクが手紙を持っていることを、コスは咎めなかった。
「なんだ」
「俺の父親は西州公なの?」
コスは瞑目したあと、静かに肯定した。
「ああ、そうだ」
「……そうか。そういうことだったのか」
サクがその事実を噛みしめているあいだ、誰も、何も言わなかった。
やがてサクは手紙をコスに返した。
コスは受け取った手紙に一度視線を落とし、顔を上げた。
「俺が知ること、母から聞いたことをすべて話す。始まりは十六年前。母は典薬寮の医術師ラカンの助けを得て、密かに州都から逃げ出した。腹の中にいたサクを守るためには、そうするしかなかったからだ。そしてそれは母だけでなく、先代西州公アサナギの願いでもあった」
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