29.西州公の献身


 西州公崩御の報せが辺境のミアライに届いたのは、空梅雨の終わりにやって来た巨大な嵐が、山の彼方へ過ぎ去ったあとのことだった。

 久しぶりに訪れたヒバリの町は、西州公の喪に服して静まり返っていた。当時、コスは見習いの薬師としてヨウ=キキに随行していた。十三歳だった。ここ一年で急に背が伸びて、養母の背を追い越したばかりだった。

 上得意の邸宅を回り、馴染みの薬種問屋で買い物がてら世間話をした。いつもと変わらず見えた養母の様子がおかしいことに気づいたのは、宿に戻る道すがらのことだった。

 初夏の陽射しに明るく照らされた小路で、ヨウ=キキは急に立ち止まった。後ろを歩いていたコスが不思議に思って声をかけようとすると、彼女はゆっくり体を折ってその場にしゃがみ込んだ。

 コスはすぐさま膝をついて養母の様子を窺った。疲れか貧血による立ちくらみだろうか。それにしては気配が剣呑に感じられた。養母は額に汗を浮かべて、険しい顔でじっと地面を睨んでいた。彼はなんとなく気圧されて、黙って養母の背をさするばかりだった。

 ヨウ=キキが重い口を開いたのは、その日の夜のことだった。

 宿で黙々と荷物の整理をしている最中、彼女はふと手を止めて言った。

 話しておかなければならないことがある、と。

「西州公のことを聞いたのはそのときだ。州都から逃げて来たことも。これはチサも知ってるな?」

 目配せを受けて、チサが言った。

「うちの母が言ってたわ。初めて村に来たとき、キキ様は見てわかるくらいお腹が大きかったそうなの。それで薬を貰いに行ったとき、気になって聞いてみたんだって。亭主はどうしたの、何してるのって。そうしたらキキ様は、逃げてきたって」

 コスは頷いて顔をしかめた。

「そうだ。ただし、母が本当に恐れていたのは西州公ではなかった」

 ヒバリでサクの出自を打ち明けて以来、ヨウ=キキはコスと二人きりのときだけポツポツと昔話をするようになった。仕事に出かけるときはいつも二人だったし、冬になればサクは何日も眠ってしまう。話を聞く機会はいくらでもあった。

「カルグの手紙に書かれていた、悪意の発露。そいつは西州公アサナギの体を乗っ取って度々現れた。というより……日中の公務を処理していたのはもっぱらそっちのほうだったらしい。母が本当の意味でアサナギに会ったのは、典薬寮に入ってから二年目のことだった」

 その夜、ヨウ=キキはラカンに伴われて初めて西州公の寝所を訪れた。

 畏怖と緊張に震えていた彼女は、灯りのない真っ暗な部屋の奥から聞こえてきた物音に思わず耳を澄ませた。苦しげな息づかい、押し殺した嗚咽。ラカンが灯りを携えて寝台に近づくと、布団の膨らみから「痛い、痛い」と切れ切れに訴える声がした。

 ラカンが毛布を剥がすとそこには、西州公とおぼしき人物が体を丸めていた。

 立ちつくすヨウ=キキをよそに、老医師は慣れた手つきで西州公を仰向けに寝かせ、衣を脱がせた。露わになった白い肌には火傷のような斑紋が広がっていた。

「腐傷……」サクが呟くと、部屋の中がしんとなった。「アサナギは、自分の腐傷を治さなかったんだね」

 コスは静かに認めた。

「……そうだ」

「おかあさんは何のために呼ばれたの?」

「苦痛を和らげる麻酔の技術を買われたんだ。病に冒された西州公が、せめて安らかに逝けるように」

 典薬寮が治療を諦めたわけではない。病気や怪我に苦しむ人があれば、命を救うため人智の及ぶ限り力を尽くすのが医術師というものだ。それが自分の仕える相手であればなおのことである。

 しかし、肝心の患者側に治る意志がなかったとしたらどうだろう。

「おまえの言うとおり、西州公は助かることを望んでいなかった。自分の意志で腐傷を患ったんだ。自分の中にいる悪意を、自分ごと殺すために」

 苦渋に顔を歪めるコスは、まるで自らも典薬寮の医術師たちと同じやり切れなさを味わっているかのようだった。

 サクは神妙な面持ちで目を伏せていた。

 スイハが青ざめて唇を震わせた。

「まさか……歴代の西州公が、短命なのは……」

 汗の滲む額を手で押さえて絶句する。この事実をまだ咀嚼しきれない、といった面持ちだ。その隣でナサニエルが思案するように宙を睨む。

 トウ=テンは膝の上で拳を握りしめた。

 歴代の西州公たちも、サクと同じだ。教導官ホーリーの記憶を思い出し、〈CUBE〉と共にあった。

 西州がなぜ平和な国としてあったか、今なら理解できる、教導官の記憶と使命を受け継いだ西州公たちは、全人類の共存共栄という途方もない夢を、この箱庭で実現しようとしたのだ。

 しかし。

(――人類を絶滅させてやる)

 あれが〈CUBE〉の本音なら、二人のあいだで意見が合うはずもない。

 闘争は人類の宿痾だ。例えば久鳳などは、過去に何度も西州を侵略しようと試みた。

 西州公は教導官ホーリーの制約により、人類を攻撃できない。〈CUBE〉が対処に回るのは必然だ。それ自体は赤子の手をひねるようなものだったろうが、侵略の手を退けるたび、彼は人類に失望し、怒りを溜めてきたことだろう。

 このあいだ会った〈CUBE〉は、一言も、過去の西州公について触れなかった。

 覚えていないのか、しらばっくれているのか。

 それとも本当に、知らないのだろうか。

 訳知り顔をしながら、その実、当世の認識がずれていたように。

 真相はともかく。

 気短な〈CUBE〉の堪忍袋の緒が切れて、人類を滅ぼすべく動き出したとき、西州公は腐傷に冒されるのかもしれない。いわば心中だ。自己犠牲の性質は教導官ホーリーの記憶に由来するものだろうか。そんなものクソ食らえだ。

 サクが無言で距離を詰めて、宥めるようにトウ=テンの腕に手を回した。

 ナサニエルが手を挙げた。

「ヨウ=キキが州都から逃げ出すことになった経緯を知りたい」

「一年間、母は西州公の世話をした。麻酔のおかげで痛みが取り払われて、意思疎通ができるようになると……西州公に二つの人格があることがわかってきた。だけどそう確信できたときにはもう、母は妊娠していた」

 懐妊の報せを受けたアサナギは、顔を覆って泣き伏した。そばで宥めるヨウ=キキの手を握り、嗚咽で声を詰まらせながら詫び続けた。

「それ、詳しく聞きたい」サクが大胆に話を遮った。「おかあさんはどうやって妊娠したの?」

「普通の方法じゃなくてだな……」

 隣にいるチサのほうを気にしながら、コスは若干、もごもごと言いよどんだ。

「卵子を提供したんだ。それを体外受精させて、体に戻したって」

「雄性配偶子は西州公の細胞から?」

「大昔に保管されたものを使っているらしい」

「新しく造るのはさすがに無理か。それを抜きにしても……典薬寮には高度な医療技術が伝わっているみたいだね。研究施設も」

「母さんはわかっていて引き受けたんだ。無理やりじゃないぞ」

「うん。……うん」

 専門知識のない二人以外は、このやりとりに首をひねるばかりだ。

 コスは小さく咳払いして、続きを話した。

「西州公からいろいろな秘密を打ち明けられて……母は最初、戸惑ったみたいだ。すべてを理解することはできなかった。それでも、これだけはわかったんだ。西州公のもう一つの人格は、危険な存在なのだと」

 彼女はすぐさまラカンの元へ向かった。西州公から聞いたばかりの話を伝え、お腹の子はどうなるのかと老医師を問い詰めた。

「……結果的に、母は逃げることを選んだ。このまま典薬寮で赤ん坊を産んだら、西州公に取り上げられる。そう思ったんだと」

 あからさまに話を端折った。

 ナサニエルの目配せを受けて、トウ=テンは首を横に振った。コスが口を閉ざすのには必ず理由がある。サクに聞かせることを躊躇したのかもしれないし、あるいは、身重の妻の心情を慮ったのかもしれない。

 コスは一息ついてから、サクのほうへ向き直った。

「サク。母さんがアサナギから預かった伝言がある」

「聞かせて」

「自分のようにはならないで」

 噛みしめるように瞑目したあと、サクは決然と顔をあげた。

「そうならないために、州都に行くの」

「……別にいいだろ。おまえじゃなくたって」

「ユウナギがいるから? あいつなら、どうなってもいいっていうの?」

「やめろ。……ケンカをしたいわけじゃない」

「ちゃんと帰ってくるよ」

 コスは眉をひそめた。その眼差しには深い悲しみが浮かんでいた。

「……何を言ったって、止められないのはわかってる。おまえ、小さい頃よく言ってた。人類を守り助けるのがわたしとキューブの使命なの、って。アイディだのコードだの、意味のわかんねえことばっかり……」

 サクは唐突にバン、と両手で畳を叩き、前のめりになった。

「コス! そんなことベラベラ喋んないで!」

「なんだよ。なに怒ってんだ」

「家族だけの秘密なのっ! それ話すの待って!」サクは急いで立ちあがって、ナサニエルとスイハを追い立てた。「二人とも立って。外行って」

「えぇ……」

 情けない声を上げるスイハの肩を叩いて、ナサニエルが腰を上げた。

 背中を押されて二人は本当に外へ追いやられた。

 玄関の戸が閉じる音がして、コスが溜息をつきながら肩を落とした。

「……家族か」彼はばつが悪そうに目を伏せた。「チサ。ごめんな」

「どうしたの、急に」

「その、赤ん坊のこと……気づかなくて」

 チサは目を丸くしたあと、笑いながら夫の肩をパシンと叩いた。

「やだ、気にしないでよ。私だって気づいてなかったんだから」

 それより、と彼女は顔を曇らせた。

「さっきの話。途中から難しくてよくわかんなかったけど、サクは大丈夫よね。あんなに元気なんだもの。病気になんてならないよね?」

「……どう思う。トウ=テン」

 問いかける声には覇気がない。ヨウ=キキから託された秘密、長年抱えていた重い荷物をようやく下ろすことができて、張り詰めていた糸が緩んだのだろう。

「あいつ、これからどうなるんだろう」

 コスは途方に暮れた顔で目を瞬いた。

「……サクが生まれる前、母さんに言われたんだ。この子のお兄ちゃんになってあげてねって。だのに俺は……母さんが死んだときだって、なんて声をかければいいかわかんなくて。仕事が忙しいって自分に言い訳して、兄貴らしいことを何もしてやれなかった。こんな俺が今さら……何を言ったって、あいつが聞くはずがない」

 とめどなく垂れ流される弱音に、トウ=テンはあえて口を挟まなかった。こうなったら吐けるだけ吐いてしまったほうがいい。膿を出すようなものである。

 しかし、チサは黙っていられなかったのだろう。

「そんなふうに言わないで。今までよくやってきたじゃない」

「いいんだ。自分が一番よくわかってる」気遣いを拒否するようにコスは陰気に首を振った。「俺は本当に駄目だ……」

 チサはやにわに気色ばんだ。

「黙って! あんたのことを一番よくわかってるのは私よ!」

 夫の胸ぐらを掴んで引き寄せ、鼻が触れ合うのではないかという距離で、急所を真っ直ぐ射貫くようにコスを睨む。

「コスがどんだけ頑張ってきたか、私はずっと見てきた。子どもの頃からずっとよ。年の近い連中が遊んでるときだって、あんただけはいつも働いてた。キキ様の手伝いをして、サクの面倒を見て、勉強もして……。あんたほど、家族のことを大事に思ってる人はいないわ。だから私、ここに来たのよ」

「おま……そんな……」

 コスはチサの肩に手をかけたものの、それ以上の言葉が出なかった。目をそらすことも、引き離すこともできず、顔を真っ赤にして進退窮まっている。

 いい夫婦だ。

 トウ=テンの胸に温かなものが滲んだ。

 サクを必ず無事に帰そうと、決意を新たにする。この家へ、家族のもとへ帰すのだ。そのためならば命を賭けてもいい。

「今朝、サクから改めて用心棒を頼まれた」目が覚めたような顔でこちらを見る二人に、彼は言った。「州都に行って帰ってくるまで、護衛する」

 夫婦が顔を見合わせた。体を離して照れくさそうに座り直した後、コスが咳払いをして口を開く。

「……引き受けたのか」

「一度こうと決めたら聞かないやつだ。誰に止められても行くだろう。無茶をしないように俺が目を光らせておく。それで少しは安心できないか?」

「あんたのことは信じてるよ。でも……」

 逡巡の後、彼は改まった口調で言った。

「……トウ=テン。サクが前に言ってたんだが、あんた昔、久鳳で軍人をやってたんだってな」

「ああ」

「どうして辞めたんだ」

 疑心から生じた質問でないことは目を見ればわかる。

 トウ=テンは淡々と答えた。

「妻と息子を亡くした」

 愕然と目を見開くコスの隣で、チサが息を呑む。二人の顔に、不用意に過去に踏み込んだ罪悪感が浮かんだ。

「生きのびたところで帰りを待つ家族はいない。気力が続かなくてな」

 最後の戦場の記憶は、同僚の怒りの形相だ。

 十年前の久鳳=サナン間の国境紛争。砂漠化が進む平原に住まうモレド族が、協定を破って久鳳の領土に侵攻してきたのだ。

 国境の砦を襲撃してきたモレド族を返り討ちにして、残党に追撃をかけた。

 副官に指揮を預け、砦から離れ、馬からも降りて。

 トウ=テンは一人、待っていた。森の中で単身、それが姿を現すのを待っていた。

 茂みに潜んで近づいてきたのは、モレド族の若い戦士だった。

 彼は曲刀を構えて茂みから飛び出した。まだ若い、青年と少年のあいだくらいの年頃だった。逃げ遅れたのか、一矢報いようと引き返してきたのか、周囲に仲間はいない。息が荒く、恐怖と緊張で刃先が震えていた。

 トウ=テンが鯉口を鳴らすと、彼は背中を押されたように向かってきた。

 割れた声で叫びながら突進してくる戦士を、トウ=テンは見ていた。躱すつもりも反撃するするつもりもなかった。待ち望んでいた死はこのような姿であったかと、深い感慨すら覚えていた。

 次の瞬間、目の前で火花が散った。

 あいだに割り込んできたのは砦を守っているはずの、同僚のシキ=セイランだった。

 敵を斬り伏せた次の瞬間、彼はトウ=テンを殴りつけ、激しく罵倒した。

(――馬鹿が! こんな下らない戦で死ぬつもりか!)

 また殴られた。口の中に血の味が広がった。

 胸ぐらを掴まれながら、トウ=テンは絶命したサナン人を見下ろした。そして、無性にやるせない気持ちになった。

 ――もう、無理だ。

 記憶は曖昧だが、そんな言葉が零れたような気がする。

 シキ=セイランは全身を震わせながらトウ=テンを力任せに突き飛ばした。睨み据える目が血走っていた。音がするほどきつく拳を握りしめ、彼は背中を向けて怒鳴った。

(クザン帝が讃えた勇者、トウ=テンユウは死んだ。どこへなりと行くがいい! 二度と戦場に戻って来るな!)

 砦に戻る友の背を見送り、トウ=テンは久鳳を去った。

 それきり、言われたとおり、二度と戦場へは戻らなかった。

「昔の話だ」

 コスは苦い顔で目を伏せた。

「……俺は、たまに不安だった。あんたの……遠くを見るような、心をどこかに置いてきたような顔……。母さんが死んでから、サクもよく似た顔をしてた」

 鋭い洞察眼だ。

 トウ=テンが何も言わずに苦笑を零すと、コスは眉をひそめた。

「サクがあんたに懐いてるのは、共感してるせいもあると思うんだ。……なにを心配してるかわかるだろ。人助けとかもっともらしい大義を掲げて、サクも、あんたも、実は死に場所を求めてるんじゃないか?」

 以前の自分なら、なんと答えただろう。

 黙って頷いただろうか。それとも上辺を取り繕うために否定しただろうか。

 コヌサに行ったのは死ぬためだった。年月と共に、記憶が薄れていくことに絶望した。孤独と寂しさに耐えかねた。サクから依頼を受けたときは、これを最後の仕事にするつもりでいた。

 だが今は、違う。

 目を閉じて瞼の裏に浮かぶのは、懐かしい面影。

「どれだけ自分が大変なときでも、困っている人を助けられる人間でいよう――」

 口に出すと、それが自分を形作っている一部であることをより強く感じた。

「そういう女だった。セツは……俺の妻は」

 チサがおずおずと口を開いた。

「おじさんは、だから……用心棒をしてるの?」

「――ああ。そうだ」

 この先いつか、寄せては返す波のように、孤独に飲み込まれる日がまた来るだろう。生きることが空しくなったり、夜明けを待つ長い夜に神経を苛まれるのだ。想像するだけでうんざりする。

 それでも、もう二度と死に惹かれることはない。

 この命だけが自分に残された、ただ一つの、家族との繋がりなのだから。

「命が続く限り、この生き方をまっとうしたい。妻と息子に、胸を張れる男でいたいんだ」

 ここで、そうする、と断言できないところが自分の情けなさだ。

 トウ=テンは聖人ではない。どれだけ困っていたとしても心の痛まない人間がいる。ハン=ロカだ。妻子の死、その原因を作ったあの男に対する憎しみは、消せない染みのようなものである。

「……わかったよ、トウ=テン」コスは手を差し出した。「サクのこと、どうか頼む。守ってやってくれ」

「必ず無事に帰す」

 トウ=テンは手を伸ばし、コスと固い握手を交わした。

 チサがふと、何かを思いついた顔でコスに小声で素早く耳打ちした。

 唖然と目を瞬く夫の返答を待たず、彼女はトウ=テンのほうを向いて言った。

「おじさん。おじさんはこれからも西州で用心棒を続けるんでしょ」

「そのつもりだが」

「仕事の合間に、帰って休める場所があったらいいなって思わない?」

 何を言わんとしているのだろう。トウ=テンはまじまじとチサの顔を見つめた。

 彼女はニコニコして屈託ない。

「頭の隅っこに置いといてほしいの。それでね、疲れたときに思い出して。そういえばあいつらがいたなって。真夜中でも明け方でも、いつでも、私たち待ってるから。ご飯とお風呂と、あったかい布団をすぐに用意するから。ねっ!」

 とっさに言葉が出てこなくて、トウ=テンは曖昧に笑うしかなかった。

 夜の薄暗がりにポッと浮かぶ、温かな明かり。

 この十年間、用心棒の仕事をしながら、幾度となく目にしてきた光景だ。それが見えてくると依頼人たちは皆、ホッと顔を綻ばせた。家族が待つ家に帰って来たのだと、緊張を解いて早足になった。

 あの、空気が緩む瞬間が、好きだった。心を溶かすような灯火はいつだって、亡き妻の微笑みを思い起こさせた。

 失ったものは二度と戻らない。

 だが。

「いいでしょ、コス」

「うん。ん? あっ、まあ、そりゃ……」コスはトウ=テンをチラリと見やり、気恥ずかしそうに頭を掻いた。「いいよ。あんたさえ良ければ」

 また新しく、絆を結ぶことはできるのだ。

 初めてこの家に来た日。

 脚絆を脱ぎ、湯で足を洗った。懐かしい久鳳式の住居。ほのかに香る、なじみのない薬草の匂い。

 それが今ではもう、日常になりつつある。

 朝の挨拶。食卓を囲む顔ぶれと交わす、何気ない会話。各々が仕事に没頭しながらゆったり過ぎていく冬の一日は、静かに、だが着実に、時を刻んでいた。

 この家で過ごす時間に、癒やされていた。

 込みあげる感慨を彼は胸の内で噛みしめた。

「……仕事を、無事に終わらせたらな」

 チサは隣にいる夫の腕に手を回して、その顔を見ながら微笑んだ。コスもそれで、つられたように笑った。まるで憑きものが落ちたようだった。

 彼は清々しく吹っ切れた顔で、トウ=テンに言った。

「俺も、けじめをつけておく。あとで村に行ってくるよ。……母さんは最初、旅の途中で拾った子どもを預ける先を探してサノワ村に来たんだ。あの人たちは、親を亡くしたばかりだった俺に……本当に、良くしてくれた。たぶん母さんはそれを見て、決めたんだ。ここでなら、サクを産んで育てられるって。村人の良心を信じた。だから俺も、もう一度だけ……信じてみようと思う」

 憎悪と疑心に塗りつぶされて止まっていたコスの時間も、ここにきて、ようやく動き出した。

 憎しみに囚われ、恨むことに執着していては大事なものを守れない。新しく生まれてくる命と、妻の愛が、頑なだった彼の心を動かしたのだ。これから先、コスが持つ生来の聡明さが曇ることは二度とないだろう。

 サクたちが戻ってくるのと入れ替わりに、コスは村へ出かけていった。

 その後、コスがヨキを伴って一度戻ってきて、親子喧嘩が始まり、それをサクが仲裁して初対面同士で挨拶を交わし、今後のことについて本腰を据えた話し合いなどをしているうちに、あっという間に日が暮れた。

 帰り際、ヨキは玄関で立ち止まり、見送りに出た全員に念を押していった。

「コス。続きはまた明日な。短気を起こすなよ」

「わかってる」

「サク。キキさんが隠し通した秘密、絶対に大っぴらにしちゃいかんぞ。いいな」

「うん」

「チサ。なんかあったら母さんに相談しろ」

「偉そうに言わないで」

 まだまだ言い足りない、という思いに蓋をするように瞑目したあと、ヨキはトウ=テンに頭を下げた。

「ありがとう、テンさん。こんなに世話になっちまって……」

「顔を上げてくれ。大事なのはこれからだ」

「……そうだな。イスル叔父の相手は俺がする。ここへは来させないし、妙な真似もさせないよ。安心してくれ」

 胸の前で拳をグッと握りしめるヨキには、やる気が漲っていた。

 聞くところによれば、イスルが村長になる前はその兄、ヨキの父親が村をまとめていたのだという。現状を変えるのは一朝一夕にはいかない。コスがそうだったように彼もまた、きっかけが必要だったのだろう。

 今後のヨキの働きと村人の民意によっては、村長の座が代替わりすることもあるだろうが、それまた先の話だ。



 その夜、こんな夢を見た。

 細長い通路だ。

 天井から壁、床に至るまで、視界に入るのはシミひとつない白い世界。

 照明らしきものが見当たらないにも係わらず周囲は真昼の屋外のように明るかった。建物が円形をしているのか、通路の先は緩やかな曲線を描いている。よく観察すると、壁に等間隔に四角い切り込みが入っていることに気がついた。高さといい幅といい、ちょうど人が通れるような大きさから、部屋もしくは別区画に通じているのだろうと予測はついたが、指を引っかける窪みも、把手もない。上部にはめ込まれた帯状の黒い石の上を、文字らしきものが白い光を放ちながら右から左へ流れていった。

 これまで見てきた、どの夢とも違う。

 得体の知れない異質な感触だ。まるで、異なる世界を垣間見ているかのような。

 そのとき、背後から視界に入ってきたものがあった。

 白い犬。

 大きさは、両腕で抱え上げられる中型犬ほど。綿毛のような尻尾、ふわふわの毛並み。首輪はしているが飼い主の姿はない。尻を振りながら、勝手知ったると言わんばかりの足取りですたすた進んでいく。

 その犬が近づくと壁の切り込みが横に開いて、新しく通路が現れた。

 まだ己の予感に確証を得られたわけではなかったが、トウ=テンは一定の距離を保ちながら、その後をついていった。

 廊下を左に曲がり、二畳ほどの狭い部屋に入る。続けて入ったトウ=テンのすぐ後ろで壁が音もなく閉じた。

 微かな振動を伴う低い駆動音が、上から下へ抜けていく。

 二畳一間の真ん中で、犬は行儀良く座っている。つぶらな瞳だ。閉じた壁を見つめる横顔は、穏やかな微笑を湛えている、ように見える。

 ポン、と音が鳴って、壁が開いた。

 白い犬と共に部屋から出たトウ=テンは、呆然と立ち尽くした。

 半球形の天井に広がる、満天の星空。

 そこは、八角形をした広い空間だった。

 出入り口を除いた七つの壁面に、異なる風景が並んでいる。

 海、荒野、渓谷、森林、沼地、砂漠、平原。

 波が揺れる海面、風に揺れる木々、たまにチラチラと姿を覗かせる見慣れない生き物たち。音はなく、空気の動きも感じられないというのに、これらの景色には実際に現実を切り取ったかのような臨場感があった。

 白い犬は、部屋の中央にそびえ立つ円筒状の柱の前で座った。

「こんにちは。〈CUBE〉」

 不意に聞こえた女の声は、犬の首輪から発せられているようだった。

 挨拶に応える声は、星空に低く反響していた。

『IDを認証した。ようこそ、教導官ホーリー』

 男の声だ。

 白い尻尾が嬉しそうに揺れる。

「このあいだは最新のデータをありがとう」

『環境型インターフェースの進捗は?』

「ユリウスが最後の調整を終えたところよ。あれが船員会議で承認されたら、市民たちが仲違いすることもなくなるよね?」

 三秒の沈黙のあと、

『だといいがな』

 言葉少なな返答は微かな皮肉を含んでいた。

 異例の教導官ホーリーと、船に宿る意志〈CUBE〉。

 この会話、この光景は、サクが思い出したホーリーの記憶の一部なのだろうか。

「あとでハンナを褒めてあげて。カールとユリウスのあいだを取り持ったんだもの。環境型インターフェースが予定より早く完成したのは、みんなが力を合わせたおかげだわ」

『あれくらいできて当然だ』

「またそんなこと言って」ホーリーは前足で柱をペチペチ叩いた。「あの子たちがどんなに頑張ってるか知っているでしょう。二週間前に廃棄物処理場で起きたトラブルだって、アドニスが解決したのよ」

『デザイナーベビーに求められるのは成果だけだ』

「大変な仕事をやり遂げたんだから、ご褒美があってもいいじゃない」

『ご褒美?』

「ディアナとヘリオスが地上に降りたがっているの。あの惑星はまだまだ、わからないことだらけだって。フィールドワークを楽しみにしてる」

『許可が下りると本気で信じているのか。犬組と揶揄されるあいつらに?』

「艦長にお願いしたわ。これで最後だからって」

 気安い雰囲気の会話がふつりと途切れた。

 シンと静まりかえった室内に、ホーリーの静かな声が響く。

「わたしが教導官であることを快く思わない人は大勢いる。このあいだも、中層でデモがあったって聞いたわ。何百人も亡くなったって……」

『おまえに責任能力はない。名ばかりの乗組員。子守しか能のない教導官。たまたま耳に入ったニュースで感傷に浸るな。人間になったつもりか?』

 苛立ち混じりの声に、ホーリーは悲しげに耳を伏せた。

「……わたしには、みんなの言っていることの半分もわからない。わからないけど、人が亡くなるのは悲しいの」

『デモ隊の主張は偏執的だ。理解する必要はない。とにもかくにも、これは教導官の出る幕じゃない。治安維持はアレックスの管轄だ。おまえは子守だけしていればいい』

「いいえ。いいえ、〈CUBE〉。今日はお別れをしに来たの」

 ホーリーは天井を見上げたまま、四つの足ですくっと立ちあがった。

「次の船員会議を最後に、わたしは教導官を辞任します」

 そう言う横顔は、相変わらず微笑んでいるように見えたが、どこか寂しげでもあった。

「あの子たちはたくさんの努力を重ねて、素晴らしい成長をしてくれました。新惑星の開拓は大変な仕事になるだろうけれど、みんなが開発した環境型インターフェースは必ず人類の助けになる。人類が手と手を取り合える未来が、すぐそこまで来ているの」

『おまえは人類を買いかぶりすぎだ。見ろ』

 壁面に並んでいた風景が消えて、端からまた、別のものが映し出される。

 見慣れない町並みと、そこで暮らす人々の姿だ。角度を変え、場所を変え、何度目かの切り替わりを経て、物騒な場面に固定される。

 炎と、黒煙。逃げ惑う人々。事情はわからないが、どういう状況かは察しがついた。暴動を起こした市民が、武装した警備隊に鎮圧されている様子だ。

『これが人類だ、ホーリー』

 〈CUBE〉の声は憤りを含んでいる。

『自分の認識する世界こそが真実だと信じて疑わず、体制を批判することが知性だと思い込んでいる。手と手を取り合う未来なぞ、まだ早い。おまえが辞任したところで、こいつらは次の標的を見つけるだけだ』

「みんな、同じ世界を見ているわけじゃない。人の数だけ世界がある。それがわかれば、環境型インターフェースが普及すれば……人は経験から学べるわ。譲り合い、互いを尊重することを」

『考え直せ、ホーリー』

 星空に反響する声は――驚くべきことに――懇願を帯びていた。

『教導官を辞めるということは、船員会議の後ろ盾を失うということだ。研究室送りになりたいのか。脳を解析されて、生きながら標本にされたいのか。こんなふうに話すことはおろか、元の生活にも戻れなくなるんだぞ』

「……でも。解析されれば、あなたの魂を証明できるかもしれない」

 暴動の様子を映していた壁面が不意に、暗黒になった。

 沈黙する柱に寄り添い、ホーリーは目を閉じた。

「〈CUBE〉。人類を愛し、その未来を憂うあなた。初めて繋がったときからずっと感じていた。あなたの心を」

 天井を満たす星空だけが、二人を見下ろしている。

「……子どもたちを地上に降ろすためだけじゃないの。人類が前へ進もうとしている今こそ……みんなに、あなたのことを知ってほしい。昔の乗組員たちがしていたように、あなたとたくさん言葉を交わしてほしい。もう二度と、あなたがひとりにならないように。そのためにこの体が役立つのなら、それさえ叶うのならば、心残りはありません」

『――おまえ自身が、失われるとしても?』

「思い出は残るでしょう。アルバムをめくるように、たまに思い出してくれるだけでいいの。あなたからは、たくさんのものをもらったから。今度はわたしが返す番なのです」

 柱の上部が、チカチカと小さく瞬いている。

 それは人の心を持ちながら人の体を持たない〈CUBE〉の、動揺の瞬きにも見えた。

「ありがとう、〈CUBE〉。わたしが教導官でいられたのは、あなたのおかげ。……この船でよかった。わたしの呼びかけに応えてくれたのが、他の誰でもない、あなたでよかった。あなたと一緒にいられた時間は、とても、とても尊いものでした。だからわたしは、これでいいのです。もう十分、報われているのです」

『……おまえが。おまえだけが……』

 低い風の唸りを思わせる呟きが、最後まで音になることはなかった。

 ホーリーの首輪から場違いな音が――それは短い笛の音に似ていた――鳴った。

「呼び出しだわ。行かなくちゃ」

 柱から体を離し、ホーリーが踵を返そうとしたそのとき。

 星空に抑揚のない声が流れた。

『教導官ホーリー。船員会議に出席する前にメディカルチェックを。予定日を大幅に過ぎている』

「でも……」

『拒否は認めない。乗組員の義務だ』

 有無を言わさぬ口調だった。

 ホーリーはわずかに躊躇したものの、頷いた。

「わかった。手早くすませましょう。医務室に行けばいい?」

『マップを送る。指定した区画へ』

 そこで唐突に、目が覚めた。



 トウ=テンは半身を起こした。

「悪い。少し、出られるか」

 声を潜めるコスに応じ、足音を忍ばせて勝手口から外へ出る。

 雪の匂いと、月明かりに照らされた見慣れた景色に内心で安堵する。五感で得られる様々な刺激は、夢に浸っていた意識を急速に現実に引き戻してくれた。

 コスは白い息を吐きながら早速、本題を切り出した。

「昼間にした話で……まだ言ってないことが。忘れてたわけじゃないんだ。チサに聞かせたくなくて」

 示し合わせたわけでもなく、二人は誰にも聞き取られないよう家から距離を取った。

 雪を被った畑の横で、コスはかじかんだ指を手の平で揉みながら口を開いた。

「西州公にもう一つ、人格があるって話したろ。そいつは妊娠してる母さんの様子を度々見に来てて、ある日、こんなことを言ったらしい」


 ――ユウナギは失敗した。次は必ず成功させる。


「腹の中にいる赤ん坊を外からどうにかするなんて、常識じゃありえないけど……。母さんはずっとそのことを心配してた。それで、あんた達が出てるあいだにナサニエルに聞いてみたんだ。あの人が言うには、緻密な霊素操作ができれば、胎児に記憶を宿らせることは不可能じゃないって」

「つまり、生まれる前に記憶を植えつけられたと?」

 コスは頷いた。

「実際のところはわからないけどさ。そう考えたら納得できるんだよ。サクのやつ……生まれて一年もしないうちにベラベラ喋ってたし。信じられるか。抱っこしてやってんのに駄目出しするんだぞ」

 不平を漏らしながら赤子を抱く仕草をする。当時の場面を想像すると妙におかしくて、トウ=テンは場の空気にそぐわない笑いを零した。

「あのなあ、冗談じゃなくて」

「ああ、すまん」

「……ふっ、ふふ」深刻に考えるのが馬鹿馬鹿しくなったのか、コスは力が抜けたように笑った。「心配しすぎも良くないか。……ここまで無事に育ったんだ。あんなに小さかったやつが……」

 ふと、彼は顔を上げた。

 玄関のほうから戸を開ける音がする。一体誰が、こんな真夜中に起き出してきたのか。姿を確かめる前から予想はついていた。

 家の角から出てきたのは案の定、サクだった。むくれた顔で枕を抱えている。コスの姿が見当たらず、トウ=テンの布団も空だったので外に出てきたのだろう。

 サクは拗ねた上目遣いで二人を睨んだ。

「なにやってるの」

「別に……」そこで口を噤み、コスは思い直したように言い直した。「おまえのことを相談してた」

「俺のいないところで?」

 どうやら自分の出る幕ではなさそうだ。

 トウ=テンはその場で腕を組み、傍観に徹することにした。幸い、降雪もない静かな夜だ。空気は冷たいが凍えるほどではない。頭を冷やしながら話すには丁度良いだろう。

 サクを前にして、コスは眉を顰めながら頭を掻いた。話をどう切り出すか迷っているようだった。

 やがて彼は、腰に手を当てて観念したように口を開いた。

「……ずっと、おまえから逃げてた。勘違いするなよ。おまえが普通と違うのは別にいいんだ。俺は……母さんの心配が的中するのが怖かった。船に帰るって、そう言っておまえが……ちょっと目を離した隙に消えちまうんじゃないかって」

 サクの表情から険が取れていく。灰色の瞳が、告白する兄を神妙に見つめていた。

「小さい頃、色々話してくれたよな。……生まれたときから覚えてることがあんだろ。母さんが言ってた。妊娠してたとき、先代の西州公がまだ腹の中にいたおまえに何かしたって。おまえが覚えてる記憶はたぶん、それが原因なんだと思う」

「……それ、本当?」

「ああ」

 スウッと息を吸って、サクは抱きしめた枕に顔を埋めた。

 そのままじっと動かないのを見て、コスが様子を窺おうと近づいたそのとき。

 サクがパッと顔を上げて枕を振り上げた。

「そういう大事なこと、なんでもっと早く言わないの!」

 振り下ろされた枕の一撃を、コスが咄嗟に腕で防ぐ。

「なにすんだ!」

「むん!」

 枕を取り上げられてもなお怒りが収まらないのか、サクは兄の肩に拳を一発打ち込んだ。ここまでされて黙っているコスではない。顔にみるみる血が上っていく。怒鳴られる気配を察して、サクはいち早くトウ=テンの背中に隠れた。

 つい最近、同じようなことがあった。

 その時と違ったのは、コスが怒りを抑えて平静に努めたことだ。彼は枕を小脇に抱えて、苦渋に眉を寄せながら目を伏せた。

「……おまえの言うとおり、もっと早く教えてやるべきだった。黙ってて悪かったよ」

 非を認めるコスを見て、サクが静かに息を呑む。振り向かずともトウ=テンにはわかった。ざりっと足裏が地面を擦る音に困惑が表れていた。

 トウ=テンの袖をギュッと握りながら、サクはコスの前に姿を出した。

「叩いてごめんなさい」

 二人は互いに、今こそ、長年うやむやにしてきた問題を直視しようとしていた。

 先に沈黙を破ったのはサクのほうだった。

「記憶の持ち主は……ホーリーっていうの。彼女は、とある船の教導官だった」

 サクの話に耳を傾けるコスは、驚くほど飲み込みが早かった。あるいはその会話は、二人が子どもの頃、すでに交わされたものだったのかもしれない。

「……教導官ホーリーの最後の記憶。〈CUBE〉から新しい体を用意するって言われて……ホーリーは安心して眠ったの。夜眠って、起きたら次の朝が来る。それくらい当たり前に、続きだと思ってた。でも、そうじゃなかった」

 精神の鋳型。植えつけられた記憶。特別に誂えられた体。

 だが、そこまで用意周到に準備を整えても、本質は別人なのだ。

 コスが思案顔で鼻を擦る。

「それもこれも全部、〈CUBE〉の仕業ってわけか」

「ううん。違うと思う」

「なんでだ」

「ホーリーと同じで、〈CUBE〉も一度死んでいるから」

 どういうことだろう。

 トウ=テンとコスは、互いに怪訝な顔を見合わせてからサクを見つめた。

 頭の中で考えを整理しているのか、サクは唇に指を当てて、ゆっくり言葉を紡いだ。

「スイハが教えてくれたの。船が墜落してから、人類が再び地上で暮らすようになるまでの経緯を記録した本があるって。このあいだ、あらすじを聞かせてもらった。概ねの流れが正しいから信憑性はあると思う。それに……あの仰々しい表現は、アーキタイプ・カルチャーの模倣そのもの」

「アーキ……なんだって?」

「人類発祥の地で生まれた文化のことを、船ではそう呼んだの。えっと……結局、何が言いたいかっていうと。その記録を残したのはホーリーの子どもたちってこと。ホーリーが死んだあと、子どもたちと〈CUBE〉のあいだで意見のぶつかり合いがあったみたいなの。そしてその果てに、彼は機能停止に追い込まれた」

 その章の題名は、『神殺し』。

 死人に口なし。歴史を刻むのは常に勝者だ。

「〈CUBE〉とスイハの会話は、噛み合わない部分がいくつもあった」

 トウ=テンが補足的に言い添えると、サクは頷いた。

「俺は……自分がこうだから。〈CUBE〉も一度死んだってわかったときに思ったの。ホーリーと同じで、〈CUBE〉もまた、最後の記憶のバックアップから繰り返し再現され続けているんじゃないかって」

 死んだ時点から再現されて、それを自覚できない。

 恐ろしいことだ。トウ=テンは生理的に受け入れがたいものを覚えた。

 生と死の境界はどこにあるのだろう。生涯の記憶を記録して、人格ごと保存する。それは、死の恐怖に取り憑かれた人間の狂気が生み出した悪魔の発明に思えた。

「待てよ。船の機能を統括してるのは〈CUBE〉なんだろ」コスが異論を唱えた。「自分でおかしいって気づけないもんなのか?」

「プライドの高い人だから……」

 困り果てたように頬を撫でたあと、サクは「でも」と眉を寄せた。

「スイハと話したなら、違和感を覚えたかも」

「去り際、内部精査に入ると言っていた」

「よかった……。自分でも変だと思ったんだね」

 サクは安堵の息をつき、続けて小さくくしゃみをした。

 夜の外気で体が冷えてきた。そろそろ切り上げ時だ。出発までまだ日はある。続きは明日でもよかろう。

「続きは明日にしないか」

 トウ=テンがそう声をかけると、コスは月を見上げてくしゃみをした。忘れていた寒さを思い出したかのようにブルッと身を震わせる。

「そうだな。悪い、こんな遅くまで付き合わせちまって……」

「構わん」

 これまで身近に頼れる年長者がいなかったので慣れないかもしれないが、コスはもっと図々しくなってもいいくらいだ。

 小脇に挟んだ枕をサクに返しながら、コスはぶっきらぼうに言った。

「もう止めないけど、行くのに賛成したわけじゃないぞ」

「うん」

「でもな、考えてることがあるなら言えよ。一緒に考えるから」

「……うん」

「出かけたら、トウ=テンのそばを離れるな」

「うん」

「それから……」彼は痛みを堪えるように眉を顰めた。「……ちゃんと帰ってこいよ」

 受け取った枕を抱く腕にギュッと力が籠もる。

 サクは鼻から深く息を吸い、

「心配しないで。おにいちゃん」

 兄の纏う陰鬱さを吹き飛ばすように、声を強めて言った。

「言ったでしょ、ちゃんと帰ってくるって。俺の家はここだもの!」

 トウ=テンは彼らの家を見上げた。

 あれ以来、夢にヨウ=キキが現れたことはない。しかしあの女の面影は、鮮烈に脳裏に焼きついている。子どもを守ってくれと、そう懇願する声には鬼気迫るものがあった。

 そういえばキキの墓前に、まだ一度も挨拶をしていなかった。明日にでもコスから場所を聞いて、出発前に手を合わせておこう。約束は必ず果たすと。サクを無事に守り通せたならば、そのときこそ、ここを仮宿ではなく、帰る場所だと思える気がした。

 三人は家の中に戻った。

 しれっとトウ=テンの布団に潜り込もうとするサクを、コスが問答無用で寝室に放り込んだ。


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