34.ラザロ=ヤースン


 ミラ=ハーヴェイが死んだのは二十七年前の冬。底冷えする夜のことだった。

 妊娠八ヶ月目の早産だった。真夜中にもかかわらず医術師たちは万全の体制を整え、母子を救おうと可能な限り手を尽くした。

 救えたのは一方だけだった。

 今際の際、ミラ=ハーヴェイは出産に立ち会った医術師たちに感謝を告げ、我が子の元気な泣き声を聞きながら静かに息を引き取った。

 西州公アサナギの第一子ユウナギは、母親の命と引き換えに生まれた。

 それが始まりだった。

 ラザロ=ヤースンはあの夜、西州の歯車が大きく軋む音を聞いた。


「殺せ」

 明かりの落ちた西州公の寝所は暗く、どれだけ目を凝らしても、闇の奥にいるその顔を垣間見ることはできなかった。

「それは使い物にならない」

 ただ、声だけがした。

「殺せ」

 闇から這い上がってくる凍てついた声は、ラザロの精神を激しく揺さぶった。

「疾く殺せ」

 再三の催促に返事をすることもできず、彼は深く頭を垂れ、震えながら寝所を辞することしかできなかった。

 典薬寮に向かう道すがら、足がもつれた。壁に手を突いて危うく転倒を免れたのと同時に、頭から汗がドッと噴き出した。


 ――なにかの間違いだ。


 西州公が、あんなことを命じるはずがない。待望の跡継ぎを、ミラ=ハーヴェイが命と引き換えに産んだ御子を、殺せなどと。

 震える足に何度も拳を振り下ろし、体を前に進めた。

 医術師たちは揃って消沈していた。母体を救えなかった後悔、処罰される恐怖や覚悟、彼らの中に渦巻く様々な感情が目に見えるようだった。

 ミラの亡骸から顔を上げて、ラカンが振り向いた。彼もまた憔悴していた。

「……西州公様はなんと?」

 恐れていた、しかし予想していた当然の質問が飛んできた。

 一同の視線を集めながら、ラザロは震えが来ないよう奥歯を噛みしめた。汗が一筋、こめかみを伝った。

 ミラを救えなかった医術師たちの唯一の慰めは、赤子が無事に生まれたことだ。それを殺すよう命じられたなどと、言えるはずがない。彼らの努力を、献身を、心を踏みにじることなど、どうしてできようか。

「……西州公様は、」ラザロは嘘をついた。「ミラが亡くなったことで動揺しておられる。明日、改めて私から話す。今夜は皆、ご苦労だった」

 あれは、なにかの間違いだ。

 自分のついた嘘を嘘を知りながら、ラザロは誰よりも、それを信じたかった。

 西州公アサナギのことは幼い頃から知っている。

 物語と詩を愛する、優しく利発な子だった。大人になったら城の外に出て世界中を旅するのだと、無邪気に将来の夢を語ってラザロを困らせた。

 位を継いで病を得てから、宮中はおろか、部屋から出ることも難しくなっても、その心根は変わらなかった。

 変わることはないのだと、信じていた。


 ユウナギが奥の宮に幽閉されたときも。

 第二子を孕んだヨウ=キキが逃げ出したときも。

 カルグとユウナギが密かに逢瀬を重ねていたと判明したときも。


 ラザロは現実から目を背け続けた。


 西州公の、ユウナギ公子に対する仕打ちは、常軌を逸していた。人道に反していた。尊厳を踏みにじる暴虐だった。

 臭い消しの香でも消しきれない、染みついた血の臭い。

 御簾の向こうに鎮座するそれはもはやラザロの知る西州公その人ではなく、かと思えば、稀にふと、昔の面影に戻る瞬間があった。


 正気に返った西州公は、そのたび絶望した。


 病に冒された体で血を吐きながら、顔を覆ってすすり泣くのだ。

 姿を消して何年も経つというのに、縋るようにあの女の名を呼ぶのだ。

 もう死にたいと、喉から絞り出すように訴えて、ラザロの心に芽生えた微かな希望を打ち砕くのだ。


 この状態を誰にも悟らせてはならぬと、ラザロは、西州公の側から人を遠ざけた。

 それが最大の過ちだったとも気づかずに。

 身も心も疲弊した主君を、孤独にした。

 治世には影響がないことを言い訳に、見ないように、考えないように。葛藤や苦悩から逃げて、日々をやり過ごした。


 愚かだった。

 駆けつけたときにはもう、西州公は血だまりの中で死んでいた。


 ラザロは膝を折り、手を揃えて冷たい床に額ずいた。

 その姿はとても。

 正気では。直視できない。

 二十七年前に死んだ女に生き写しの、月から降りてきたかのような白皙の貌。瞳を彩る朝焼けの色彩は紫がかった透き通る赤。緩く三つ編みされた腰まで届く銀糸の髪は、虹の燐光を纏っている。

 奥の宮の大扉を背に、彼女は歩き出す。

 床に、壁に、天井に、コツコツ、コツと、軽やかな足音が響く。

 ラザロにはそれが、己の余命を刻む音に感じられた。


 ――嗚呼。どこからか、獣の遠吠えが聞こえる。


 頭の中を、二十七年間の記憶が走馬灯のように流れていく。

『疾く殺せ』

 あの言葉の真意を問わず、黙って部屋を出たのが運命の分かれ目だった。

 自分の弱さ、愚かさから目をそらさず、もっと早くに現実と向き合っていたのなら、違う未来があったのだろうか。


「ごきげんよう。ラザロ=ヤースン」


 ミラ=ハーヴェイの忘れ形見。

 西州公を殺害した張本人、ユウナギ公子は、たおやかに彼に語りかけた。

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