37.勇気の行方


 西州公の宮で様々な思惑が絡み合い事態が進行していた、一方その頃。

 屋敷に一人取り残されたセン=タイラは、思いも寄らない厚遇を受けていた。

 客間に運ばれた遅めの昼食はどれも久鳳の料理で、彼のために特別拵えられたものに違いなかった。脂の乗った焼き魚、根菜とキノコの汁物、ツヤツヤの白米、箸休めの小鉢が三つ。実家の料理よりよほど手が込んでいる。セン=タイラがやや面食らいながら礼を言うと、配膳係の家政婦は実に愛想のいい笑顔で言った。

「いえいえ、これぐらい。メイサお嬢様の旦那様になられる方ですもの。どうぞ遠慮なく召し上がって下さい」

「いただきます」

 家政婦が退室する音にホッとする。

 どうにも背中がむず痒い。

 今朝までは、スイハの意を受けた使用人たちが屋敷中のそこかしこで見張りに立ち、婚約中の男女を二人きりにさせまいと厳しく目を光らせていた。

 風向きが変わったのは、獣の群れが市街地に現れたと報せが入ったときだ。セン=タイラは反射的に武器を取り外へと飛び出した。軍人の性である。とはいえ、彼は特別優れた武人ではない。住民が避難する時間を稼ぐのが関の山だ。

 門を出て遠目にまず、往来を怒濤の勢いで縦断する獣の群れが見えた。

 一目で悟った。

 無理だ。どうにもならない。

 脳裏に死がよぎった。それでも足は止めなかった。一般市民が襲われているかもしれないのに、軍人の自分が臆病風に吹かれて逃げ出すわけにはいかない。彼は抜刀し、往来を目指して走った。

 しかし獣の群れは住民に目もくれず、野生の臭気だけを残して、一直線に往来を駆け抜けていった。

 そのあとセン=タイラがしたことと言えば、腰を抜かした老人を助け起こしたり、泣きわめく子どもを親と引き合わせたり、そんなささやかなことだった。そうしているうちにヤースン家の使用人が迎えに来たので、町の駐在にあとを任せて戻ることにした。

 往来に背中を向けたとき、後ろから腕を引かれた。最初に助けた老人だった。彼は小さな目をしょぼしょぼ潤ませながら何度も礼を言った。

「ありがとう。あんた、よく来てくれたよ。ありがとう」

「いえ。自分は軍人ですので……」

 そこまで言ってから、久鳳の軍人である自分が、西州の市街地で武器を抜いたと知れたら後々問題になりそうだと思い至り、言い訳っぽく付け加えた。

「人外の脅威から市民を守る義務に、国境はありません」

「ああ、立派な人だよ。本当に立派だ」

 そうして屋敷に戻ったら、なんとなく、待遇が良くなっていた。

 意図したことではなかったが、しかし、嬉しい誤算だ。ヤースン家の使用人たちから、メイサの婚約者として少しでも認めてもらえたのなら、休暇を延長した甲斐があった。

 そもそも、西州に来たのには目的があったのだ。

 セン=タイラには後悔があった。初めてメイサと顔を合わせた席で、ろくな会話もなく退室したことを、帰国してからずっと後悔していた。

 メイサが妾の子だということは会う前から知っていた。母親の元で育ってから本邸に引き取られたという、自分と似た境遇に共感を覚えた。しかし親族の挨拶の席で、腹違いの年子の兄が守るように同席していたこと、兄妹が当たり前に会話をしているのを見て、セン家とは環境がまるで違うのだと思い知らされた。

 最初の挨拶以降、一言も喋れなかったのは、気後れしたからだ。一方的に共感を抱いていた自分が惨めで恥ずかしかった。

 無口で気難しい男。きっと、そう思われただろう。

 自業自得とはいえ、そのまま式の日を迎えたくはなかった。

 妻を迎えるために努力してきた。

 腹違いの姉たちは、タイラを庶子と呼んで忌み嫌い、自分の夫か、あるいは息子にセン家を継がせようと暗躍していた。賄賂、買収、脅迫。しかし、こちとら伊達に情報将校をしていない。摘発する証拠を集めるのは容易かった。姉たちの夫、義兄たちとは話をつけた。姉の息がかかった使用人はすべて解雇した。当主が跡継ぎに指名したのは自分なのだと内外に知らしめるために、顧客たちと積極的に会食の席を設け、販路を拡張した。

 見栄だ。

 妻になる女性を――自分はあなたに釣り合う男だと――きれいな家に迎えたかった。

 嫁いできて良かったと――尊敬と愛情を――思ってもらいたかった。

 だから、メイサ=ヤースンが危険な任務に赴いたと聞いたときは、気が気でなかった。初対面でしくじった後悔があったし、何より、彼女は『妻になる女性』だったから。

 手紙を出し、休暇を取った。

 二度目の訪問で初めて言葉を交わした。

 そこで、セン=タイラは。

 漠然と抱いていた幻想を、粉々に打ち砕かれた。

「私はラザロ=ヤースンの娘です。たとえお飾りでも、後方で待機しているだけだとしても、彼らと共に戦場にあらねばならない。そこで起きたすべての責任はヤースン家が負うものなのだということを、この身をもって示さなければならないのです」

 西州が平和な国だったのは、とうに過去のこと。

 ラザロ=ヤースンの娘である誇り。常在戦場の覚悟。それを示したメイサ=ヤースンの眼差しには、人の心を惹きつけてやまない宝石のような輝きがあった。

 淑やかで優しいだけではない。こんな、芯のある女性だったのだ。

 胸が高揚した。

 高嶺の花、という言葉を、人生で初めて実感した。

 海を渡って会いに来たのに、目に見える場所にいるのに、届かない。届かないとわかっているのに、目を離せない。

 スイハの言うとおりだ。

 下心など、あったに決まっている。

 たとえ手が届かなくても、振り向いてほしかった。少しでも長く、その瞳に自分の姿を映してほしかった。どうにかして気を引きたくて、そのためだけに、無謀な旅に出たスイハを連れ戻しに行ったのだ。

 まるで功を焦って突出する新兵だ。

 誰かに認められるということは、大きな成果を上げることではない。ひとつひとつで見ればとるに足らない、小さなことの積み重ねだというのに。

 セン=タイラは、手早く昼食を終えた。

 客間を出る。廊下を進んでいくと、玄関が開いていた。使用人が門の前で、近隣住民の対応をしている。獣の行方について話しているようだ。市街地を抜けたあと、群れは橋を渡って西州公の城へ入っていったらしい。

 もしそれが本当なら、安心してよさそうだ。

 宮城には、あの人がいる。

(――おまえは耐え忍ぶことを知っている。いい将校になるぞ)

 第四位将軍トウ=テンユウが。

 スイハの口からその名前が出てきたときは、我が耳を疑った。そして、興奮した。

 やはり生きていた。それみたことか。勇者と呼ばれた男が、国境の小競り合い程度で死ぬはずがない。心が快哉を叫んだ。全身が熱く滾り、その日の夜は朝まで眠れなかった。第四位の麾下だった若き日の自分が、まだこんなにも残っていたのかと驚いたほどだ。

 ヒバリで再会したかつての上官は、十年という歳月相応に年を取ってはいたが、凪いだ海のように穏やかな眼差しは当時のままだった。

 そして技量に関しては、衰えるどころかさらに磨きがかかっていた。彼が易々と銃弾を弾いた瞬間を思い出すと、今でも鳥肌が立つ。日没後、三馬身の距離、逆光の視界。あれと同じ状況下で一体、どれだけの武人が同じことをできるだろう。

 改めて思い知らされる。久鳳が失ったものの大きさを。

 一方で、運命めいたものを感じた。

 死んだと思われていた勇者が、十年の歳月を経て、国家の危機に呼び寄せられるように再び現れた。まるで救いを求める声に応えるかのように。

 実際のところ、この世に運命などない。限られた道の中から選んで進み、人事を尽くした。すべてはその過程と結果の巡り合わせだ。

 救われたのは自分のほうだ、と彼は言った。

 大事なものは奪い尽くされた。一度目は亥の蛮族に、二度目は官僚の悪意に。再び復讐をする気力は、もうなかった。十年、何も持たずにひとりで生きた。空しさばかりが降り積もり、最後に残った命まで捨てようとした。そこをサクナギに拾われた。

 あいつに付き合って、今は、少しずつ生き直している気分だと。

 州都までの旅路で、トウ=テンが明かした胸の内に思いを馳せる。

 勇者の称号はすでに過去のもので、もう二度と国家に仕えることはない。だが過去を捨てたわけではない。向き合って、受け入れて、また新しく歩き出す。生き直すとは、そういうことだ。

 用心棒という仕事は、あの人に、とてもしっくりくる。

 さっき市街地で咄嗟に出てきた言い訳は、実は受け売りなのだ。

 十二年前。ヨーム側の国境沿いにある小さな村が、魔物に襲われる事件があった。

 たまたま危険種の討伐で近くにいた第四位将軍の部隊が出動して、被害は未然に防がれた。ところがその後、魔物の出所を調査したところ、とんでもないことが判明した。村が襲われたのは、久鳳領内の魔物を国境警備隊がヨーム側に追い立てたことが原因だったのだ。

 あのときのトウ=テンの怒りようは尋常ではなかった。

(――国境線を言い訳にするな! 一般人を危険に晒して何が国境警備隊か!)

 大勢の部下の前で叱責された国境警備隊の隊長は、反省するどころか、これは立場を無視した明らかな越権行為だと第四位将軍を非難した。卑しい成り上がり風情が皇帝の威光を笠に着ているという、逆恨み丸出しの主張は当然、誰にも賛同されなかった。国境警備隊には監査が入り、普段の勤務態度やその他諸々の問題が発覚したこともあって、隊長は相応の処分を受けた。

 この話は、帝都の人々を大いに賑わせた。

 第四位将軍は、三十年にわたって久鳳を苦しめた亥の蛮族を打ち倒した勇者。クザン帝の治世の象徴である。その彼が、人外の脅威の前には国家も人種も関係ない。一般市民を守るのが軍人の本懐であると、そう言ったのだ。クザン帝は民を大事にする仁徳の皇帝だと評判になり、市街地を巡回する警備隊の制服は子どもたちの憧れの的となった。

(――ああ、立派な人だよ。本当に立派だ)

 そうとも、ご老人。

 名前につく肩書きがどう変わろうと、あの人のすることは変わらない。困っている誰かに気づき、手を差し伸べるのだ。十二年前、父に無理やり軍を辞めさせられるところだったセン=タイラを、必要だと言って引き抜いてくれたように。

 耐え忍ぶことを知っている、と言ってくれた。

 あの言葉を信じて腐らず積み重ねたから、今の自分がある。

 住民たちが門の外で不安を訴えている。対応する使用人は宥めるのに苦労していた。セン=タイラは加勢に向かった。自分は客人だが、と前置きして、ヤースン家の人間が総出で問題解決に当たっている最中だと説明した。

 住民たちは一応は落ちついたものの、怪訝そうに顔を見合わせた。

「スイハ坊ちゃんもホノエ様も帰ってきて……それはいいんだけどさ。客人っていうにはずいぶん訳知り顔をするじゃないか。あんた一体何者なんだい?」

 なんと答えたものか。セン=タイラが言葉に迷っていると、住民の対応をしていた使用人が――いい加減にしてくれとでも言うように――声を張り上げた。

「この方はメイサお嬢様の婚約者だ! 失礼をしたらお嬢様に言いつけるぞ!」

 後半の警告は、住民たちのわあっと沸く声にかき消された。

 彼らの興味は得体の知れない不安から一気に、目の前のセン=タイラに移った。

「久鳳の軍人さんかあ。どうりで体がでかいわけだ」

「お嬢様より随分年上でいらっしゃるのねえ」

「この人さっき、はぐれたうちの娘を連れてきてくれたんだよ」

 大衆の見る目が変わる。

 稀少な珍獣ではなく、ひとりの人間を見る目へと。

「さすがはお嬢さんの旦那さんになる人だよ」

「優しい人で良かったわあ。メイサお嬢様も安心ね」

 どれだけ地味で、ささやかでも。

 転んだ老人に手を差し伸べたり、迷子を親と引き合わせたり。

 この国では、そういうことの積み重ねが自分の価値になることを、セン=タイラはもう知っている。

 さっき食べた昼食は、本当に美味しかった。



 勇者とは。

 勇猛な武人という意味ではなく、人々に勇気を与える存在なのだと。

 ハッコウ傭兵団の前団長、ハク=コウシュンはそう言っていた。

 ――ああ、親父。そりゃあ心強いだろうな。

 風を切る音に、反射的に身を引いた。死角から放たれた回し蹴りが顎を掠る。皮膚を裂く鋭さに怯んで、思わず間合いから遠のいた。

 ――味方なら。

 シュウは顎から滴る血を拭った。

 間合いの外からだと動きがよく見える。

 トウ=テンは回し蹴りの足を戻すと同時に膝を曲げ、最小限の動きでジャンドロンの掴みを躱す。バン=ハツセミの大ぶりな攻撃を去なす。伸びっぱなしの腕を捻って後ろを取り、そのまま固め技に入るかと思いきや、掌底で背中を打って吹き飛ばした。バン=ハツセミは受け身を取り、すぐ体勢を立て直そうとするが、肺の空気を押し出されてうまく息ができない。

 誰の攻撃も通らない。

 トウ=テンは自然体で、すべての攻撃に対応してくる。躱され、去なされ、こちらばかりが消耗して、徐々に動きが悪くなっていく。

 ――本当にこれが、全盛期を過ぎた中年の動きか?

 単純な腕力でいえばシュウのほうが上だ。上背はジャンドロンのほうがある。手数はバン=ハツセミのほうが多い。

 三対一なら、掴んで動きを封じればどうとでもなる。

 そんな都合の良い幻想は、とうに消えていた。

 ――丸腰でも強いじゃないか。

 十代の頃は、戦場で落ちている武具を拾う姿から〈フーテン〉という蔑称で呼ばれた。それが二十代を迎える頃には、あらゆる武器種を使いこなす〈武芸百般のテン〉の名で知られるようになった。

 ハク=コウシュンからそう聞いていたから、たとえ格上でも、丸腰で三対一なら勝機があると思ったのだ。完全に見込みが甘かった。

 突破口が見えないまま全員が距離を取る。

 ジャンドロンは肩で息をしている。ここまで手こずるとは彼も思っていなかったのだろう。乱れた髪を直す余裕もないのに口元が笑っているのは、せめてもの強がりだ。

 真っ向勝負では勝てない。

 屋根の上にいるピジョンに、指でサインを送る。

 当てる必要はない。狙撃を警戒させて気を散らせるのが目的だ。

 そもそも、ピジョンは人を撃てない。血が駄目なのだ。だがその狙撃の精密さは、弱点を補って余りある。窓越しに覗く扉の掛け金、張り巡らされたロープ、山賊の手の中にある短剣、危険種の核。対象物を正確に撃ち抜くことにかけて、彼の右に出る狙撃手はいない。要人警護の依頼がないときでもハッコウ傭兵団が食いつないでいけるのは、稀少な技能を持った団員――ジェインとピジョン――のおかげで、戦闘以外の仕事も請け負うことができるからだ。

 ジャンドロンが近づいてきた。

「正面からは無理ですね」

「仕事でなきゃ白旗を振ってるよ」

 バン=ハツセミが果敢に挑んでいるが、まるで相手になっていない。今のままではトウ=テンを敷地の外へ追い立てるなど夢のまた夢だ。

「狙撃で気を散らす」

「それだけでは足りません」

「どうする?」

「池に落としましょう」

 あまりに身も蓋もない策に、シュウは笑った。

 前庭には幾筋か水路が走っており、その先に人工池がある。

 傭兵団を一人で圧倒するトウ=テンとて、不死身の化け物ではない。血の通う人間だ。真冬の池に落ちてずぶ濡れになれば、凍えて動きも鈍るはず。

「そうだな……」

 ――うまくいくわけない。

 耳元で理性が囁く。

 わかっているだろう。経験値が違いすぎる。だって、まるで想像できていないじゃないか。四位が池に落ちるところを。作戦が成功する光景を。

 ――親父なら。

 足下がぐらりと揺らぐ。

 先代が率いた、かつてのハッコウ傭兵団なら。もっとうまく立ち回れた。

 取り逃した選択肢が、後になってから次々と頭に浮かんでくる。

 厄介ごとに巻き込まれた自覚はあったのだ。公子のユウナギと、遺児のサクナギ。この二人が同時に現れた時点で、ここから先は手に余ると、ラザロ=ヤースンとの契約をすっぱり打ち切っていれば。きっとジェインを隠されることだってなかったし、トウ=テンと戦うこともなかった。

 判断を誤った。

 仲間を危険に晒した。

 失敗の先にあるものは全部、失敗かもしれない。

「シュウ団長」

 肩を強く掴まれて、我に返る。

「ジャンドロン……」

「切り替えなさい。失敗は通過点に過ぎません」イカサマの種明かしをするかのように、ジャンドロンはニヤリと笑った。「なに。今回は幸い、四位が胸を貸して下さる。変に気負わず、いつも通り行きましょう」

 そう言われて、シュウは改めてトウ=テンの姿を視界に収めた。

 少年時代は、雲の上の人だった。

 亥の蛮族が討伐された。その報せは、当時十一歳だったシュウにとって、あまりにも現実味がなかった。

 ほんの一年前まで、久鳳の軍隊は、亥の蛮族に手も足も出なかったのだ。

 顔に入れ墨をした亥の蛮族にたたき殺され、引き裂かれる兵士たち。町の入り口に殺到する難民の群れ。落とし格子が閉じきる寸前で父が押し込んでくれなければ、十歳のシュウは大人たちに踏み潰されていただろう。急いで振り向いたときにはもう、父の姿はなかった。

 難民から孤児になった自分を、なぜハッコウ傭兵団が拾ってくれたかはわからない。

 理由を尋ねてもハク=コウシュンは多くは語らず、「しみったれた顔をしてたからだ」とだけ言った。最初のうちは人さらいじゃないかと疑ったが、結局どこにも売り払われることはなく、いつの間にか、ハッコウ傭兵団の団員たちが新しい家族になっていた。

 それでも不安は消えなかった。生まれ育った町を襲い、住み慣れた街並みを壊し、間接的に父を死に追いやった亥の蛮族は、シュウにとって天災のようなものだった。ハッコウ傭兵団での新しい日常だって、いつ奪われてもおかしくはないと思っていた。

 だから、亥の蛮族が討伐されたなんて、まるで実感が湧かなかった。

 しかし時が経つにつれて、帝都に軍人以外の人々――職人や商人――が集まり、往来が市で賑わうようになると、本当に終わったのだと次第に肌で感じるようになった。

 ハク=コウシュンは依頼を通じて、第四位将軍と直接面識を持つ機会が多く、彼のことをよく話して聞かせてくれた。

「四位は派手なことより堅実さを好む。どんなに地味な仕事でも終いまで丁寧にやることを覚えろ、シュウ。そうすればいつかおまえも、四位の依頼で働く日が来るかもしれん」

 ――そんな日は来なかったよ、親父。

 地道にコツコツ働いた結果、目の前に四位がいて、敵対していて、万に一つも勝ち目がない。自分は選択を間違えた。そうとしか思えない。

 だというのに、ジャンドロンは謎に余裕だ。

『ジャンドロンからよく学べ』

 団長を引き継ぐとき、ハク=コウシュンに言われた。今でも会うたびに言われる。

 ――胸を借りる。

 これは意味がよくわからない。

 ――いつも通り。

 それならできる。

 これが今のハッコウ傭兵団だと、行動で示すのだ。相手が格上だろうと、わずかでも勝機があるなら食らいつく。ジェインを、仲間を取り戻すことを諦めない。

 シュウは自分の頬を叩いた。

「ピジョンの狙撃で注意を引いて三人がかりでいく。やるぞ、ジャンドロン」

「その意気です」

 腰の後ろでピジョンにサインを送り、駆け出す。

 バン=ハツセミの攻撃を躱したトウ=テンに、ジャンドロンが追撃をかける。トウ=テンは後ろに下がってこれを去なす。組み打ちのあいだも体幹は一切ぶれない。

 肩で息をしながら、バン=ハツセミが顎から滴る汗を拭った。

「さっ、作戦……考えて、きたんだろうな……」

「ハツセミはいつも通り手数で攻めてくれ」

「任せろ……」

 呼吸を整えながら軽く嘔吐いている。

 味方の消耗が激しい。早めに決着をつけなければ。

 狙うのは、回避から反撃に転じる瞬間だ。

 組み打ちの最中、不意に、トウ=テンの視線が上を向いた。

 狙撃を読まれたか。シュウはギクッとした。

 これまで三人の攻撃をことごとく去なし、躱し続けてきたトウ=テンの顔に、初めて驚愕と警戒が浮かんだ。

「……ドローン!」

 なんだかわからないが注意が逸れた。

 これならピジョンを温存できる。

 ――今だ!

 三人でいっせいに飛びかかった。

 真っ先に仕掛けたのはバン=ハツセミだった。一息で距離を詰めて連撃を繰り出す。拳がトウ=テンの頬を掠めた。あと一手、というところで反撃の裏拳で倒れる。

 反撃で生まれた隙をついて、ジャンドロンが背後から組みついた。上背の差で押さえ込めるかと思いきや、トウ=テンは素早く関節を外して拘束から逃れ、呆気にとられるジャンドロンの鳩尾に膝蹴りを叩き込んだ。

 関節を戻すまでの一秒にも満たない時間、シュウは――考える余裕もない――がむしゃらにトウ=テンに掴みかかり、その体を力任せに投げ飛ばした。

 その重みは、どこにでもいる普通の人間となんら変わりなくて。

 手応えを感じた。

 空中でトウ=テンが身を翻す。そんなことで軌道は変わらない。頭から落ちようが、足から落ちようが、行き着く先は人工池だ。

 しかし。

 待ち望んだ水飛沫が上がることはなかった。

 人口池に平然と着水したトウ=テンの姿に、シュウは頭が真っ白になった。

 ――そんな馬鹿な。水たまりじゃあるまいし。もしかして池に氷が張っていたのか。いや、違う。水面に波紋が広がっている。じゃあ、あれはなんだ。

 呆然と立ち尽くすシュウの横を駆け抜けて、バン=ハツセミが雄叫びを上げながら突撃した。

「うぉおお! 四位、討ち取ったりー!」

 死なば諸共。氷を砕くつもりで放った跳び蹴りの勢いに乗って、彼は大きな水飛沫を上げながら池に突っ込んだ。

 水の冷たさに悲鳴を上げる。

「ひっ、ひぃいい!」

 ハッと我に返り、シュウは急いでバン=ハツセミを岸に引き上げた。

「ハツセミ、大丈夫か!」

「どうなってんだ、こんちくしょう!」

 ずぶ濡れでガチガチ歯を鳴らしているが、悪態をつく元気があるなら大丈夫だろう。

 仲間の無事を確かめてから、シュウは改めて現実と向き合った。何度見ても同じだ。トウ=テンは当たり前のような顔で水の上に立っていた。

 こんなの誰が予想できる。驚きを通り越して笑うしかない。

 不意に、銃声が鳴り響いた。

 シュウは屋根の上を振り仰いだ。ピジョンが狙撃銃を構えて照準器を覗いている。眼下の状況を見て、自己判断で撃ったのだ。

 トウ=テンが足下に視線を落とした。左の脚絆の紐が千切れている。彼は人工池から上がって地面を踏みしめた。ピジョンを一瞥し、感心したように目を細める。

「いい腕だ」

 装備に秘密があるわけでもない。絶望的な気持ちになる。

 それまで小競り合いを遠巻きに眺めていた獣たちが、突然、ウォウウと唸りだした。銃声と火薬の臭いで興奮したのだろうか。シュウは青ざめた。バン=ハツセミは凍えて動けず、ジャンドロンはまだ立ち上がれない。襲われたら一巻の終わりだ。

 トウ=テンがすっと右手を挙げた。

 すると、どうしたことか。獣たちが吠えるのをやめたではないか。

「ここまでだ。ハッコウ傭兵団」

 妙な感覚だった。

 宮中で雇われているのは自分たちで、トウ=テンはいわば侵入者であるというのに、まるで立場が逆になったかのように錯覚しそうになる。

 人どころか獣までをも黙らせる、圧倒的な存在の大きさ。場を支配する力。

 これが、第四位将軍。

「俺は戻る。状況が変わった」

「まだ……」

 臆するな、と己を叱咤する。

 シュウは呼吸を整えて、トウ=テンの前に立ち塞がった。

 後ろ手でピジョンに合図を送る。

「まだ俺は諦めてない。勝負はここからだ」

「本気でそう思っているのか?」

 諭すような声音だった。

 ピジョンが人を撃てない狙撃手だとバレている。それはそうだ。トウ=テンを本気で足止めするつもりなら、脚絆の紐などではなく、文字通り足を撃てばいい。そうしなかったのは、そうできなかったから。誰でも辿り着く単純な結論だ。

 こちらの手の内はすべて晒した。はったりは通用しない。詰んでいる。

 萎んでいく負けん気を振り絞って、シュウはトウ=テンを見据えた。

「俺は傭兵だ。立ってるうちは負けじゃない。それに、勝敗が決まる前から勝負を投げるなんて、格好悪いだろ」

 トウ=テンが口角を上げて笑う。

「では、押し通るとしよう」

 殺気のない、自然体の構え。

 不思議と肩が軽くなる。ふと、ジャンドロンが言っていたのはこういうことか、と理解する。仕事を投げ出すのは恥だが、四位に挑んで負けたのなら箔が付く。胸を借りるとはきっと、そういうことだ。

 勝ち目がないことを確信しながら、シュウは笑みを浮かべた。

 あとでジェインが帰ってきたら、おかげで四位と手合わせできたと戯けて見せよう。ラザロ=ヤースンに契約を切られても構うものか。報酬分の仕事はした。仲間たち全員でうまいものを食べに行く。次のことを考えるのは、それからでいい。

 シュウは覚悟を決めてトウ=テンに飛びかかった。

 勝負は一瞬。

 その、はずだった。

 間合いに肉薄する瞬間。銃声が轟き、そして。

 シュウの視界に、真っ赤な鮮血が飛び散った。



 行き着いた先は、考え得る限りの最悪を詰め込んだ状況だった。

 ナサニエルは、足が竦んで動けなかった。首から上だけが、体から切り離されたかように冷静に思考を続けていた。

 謁見の間でサクが〈CUBE〉と対話しているあいだに外では起きていたことは、想像でしか語れない。しかし概ね、スイハの予感が的中したということだろう。雇われのハッコウ傭兵団がラザロ=ヤースンの指図を受けて、トウ=テンを排除しようとしたのだ。

 銃声は合計、二発鳴った。

 サクは一発目で駆け出した。そして二発目の前に、身を投げ出した。

 うつ伏せに倒れているトウ=テンの体は、血で染まっている。その下から無傷のサクが這い出した。なにが起きたか飲み込めていないのか、呆然としている。

 ナサニエルは一部始終を見ていた。

 不意に目の前に飛び出してきたサクを、トウ=テンが咄嗟に庇い、銃弾に貫かれるところを。

 銃創に、サクが手を伸ばす。

 指先にぬるりと血が触れた。

「あっ、あああ……」真っ赤に染まった手を震わせて、火が付いたように叫ぶ。「あああああっ!」

 激情、と呼べるような生やさしいものではない。

 大気が粉々にひび割れる。ガラス片が降り注ぐような幻聴を、ナサニエルは耳を押さえて耐える。冷や汗が止まらない。この嘆きを止める術を、彼は持たない。

 サクがトウ=テンに取り縋り、体を揺する。

「テン! テン、テン!」

 名前を呼ぶ声が次第に恐慌を来していく。

 ジャンドロンが腹を押さえながら駆け寄り、傷口に布を当てて上から圧迫した。

「シュウ、今すぐ医術師を呼んで来て下さい! ハツセミはピジョンの回収を!」

 茫然自失としていた二人は、その指示に尻を叩かれたように行動に移った。トウ=テンの負傷は、ハッコウ傭兵団としても想定外の事態だったらしい。

 幸い、トウ=テンはまだ息がある。

 しかし。

 灰色狼が牙を剥きだして唸る。他の獣たちは、怯えたように尾を巻いていた。彼らもまた、不穏なことが起きる前兆を感じ取っているようだった。

 こんな言い伝えがある。

 ――魔道士に触れれば障りがあり、殺せば祟りをもらう。

 死した魔道士の残留思念、もしくは、宿主を失った精霊の嘆きが、この世に災いをもたらす。戦争時代に生まれた教訓。魔道士には手を出すな、という警句だ。

 もちろん、トウ=テンは魔道士ではない。

 だが。

 魔道士が精霊と契約しているのと同じように、オリジンと、サクと繋がっている。夢を通じて、精神面に大きな影響を及ぼすほどに。

 ホーリーの記憶があっても、サク自身はあくまで十五歳の子どもだ。トウ=テンに全幅の信頼を寄せ、支えにしていた。それが目の前で自分を庇い、重傷を負ったとなれば。

「うぅ……うううっ……!」

 感情を、力を抑えられない。

 サクは苦しそうに胸を押さえている。体内で霊素の圧が高まっていた。

 あれが弾けたら、さっきよりもずっと大きな衝撃が来る。気絶させてでも止めなければ。そう思うのに、ナサニエルは身動きが取れない。自分に憑いている精霊が、心の臓で警告を発している。あれに干渉すればおまえは死ぬ。全身全霊でそう訴えている。

 まったく異変に気づいていないジャンドロンは、トウ=テンの傷口を止血しながら、うずくまって呼吸を乱すサクに声をかけた。

「大丈夫です。致命傷は避けていますから。トウ殿は十分、助かりますよ」

「――どいていろ、ホーリー」

 なんの前兆もなく。

 低く、囁くように、そう言って。

 驚愕に目を見開くジャンドロンを、サクは腕一本で押しのけた。そのまま間断なくトウ=テンの体を仰向けにして顔を両手で挟み、忌々しそうに眉を顰めながら口づける。

 土気色だったトウ=テンの顔に、赤みが戻っていく。傷口から零れ落ちた生命力が再び、その体を満たしていく。霊素を吹き込んでいるのだと、ナサニエルにはすぐわかった。高濃度の霊素を体内で産生しているオリジンであればこそ可能な力業である。

 心の臓から鳴り響いていた警告が止んで、ひとまず危機が去ったことを、ナサニエルは本能で悟る。

 しかし、緊張はまだ続いていた。

 典薬寮の職員が、担架を持って駆けつけてくる。

 サクはおもむろに顔を上げた。

「こんなことになって……」咳き込みながら血を吐くトウ=テンを見下ろす眼差しは、冷たく、不機嫌を隠そうともしない。「残念です。管理官」

 あれは、〈CUBE〉だ。

 こんなかたちで、また会いたくはなかった。

 サクの体を借りた〈CUBE〉は、立ちあがって担架に道を譲った。

 運ばれていくトウ=テンと入れ替わりで、シュウと共にやって来たスイハを、ナサニエルはいつでも逃がせるよう手元に引き寄せる。灰色狼以外の獣たちが、木の陰にそっと身を隠す。ジャンドロンは様子の変わったサクから目を離さず、警戒しながらゆっくり後ずさった。

 血で汚れた両手を見下ろして、〈CUBE〉は深い溜息をついた。

「――いつもこうだ。これだから、人類は……」

 その顔は深い悲しみに沈んでいた。


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