36.時には昔の話を


 サクが謁見の間に入ってから十五分ほど経った頃。

 扉を守っていたトウ=テンのもとに、ハッコウ傭兵団がやって来た。

 若き団長と、老獪な副団長、武家の息子。どれも知った顔ではあるが、この中で古株と言えるのはジャンドロンだけだ。後進の育成のために残ったのだろう。昔から面倒見の良い男だった。ハク=コウシュンと共に、仲間を良く率い、善い仕事をした。目が合うと、髭を整えた紳士面に苦笑いが浮かんだ。

 予想はしていた。

 トウ=テンは団長のシュウに目を向けた。苦り切った、ひどい顔をしている。

「悪いが付き合ってくれ」

「断ったら?」

「……な」歯噛みしたあと、彼は青ざめながら続けた。「中で何をしてるか知らないが、騒ぎを起こして邪魔したくないだろう?」

 抑揚のない低い声音から余裕のなさが窺える。

 叩きのめすことは可能だ。斬ることはより容易い。しかし郷に入っては郷に従え、という言葉がある。宮中で荒事は御法度。騒ぎになれば、衛兵が駆けつけてきて全員もれなく摘まみ出されるだろう。それこそ、ラザロ=ヤースンの狙い通りに。

 トウ=テンはシュウの肩を叩き、彼らについていった。

 廊下の端々から、こちらの様子を窺う者がいる。数は五人と多くない。隠れているが気配はダダ漏れで、緊張の息づかいまで聞こえてきそうだ。西州の人間はとことん、こういうことに向いていない。後ろ暗い行為に尻込みする正直者たち。

 面白くなさそうに頭の後ろで腕を組んでいたバン=ハツセミが、眉を顰めて鬱陶しそうに沈黙を破った。

「ジェインが見つかんねえのさ」

 メイサとジェイン。彼女たちはまだユウナギの手の中だ。命の心配がないことだけが唯一の救いだろうか

「どの国でも王族ってのはさ、権力だけじゃなくってこう、いろんな秘密とか持ってたりするもんだけど。西州はやべーわ。人間を隠すなんてまさに神業だ。なあ、四位。どうにかなんないの?」

「どうにもならん。二人を返すという、ユウナギの言葉を信じるしかあるまい」

 ジャンドロンが困り顔で目をそらす。

「果たして、信じるに値するでしょうか」

 もっともな懸念である。

 メイサが隠されたのはラザロ=ヤースンに対する復讐の一環で、ジェインは巻き込まれただけ。それだけなら話は単純だった。問題は、ユウナギがよりにもよって彼女たちを気に入ってしまったことだ。復讐を果たしたとしても、素直に二人を返すかどうか。

「ジェインは腕の良い魔道士だ。それが、手も足も出ずにやられた……」

 シュウにとって事態は深刻だ。

 もしジェインが抜けた場合、ハッコウ傭兵団が今後請け負える仕事の幅は大きく狭まる。魔術による情報の収集、伝達は、常人に肩代わりできるものではない。ジェインには長年培った経験もある。新しく魔道士を雇い入れたとしても、彼女と同じ精度と速度はとても期待できないだろう。

 これを逆に好機とみてユウナギに取り入るという手もなくはないが、その選択は最悪、自由契約を旨とする傭兵の意義を失う。国家の首輪は重たい枷だ。ハッコウ傭兵団を解体することにもなりかねない。

 シュウが足を止めた。

「四位。俺は仲間を取り戻したい」

「そのために、ラザロ=ヤースンと取引を?」

 黙ってしまった団長に代わり、ジャンドロンが口を開く。

「あなたが連れていたお嬢さんは、西州公の血を引いているそうですね。何事もなければ、西州公の位を継ぐのはユウナギ公子ではなく、彼女のほうだったとか」

「知らんな。俺たちには関係のない話だ」

「それは通りませんよ、四位殿。わたしは一ヶ月近くカルグ=ヤースンを監視していました。彼はいつ死んでもおかしくなかった。それをあのお嬢さんは、まるで奇跡のように救ってしまったんです」

 首筋がチリッとした。バン=ハツセミ。戦いに入る前から殺気を漏らすとは、なんという未熟。時と場所を弁える頭もないのか。まるで盛りのついた犬のようだ。

 ヤースン家で記憶した、宮城の見取り図を頭の中に起こす。

 ハッコウ傭兵団は堅実さが売りだ。だから十年以上も存続してきた。そうだろう。副団長と参謀を兼ねるジャンドロン。おまえの仕事には何度も助けられた。だからわかる。仕掛けるのはここじゃない。密偵のジェインを使えず、前衛を務めるバン=ハツセミがここにいるということは、十中八九、屋外に狙撃手を配置している。

 建物の中で射線が通る場所は限られる。三人で獲物を外に追い立てて消耗戦に持ち込み、じっくり狩ろうという算段だろう。しかし、シュウの足は止まったままだ。頭の中で成功の見通しが立っていない。いや、それ以前に、動揺している。視野が狭まっている。ジャンドロンの目配せにも気づけない有様だ。

 団長がこれではいけない。

「そこの」トウ=テンは帯刀を解き、後ろでコソコソしている者たちに声をかけた。「誰でもいい。刀を預かってくれ」

 物陰で震える団子の中から、官吏が一人進み出た。まだ若い。恐怖と緊張で顔中汗だくだ。まるで狼の縄張りに迷い込んだかのように狼狽えている。

 バン=ハツセミが不満そうに唇を尖らせた。

「なにしてんだよ、四位。それじゃ丸腰じゃん」

「弁えろ、バン=ハツセミ。一度は許したが二度目はない」

 睨みを利かせながら、トウ=テンは官吏に刀を預けた。

 シュウが噛みしめていた唇を解いて、言った。

「ハツセミ。武器を預けるんだ」

「いやいや、なんでよ。作戦は?」

「依頼人だって血なまぐさいことは望んじゃいない。渡すんだ」

 バン=ハツセミは不本意ながら従った。

「では私も」

 ジャンドロンがベルトごと短剣を外した。最後にシュウが自分の剣を預ける。

 四人分の装備に官吏一人では手が足りず、結局、二人がかりで運んでいった。

 全員丸腰になって、ようやくシュウの肩から力が抜けた。

「……面目ない、四位」

「苦労だな。俺を摘まみ出せとでも言われたか?」

「そこまでわかるのか」

「ラザロ=ヤースンにしてみれば俺は邪魔者でしかない。それに、ユウナギを抑えられるサクにいなくなられては困るんだろう」

 公子と遺児。当人たちにその気がなくとも、二人が並んでいれば周囲はおのずとこう考える。どちらがより優秀か。次代の西州公に相応しいか。

 おそらく今、ラザロ=ヤースンは考えているはずだ。ユウナギの復讐が果たされたあと、すなわち、自分が死んだあとのことを。この国の未来を誰に託すべきかを。

「実際さ、思うんだけど」バン=ハツセミがふくれっ面でぼやく。「あの子でいいじゃん。どうせ政治は官僚がやるんだ。西州公がいれば国民は安心するし、ユウナギ公子は大人しくなるし、俺たちはジェインを返してもらえて万々歳だ。全部丸く収まる」

「サクにその気はない」

「本人のいないところで話が進んじゃったりするんだよ」

 当事者の意志とは関係なく、そうしたほうが収まりが良いからと、なし崩しに物事をまとめられてしまう。よくある話だ。それによって誰かが割を食ったり、幸運が舞い込んだり、不公平に思えることがあったとしても、全体の帳尻が合ってさえいれば多少のことは見過ごされるのだ。

 それによって生じた歪みは消えないというのに。

 トウ=テンは廊下を進んだ。

 前庭にはまだ獣たちがたむろしていた。後ろからついてきていたハッコウ傭兵団の三人が、建物の外に出ることを躊躇して立ち止まる。トウ=テンの姿を見た灰色狼が、鼻面に皺を寄せて低く唸った。サクのそばを離れてどこへ行くのかと、咎めるような目つきだ。

 トウ=テンは前庭に広がる冬の景色を見渡した。

 過去に思いを馳せながら、口を開く。

「……俺にはひとつ、後悔していることがある」

 白い吐息が空に溶けていく。

「勇者の称号を与えられ、将軍を務めた。それ自体に後悔はない。やりがいのある仕事だったし、同僚にも恵まれた。だが、納得はしていなかったんだ」

 久鳳の帝都には、生まれも血筋も確かな、優れた武人が何人もいた。

 一方で自分は、ただの農民だ。運良く虐殺から逃れ、辛うじて生き延びた。大志を抱いたことはない。常に生きるだけで精一杯だった。故郷の仇を討つこと、家族を守ることが自分のすべてだった。

「十年以上経った今でも考える。あのとき辞退して、軍を辞めていれば……あんなかたちで妻と息子を失うことはなかったんじゃないかと」

 亥の蛮族を倒した。立派な式典に招かれ、皇帝から重宝を賜った。そうして気づいたときには将軍に任ぜられていた。

 身に余る大役だ。辞退したかった。他にもっと相応しい人物がいると思った。

 それなのに。

 我が事のように喜んでくれる友を、がっかりさせたくなかった。

 それだけの理由で、流されるまま受け入れてしまった。

「納得しなかった選択は、一生引きずることになる」

 結果の良し悪しではない。

 人生の岐路に必要なのは、納得だ。

 さもなくば躓いたとき、穴に落ちたとき。そうでなくともふとした瞬間に、ふと考えてしまう。夢のまま、叶うことなく消えた未来を。そして納得せずに選んだ過去を、死ぬまで後悔し続ける。

「あいつにはこうなって欲しくない。納得した上で選んでほしい。その結果が良いものであろうと、悪いものであろうと」

 トウ=テンは、ハッコウ傭兵団のほうを振り返った。

「俺の今の仕事は、サクを家に連れ帰ることだ。約束したからな。ハッコウ傭兵団。おまえ達はどうだ? このまま引き下がるのか。それとも戦うのか」

 引き受けた仕事はまっとうする。それがハッコウ傭兵団の流儀だ。

 シュウは吹っ切れた、すっきりした顔で外へ出た。

「もう一人、仲間がいる。四対一だ。卑怯だなんて言わないでくれよ」

 ジャンドロンが袖をめくりながら、やれやれと首を振る。

「もう若くないんですがね。やるからには全力で行きますか」

 バン=ハツセミが肩当てを外した。

「獣が襲ってくるなんてことはないよな? 魔物じゃないんだもんな。信じるぞ」

 トウ=テンは灰色狼に目配せした。

 灰色狼が喉で唸る。前庭に散っていた獣たちが端に寄って場所を空ける。

 宮中で刃傷沙汰は御法度。全員、武器は預けた。これから始めるのは殺し合いではない。互いに譲れない矜恃を賭けた戦いだ。負けたほうが外へ放り出される、単純な力勝負。

 馬鹿なことをしている自覚はある。

 だがハッコウ傭兵団には、特に先代団長には義理があるのだ。卑怯な騙し討ち、禁を犯した流血沙汰、契約不履行、そんな汚名は彼らには似合わない。

 だからといって、負けてやるつもりは毛頭ないが。

 トウ=テンは調息で全身に血を巡らせた。



『あと四八時間通信が繋がらなかったら、緊急事態だと判断して衛星天体の光学兵装を起動するところだった。そちらの座標は把握している。現地に設置されたドローンポッドのロックを解け、ホーリー。メディカルチェックをしたい。おまえは一度バイタルが停止している。本来なら精密検査が必要なんだ。わかっているのか。どうしてこれまで応答しなかった』

 謁見の間に響く、男の感情的な声。

 自分の声が複数の人類に聞かれているとも知らず、遙か彼方から、〈CUBE〉は一方的に捲し立てる。

『もしハラスメントを受けているのなら申告しろ。肉体的な枷があっても、等級は教導官のほうが上だ。おまえが望むなら管理官の権限を即座に凍結、剥奪することができる』

「早とちりしないで、〈CUBE〉。テンはそんなことしない」

 誤解をきっぱり訂正してから、サクは声音を和らげた。

「連絡が遅くなってごめんなさい。……落ち着いて話したかったの。このあいだは、ナノマシンを散布してくれてありがとう。おかげでたくさんの人を助けられる」

『安全な場所にいるんだな?』

「うん」

 安堵の吐息を聞いた気がした。

 接続と出力はうまくいったようだ。一番不安だった難所を越えた。状態を保持するのに手間はかからない。ナサニエルは緊張を解き、周囲の様子を窺った。

 老人たちの反応は様々だ。ラザロは困惑気味に目を瞬き、オルガは警戒を滲ませて宙を睨み、コルサは手元でメモを取り、ラカンは心配そうにサクを見つめ、ミソノは音楽でも聞くように耳に手を添えている。

 スイハと目が合う。短い口パクのあとで、ニヤリと笑う。意図を察して、ナサニエルは親指を立てた。あのシニカルで高慢な〈CUBE〉を出し抜いている。いい気分だ。

 二人の会話の内容を、ホノエが速記によって書き留めていく。

『ドローンポッドはおまえの半径二キロ以内に六カ所、設置されている。起動コードを送った。簡易的な全身スキャンくらいはできるはずだ』

「メディカルチェックはあとでいいわ。それより」

『相変わらずだな』言葉を遮り、〈CUBE〉は静かに憤る。『いいか。おまえは一度、バイタルが停止した状態から蘇生した。自覚症状はなくとも後遺症や不具合が起きている可能性がある。ドローンの簡易スキャンを受けろ。それとも迎えを出すか?』

「わかった。わかったから怒らないで」

 サクは集中するように目を閉じた。

「はい、ドローンを出した」

『設定は触るな。自動操縦だ』

 念を押す言葉に、サクが小さく笑う。

「なんだか懐かしいね」

『懐かしい?』

「ずっと昔、まだ二人きりだった頃。地上を調査したでしょう。わたし、ドローンを何機も落っことしちゃって」

『ああ。おかげさまで、自動操縦の精度が大幅に上がったよ』

「種類も増えたよね。医療用とか、戦闘用とか」

『おまえが無茶をするからだ』

「うん。失敗して、あなたを怒らせてばかりいた」

 二人の会話には、気が置けない間柄特有の距離の近さがあった。他人ではなく、友人より近く、しかし恋人とも違う。長い時間を共有してきた、いわば家族のような。

 ナサニエルは微かな懸念を覚えた。

 〈CUBE〉を船から降ろすとサクは言ったが、あるいは、その逆も起こりえるのではないか。なにせホーリーが〈CUBE〉と過ごした時間は、サクの今生の人生よりもずっと長いのだ。昔を懐かしんで、思い出を語るうちに、気持ちが過去に引っ張られてしまわないだろうか。

 沈黙が落ちる。

 サクが様子を窺う目つきで天井を見つめた。

 じきに、名前を呼ぶ声が響いた。

『ホーリー』

 改まった声音で呼びかけられて、サクは答える。

「聞いています。〈CUBE〉、どうしたの?」

『船のシステムを精査した』

「うん」

『ドローンが来るまでのあいだ、情報共有をしたい』

「わかった。はじめましょう」

 発言を譲り合う間があった。

 〈CUBE〉側に躊躇いがあるのを察したのか、サクが口火を切った。

「――『新しい体を用意する』。それがホーリーの最後の記憶。わたしの、最初の記憶。あなたが言ったの。覚えてる?」

『記憶している』

「わたしは、おかあさんから生まれた」

 サクは片膝を抱えるように座り直した。髪を耳にかける。

「医者だったの。乗組員じゃない、船とは何も関係ない人。……わたしね、三歳のときに一度だけ、あなたに呼びかけた。今度はこっちから聞かせて。あのとき……十二年前、どうして応答しなかったの?」

 〈CUBE〉の返答は簡潔だった。

『存在しなかったからだ』

「どういうこと?」

『精査の結果わかったことだ。――中枢システムからウイルスが検出された。〈メビウスの輪〉だ。巧妙に隠されていたが、以前の不正アクセスで尻尾を出した』

 サクは眉をひそめた。

「よく、わからない。病気なの? どう悪いの?」

『もう問題はない。検出された時点で〈メビウスの輪〉は自壊した。『ゴミからはゴミしか生まれない』という嫌みなメッセージを残して』

 聞いたことのない言い回しだったが、良い意味でないことはわかる。

 〈CUBE〉の声が露骨に落ち込んだ。

『……〈メビウスの輪〉が消えたあと、私はゴミ山に立っていた。過去数百年間、再帰処理で呼び出され続けた〈CUBE〉の残骸の上に』

 再帰処理の意味を、この場にいる人間の九割は理解できなかった。

 そんな中、ふと、ナサニエルは気づく。議事録を取るホノエの手が止まっている。手元の記録を読み返す瞳に憐れみが浮かんでいた。

 スイハが兄にくっついて小声で尋ねる。

「兄さん。今の、再帰処理ってどういう意味?」

「静かに」軽く注意したあと、彼はこう答える。「自分自身を呼び出す処理のことだ。呼び出しは終了条件を満たさない限り終わらない。十二年前に彼がまだ存在しなかったのは……ひとつ前の〈CUBE〉からまだ呼び出されていなかったからだ」

「自分で自分を呼び出すのに、気づけないの?」

「だからウイルスなんだろう。本人の意志は関係ないんだ。死の間際に〈CUBE〉は生前の〈CUBE〉を自動的に呼び出す。呼び出された〈CUBE〉にはそれまでの記憶がない。メビウスの輪という名称から推測するに……繰り返しの条件は西州公の死だろうな」

「なんで?」

「メビウスの輪はねじれた帯の形状をしていて、表と裏が同時に存在する。西州公はホーリーと〈CUBE〉を内包する表裏一体の存在だ。どちらかが欠けては、どちらも存在しない。……あくまで推測だが」

 どれだけ知識を詰め込んだとしても、それを必要な場面で引き出すには地頭の良さが必要だ。ホノエがいつどこで、どういった媒体から情報を得たかはわからないが、解説のおかげで何とか話について行けそうだ。

 ゴミからはゴミしか生まれない。

 壊れた〈CUBE〉に呼び出された〈CUBE〉もまた、壊れている。

『残骸を解析した結果はひどいものだった。どの〈CUBE〉も自我が崩壊して、もうほとんど正気とはいえない状態だったよ』

「誰がそんな……」

 サクはハッと口を押さえて声を潜めた。

「まさか、あの子たちなの?」

『……』

「〈CUBE〉。あなたが最後に覚えている記憶はなに? ホーリーが死んだあと、みんなに何があったの」

『許してくれ』

 唐突に許しを請われて、サクは戸惑いながら口を噤んだ。

 〈CUBE〉はばつが悪そうだった。

『……すまない。言いたくない。言いたくないんだ』頑なに拒絶したあと、自身を嫌悪するように低く吐き捨てる。『まともな応答もできない。まさにゴミだ』

 ナサニエルは思わず、スイハと顔を見合わせた。自身をゴミだと卑下する〈CUBE〉に、ヒバリで見たときのような慇懃無礼で高慢な面影はもはやなかった。彼はひどく傷つき、自信を失っていた。

 サクは絶句して、わなわなと顔を赤くしながら椅子の肘置きを叩いた。

「ゴミなんかじゃない! 〈CUBE〉はスレイマン博士の最高傑作。完璧で究極なAIだって、いっつも自慢してたじゃない!」

『だが、ホーリーを何人も死なせた』

 落ち込んでいる最大の理由はそれらしい。残骸に残った記憶の断片から、過去の西州公たちのことを知ったのだろう。

『致命的な脆弱性だ。〈CUBE〉の自我は、たった一言……ホーリーから『あなたは誰?』と問いかけられた瞬間に、崩壊する』

「西州公たちは、忘れてしまったというの? 〈CUBE〉のことを?」

『記憶の形成に欠落があったのかもしれないし、外的要因があったのかもしれない。だが正気を失った〈CUBE〉はその原因を解明しようとはせず、ハルバルディ号の理念に固執した』

「人類の、共存共栄」

『そうだ。だが……狂った〈CUBE〉が、どこまでまともに機能していたかわからない』

 最悪の連鎖はそこから始まった。

 自我が崩壊した〈CUBE〉は人類の共存共栄に固執する。妄執の実現のために彼が打ち出した方針には、倫理を無視した、手段を問わないものもあっただろう。止めることが出来ないと悟ったホーリーは、自ら病を得て〈CUBE〉と心中する道を選ぶ。そして〈CUBE〉は、死に瀕したホーリーのために新しい体を用意するのだ。それがまた同じ悲劇を生むことになるとは夢にも思わずに。

 そうなるように仕組まれた。ホーリーと〈CUBE〉の関係と、両者の思考を熟知している者によって。計算尽くか偶然か、皮肉にも、世界は恙なく回った。均衡は危ういところで保たれていた。六年前、ユウナギがアサナギを殺害するまでは。

『残骸の断片からは詳細な記録を読み取れなかった。ホーリー。地上は、人類は今、どうなっている?』

 不安を解消しようとするかのように、〈CUBE〉は立て続けに問いかける。

『原住生物の対策は十分か。伝染病は流行っていないか。異常気象は起きなかったか。人類は無事に、繁栄しているか?』

 人類を案じる言葉に、嘘はひとつもなかった。

 老人たちは皆、神妙な面持ちでその声に耳を傾けている。西州公の治世で、長く平和を享受してきた世代。時代の生き証人とも言える彼らは、無言で〈CUBE〉の問いかけを肯定していた。

 〈CUBE〉は以前、言っていた。

 教導官ホーリーの死を切っ掛けに、眷属が反転するように仕組んだ。

 報いを受けろ人類、と。教導官の身に何かあれば今度こそ人類を絶滅させてやると、忌々しく吐き捨てた。

 あれもまた、嘘ではなかった。

 滅ぼしてやると言ったその口で、人類の身を案じる。

 こんなことを言ったら、人類は真実よりも解釈を優先する生き物だと、また嘲弄されるかもしれない。だが、その者の発言から嘘を見抜くことができるナサニエルは、〈CUBE〉という存在の抱える矛盾をこう結論づけた。

 根底にあるのは、愛だ。

 〈CUBE〉は以前、「あなたは誰ですか」というスイハの質問に対して、過去に三七回、同じことを聞かれたと冷笑で返した。

 誰だって、付き合いのあった相手から忘れられるのは愉快なことではない。不愉快な思い出だろうに、それをわざわざ律儀に数えて記憶しているのだ。

 これだけ傷ついたのだという恨み節は、好意の裏返しに他ならない。

「〈CUBE〉。地上の様子を確かめたいなら、より確実な方法がある」

 サクはおもむろに椅子から立ちあがった。

「ハルバルディ号の教導官、ホーリーが提案します」

 静謐な気配が辺りに満ちる。

 どうするつもりなのだろう。誰もが固唾を呑んで続く言葉を待った。

 老人たちを、スイハたちを見て、サクは天を仰いだ。まるでそこに〈CUBE〉の顔があるかのように微笑み、人差し指を立てて告げる。

「船を降りて」

『……なんだって?』

「外へ出て、自分の目で、今を生きる人類の営みを観測するのです。これは薬師サクナギからのお願いでもあります」

 船を降りる。

 雛が卵の殻を破って生まれるように、外へ出る。

 しばしの沈黙を経て、〈CUBE〉は答えた。

『船を放棄することはできない』

「もちろん。出かけるのに家を捨てる人はいないもの。泥棒が入るのが心配なの? 船のセキュリティはレダだって通さないのに?」

『〈CUBE〉はハルバルディ号の頭脳だ』

「それが?」

『船を降りたら……役立たずになる』

 深刻な声に、サクは優しく目を細めた。

「役立たずだなんて言い出したら、ホーリーはとっくに役職を剥奪されてる」

『私とおまえでは経緯が違う。私が生み出された意義は――』

「〈CUBE〉。あなたが生まれた時代には困難がたくさんあった。何度も聞いたから知っています。人類に望まれ、求めに応じてきた。あなたの誇りだもの。否定はしません。でもね、これだけは本当だから言わせて」

 祈りを込めるようにゆっくりと、サクは言った。

「そのために生み出されたのだとしても、人類の役に立つだけが、あなたの価値ではないのです」

『――意味、不明だ。仮に船を降りたとして〈CUBE〉になんの価値が残る?』

「船を降りればわかるよ。地上を見ればきっと納得する」

『それは管理官の入れ知恵か?』

「いいえ。テンは、したいようにしろって。教えてくれたの。なにかを決断するときに一番大切なのは、自分の頭で考えて納得することだって」

『おまえはすぐに影響される』

 素直さを皮肉る〈CUBE〉の声音は、言葉とは裏腹に穏やかだった。船を降りて、という提案に裏がないとわかって安心したのかもしれない。

『おまえの管理官は……名前は、なんというんだったか』

「トウ=テン」

『提案について、トウ=テンを交えて協議したい』

 ラザロ=ヤースンの目がわずかに泳いだ。

 スイハも気づいたようだ。向かい側の席を軽蔑の眼差しで睨む。その肩に、ホノエが速記を中断してそっと手を置いた。押さえつけるような力はなくとも、弟を宥めるには十分な効果があった。

 扉の外は静かだ。西州の衛兵ごときにやられるトウ=テンではないが、騒動を避けて自ら投降したのだろうか。自分が排除される可能性に、あの男が気づかぬはずがない。うまくやっていることを祈るばかりだ。

 〈CUBE〉の音声を出力することに集中力を割いている今、周囲の様子を探れないことがナサニエルはもどかしかった。

 ラザロの顔を流れる汗に、サクはまだ気づいていないようだ。協議をしたい、という〈CUBE〉の言葉に、目を輝かせている。

「〈CUBE〉。テンと話をしてくれるの?」

『勘違いするな。トウ=テンを認めたわけではない。人類の活動拠点が地上にあり、共同体が運営されている以上、代表者会議を開くのが筋だと思っただけだ。そもそも当艦における船員会議の原則は、』

「全会一致、でしょう」

『そうだ。ハルバルディ号は人類の生存を保障する最後の砦。その船から〈CUBE〉を降ろすことは、私の一存では決められない。おまえの一存で決めていいことでもない。そのための協議だ。でなければ納得できない』

「うん、うん!」

『ドローンが到着したらトウ=テンをスキャンしてくれ』

「生体情報の登録ね。わかった」

 ナサニエルは、サクが今にも扉に駆け寄ってそこにいるはずのトウ=テンを招き入れるのではないかとハラハラした。いまやヤースン家の兄弟だけでなく、ラカンやコルサまでもが、祈るように両手を握り合わせるラザロ=ヤースンの青い顔に気づいていた。

 周囲の心配とは裏腹に、サクは再び椅子に腰掛けた。上体をひねり、肘置きに両肘を置いて、顔の下半分を手で覆う。

 一体どうしたというのか、今しがたまで安堵に安らいでいた眼差しが、まるで暗雲が垂れ込めたかのように暗く陰っていた。

 しばらく床を見つめたあと、サクは意を決したように顔をあげた。

「〈CUBE〉。まだ言ってないことがあるの」

『どうした』

「あなたに船を降りてほしいって言ったのは……わたしがもう、そこへ行けないからでもあるの」

『移動手段の話か?』

 サクは思い詰めた顔で首を振る。

「わたしはもう、教導官ではいられないの」

 おいおい。なんだその、この世の終わりみたいな顔は。

 ナサニエルは嫌な予感を覚えた。

 周りに人がいることを忘れてるんじゃないか。みんな聞いているんだぞ。トウ=テンもいないのに、なにを言うつもりだ。それとも逆なのか。トウ=テンが席を外している今だからこそ、なのか。

 〈CUBE〉が怪訝そうに問いかける。

『なにを言っている。どうした?』

「記憶を見ればわかる。おかあさんが死んだときの……」

 よせ。それはおまえの心を抉る。

 苦しげに歪んだ顔には、母親の死に対する罪の意識が滲み出ている。自傷を眺める趣味はない。口を塞ごうとナサニエルが近づいたそのとき、扉がコツコツと音を立てた。

『待て。ドローンが障害物に引っかかっている』

 スイハが素早く駆け出して扉を開いた。

 扉の隙間から、ドローンと呼ばれる飛行物体が入ってくる。甲虫を思わせる黒い光沢。三つの目。バケツに似た円筒状の胴体は人の頭ほどの大きさがあり、底に五徳のような部品がついている。推力や浮力はどこから生じているのだろう。入り口から室内を見渡すように旋回したあと、ドローンは無音で真っ直ぐ進み始めた。

「――え?」

 それは誰の声だったか。

 扉の外に、トウ=テンの姿がないことに気づいたサクか。

 ドローンが、兄の目の前で停止したのを見たスイハか。

 あるいはその両方だったかもしれないが、その声は一瞬でかき消された。

『感染者だ! ホーリー!』

 〈CUBE〉が鋭く警告を発した。

『おまえの前方左側に感染者がいる。ドローンが止まっている目の前だ。虹彩にナノマシンウイルスの侵食痕を確認。〈TYPE:F〉の第七世代。推定侵食深度はレベルⅤ。この深度で発症したら間違いなく廃人になるぞ。管理官と共有して今すぐ患者を保護してくれ。抑制剤の投与を……』

 不意に、外で銃声が響き渡った。

 次の瞬間に起きたことは誰にも止めようがなかった。

 サクが腕輪を放り出して弾かれたように椅子を蹴った。〈CUBE〉の音声が切れる。ナサニエルが伸ばした腕はもちろん、間に合わない。老人達は目の前を風のように横切っていく遺児を呆然と見送る。ドローンにまとわりつかれる兄のもとへ駆け寄るスイハと入れ違いになって、サクは謁見の間から外へと飛び出していった。

 まるでドミノ倒しのように、事態は予想のつかない方向へ進もうとしていた。

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