05.震える湖、白い獣たち


「刀をよこせ!」

 凄まじい膂力を秘めた四肢が地面を蹴ると同時に、トウ=テンは持っていた木の棒を振りかぶって投げつけた。槍の如く飛んでいった棒の先端が黒い獣の鼻面を叩く。ギャン、と犬のような悲鳴を上げて獣が怯んだ。

「おじさん!」

 障子を開け放つと同時に、チサが両腕を振り上げて刀を放り投げた。

 わずかに稼いだ時間で丸腰から脱したトウ=テンは、抜き身の刀を手に黒い獣へ向かっていった。

 人の背丈ほどもある巨躯。忘れもしない。コヌサで群れの先頭に立っていたやつだ。

 そしてどうやら、覚えがあったのはお互い様だったらしい。刀を見た途端、黒い獣の目つきが変わった。狂気の瞳に一欠片の理性、警戒の色が浮かぶ。

 刀の間合いに入る寸前、黒い獣が大きく跳躍した。

 トウ=テンは姿勢を低くして地面に手をつき、走っていた勢いを乗せて体を反転させた。視線は黒い獣から外さない。着地の瞬間を狙って刀を突き出す。切っ先が地面を踏みしめた右後ろの脚を刺し貫いた。しかし、黒い獣は止まらない。一瞬体勢を崩したものの、脚から血を流しながら家のほうへ突進していく。

 まずい。トウ=テンは怒鳴った。

「戸を閉めろ!」

 チサが慌てて雨戸を引いた。反対側も急いで閉めようとしたとき、そこに村の男がバッと飛びついた。

 恐怖から来る衝動的な行動だ。だが逃れようとする者に、死は容赦なく追いついた。

 チサを突き飛ばして中に逃げ込もうとした男の片足に、黒い獣が噛みついた。そのまま勢いよく頭を振りかぶる。痛みを感じる暇もなかっただろう。男は地面に激しく全身を叩きつけられて動かなくなった。その目と鼻の先で、チサがとっさにサクの体に覆い被さった。

 トウ=テンは歯がみした。

 ――食われる!

 恐れていた光景はしかし、現実にはならなかった。

 黒い獣は二人に鼻面を寄せて、すん、と匂いを嗅いだ。その仕草はまるで――ありえない――無事を確かめているように見えた。黒い獣はくるりと縁側に背を向けたかと思うと、今度は泡を食って逃げようとするイスルたちを標的に定めて跳躍した。

 獣と入れ違いになるかたちでトウ=テンは二人に飛びついた。

「無事か!」

 チサはおそるおそる目を開いて、トウ=テンがそこにいるのを見ると放心したように息を吐いた。サクがその下から這い出して汗に濡れたチサの顔を撫でた。

 老人の叫び声がした。

 トウ=テンがわずかに目を離した隙に、イスルは残る一人の取り巻きをも失っていた。絶命した村人のそばで哀れに腰を抜かして、彼は痙攣を起こしたように震えていた。

 どうやっても間に合う距離ではない。

 黒い獣の大口が、老人の首に食らいつこうとした、そのときだった。

「やめろ!」

 目が覚めるような声だった。

 サクが立ちあがって黒い獣を睨んだ。

「殺すな!」

 トウ=テンは目を見開いた。出会ってから、サクが眉を吊り上げた顔を、声を張りあげるところを初めて見た。しかしそれ以上に彼が驚いたのは、黒い獣が口を閉じてイスルから離れたことだった。

 それはにわかには信じがたい光景だった。

 耳を伏せ、尾を垂らし、顔色を窺うように体を縮める姿は、さながら下位のオオカミが群れの上位に示す服従の姿勢そのものである。

 不意に、ピッという甲高い音が山から響いた。

 黒い獣が弾かれたように走り出し、そのあとを追ってサクも森に飛び込んだ。

「戸締まりをして待ってろ」

 チサにそう言い残して、トウ=テンはすぐさまサクを追いかけた。

 眠ったように静まりかえった山野を、黒い獣が駆けていく。

 山の中の追跡劇は圧倒的に逃げる側、獣が有利だった。その巨体からは信じられない俊敏さで木々の間をすり抜け、岩を乗り越え、一瞬の躊躇いもなく崖から飛び降りていく。

 本気で逃げる獣に人間が追いつけるはずがない。これ以上の追跡は無理だ。

「サク、戻れ!」

 制止の声をかけた瞬間、サクは跳躍した。岩を蹴り、宙で体を一回転させて崖下へ落下していく。トウ=テンは慌てて崖下を覗き込んだ。建物二階分の高さはある。しかしサクは音もなく地面に降り立ち、何事もなかったかのように追跡を再開していた。

 人間の身軽さではない。

 トウ=テンは驚愕と混乱をひとまず頭の隅に追いやり、迂回して崖を下った。

 木々が葉を落とした見通しのいい冬山でなければ、とうに見失っていただろう。

 森を抜けた。

 吐く息が白くなって鬱陶しく視界を遮った。息を整えて顔をあげると、サクが湖岸で立ちつくしていた。しかし様子がおかしい。釘付けにされたように前方を見つめている。

 視線の先を辿って、トウ=テンは思わず息を呑んだ。

 曇天を映した灰色の水面の真ん中に、それはいた。

 牡鹿だ。

 乳白色の角は淡い光をまとい、夜を取り込んだような瞳には星々を思わせる煌めきが瞬いている。毛色は一点の曇りもない白さだ。牡鹿はこちらに顔を向け、足下に波紋を広げながら悠然と水面に佇んでいる。

 こんな獣は故郷にいたころも、西州に来てからも見たことがない。トウ=テンはしばし、その人智を越えた光景に見入った。

 サクが一歩、足を踏み出した。

 トウ=テンがとっさに伸ばした手は空を切った。勢いで膝まで水に浸かって、彼は目を見はった。足が凍るような冷たさも気にならなかった。

 サクは水の上に立っていた。

 雨上がりの水たまりを踏むように、水の粒を蹴りあげて牡鹿のほうへ駆けていく。

 一人と一匹が向かい合った。

 両者の足下から広がる波紋が次々にぶつかり、水面がゆらゆらと揺れる。サクが手を差しのべると、牡鹿も興味深そうに首を伸ばした。

 指先と鼻先が触れあった瞬間、星が瞬く瞳がいっそうきらきらと輝いた。

 そして。

 着物がぱしゃりと水面に落ち、サクの姿がかき消えた。

「サク!」

 トウ=テンは上着と刀を放り捨てて湖に飛び込んだ。全身を切り刻むような冷たい水をかき分けて、遮二無二泳いだ。

 牡鹿が威嚇するように前脚で水面を蹴った。水面が大きく波立つ。下手に流れに逆らわず、トウ=テンはあえて正面から波をかぶり体を沈めた。水の中は暗く澄み切っていた。上から下まで捜してもサクの姿は見当たらない。

 ――そんなはずがあるものか。

 水面に顔を出した瞬間、また波に襲われた。波間から睨みつけると牡鹿がピッと甲高く鳴いた。まるで、それ以上近づくなと警告しているかのようだ。

 波紋が絶え間なく幾重にも広がり、いまや湖全体が震えていた。

 このままでは押し流される。

 潜って近づこうとトウ=テンが大きく息を吸った、そのとき。

 水中から伸びた白い手が、牡鹿の前脚を掴んだ。

 牡鹿の体が少しずつ水に沈んでいく。それと入れ替わりに、サクが水面に顔を出した。瞼がゆっくりと開かれる。その一瞬、トウ=テンは背筋が震えるような凄みを感じた。灰色の瞳に尋常でない気配が宿っている。

 牡鹿は沈んだ前脚を引き抜こうと半狂乱になっていた。乱れて重なり合う波紋の渦が、波を大きくうねらせる。

 乳白色の角から零れる光が激しく明滅した。

 眩しさに目をそらす。視線を戻したときにはもう、牡鹿は水面を飛び跳ねて一目散に対岸へと逃げていくところだった。

「サク!」

 トウ=テンは泳いでいって手を伸ばした。

 沈みかけているサクの手を掴んだ。そのつもりだった。しかし水の中から引き上げた彼の手が掴んでいたものは、ずぶ濡れになった白毛の子狐だった。

 頭が真っ白になった。

 辺りを見回しても、サクの姿はない。どこにもいない。にもかかわらず、思考の切れ間の先でまず心に湧きあがったのは、安堵だった。

 ――寒さで頭がおかしくなったのか。

 これ以上水中にいるのは危険だと判断して、トウ=テンは岸に上がった。寒さに震えながら自分が脱ぎ捨てた上着で子狐をくるむ。

 丸めた上着を抱えて、彼は歩き出した。

 ――どうかしている。

 白い牡鹿に気を取られて、黒い獣を見失った。とんでもない大失態だ。

 そして今、水の上でかき消えたサクのかわりに、どこからともなく現れた子狐を連れて帰ろうとしている。

 ――気が触れたのか、俺は。

 己の正気を疑う。

 それなのに。

 抱えた包みから小さなくしゃみが聞こえた。

 取りこぼさずにすんだと、そう思った。



 ようやく家の戸を跨いだとき、トウ=テンの体は激しく震え、口の奥で歯がカチカチ鳴っていた。頭の先からつま先までずぶ濡れの彼を見て、チサが青い顔で尋ねた。

「サクは……?」

 無言で丸めた上着を渡す。

 中身を見て、彼女は泣くのを堪えながら上着ごと子狐を抱きしめた。

「……ありがとう、おじさん。本当に……ありがとう」

 濡れた服を着替えて、トウ=テンは火に当たった。

 芯まで凍えた体がじわりとほぐれていく。全身に血が巡り頭が働くようになると、先ほどの出来事がいかに現実離れしていたかを実感できるようになった。

 ――獣の子。

 村の男がそんなことを言っていた。

 そういえば、死体が外に転がったままだ。あとで片付けなければならない。そんなことを考えていると、隣の部屋からチサが出てきた。

 彼女は囲炉裏のそば、トウ=テンの向かいに腰を下ろした。

「サクは寝てるわ。……寝かせてあげて。あの姿になるの、本当に久しぶりなの」

「村の人間は、このことを知っているのか?」

「ううん。みんな……村の人たちにとっては、嘘か本当かもわからない噂話でしかない。サクのことを近所に言いふらしていた産婆も、もう死んじゃってるしね」

 サノワ村に流れてきたとき、サクの母親はすでに身重で、落ち着いて子を産める場所を捜していた。その頃から村にはよそ者を厭う空気があったが、臨月の大きな腹を抱えた女を放り出すほど彼らも非情ではなかった。

 イスルは村はずれの小屋を仮住まいとして彼女に与えた。

 彼女は久鳳人だったが西州の言葉に堪能で、誰に対しても愛想が良く、何より腕のいい薬師だった。小さな男の子を連れていたこともあって、子持ちの女などは相談がてら気楽に村はずれに出かけていたという。

 出産の手伝いに出かけた産婆が、這々の体で逃げ帰ってくるまでは。

「私はまだ小さかったけど、大人たちが大騒ぎしてたのを今でも覚えてる。近所の人たちと一緒に、うちの父も朝早くに怖い顔で出かけていって……でもすぐ帰って来たわ。『人騒がせな婆さんだ』って、母に愚痴ってた」

 しかし産婆はその後も、それこそ死ぬまで、異邦の女が産んだ子どもを「獣の子」と言い続けた。

 村の過半数はボケた産婆の妄言だと思っただろう。チサの父親を含む村の男たちが確かめに行ったとき、白子とはいえ、赤ん坊は確かに人の姿をしていたのだから。

「父は信じなかったけど、なかには産婆の言うことを信じてしまう人もいたの。そういう人は自分の子どもにも同じように教えるでしょう。近所の子どもたちで嘘だ本当だって言い合いになって……その矛先は全部サクに向かっていった」

 いざこざの行き着く先が、村八分というわけだ。産婆が撒いた噂によって村内に不和が生じることを懸念したイスルは、異分子の母子を共同体から切り捨てた。

 チサは膝の上に手を重ね、改まった顔で口を開いた。

「私、おじさんは味方だと思ってる」気を落ち着けるように深呼吸する。「サクは怖い人には絶対に近づかないの。コスだって本当はわかってるのよ。だから、私たちの心配はひとつだけだった。サクが普通とは違うってわかったとき、おじさんがどうするか」

「知り合ってから日は浅いが、サクがどういう人間か少しは知っている。生まれや見た目で人を判断するなど馬鹿げたことだ」

 ポカンと目を瞬いたあと、チサは拍子抜けしたように笑みを零した。

「……ホッとしちゃった。ありがとう。……みんな、おじさんみたいに思ってくれたらいいのに」

 そう呟く声は寂しげだ。

 トウ=テンはイスルに嫌悪感を抱いているし、母子が受けた仕打ちをむごいとも思うが、村を悪とは言い切れない。誰しも己の生き方、価値観を持っている。それを変えようという考えは傲慢だ。何事も、理解を得るには時間がかかるものなのである。

 それよりも今は目先の問題だ。

「チサ。聞きたいことがある」

「なに?」

「サクは精霊憑きか?」

「精霊……憑き?」チサは首を傾げた。「うーん……いつだったか、父がそういうことを言って気がするけど。でも、私にはよくわからない」

 精霊憑きとは、万物と感応する素質を持つ者のことである。精霊憑きが精霊を使役する知識と技を身につけることで、神秘を顕現する魔道士となるのだ。

 人智を超えた希有な才能を手元に置きたがる権力者は多くいるが、そうした需要に対して、精霊憑きの数はあまりに少ない。もともと滅多に生まれるものではないうえ、人ならざるものを引き寄せる性質によって、幼くして命を落とすことが多いからだという。

 獣がらみのことに関しては考えを広げようにも情報が少なすぎる。そんな中、サクが水の上を歩けるのは精霊憑きゆえの異能ではないかと思ったのだが。

「キキ様なら何か知っていたかもしれないけど……」

「キキ?」

「サクのお母さん。ヨウ=キキっていうの。三年前に亡くなったわ」

 トウ=テンはふと、この家に来た日に見た夢のことを思い出した。

 サクによく似た顔をした女が、胸を開かれて死んでいた。

「母親は、殺されたのか」

「サクから聞いたの?」

 チサは驚きをもってトウ=テンの問いを肯定した。

 夢と現実の因果関係は依然として謎に包まれている。しかし、あの光景が単なる夢ではなく、過去、実際にあったことかもしれないと思うと気が滅入った。

「キキ様はよく薬を売りに町へ行っていたの。あのときはサクも一緒で……はじめて町に連れて行ってもらえるって、とても喜んでた。だけど帰ってきたとき、サクはひとりだったわ。ずっと泣いてた。何があったのか、コスがなんとか聞き出して……時間を置いてから、みんなでキキ様を迎えに行ったの」

 サクの母親を殺したのは、〈狩り〉で片腕をなくした傭兵だったそうだ。

「あれからずっとサクは獣の姿にならなかったし、家からもほとんど出なかったわ。それが急にいなくなって……私、あの子がどこに行ったか見当もつかなかった」

 チサは鼻をすすって目の縁を拭った。

「……こんなんで、サクのことをわかってるなんて言えない。でも小さいときから知ってるの。どんなにいじめられても、誰にも言わずに一人で泣くような子なの。辛いことがあっても黙って泣いて耐えて……そんな子が、用心棒を雇うなんて。きっと我慢できないほど怖い何かがあるのよ」

 不安そうにこちらの顔色を窺うチサに、トウ=テンは頷いた。

「何があろうと、引き受けた仕事は最後まで果たす」

 彼女は目を赤くしながら深く頭を下げた。

 トウ=テンは外に転がっている二人分の死体を橇に積んで村に届けた。

 一人で逃げ帰った村長のイスルは、黒い獣がまだ山中を徘徊していると聞くと唇まで青ざめて震えあがった。

「ま、待て。待ってくれ」

 老人は出ていこうとするトウ=テンに縋りついた。

「あなたは用心棒なのでしょう。どうか黒い獣を退治して下され」

 裾を握りしめる手を振り払って、トウ=テンは村長宅を辞した。

 言われるまでもない。黒い獣は退治する。

 あれは人を襲って食らう、危険な生物だ。その凶悪さは骨身に沁みている。血と腐臭が蔓延する夜の森で、黒い獣が傭兵達を蹂躙したことはまだ記憶に新しい。もし今また、黒い獣が目の前に現れればトウ=テンは迷わず刀を抜くだろう。

 ――しかし。

 黒い獣は、サクの制止の声に怯んだ。その直後、山から聞こえた甲高い音は、白い牡鹿の鳴き声だったのではないか。

 だとすればあのとき、黒い獣は牡鹿の声によって退いたのだ。

 白い貌。二つの姿。黒い獣に対する優位性。

 トウ=テンは偶然など信じない。どんなことにも、必ず理由がある。

 本人から話を聞きたかったが、日が暮れたあともサクは目を覚まさなかった。


 その夜、こんな夢を見た。


 山の中だった。緑が深く茂る森の奥だったが、枝葉の隙間から差し込む木漏れ日で辺りは明るかった。消え入るような泣き声が聞こえて木の裏に回り込むと、縦に大きく開いたうろの中で、五歳くらいの白い子どもがぎゅっと膝を抱えて縮こまっていた。

 遠くのほうから子どもたちの囃し立てる声が聞こえた。

「やあい、出てこい。獣の子」

「どこに尻尾を隠してる」

 獣の子やあい、としつこく囃す声が、不意にやんだ。

 じきに狭い木々の隙間を通って一人の少女がやって来た。勝ち気そうな面立ちをした少女は真っ直ぐ木のうろに向かうと、膝に顔をうずめてしくしく泣いている白い子どもに手を伸ばした。

「もう大丈夫よ。あいつら、みんな追い払ってやったから」

 白い子どもは顔をあげたものの、まるでそのうろから出るのが怖くて堪らないというように、何度もいやいやと首を振った。

「仕方ないわね。ちょっと手、出して」

 少女はしゃがんで、白い子どもの手を両手で包み込むように握った。年上らしく微笑む顔に、トウ=テンはチサの面影を見た。

「怖いの、私が半分もらってあげる。手があったかくなったら一緒に帰ろ。帰ったらキキ様に大丈夫ってしてもらおうね」

 白い子どもは、サクはこくんと小さく頷いた。


 そこで目が覚めた。


 外套を羽織り、音を立てないよう勝手口から静かに外へ出る。

 辺りは真っ暗だった。夜の空気からは雪の匂いがした。

 鮮明な夢を見たあとに触れる現実は、どこか輪郭がぼんやりしている。低くうなるような馬のいびきを聞くともなく聞いているうちに、トウ=テンの胸にふと、強い懐郷の念が湧きあがった。

 ――とんだ気の迷いだ。

 もはや久鳳に、己の魂を繋ぎ止めるものはないと悟った日、彼は戦場を去った。

 帰ったところで失ったものが戻るわけではない。波のように引いていく感傷を冷めた眼差しで見送っていると、背後に人の気配を感じた。

 振り返って、トウ=テンは面食らった。

 月が雲に隠れた丑三つ時。暗闇の中に白い肢体が浮かび上がる。戸口からふらっと出てきたサクは、あろうことか素っ裸だった。その顔はぼんやりして夢うつつだ。

「なんて格好をしている。中に戻れ、早く」

 サクはびくりと顔を上げたかと思うと、息を呑み、腕を伸ばしてトウ=テンにしがみついた。

「行っちゃだめ」

 懇願する声はか細く震え、ひどく怯えている。

 トウ=テンはとりあえず己の外套を脱いでサクの体を包んだ。

「どこにも行きはしない」

「だめ。船が墜ちるの」

 墜ちるとは妙なことを言う。船は沈むものだろうに。寝ぼけているのだ。どんな夢だと呆れながら、トウ=テンはサクの肩をそっと揺すった。

「落ち着け。船なんかどこにもない。夢だ」

「……夢?」

「昼間のことを覚えてるか。黒い獣を追いかけて……湖に白い鹿がいただろう」

「……あ」

 サクは顔を上げて、まじまじとトウ=テンの顔を見つめた。

 息が白くなる寒さだというのに、びっしょり汗をかいている。額から流れる汗を拭ってやると、サクは震える吐息を零して、トウ=テンの胸に顔を埋めた。

「……よかった」

 すん、と鼻を鳴らす。安心して気が抜けたようだ。

 やれやれとサクから離れようとしたトウ=テンは、白い手が自分の衣をぎゅっと握っていることに気がついた。

「み……見た?」

 こちらを見上げる眼差しは、すっかり現実に立ち返っている。

 何のことを言っているかは、聞かなくてもわかっているつもりだ。ここで嘘をつく意味はない。トウ=テンは正直に答えた。

「見た。おまえが寝ているあいだにチサから事情も聞いた。獣の姿で生まれたと」

 サクの顔からザッと血の気が引いていった。

「急に姿が変わったのはどういうわけなんだ?」

「あ、あいつに触ったら……頭がぐるぐるになって……。どっちがどっちか、わかんなくなっちゃった……」

 獣の姿で生まれたと聞いて、普段は人の姿を取り繕っているのかとも思ったが、どうやら本人の意識的にそういう区別はないようだ。着ている服の裏表のような感覚なのかもしれない。コヌサからミアライまでの旅のあいだ、よく隠し通したものだ。姿が切り替わるその瞬間を、危険な場面で目の当たりにしていたらと思うとゾッとする。時と場合によっては一瞬の隙が命取りになることもあるのだ。

「姿が二つあったり、黒い獣を追い払ったりできるのは……」

「わ、わかんない……ごめんなさい、わからない」

 答えは予想できていた。生まれに纏わる事柄を言語化するのは容易ではなかろう。そも、自分のことを何もかもわかっている人間などいない。

 とにもかくにも、姿が変わった原因はわかった。白い鹿の正体がなんであれ、安易に近づいたり触れたりするべきではない。今後また会うことがあったとしても警戒して距離を取るべきだろう。

 トウ=テンが黙っていると、サクはうつむいてぐずぐずと泣き出した。

「ごめん、言えなくて。もう、絶対ならないから……き、嫌いにならないで……」

 その言葉を聞くのは二回目だ。

 地面にポタポタと落ちていく涙の粒を見ながら、トウ=テンは溜息をついた。

「本当に呆れたやつだ」

 彼は少し屈んでサクと目線を合わせた。自信なさげにこちらを見返す瞳は涙で潤んでいる。まるで小さな子どもだ。夢で見た幼い姿が思い起こされて、自然と頭に手を伸ばしていた。

「どちらの姿でも、おまえであることに変わりはないんだろう。嫌いになどならん。家にいるときくらい気兼ねなく過ごせ。ただ……服を着ることは忘れるな」

 今になって初めて自分の姿に気づいたらしい。サクは目をパチクリさせて、慌てて湖の方角を振り仰いだ。

「服、取ってくる」

 サクが駆け出す前に、トウ=テンはすかさず腕を掴んで引き留めた。

「風邪を引いたらどうする。明日取ってきてやるから、いい加減に中に入れ」

 掴んだ腕は氷のように冷たい。明日にでも熱を出すのではないかとヒヤヒヤしながら、トウ=テンはサクを家の中に押し込んだ。

 冷え込みが厳しい冬の夜、この家の人間は寝るとき懐炉で暖を取る。夕飯の後、チサが人数分の懐炉を用意していた。布団に入れば冷えた体も温まるだろう。トウ=テンは表玄関と勝手口の戸締まりを確認し直してから寝床に戻った。

 寝直すかと目を閉じた矢先、寝室の戸がスッと開く気配があった。

「トウテン」

「どうした」

「……ひとりで寝たくない。夢が怖い……」

 トウ=テンは黙って左に寄った。空いた場所にサクが体を滑り込ませた。背中側がヒヤリとした。チサに声をかけなかったのは正しい判断だ。これだけ冷え切った体で彼女の布団に潜り込んだら心配させてしまう。

 これでは暖まるまで眠れまい。

 トウ=テンは背中を向けたまま、小声で尋ねた。

「あの白い牡鹿は何者なんだろうな」

 明確な答えは期待してはいなかった。眠るまでの空白を埋めるための、雑談のつもりだった。

 微かな差だったが、サクの息づかいが変わった。

「……あいつは、コヌサにいた」

「コヌサに?」

「森の奥のほう。黒い獣たちがそばにいた」

 話は予想もしなかったほうに向かおうとしていた。

「どういうことだ」

「……黒い獣の、体が腐って崩れていく苦しさ……痛みを、あいつが和らげてる。あいつは、みんながなくしたものを補えるから」

「なくしたもの?」

「生きる力」

 人々に災厄をもたらす黒い獣もまた、呪いに冒されている。そして白い牡鹿は、その痛みを和らげる力を持ち、ゆえに黒い獣に守られているのだという。

 ――黒い獣は、ただの魔物ではないのか?

 話の真偽を判断できるほどの知識は、トウ=テンにはない。信じがたいという感想が正直なところだが、空想や妄言だと切り捨てるわけにはいかなかった。確証を得られないことだらけのなか、彼に唯一信じられるものがあるとするならば、それはサクの人格だけだからだ。

「あいつは……ほとんど、俺と同じだった」

 サクはトウ=テンの背中に額を押しつけた。

「……人も獣も、あんなにたくさん死んだのに」

 震えて上ずった声からは、抑えようがない恐慌が滲み出ていた。

「いつか俺も、あんなふうになったらどうしよう。自分が誰かってことも、家のこともわかんなくなって……戻れなくなったら、怖い……」

 否定は気休めにもならない。その可能性を、サクは本気で恐れている。

 サクのことを、弱音を吐かない我慢強い子なのだとチサは言っていた。それが今、こうしてトウ=テンにだけ不安を吐露している。

 他の誰でもなく、なぜ自分なのか。

 解けない謎を頭の隅に追いやり、彼はゆっくり寝返りを打った。

「もしそうなったとしても」トウ=テンはサクの体に布団をかけ直した。「そのときは、俺が必ず家族のところに帰してやる」

「……遠くに逃げちゃうよ」

「構わん。どこへ逃げても見つけてやる。水の上を渡られると厄介だが」

「でも……迷惑かける……」

「いいんだ。約束しただろう。おまえが何もかも忘れたとしても、なかったことにはしない」

 嗚咽混じりの呼吸がピタリと止んだ。

 ゆっくりと、大きく胸が上下する。息をするたびに、張り詰めた糸が緩み、恐怖が解けていくのがわかった。

 頃合いを見て、掛け布団をポンポンと叩く。

「もう寝ろ」

 もぞもぞと身じろぎして、サクはトウ=テンの懐にぴたりと身を寄せた。

「……明日。水の上の歩き方……教えてあげる」

 寝息に耳を傾けながら、トウ=テンは片腕をサクの背中に回した。

 ――この子どもは。

 人々が恐れる黒い獣を一声で怯ませ、平然と水の上を歩き、人と獣と二つの姿を持っている。何もかもが常識を超えた存在だ。

 それでも。

 その体は、どこにでもいる子どもと同じように温かかった。

 手のひらに心臓の鼓動を感じた。

 ここにいて、確かに生きていた。

 コスが帰ってきたら、サクの出自について話を聞けるだろうか。

 サクの母親は身重で旅をしてこの土地に流れ着き、一人で子を産み育てた。村との関係を鑑みるに、決して居心地のいい環境ではなかっただろう。それでも彼女はここで暮らし続けた。ひっそりと、隠れるように。

 なぜか。

 ――サクの父親は誰だ?



 冬の気配が深まるなか、山は穏やかに佇み、森はあまたの生命を抱いて静かに眠りについた。

 あれから白い牡鹿の姿は見ていない。ときおり山中で鳴き声を聞くことはあったが、家の近くまで来ることはなかった。目下の懸念だった黒い獣の襲撃もないまま、平穏な日々が続いた。

 黒い獣の件があってから途切れていた村人の訪問は、数日で元に戻った。子どもの風邪は拗らせると命に関わる。サクが子どもを診ているあいだ、チサは手持ち無沙汰の女たちから抜け目なく村の状況を聞き出していた。

「黒い獣のこと、みんなそれほど心配してないみたい」

「死人が出ているのにか?」

「用心棒殿がいるから大丈夫って、村長が言って回ってるんですって。あのおじいさん、周りに流されがちだけど損得勘定はしっかりしてるのよ。サクのことを悪く言う人を厳しく咎めてるっていうし、誰のおかげで助かったかわかってるのね」

 つくづく都合の良い話だ。

 しかし昔のことはともかく、今のイスルはサクの存在を村にとって有益なものだと判断している。いけ好かない老人ではあるが、せいぜい〈獣の子〉に悪感情を抱く村人を抑えることに尽力してもらうとしよう。

 夕方、珍しく男が訪ねてきた。誰かと思えばチサの父親だった。これまで母親が訪ねて来たことは何度かあったが、父親が顔を出すのは初めてのことだ。

 外で親子が言い争う声が家の中まで聞こえてきた。

「仲が良くないのか」

 サクは首を横に振った。

「ヨキはチサを心配してるだけ」

 言葉がきつくなるのは心配の裏返しというわけだ。一人娘の嫁ぎ先の近くに黒い獣が出たと聞いて、冷静でいられる親はそういないだろう。

 静かになったと思ったら、チサがプリプリしながら戻ってきた。

「座ってなさいね、サク。おじさんも。挨拶しなくていいから」

 サクは頷きながらチラッとトウ=テンに視線を向けた。

 意を汲んで彼は腰を上げた。

 外へ出ると、ちょうどこちらに背を向けて立ち去ろうとする男の姿が目に入った。

「もし」

 呼びかけに振り返った男の顔を見て、チサの父親だとすぐにわかった。涼しげな目元がよく似ていた。

 彼は数秒トウ=テンを観察したのち、口を開いた。

「おまえさんが、コスが雇ったっていう用心棒か」

 それは問いではなく確認だった。

「トウ=テンだ」

「ヨキだ」短く名乗り、ヨキは頭を下げた。「礼を言わせてくれ。サクを捜してくれた上に、黒い獣まで追い払ってくれたそうだな。ありがとう。……あの子に何かあったらキキさんに顔向けできん」

 村の人間から礼を言われたのは初めてだ。

 用心棒が居着くことになった経緯について、どうやらチサは両親に事実をそのまま伝えなかったらしい。ひとつまみの嘘を混ぜている。サクがコヌサで拾ってきた傭兵ではなく、迷子になったサクを捜すためにコスが雇った用心棒。そのほうが通りが良いと思ったのだろうか。トウ=テンは即席の設定に倣うことにした。

 改めて男を見やる。変にへりくだったり、目をそらしたりしない。イスルやその取り巻きとは違う人種だと感じた。

「少し話せるか」

 二人は家から離れて開けた場所に向かった。

 ある程度の事情はチサから聞いていると伝えた上で、トウ=テンは尋ねた。

「あいつらは、なぜあの家を離れない。俺はまだ来たばかりだが、サクがこの村で微妙な立場に置かれていることはわかる。いっそ町へ移り住んだほうがいいように思えるが」

 ヨキは自嘲気味に苦笑した。

「気持ちはわかる。昔、キキさんにまるっきり同じことを言ったことがあるよ」

 八年前、ヨキは密かにこの家を訪ねて、キキに引っ越しを勧めたのだという。

 心からの善意だったかといえばそうではない。正直なところ彼は、暇さえあれば親子の悪口を吹聴して回る産婆と、彼女に迎合する者たちに辟易していた。また、事なかれ主義からそれらを黙認するイスル叔父にも、事態をどうにもできない自分自身にも失望してもいた。端的に言えば疲れていたのだ。

 ――いっそ、標的にされているキキがいなくなれば。

 自身が楽になりたいという下心があったことは否めない。

 それに頃合いでもあった。コスは十二歳、サクは七歳。サクはともかく、コスのほうはあと一、二年で大人並みに働けるようになる。あるいは州都なら、より高度な教育を受けることだってできるだろう。

 しかし、キキは首を縦に振らなかったという。

「あの人は、子どもをのびのび育てるには山暮らしのほうがいいなんて言ってたが、そんなのは嘘だ。本音では、あまり人目につきたくなかったんじゃないかな」

「どういうわけが?」

「亭主から逃げてきたらしい」

 トウ=テンが見返すと、ヨキは周囲を警戒する目つきで声を潜めた。

「キキさんは滅多に自分のことを喋らない人だった。この話を聞いたのは多分、うちの家内だけだろう。持病の薬を貰いに通いながら、だいぶ親しくしていたから」

 専門職の知識があり、子ども二人を育てられるだけの稼ぎがある女が、村八分にされながらも住まいを変えず、耐え忍ぶ暮らしを続けた。

 何者かは知らないが、キキの亭主というのはよほど執念深い男なのだろう。

 キキは追われていた。少なくとも、追われているという危機感を持っていた。だが身重の体で逃げ続けることは難しい。彼女は隠れなければならなかった。おそらく、そうしてサノワ村に辿り着いたのだ。

 コスがあの家を離れないのは、母が遺したものに対する愛着からではない。

 ヨキも同じ考えだった。

「ちょっとでもサクの姿が見えないと、キキさんはいつも不安そうに捜し回ってた。村の人間の嫌がらせなんて屁でもないって人がだ。これは俺の想像でしかないんだが、キキさんの亭主……サクの父親ってのは、身分のある人なんだと思う。逃げた女房をいつまでも追い回す理由なんて、跡継ぎ問題以外にないだろう?」

「……その話、他に誰が知ってる?」

「こんなこと誰にも言わん」

「俺はいいのか。よそ者だが」

「信用して話してる。黒い獣を追い払ってくれたおまえさんは村の恩人だ。それになんといっても、あのコスが留守を預けるくらいだからな」

 冗談っぽく言って、ヨキは軽く笑った。この男がコスの義父にあたるということに、トウ=テンは今更ながら気がついた。最初に言っていた、サクに何かあったらキキに顔向けができないという言葉は本心だと思えた。

 その感触を裏付けるように彼は言った。

「うちの家内が元気でいられるのは、キキさんのおかげなんだ。助けられたのはうちだけじゃない。あの人がいなけりゃ、村の子どもは今よりずっと少なかった。……返しきれない恩があるんだ」

「よくわかった」

 トウ=テンは組んでいた腕を解いた。

「雇われたはいいが、事情がいまいち掴めなくて困っていた。コスが戻ったら改めて、今度は三人で話をしたい」

「それは願ってもないことだ。……情けない話だが、俺たちは腹を割って話せたことが一度もなくてな。おまえさんがいてくれたら、少しは何かが変わるかもしれん」

 約束を交わしたあと、ヨキはもう一度頭を下げて村へ帰っていった。その後ろ姿を見送ってからトウ=テンは家に戻った。

 台所で野菜を刻む手を止めて、チサがボソッと零した。

「……出なくていいって言ったのに」

「挨拶をしただけだ」

「そう」

 素っ気なく言って、彼女は夕飯作りを再開した。まな板を叩く音がいつもより荒っぽい。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。鍋を火にかけていたサクがチラッと振り向いて、宥めておくから、と目顔と仕草で伝えてくる。トウ=テンはそっとその場を離れ、ほとぼりが冷めるまで外で薪割りをすることにした。

 夕飯時にはチサの機嫌もだいぶ直っていて、自分の椀の具を摘まみながら、飾り切りをサクと見せ合いっこして笑っていた。

「これ、サクが切ったやつね。お花?」

「ううん。星のかたち」

 サクが星形と称したそれは、トウ=テンの目には先の欠けたヒトデにしか見えなかった。チサもいまいちピンと来なかったようだが、彼女は特に否定することなく「おかしな子ねえ」と笑いながら人参をひょいっと口に運んだ。

「コスを悪く言われて腹が立ったんだって」

 チサが風呂に行ったあと、サクがうつむいてぽつりと言った。

「こんな時期まで町に降りるなんて、何をやってるんだって。……俺が何も言わずに出かけたから。コスはあちこち捜し回って、それで……あんまり仕事できなかったみたい。いつもならもう、うちにいていい時期なのに」

 サクは後ろめたさを感じているようだが、トウ=テンはいまいちしっくりこなかった。

 口止め料を含んだ用心棒の報酬にと、コスは銀子十枚を惜しげもなく差し出した。この家には、当面食うのに困らないだけの蓄えがあるはずなのだ。

 出かける直前、コスは家の外へ出ようとしたサクを神経質に怒鳴りつけていた。

 ――町へ降りたのは仕事ではなく、何かを確認するためなのではないか。

 この家の事情を、トウ=テンはいまだ知らない。だが彼は、思いを馳せずにはいられなかった。家族を背負う責任と、覚悟の重さはよく知っている。母を亡くし、秘密を一人で抱えることになったコスの気苦労はどれほどのものだろう。

「帰ってきたら労ってやれ」

 落ち込むサクに、トウ=テンはそう言葉をかけるにとどめた。



 危険はいつ訪れるかわからない。とはいえ、待つだけの時間は心身を消耗する。

 有事に備えてトウ=テンは毎朝鍛錬に励みつつ、日中は家の仕事をして過ごした。雑務に没頭する時間はささくれた神経を宥めてくれる。納屋を補修し、水回りを修繕し、炭を焼き、鍬の柄を新しいものに換えた。

 子どもの頃から、こういう細かい作業が得意だった。おかげで意地の悪い兄たちに散々こき使われたものだ。不意に湧きあがった懐かしさに、彼は小さく笑った。

 三つ子の魂百までという言葉のとおり、己の芯はどこまでいっても農民なのだろう。

 生まれ育った村が夷の蛮族に滅ぼされるまで、刀など握ったこともなかった。のちに妻となる女の手を引いて山の中をがむしゃらに逃げ回り、たった二人、生き残った。

 縁側で石を削りながら、トウ=テンは過去に思いを馳せた。

 思えば、死ねないのは今に始まったことではなかった。

 帝都に流れ着いたあと軍に志願して、運良くいくつかの戦場を生きのびた。周囲の顔ぶれが次々と入れ替わっていく中で、トウ=テンは生き残り、勝ち続けた。そうして積み重ねた勝利の報酬に、彼は故郷の仇である夷の蛮族と戦う機会を望んだ。果たして数年後、その願いは叶えられたのだ。

 仇を討って、もう何者にも脅かされることはないと思った。

 妻と息子と、家族三人で平穏に暮らしていく未来を思い描いていた。

「それ、矢の先っぽにつけるやつ?」

 サクが横から手を伸ばして、石から削り出した鏃を摘まみ上げた。

 何が楽しいのか、最近のサクはトウ=テンのやることをよく側で眺めている。

「手を切るなよ」

「トウテン、前もこれ使ってた」

 手を止めて振り向くと、不安そうにこちらを見上げる顔が目に入った。

「また使うの?」

「必要だと思ったらな」

「……コヌサのときは、どうだった? やらなきゃって思った?」

 トウ=テンの脳裏に〈狩り〉の光景がよぎった。黒煙が立ちのぼる大穴から這い出ようとする、黒い獣の姿が。

 あれからだいぶ時間が経ったような気がする。

「あのときは……どうせ死ぬならこれぐらいはやっておくかと、その程度だった」

「死にたいって、今も思ってる?」

 そうだ。だが、まだやることが残っている。

 答えずにいると、サクがゆっくり背中にもたれかかってきた。

「……死にたい気持ち、わかる。おかあさんが死んだあと……眠れなくて、お腹もすかなくて。……一緒に死んでいればって、何度も思った」

 それは耳をそばだてなければ聞き取れないほど、微かな声だった。

 サクはまだ、母親の死から立ち直れないのだ。

 怒りや悲しみは時とともに風化していく。それなのに、寂しさだけがなくならない。

 会いたいといくら願っても、愛しい面影と温かなぬくもりは二度と隣に戻ってこない。

 あのときもし、ああしていたら。こうしていたら。後悔に繰り返し打ちのめされ、死にたくなるほどの孤独に苛まれる。

 トウ=テンにはサクの気持ちが痛いほどよくわかった。しかし、十年経っても埋まらなかったがらんどうの人生に見切りをつけた自分とは、決定的に違うことがある。

「おまえには、おまえを大事に思う家族がいるじゃないか」

「でも……俺がいても、役に立てない。何もできないし……」

「何を言ってるんだ」

 トウ=テンは呆れた。

「コヌサで俺を助けただろう」

 思いも寄らないことを言われたかのような、きょとんとした顔がこちらを見返した。

「おまえはいい薬師だ。訪ねてきた村人も、みんなおまえに感謝していた」

「……そうかな」

「そうだ」

 トウ=テンは断言した。

 サクは眩しそうに目を細めて、ゆっくり、嬉しそうにはにかんだ。

「うん」

 失ったものは戻らない。

 青くけぶる山脈、繋いだ手の小ささ、伏し目にかかる睫の長さ。

 かけがえのないもの。まさに、人生のすべてだった。

 しかしそれは、今を生きる命に勝るものではない。トウ=テンが家族のもとへ行くのはまだまだ先になるだろう。



 山の天辺が白くなる頃、コスが帰って来た。

 屋根の修繕を中断してトウ=テンが梯子を下りると、コスは開口一番に尋ねた。

「変わりなかったか」

 トウ=テンは留守中に起きたことを包み隠さず、かいつまんで話した。

 苛烈な反応が返ってくるかと思ったが、憂うつに眉をひそめる顔に驚きはなかった。

「やっぱり出たか……」

「どういうことだ」

「サクには言うなよ」そう前置きしてコスは声を落とした。「北の街道筋からヒバリにかけて、黒い獣の被害が何件も出ているんだ」

 トウ=テンは思わずコスの顔を凝視した。

「ここに来た一匹だけじゃない。麓のほうじゃ、もう何匹も目撃されてる。……あんた、コヌサからミアライまで来るのに街道を通ったろう。たぶん黒い獣はそのあとをつけてきたんだ」

「追ってきたというのか? ……サクを?」

 コスは目を伏せて、しばらく黙ったあと頷いた。

 トウ=テンはさすがに尋ねずにはいられなかった。

「黒い獣はなぜサクに従う? あいつの出自に関係があるのか?」

 逡巡の後、コスは観念したように息を吐いた。

「俺は、家族で静かに暮らしたいだけなんだ。……あんたには、ちゃんと話しておくべきなんだろうな。あいつが起きたら……」

 玄関の戸を開けた瞬間、家の奥から慌ただしい音があがった。彼らが何事かと思う間もなく、寝起きで髪を乱したサクが飛び出してきて正面からコスにしがみついた。

「起きてたのか」

 帰ってくる気配を察して飛び起きたのかと思ったが、どうも様子がおかしい。コスの胸元から顔をあげたサクは、険しく眉根を寄せ、唇をきゅっと真一文字に結んでいた。家族の帰りを喜ぶ顔ではない。

 サクは一言、ぼそっと呟いた。

「臭い」

「ふざけんな」

 引き剥がそうとするコスになおもしがみついて、サクは言った。

「腐った血の臭いがする」

 コスの表情が強ばる。

「どこでついた?」

 そう尋ねるサクの瞳には、先日トウ=テンが湖で垣間見た尋常でない光が宿っていた。

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