06.スイハ
姉の叱責から逃れるように屋敷を出たスイハは、肩から掛けた鞄を脇に抱えて走った。
道中、ずるっと滑りかけて反射的に街路樹に手をつく。石畳の歩道は薄く積もった雪で滑りやすくなっている。心配顔をする通りがかりのご婦人方に笑顔で無事を告げ、彼はさきほどより慎重に足を進めた。
大路を渡り、市街地を北に抜ける。
西州公の宮城、市民から一般的に『宮』と呼ばれる建物は、深い堀に囲われた島に鎮座している。
スイハは大橋を守る顔なじみの門衛に挨拶した。
「お疲れさまです」
「こんにちは。スイハくん、久しぶりじゃないの」
「勉強することが多くって。今日は兄さんのお見舞いに来ました」
「うん。ゆっくり話してくるといい」
兄の病状に触れず、気休めも言わない。
「ありがとう。ここは冷えるね。次は差し入れを持ってくるよ」
気遣いに感謝して、スイハは橋を渡った。
門の通用口を内側から開けてもらい、中に入る。
冬の庭園はどこか物寂しい。宮城は入る前から薄暗い雰囲気が漂っていた。毎日欠かさず手入れされているのに、ここは年々色褪せていくようだ。
宮城の歴史は古く、史書によれば七百年も昔に建造されたものだという。とはいえ、もちろん当時のものがそのまま残っているというわけではない。度重なる補修と改築によって、建物を構成する木材も古いものから新しいものに入れ替わり、年月と共に姿形を変えてきた。
形あるものはいつか壊れる。ロカが言うには、大事なのはそこに込められた意味なのだという。
素材がまるっと取り替えられても、中で働く人間が入れ替わっても、この建物が西州公の住まう場所であることに変わりはない。スイハは宮城をそのように解釈していた。だから余計に、わびしく感じられるのだろう。主の不在は埋めようがない穴だ。
照明が灯された順路を歩く。小さい頃は冒険気分であちこち忍び込んだものだが、さすがにもうそんなことが許される年齢ではない。
スイハが立ち入る場所といえば、まず兄が入院している典薬寮。ホノエが働いていた史書を保管する図書寮。建物や庭を整備する内匠寮。糸紡ぎと縫製をする御服所。そして先月、姉に付き添って挨拶しに行ったのが、軍務を管轄する兵部省だ。
スイハは来年、十六歳になる。夏頃からあちこちに顔を出すたび、「うちで働かないか」と勧誘されることが増えた。社交辞令でも嬉しかったが、スイハの関心はもっぱら、自分の将来よりも目先の問題にあった。
肌寒い回廊を通るときは自然と小走りになる。向かいから人がやって来るのに気づいてスイハは速度を緩めた。通り過ぎざまに軽く挨拶を交わし、また歩調を速める。
宮中は知っている顔ばかりだ。ここにいる官吏の九割は、西州公が崩御する以前から出仕している馴染みの顔である。
国の執政機関はたとえ何が起きても――それこそ西州公が死んでも――機能するように出来ている。
王や皇帝が実権を握るヨームや久鳳と違い、西州公は象徴として君臨しているに過ぎなかった。高位文官たちが審議した内容を吟味、認証するという形式上の役割以外に、直接政治に関わることはなかったのである。
では西州公とは官僚にとって都合のいい傀儡で、その神威はまやかしなのか。
答えは、否である。
西州公の葬儀が執り行われなかったことが証明している。
宮中の官吏たちはきっと六年前、額を寄せ合って葬儀を執り行う是非を論じたことだろう。そのなかにはラザロもいたに違いない。
――西州公の葬式は、やらなかったんじゃなくて、出来なかった。
未曾有の災禍にあって、西州公の名は今なお民衆の心の拠り所である。
それは、年老いた父にとっても。
ラザロの執務室を目指して、人気のないコの字型の通路の端から端へ、スイハは素早く移動した。周囲に誰もいないことを確かめて、息を潜ませて扉に耳を当てる。
「……それに、あの獣どもが罠にかかるとは思えないね」
誰かと密会中だ。スイハは耳を澄ませた。
「あいつらは、そんじょそこらの魔物とはまったくの別物だ。コヌサで本陣に攻め入った動きなんて、群れというより軍隊だなあれは。退き際まで見事なもんだった」
「臆病風に吹かれた言い訳がそれか?」
父の声には険があった。対する相手は飄々としている。
「ハッコウ傭兵団を安く見てもらっちゃ困るな。こっちは現場で直に獣どもを観察してきたんだ。頼まれたメイサの護衛も完璧にこなした。その上で、黒い獣とまともにやりあうのは得策ではないと意見している」
宮中に見慣れない顔が出入りしていると、兵部省で小耳に挟んだ噂の正体は、この傭兵団のことだろう。今聞いた流れから推察するに、ラザロはこのハッコウ傭兵団とやらに、西州軍が討ち漏らした黒い獣の後始末をさせたいようだ。それに対して相手は現実的観点から意見している。
傭兵は断固として言った。
「うちの傭兵団は少数精鋭だ。団員に替えはない。今後の仕事に差し支えるような依頼は受けられない。どれだけ金を積まれてもな」
黒い獣の血は猛毒である。触れたところから火傷のような爛れが全身に広がって、最終的に死に至るという。腐傷の部位を切り落とせば命は助かると言うが、戦いを生業とする傭兵にとってそれは死と同義だ。
ラザロは低く唸った。
「……当面は、警護に専念してもらう」
西州軍が疲弊している以上、非常時に備えて父は折れるしかない。
「密偵の女がいたな。姿を見せて構わん。メイサを守れ」
「俺たちはどうする?」
「州都を巡回して異常があったら報せろ。それから、カルグを見張れ」
――兄さんを?
スイハは訝しんだ。一年前に負った腐傷が進行して、カルグは最近ほとんど寝たきりになっている。自力で起き上がることすら困難なほどだ。それを護衛しろというならともかく、見張れとはどういうことか。
「了解した。ハッコウ傭兵団、謹んで依頼を引き受けよう」
扉から耳を離して、スイハは急いで廊下を引き返した。コの字型の通路を抜けたところで、思い直して足を止める。
――このままじゃ、尻切れとんぼだ。
カルグに伝える前に、せめて父の思惑の一端でも掴めないだろうか。
息を整えてから、スイハは何食わぬ顔で執務室へ引き返した。その道中、向かいから男が一人、こちらへ歩いて来るところに行き会った。
彼はスイハを目にとめると気安く声をかけてきた。
「やあ、ずいぶん若い顔だな」
たった今、聞いたばかりの声。ハッコウ傭兵団の人間で間違いない。
年齢は三十前半。鼻筋や目元は久鳳人によく似ているが、がっしりした輪郭や髪質にそこはかとなく混血の気配を感じた。黒髪のくせっ毛を後ろで無造作に括っている。髭のないつるりとした顎を撫でながら、彼は黒と見まごう紺色の瞳で無遠慮にスイハの顔をのぞき込んだ。
「文官見習いか?」
もしこの男が盗み聞きに感づいていたとしても、扉の外にいたのが誰だったかまではわからないはずだ。スイハは平静を装った。
「そうとも言えます。僕はスイハ=ヤースンです。宮中には何度か顔を出していますが、あなたとお会いするのは初めてですね」
「これはどうもご丁寧に。俺はシュウ。ハッコウ傭兵団の団長をしている。たった今、君の親父さんから州都の警備を請け負ったところだ」
まるっきり嘘ではないが、本当というわけでもない。
しかし仕事内容を突っ込んでは怪しまれる。
「お世話になります」会釈してから、スイハはところで、と話題を変えた。「ハッコウって名前には何か由来があるんですか?」
「先代の名前さ。ハク=コウシュン。十三年前の蛮族討伐で活躍した……といっても、君くらいの年だと知らないよなぁ」
十年以上も活動を続けているということは、きっと名のある傭兵団なのだろう。
「どれくらい団員がいるんですか?」
「俺を入れて六人だ。少ないだろう」
「その分、実力があるんでしょう。ハッコウ傭兵団のことをよく知っているわけではありませんが、十年以上続いてきたってことは、それだけ必要とされてきたってことだ。違いますか?」
シュウはスイハをじっと見つめたあと、不意に破顔した。
「はは! そのとおり。俺の仲間はかなりやるぞ」
会ったばかりだというのに、スイハはなんとなくハッコウ傭兵団に、もっといえばシュウ個人に好感を持ち始めていた。これから病人の見張りをやらされるのかと思うと、なんとなく気の毒になる。契約主がラザロではなくカルグだったなら、ずっと有意義でやりがいのある仕事ができただろうに。
そこまで考えてハッとした。ハッコウ傭兵団が請け負った仕事の中には、姉の護衛も含まれていた。他の仕事はともかく、それだけは真面目にやってもらわなくては。
スイハは右手を差し出した。
「頼りにしています。よろしく、シュウ。いずれ機会があれば、僕からも仕事をお願いしていいですか?」
「もちろん。お得意さんが増えるのは大歓迎だ」
握手を交わしながら、スイハは念を押した。
「仲間の皆さんにも、よろしくと伝えて下さい。くれぐれも姉をお願いします」
「わかった。伝えておくよ」
シュウと別れて、スイハは改めてラザロに執務室に向かった。
扉をノックする。
「スイハです」
返事がないのはいつものことだ。三秒待って、扉を開いた。
「失礼します」
壁を向いて座っていたラザロが、首だけ振り返る。
疲れた顔をした父を前にしても、スイハは別段、心を動かされなかった。もうすっかり老人だなと、他人事のようにそう思っただけだ。
ラザロは短く問うた。
「何の用だ」
昔から、仕事にかまけて家に寄りつかない父だった。一緒に食事をしたことも、親子らしい会話を交わしたことさえない。遠慮のないぶっきらぼうな態度だけが唯一、家族の繋がりを感じさせた。
「家のほうに変わりがあったら報せろって言ってたじゃないですか」
「なんだ」
「セン=タイラが来てるんです。姉さんに会いに」
ラザロの目の色が一瞬にして変わった。不快さを剥き出しにして彼は言った。
「……それで、おまえはここで何をしている? 事前に挨拶もなくやって来た無礼者に、むざむざと我が家の敷居を跨がせたのか?」
「姉さんの婚約者を無下には出来ません」
――それに、娘を都合のいい駒のように扱う父親よりはマシだ。
口から出かかった言葉を危うく飲み込んだ。
「それより、そこの廊下で見慣れない男とすれ違いました。あれは?」
「おまえには関わりのないことだ」
「宮中の警護でもさせるんですか?」
ラザロはいよいよ不愉快そうに顔をしかめた。
「話すことはない。下がれ」
――このクソジジイ。
表向きは大人しく一礼しながら、スイハは心の中で毒づいた。
小さいときから、生まれ育った家に愛着を持てなかった。冷たい目をした両親は近寄りがたく、いつも外で遊んでいた。おかげで誘拐されたこともあったが、父が仕事を放って帰って来ることはなかった。
どうせ殺されはしないのだから、と。
仁君で知られた西州公の御世、その膝元で刃傷沙汰を起こすことは国家への大逆に等しい。犯人たちは超えてはならない一線をわきまえていた。末の息子が誘拐されたところで、ラザロにしてみればそれは、無視しても差し支えない嫌がらせ程度のものでしかなかったのだ。
生まれながらに大事なものが欠落しているとしか思えない。病身のカルグは半ば捨て置かれ、連絡の取れないホノエに至っては心配の一言もないのだから。娘の前では辛うじて良い父親を演じているようだが、もし今後、姉の真心と孝行が踏みにじられることがあったら、スイハはこの男を一生許せないだろう。
部屋を出ようと踵を返したスイハは、視界の端にちらりと映ったものを見て、嫌味のひとつでも言ってやろうと口を開いた。
「それ、片付けたらどうですか」
「なんのことだ」
「そこに飾ってる骨」スイハは棚の上に飾られた獣の頭骨を指差した。「なんの骨か知らないけど、気味が悪いんですよね。黒い獣のこともあるし……」
なんの前触れもなかった。ラザロが椅子を蹴立てて立ちあがった。スイハが反応する暇もなく、彼は手にした杖を振りあげてしたたかに息子の手を打った。
骨を砕かれるような痛みに思わず膝をつく。
「口を慎め!」
理不尽な殴打と、さらに怒声まで浴びせられて、スイハの胸にむくむくと怒りが湧きあがった。
顔を上げて父を睨む。
ラザロは怒りの形相のまま、蔑みの目で息子を見下した。
「おまえは本当に不出来なやつだ。ロカが目をかける理由がさっぱりわからん」杖でスイハの肩口を突いて吐き捨てる。「さっさと出ていけ」
頭にカッと血がのぼった。
「言われなくても!」
力任せに奪った杖を投げ捨て、スイハは体勢を崩した父を逆に見下ろした。
「口より先に手が出るなんて、あんたも終わりだな」
「小僧……!」
「姉さんが今、どれだけ悩んでるかわかるか。わからないだろ。遺児の捜索なんてあんた一人でやればいい! 金輪際、姉さんを巻き込むな!」
溜まっていた鬱憤をがなり立てて、スイハは執務室を飛び出した。
――不出来で結構だ。僕はあんな人間にはなりたくない。一方的な都合で、他人の人生を侵略するような人間には。
じんじん痛む手をさすりながら典薬寮に駆け込む。氷嚢をもらいに行こうか数秒悩んで、結局スイハはまっすぐに兄の病室を訪ねた。
「カルグ兄さん。スイハです」
「よく来たな」
やつれた顔に微笑を湛えて、カルグは弟を迎えた。
寝台から上体を起こしている、ということは今日は具合がいいのだろう。
腐傷を負ってから一年あまり。カルグの病状は芳しくない。医術師たちはどうにか腐傷の進行を遅らせようと手を尽くしているが、ラカンの見立てでは、来年の春を迎えられるかもわからないという。
「その手はどうした」
病身でありながら、カルグは以前と変わらぬ目ざとさでスイハが手を庇っていることに気がついた。
スイハは肩をすくめた。
「父上がヤバいんだ。聞いてよ、兄さん」
そばに寄って行くと、寝台の陰からユニがわっと勢いよく顔を出した。
「うわ、よく隠れてたなあ」
「ふふっ! びっくりした?」ユニはニコニコしながらカルグの膝の上に身を乗り出した。「兄さま、ユニのこと忘れてたでしょ。最近ちっとも来てくれないんだもの」
「ごめんよ、勉強で忙しかったんだ。元気そうで良かった」
「姉さまは? お仕事は終わったんでしょう。一緒じゃないの?」
スイハは椅子の背もたれを前にして座り、妹から見えないよう赤くなった手をさりげなく隠した。
「ああ、ちょっとね。屋敷のほうに姉さんの結婚相手が来てて……」
しまった、と思ったがもう遅かった。結婚相手と聞いた途端、ユニは今にも泣き出しそうな顔で叫んだ。
「いや! ユニの姉さまなのに!」
カルグを見舞って典薬寮に足繁く出入りしているユニは、医術師たちから大層可愛がられている。そのおかげか宮から出たことがないにも関わらず耳年増なところがあり、姉の結婚にも子どもなりに思うところがあるようなのだ。
何を吹き込まれたか知らないが、病人の部屋で癇癪を起こされては堪らない。スイハは慌てて鞄を開けて、出がけにメイサが持たせてくれた甘い香りのする包みを取り出した。
「ほら、姉さんが焼いたお菓子だよ」
「……わたしに?」
「ユニに渡してって頼まれたんだ。姉さんも本当は自分で渡したかっただろうけど、急なお客さんだったからね。代わりってわけじゃないけど、今日のところは僕で我慢してくれるかい?」
ユニは両手で包みを受け取ると、結び目を解いて中を覗いた。むくれていた顔が次第に緩み、抑えきれない喜びが一面に広がっていく。そうしてコロコロと移り変わる表情を、カルグが微笑んで眺めていた。
「ええ、いいわ」
ユニは包みの結び目を綺麗に戻した。それを両手で大事に抱えて寝台から降りる。
乱れた裾をパパッと手で直し、すまし顔でコホン、と咳払いした。
「ありがとう、兄さま。お礼にお茶を入れて差し上げる」
「ユニにできるかな?」
「できるわ! ちゃんと姉さまに教わったんだから!」
意気軒昂と部屋を出て行くユニを見送って、スイハは息をついた。
「すみません。騒がしくしちゃって」
「いいさ」
そう笑う兄の目の下には隈があった。あまり眠れていないのだろう。腐傷は焼けつくような痛みを伴うという。カルグの体に広がる痣は手足まで浸食しつつあった。しかし弱っていても、兄には安易な同情や気遣いを寄せつけない気丈さがあった。
「それで、父上と何があった?」
スイハは執務室で起きたあらましを語った。
最後まで聞き終えたカルグは、愉快そうに目を細めた。
「確かに、口より先に手が出るようになったらおしまいだな」
「今度こそ勘当されるかも」
「わざわざ勘当するほど俺たちに関心のある人じゃないよ。どのみち、おまえにとっては都合がいいんじゃないか。なにか、やりたいことがあるんだろう?」
カルグの観察眼は病気で曇るどころか以前にも増して研ぎ澄まされて、広く遠くを見透かしているようだ。自分が年を重ねて今の長兄と同じ年齢になったとしても、こんなふうにはなれないだろう。
「……顔に出てる?」
「逆だ。顔に出さないからわかることもある」
元々その相談のためにやって来たのだが、参りました、と手を挙げたい気持ちでスイハは白状した。
「近いうちに、腐傷を治す方法を捜しに行きます。いろいろ考えたんですけど、何をするにしてもまずはここからだと思って」
「そのいろいろを聞かせてくれるか」
まるで手の平の上にいるかのように錯覚する。柔和に微笑むカルグの胸の内は、スイハには読めない。
「父上の苦労の甲斐あって、黒い獣は徐々に数を減らしています。この調子でいけば遅くとも五年以内には駆逐できる。もちろん、机上の空論です」
「具体的には?」
「士気が持ちません。どれだけ黒い獣を退治しても、助かる見込みのない腐傷患者や、手足を失った傷痍軍人は増える一方です。どうにか五年で乗り切れたとしても……たぶんそのとき、西州に復興へ向かう体力は残っていない。父上が遺児を捜すのは、新しい西州公になってもらうため。西州公様が起こす奇跡でもなければ、この国を救うことはできないと、あの人はそう考えた」
「その口ぶりだと、おまえは遺児を捜すのに反対のようだな」
「はい。だって」わずかな表情の変化も見逃すまいと、スイハは兄の顔を見つめた。「いなくなった公子様と、父上が捜そうとしている遺児は、別人でしょう」
カルグは薄く目を見開いた。
「……驚いたな」
その一言で、兄が聞き役から一歩こちら側へ踏み出したという手応えを感じた。
ゆっくり瞬きしながら、カルグはスイハの顔を見た。
「それは、ロカが?」
「きっかけはね」
あれは半年前、初夏の日差しが眩しい昼下がりのことだった。
義塾跡の半地下でスイハは本を読んでいた。喉の渇きを覚えて席を立ち、水を取りにいこうとしたとき、たまたまロカが開いていた本の頁が目に入った。腐傷の経過を記録したものだった。
典薬寮で療養している長兄のことが脳裏をよぎり、聞かずにはおれなかった。
腐傷は本当に治せないのか、と。
言ってすぐに後悔した。答えはわかっている。最善を尽くすと約束した医術師たちの、苦渋に満ちた顔。腐傷の進行を止めるにはその部位を切り落とすしかないが、胴に傷を負った長兄はそれもできない。到底、助かる見込みはないのだ。
頁から顔を上げたロカはしかし、予想に反してこう言った。
――ひとつだけ、心当たりがなくもない。
そのとき初めて、ヨウ=キキの名を知った。
「兄さんは、ヨウ=キキという女性を知っていますか。十五年くらい前に西州公の医術師をしていた久鳳人です」
「名前は聞いたことがある」
「先生は、彼女なら腐傷を治す方法を知っているかもしれないと言いました。でも僕は、すぐには信じられなくて……ラカン先生に確かめに行ったんです」
スイハはあらかじめ手紙で約束を取り付けてから、典薬寮のラカンの部屋を訪ねた。老齢の医術師は人払いをした上で、スイハの質問によどみなく答えてくれた。
十六年前まで、典薬寮には確かにヨウ=キキという名の医術師がいた。
彼女は久鳳の帝都で医学を学び、学院を卒業してすぐ西州に派遣された。港の診療所で船乗りたちの健康管理をしながら薬学の研究に勤しみ、その成果が評価されて典薬寮に召し上げられた。その後、数年もしないうちに貴い人の侍医になったのだという。
古参の医術師を差し置いて、端から見ればそれは異例の大抜擢だっただろう。しかし当時を知るラカンは、そうは言わなかった。
ヨウ=キキは確かに優秀な医術師だった。しかし西州公にとって彼女は、それ以上に大切な、特別な意味を持つ存在だったのだ。
「……西州公様は、長いこと病気だったんですね。知りませんでした。どうしても本人がやらなければいけないこと以外は、公務も最低限にしていたって」
何を思っているのか、カルグは無言で宙を睨んでいる。
「ヨウ=キキは腕が良いだけじゃなくて、優しい人だったそうです。そんな彼女を、西州公様はいつしか特別に……そばに置くようになった。父上が捜している遺児っていうのは、そのときヨウ=キキが身ごもった子どものことだ」
西州公の神通力は必ず子どもに受け継がれる。
しかしそれは、涸れない泉ではない。
「ラカン先生は言っていました。西州公様の病気は奇跡の代償だって。だから西州公の一族は代々短命なんですね?」
「……ラカンめ。よく喋る」
「カルグ兄さん」
今までの反応で、カルグが西州公周辺の事情に精通していることはわかった。
いよいよ本題に進もうと、スイハは息を吸った。緊張で指が震えた。
「僕は、兄さんの助けになりたい。元気になって一緒に国を立て直してほしい。そのためにも腐傷の治療法が欲しいけど、でも、新しい西州公を立てることはしたくない。神通力に頼らない方法があると信じたい。これが今の正直な気持ちです」
「そんな都合の良い話が通ると、本気で思うのか」
兄の眼差しは冷ややかだった。
「おまえが言う通り、この国には後がない。時間もない。だのにおまえは、一番手っ取り早い方法を投げ捨てて、いわば崖っぷちに突き進もうとしている。なぜだ?」
カルグの言うとおり、国を立て直すなら新たに西州公を立てるのが最も確実な道だ。
奇跡によって人々の腐傷は癒え、西州は再び安寧の時代を迎えるだろう。
ただ一人を犠牲にして。
話の結びにラカンが投げてよこした問いかけが、胸にこびりついて離れない。
――君はいつ、今の自分になった?
スイハは気持ちを奮い立たせた。
「兄さん。遺児とは何者ですか。西州公の子ですか。奇跡の人ですか。どちらも間違いじゃないかもしれないけど、正しくない。遺児は、血の通った人間です。こうしているあいだもこの国のどこかで暮らしている、ただひとりの人間です」
どんな人にも、その人なりに歩んできた人生というものがある。
困惑するスイハに向けて、老医師は微笑みながらこう言ったのだ。
――いいかね、スイハ。人は何かに生まれるのではない。自らの選択によって、何者かになっていくのだよ。
「父上は今まさに、その人の人生を奪おうとしています。意志を問わず、一方的に」
正義を振りかざそうというのではない。ただ我慢がならないのだ。
スイハは過去、誘拐によって人生を奪われかけた。そのとき、巻き添えになって命を失った者がいた。
たまたま一緒に遊んでいた市井の子どものうちの一人が、用水路に落ちて死んだ。大人を呼びに行こうとしたところを犯人に突き飛ばされて――その時点で気を失ったのだろう――あの子は、あっけなく水底に沈んでいった。
それ以降、スイハは市井の子どもたちと遊ぶのをやめた。自分の身に降りかかった災難に、二度と誰かを巻き込みたくなかったからだ。
なくなったものは戻らない。どれだけ悔いても、懐かしんでも、過去には戻れない。だから人は前へ進む。また立ち上がるための重たい一歩を、折れそうな足で踏み出す。
父はそれができなかった。膝を突いた。振り向いた。
平穏で満たされた日々。清廉で瑕疵のない君主。奇跡の御業に守られた理想郷。もはや過ぎ去って戻らない幻想を、捨てきれずにいる。
「王がいなくなった途端に滅ぶような国は、元の在り方がそもそも歪だった。西州は新しい国になるべきだ」
その宣言は、ラザロと決別するという表明に等しかった。
「――兄さん。僕は最悪、あなたの命は諦める覚悟です」
決意の固さを示すためとはいえ、残酷なことを告げた。兄の命よりも、遺児の自由意志を尊重すると。自分で言っておいてスイハは胸が潰れそうだった。
こちらを黙って見つめ返す兄は、凪いだ海のように穏やかな顔をしていた。
泰然自若としながら相手に本心を悟らせない。兄は公人に求められる素質を若くして備え、また、その振る舞いを完璧に身につけていた。
こんなときでも。
不意に、兄の顔がぼやけた。これはまずい。今にも零れそうなものを押しとどめようと、スイハは素早く瞬きを繰り返した。
カルグの口からフッと吐息が漏れた。室内の空気が緩むのを肌で感じた。
「兄さん。ごめん、こんな話して」
「そんな顔をするな。俺は嬉しいんだ」口元を綻ばせて、カルグは素朴に笑った。「信じて話してくれて、ありがとうな」
スイハは腕でぐいっと目元を拭った。
「兄さんを疑ったことなんてないよ」
「ほう」
「だってカルグ兄さんは、何年も前から国を変えようとしてた。ホノエ兄さんから聞いたんです。久鳳と積極的に国交を持とうとする今の流れは、カルグ兄さんが作ったって」
西州公の外交方針は、歴代一貫して中立だった。久鳳と密に関係を結ぶようになったのは本当に近年のことなのだ。
「ふふ。苦労した甲斐があった。おまえが引き継いでくれるのなら、無駄にならずにすみそうだ」
「やっぱり、兄さんがいないと無理だよ。死んでほしくないよ」
「情けない声を出すな。台無しだぞ」カルグは手を伸ばし、スイハの肩を励ますように叩いた。「心配しなくても、まだ死ぬつもりはない。やるべきことが残っているうちはな」
「公子様のこと?」
カルグは意表を突かれたように目を見開いた。
「ああ……まあ、そうなんだが。なんでわかった?」
「公子様がいなくなってから、兄さんはずっと捜してたよね。怪我をしたあとも、動けなくなるギリギリまで。僕はそれが……」
それは理屈ではなかった。スイハは言葉を探した。
「なんていうか……すごく必死に見えて」
はじめは当然のことだと思っていた。しかし、カルグが公子捜索に赴いた回数は、年に一度や二度ではない。兄は公私を問わず時間が許す限り何度でも、たとえ一人でも捜索に出かけた。そういうときに限って黒い獣に遭遇し、手傷を負わされたのだ。
「個人的に何か……思い入れがあるんじゃないかと思ったんだ。兄さんは昔から公子様と仲が良かったし」
「覚えているのか」
食いつくような兄の反応に、スイハのほうこそびっくりした。
「それともホノエから聞いたのか?」
「え……なんでそこでホノエ兄さんが出てくるの?」
カルグは一瞬ためらう目つきをしたあと、首を振って前言を撤回した。
「いや、いい。……知らないのなら、知らないままでいろ」
何のことやらスイハにはわからなかったが、どうやら兄たちがなんらかの重大な事実を隠しているということだけは察しがついた。
気を取り直して、スイハは明るく言った。
「兄さんが死んだら公子様も悲しむ。僕はきっと役に立つよ、兄さん。元気になろう。それで、一緒に西州を新しい国にしよう。覚悟している以上に大変なことがたくさんあるだろうけどさ。僕たちみんなで力を合わせれば、少しずつでも変われると思うんだ」
眩しそうに目を細めたかと思うと、カルグは目をつむった。
しばし二人のあいだに沈黙が落ちた。
疲れさせてしまったろうかとスイハが顔色を窺っていると、ややあってカルグは瞼を開き、古傷に手を当てながら尋ねた。
「スイハ。おまえは亡き西州公をどう思う?」
思いも寄らない質問だった。
父について少年時代から宮に出入りしていた兄たちと違って、スイハは西州公の影すら見たことがない。どう思うかと聞かれても、答えようがなかった。
「さあ。もういない人だし……」
答えあぐねていると、カルグは昔の記憶を引き出すような遠い目をして、言った。
「西州公は善き王だった。だが、それだけだ」
過去を見つめる瞳に暗い感情がよぎる。
「西州の民を愛しながら、決して人の心に寄り添うことはない。誰も不幸にしないが、幸せにもしない。清廉で、慈悲深く……それ以外は、なにもない人だった。心さえも」
次々と兄の口から溢れ出す、感情を抑えきれない声に、スイハは圧倒された。
カルグは昂ぶりを抑えるように深く深呼吸した。
「もう二度と、この国に西州公が立つことはない」
直後、兄の口から零れた呟きの意味を、すぐには理解できなかった。
「――西州公の遺児は」
何事もなかったかのようにカルグは言葉を次いだ。
「おまえが見れば、一目でそうとわかる姿をしているはずだ。嘘や誤魔化しは通用しない。もし会うことができたら誠実に向き合え」
「はい。まずは話してみます」
カルグは穏やかに微笑み、頷いた。
「……成長したな、スイハ。安心できるよ」
腐傷を負ってから早一年。兄はもう自分一人では歩くことも出来ない。
兄は己の死を見据えているのだ、とスイハは思った。悲観的になるでもなく、諦めるでもなく、ただただ現実を受け入れて残された時間を大切に生きている。
ユニが配膳車にお茶の道具を一式載せて戻ってきた。
「兄さま。手伝ってえ」
「うん。ユニ、躓くといけないからこっちにおいで。配膳車は僕が動かすよ」
スイハが机や椅子を動かしているあいだに、ユニはよたよたとお茶を入れた。
カルグはユニから受け取った湯飲みから茶を一口啜って、
「ああ、美味しいな」
と、顔を綻ばせた。
「ユニはすごいな。もうこんなに美味しくお茶を入れられるなんて」
「そうでしょ! 母さまが帰って来るころには、もっと上手になってるんだから!」
まるで親子だな、と、スイハは奇妙な錯覚を覚えながら二人の様子を眺めていた。
姉が焼いてくれたお菓子を食べているうちに、ふと気がつけば、兄は眠っていた。
病人の部屋に長居してしまったことを反省しつつ、兄の肩まで毛布をかけ直して、スイハは名残惜しそうにするユニを連れて病室を辞した。
典薬寮の給湯室に配膳車を返して、ユニを部屋まで送っていく。
「兄さま。姉さまは本当に結婚しちゃうの?」
「どうかなあ」
「わたし、知ってるんだから。結婚って愛し合う二人がするものなのよ。セン=タイラって人、本当に姉さまのこと好きなのかしら」
スイハから見たセン=タイラは、職業軍人らしく厳しく己を律していた。端的に言えば寡黙で無愛想な人物だ。姉を愛しているかなどわかるはずもない。
だが、なんとも思っていないわけではないようだということが今日、なんとなくわかった。微動だにしないと思われた硬い表情筋が、メイサの無事を知った瞬間、安堵で緩むところを見たからだ。
「典薬寮の人たちはみんな優しいし、父さまにもいつでも会えるけど……もっと自由に姉さまと会えたらいいのに」
スイハは、ぷくっと頬を膨らませるユニの横顔をちらりと見た。
――この女の子は、一体どこから来たんだろう。
雪のように白い肌、淡い乳白色の髪、透き通る鳶色の瞳。西州公が死ぬまで誰にも存在を知られず、宮の片隅で密かに育てられてきた女の子。それがユニだ。
ユニは六年前、西州公の居住棟の隅にある小部屋で見つかった。髪は伸びっぱなしで靴も履いておらず、官吏に引きずられてラザロの前に連れて来られたときは、この世の終わりのように泣き叫んでいたという。
「スイハ。弟か妹を欲しがってたろう。会わせてやるから来い」
宮中に出かけようとしていたホノエからそう言われて、九歳だったスイハはひゃっほうと手放しで馬車に乗り込んだ。
兄に連れて行かれたそこは、緑の庭に面した日当たりのいい温かな部屋だった。姉が三歳くらいの女の子を膝に載せて、きらきらした髪を朱色の櫛で優しく梳いていた。
――これが妹?
スイハがそう聞くと、ホノエは「これじゃない。ユニだ」と弟を叱った。
「いいか。兄上や俺になにかあったときは、おまえがユニを守ってやるんだぞ」
スイハは歩きながらユニの手を握った。ユニは不思議そうにスイハを見上げ、仕方ないなあというふうに笑って彼の手を握り返した。
「兄さま。今日はわたしに時間を下さるんでしょう。部屋に着いたらお話して」
「お話か。どんなのがいい?」
「そりゃもちろん、セン=タイラのことよ! 姉さまにふさわしい人か徹底的に調べてやるんだから!」
鼻息荒く足を速めるユニに引っ張られながら、スイハは頭の片隅で絶えず思考する。
――あのとき、ホノエ兄さんはなにからユニを守れって言ったんだろう。
ユニの出自以外にも、わからないことはたくさんある。
六年前に失踪したきり所在が知れないとはいえ、西州にはユウナギ公子という歴とした継承者がいるというのに、なぜ父は、新たな西州公に遺児を据えようと考えたのか。
なぜカルグは亡き西州公のことをあのように――忌避すら滲ませて――評したのか。
図書寮から将来を嘱望されていたホノエが焚書に走ったのはなぜか。
各人の秘めたる思惑がどのようなものか、スイハには想像もつかなかった。なにしろ彼には、さきほどカルグが零した呟きひとつさえ、読み解くことができないのだから。
カルグは掠れる吐息混じりに、こう言っていた。
「……私たちは、やっと自由だ」
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