31.少年期の終わり
深夜の路地裏を早足で通り抜ける。経路は事前に話し合って決めていた。人目を避けて最短かつ最速で。治安のいい州都だからできることだ、と出発前にナサニエルが言っていた。他の国であれば高い確率で浮浪者や不審者に遭遇して、逆に時間を食うだろうと。
否定も肯定もせず、スイハは内心、ただ思う。
数年前、感染を恐れた市民が腐傷患者を廃墟に閉じ込め、建物ごと火を放ったという凄惨な事件があった。あれ以来、州都には規律から逸脱することを憚る空気がある。州都の夜が静かなのは、市民が今も喪に服しているからだ。それを果たして治安がいいと言ってしまっていいのか、スイハにはわからない。
しかし、州都の外に出てひとつ、わかったこともある。
恐慌を来した市民の暴走を未然に防げなかったとしても、その後、事態を収め、二次被害を最小限に止めたラザロ=ヤースンの手腕は、称賛に値するものなのだということを。
市街地を抜けた彼らの眼前に、西州公の宮城が現れた。
柵の向こう、宮城を陸の孤島たらしめる堀には水が満ちている。こうして見ると、此岸と彼岸は絶望的に隔たれているように思われた。
トウ=テンは眼下を一瞥して柵を乗り越えた。
「奥の宮で合流だ」
言うなり、彼は中空へ跳躍した。
「またあとでね」
小さく手を振って、サクもそれに続く。
スイハは唖然とした。
――まさか本当に飛び込むなんて。
しかし、覚悟していた派手な水音は、いつまで経っても聞こえてこなかった。
身を乗り出して、恐る恐る下を覗いたスイハは絶句する。ナサニエルが隣でヒュウと口笛を吹いた。
「やるねえ」
月明かりを映す水面の上を、二つの影が軽やかに駆けていく。じきに月が雲に隠れたことで、スイハはその姿を見失った。
「勇者とまで呼ばれた男はひと味違うな」
「……誰にでも真似できる方法じゃなくてよかったよ。僕たちも行こう」
スイハはナサニエルと共に奥の宮の庭に降り立った。
小さな池と、その畔に立つ木。おぼろげに記憶がある。この庭を、ユウナギと手を繋いで歩いた。当時よりだいぶ狭く感じられた。
懐かしく辺りを見回していると、不意に後ろから軽い衝撃を受けた。驚いて固まるスイハの耳に、鈴の鳴るような、悪戯っぽい声が届く。
「時間ぴったりね、兄さま!」
「ユニ! カルグ兄さんに頼まれて来たの?」
「ええ。ビックリしちゃった。空を飛んでくるんだもの!」
鳶色の瞳が月明かりでキラキラしている。久しぶりに会うユニは以前と相変わらず元気そうで、安心した。カルグの病状は変わりないということだ。
ユニは服の裾をちょこんと摘まんでナサニエルに挨拶した。
「はじめまして。わたしはユニ。あなたはどなた?」
「ナサニエル。ヨームから来た魔道士だ」
「どうしてそんなに髪を伸ばしてるの?」
答えなくていい、と目顔でナサニエルに伝えながら、スイハは妹の肩に手を置いた。
「ユニ。お客さんはナサニエルだけじゃないよ」
遅れて庭に現れた客人たちを見て、ユニは目を丸くした。スイハの後ろに隠れて腕を掴む。珍しく人見知りしているのは、トウ=テンのようないかにも武人らしい男性をこれまで見たことがないからだろう。警戒態勢を取りつつも、その目線はサクに釘付けになっている。
「ユニ。こちらはサクナギと、用心棒のトウ=テン。サクは腕の良い薬師なんだ。カルグ兄さんの病気を診てくれる」
挨拶するよう促すと、ユニはおずおずスイハの後ろから顔を出した。
「……はじめまして」
「こんばんは。ユニ」
ユニはジッとサクを見つめた。
「あなた、ちょっと母さまに似てるわ」
「ユウナギは俺と違うよ」
「女の子なのに、どうして自分のことを俺って言うの?」
不躾な質問を咎めようとしたスイハを押さえて、サクは微笑んで答えた。
「真似してるの」
「誰の? どうして?」
「お兄ちゃんの真似。そのほうが兄妹っぽいかなと思って」
「サクナギにお姉ちゃんはいないの? 真似するならお姉ちゃんにしたほうがいいわ。兄さまの喋り方を真似すると、姉さまに叱られるのよ」
そろそろ軌道修正しなければ。スイハは止めに入った。
「ユニ。お喋りはまた後にしよう。カルグ兄さんが待ってるよ」
「そうね。ついてきて!」
ユニは閂がついた扉とは逆方向へ歩を進めた。
建物の壁際に沿って歩いていったかと思うと、しゃがんで石の土台部分をカリカリと指で引っ掻く。すると正方形の蓋が外れて鍵穴が現れた。
驚きよりも、スイハは既視感を覚えた。
鍵を回す鈍い音で、記憶の蓋が開く。
――同じだ、あのときと。
壁を押し開いた先には、明かりのない暗い道が続いている。四歳の頃、この庭から帰るときに見た光景そのままだ。
あのとき、この扉を開けたのは。
ユニはランプを灯した。
「この先が典薬寮に繋がってるの。こっちよ!」
通路の先は真っ暗だ。スイハは先回りしてユニに手を差し出した。
「暗いから危ないよ、ユニ。手を繋ごう」
「転んだりしないわ!」
「ほら、僕が転んじゃうかも」
「もうっ。世話の焼ける兄さまね」
ユニは頬を膨らませながらスイハの手をしっかり握った。
歩き始めて最初の角を曲がった。どうやらこの通路は、建物の外縁部に沿って造られているようだ。今いるあたりは内匠寮の裏側。次が御服所。その先がいよいよ典薬寮というわけだ。
公子の住まいと典薬寮を繋ぐ直通通路。木造の本館にそぐわない石造り。いつかの時代に密かに増築されたのだ。秘密の匂いがした。典薬寮で働いていた過去の医術師たちは、西州公の真実の姿をどこまで知っていたのだろう。
スイハは息をついた。
あれこれ邪推する必要はない。すぐわかることだ。ラカンに会えば。
考えるのをやめて隣に意識を向ける。軽快な足取りに迷いはない。
「ユニ。歩き慣れてるね」
「ふふっ。父さまに鍵をもらってからこっそり通ってたの」そう言ってから、ユニはアッと声をあげた。「いまっ……あのね、父さまっていうのは……」
「知ってるよ。カルグ兄さんのことだね」
繋いだ手から、さあっと熱が引いていく。
「誰にも言わないで。秘密なの」懇願するか細い声が、狭い通路に反響する。「お願い。でなきゃまた、ひとりぼっちで閉じ込められちゃう……」
――また。
両親から引き離され、西州公の死後、発見されるまでの約三年間、たったひとりで閉じ込められていたというのだ。
ユニは息を詰めて、痛いほどスイハの手を握りしめている。ランプを持つもう片方の手が小刻みに震えていた。俯いていて表情は見えなかったが、泣きそうな顔をしていることは容易に想像できた。
助けを呼ぶ声は誰にも届かない。
年月で言えば比べものにならないが、同じような絶望感は誘拐されたときにスイハも味わった。閉じ込められた部屋の隅で膝を抱えながら、はめ殺しの窓から差し込む夕日に照らされた壁を何時間も見つめていた。助けが来ると信じる気持ちは夜が更けるにつれて濁り、疑心に塗り替えられ、とうとう耐えきれなくなったとき、スイハは一か八かの賭けに出た。食事の皿を叩き割り、尖った破片で誘拐犯の鼻先を切り裂いて、騒ぎの隙をついて逃げ出したのだ。
家に帰って、疑心は確信に変わった。無関心な父、無情な母。両親には一欠片の愛情もなかった。助けなど、始めから来るはずがなかったのだ。
あんな惨めな思いをするのは自分ひとりでたくさんだ。
スイハは足を止め、膝を突いてユニと目線を合わせた。
「もちろん秘密は守る。けどね、なにがあってもユニはひとりぼっちにはならないよ」
「兄さま……」
「ユニには小さな友だちがたくさんいるだろ。それに家族だって。メイサ姉さんも、ホノエ兄さんも、僕もいる。考えてもごらん。ユニが突然いなくなって、僕たちが気づかないと思うかい?」
「ううん。心配して、きっとみんなで捜してくれる……」
「わかってるじゃないか」
スイハは微笑み、ユニの頭を撫でた。
「そばにいられなくても、ひとりじゃないんだ。ユニがいなくなって喜ぶ人なんて誰もいやしないんだから。なにも心配することはないんだよ」
「……うん!」
元気な返事を聞いて、スイハは立ちあがった。
「さあ。カルグ兄さんに会いに行こう」
再び歩き始めてから、ユニが弾んだ声で言った。
「ねえ、兄さま」
「なんだい?」
「わたしが危ないときは、今日みたいに空を飛んできてね! 約束よ!」
「う……うーん。今日みたいにかあ……」
どうしたものかと頭を掻いていると、背後から軽く肩を叩かれた。
「特別料金で頼まれてやるよ」そう囁くナサニエルの声は、好意的な笑いを含んでいた。「スイハ=ヤースンを嘘つきにはできないからな」
「ナサニエル……」
重要なのは将来、ユニに危険が及ばないよう根回しすることだ。それでも万が一ということがある。いざというときナサニエルの助けがあれば、これほど心強いことはない。
仲間とは、友人とは、なんと頼もしい存在なのだろう。
スイハは自分の心を振り返る。
幼い頃の誘拐事件で友だちを亡くしてから、友人を作ることを避けてきた。また同じようなことが起きたらと思うと、心が挫けた。また失うのが怖かった。見守ってくれる次兄と、優しい姉がいれば、それだけでいい。
でも、それは間違いだった。
なぜ自分は旅に出ようと決めたのか。決め手はなんだったのか。
――覚えている。
姉がコヌサに行かされると決まったとき、なにもできなかったからだ。
仲間も、友人もいない、ひとりぼっちの自分のままでは、愛する家族を守ることすらできないと気づいたからだ。
「……約束するよ、ユニ」
自分はまだ、何者でもないけれど。
「困ったことがあったら、僕たちが力になる」
守りたい人たちがいる。
だから、たくさんの人と繋がりを持つのだ。
みんな、誰もが、自分にできること、やるべきことをまっとうしながら、助け合って生きている。この旅で出会った人たちも、そうだった。異変の調査をしているナサニエル。用心棒をしているトウ=テン。ヨウ=キキの跡を継いだ薬師のコス。任務に従事する西州軍の人たち。
その輪の中に、自分もありたい。
通路の行き止まりでユニはランプを掲げた。
「ここよ。これを引っ張ると扉が開くの」
壁の穴から垂れ下がる鎖は、荒縄ほどの太さがあった。
「力が要りそうだな。ユニはいつもどうやって開けてるんだい?」
「両手で掴んで後ろに倒れるの」
ユニの全体重。二十五キロくらいだろうか。これで開けられなかったら兄としての沽券に関わる。後ろにいるナサニエルにも鎖を回して、スイハはせーので引っ張った。
扉の隙間から漏れ出たささやかな明かりは、暗闇に慣れた目に眩しく映った。ユニがスイハの腕の下を潜って一番乗りに向こう側へ出る。入れ違いにふわりと鼻先を掠める薬種の香りは、典薬寮特有のものだ。静謐な空気に自然と気が引き締まった。
鎖から手を離して後に続く。
「おかえり、スイハ。待っていたよ」
微笑む老医師に、スイハは笑みを返した。
「ただいま戻りました。ラカン先生。夜分遅くにありがとうございます」
「いい旅だったようだね」
「はい。大変だったけど。兄の具合はどうですか?」
「よく持ち堪えている。予断を許さない状態ではあるが……」
ラカンの後方に南から北へ抜ける通路が見える。ここは研究棟の突き当たりなのだ。来客に備えて人払いをしてくれたのだろう。辺りには静寂が満ちていた。
通路から続けてナサニエル、サク、トウ=テンが出てきた。
その瞬間、ラカンの体に震えが走ったのをスイハは見た。
呆然と立ち尽くす老医師の前に進み出て、サクは言った。
「はじめまして、ラカン」
「あなたは……」
「サクナギです。母からあなたのことは聞いています。典薬寮の長。西州随一の賢者。こうして会える日が来るとは思っていませんでした」
「お越しいただいて恐縮です。……立派に成長されて。長生きはするものですなあ。お母上はご壮健ですか?」
「三年前に亡くなりました」
小さく息を呑んだあと、ラカンは動揺を鎮めるように胸を押さえて深呼吸した。
「……そうでしたか。苦労なさったでしょう」
「兄夫婦が助けてくれます。それにわたしも、母から学んだ薬師です。ラカン、歩きながらで構いません。カルグの病状を教えて下さい」
ぞろぞろと連れ立って歩きながらカルグの病状を聞く。ラカンはユニの手前、あまり深刻にならないよう言葉を選んでいた。
もっとも状態が悪かった半年の峠を越えてから症状の進行が緩やかになった。有効な治療法がないため、主に痛みを緩和する処置をしている。寝たきりではあるが意識は保っており、口からものを食べることもできる。
頷いてから、サクはユニに声をかけた。
「ユニも看病してるの?」
「うん。お茶を入れたり、体を拭いてあげるの」
「それはいいね。カルグが元気なのは、ユニのおかげかもしれないよ」
ラカンが慎重に尋ねた。
「あなたやユウナギのような力が、この子にもあるのでしょうか」
「それはありません」きっぱり否定してから、でも、とサクは続けた。「ユニは、カルグとユウナギを繋ぐものだから。ユウナギから漏れ出た力の受け皿にはなってるかも」
「……言われてみれば確かに。症状の進行が遅くなったのは、ユニが看病を始めてからです。でなければ説明がつかない」
感慨深い目つきでラカンは顎髭をしごいた。
ユニが小さく呟く。
「そばにいられなくても、ひとりじゃない……」
それはついさっき、スイハがユニに言ったことだった。
彼女は大きく胸を膨らませて、パッと明るい顔をあげた。
「ねっ、兄さま。兄さまの言うとおりだったのね。母さまは、離れていても父さまを守ってくれていたんだわ」
「そうだよ、ユニ。きっとそうだ」
サクと同じく、ユウナギにも腐傷を治す力があって、その欠片がユニを通してカルグの命を繋いでいた。
変わらぬ愛と、絆を感じさせる美談だ。
真相はどうあれ、そうだったらいいなとスイハは思った。
角を曲がったところで、ラカンが不意に足を止めた。
スイハは廊下の先に目を向けて、眉を上げた。
カルグの病室の前に誰かが立っている。
「ハッコウ傭兵団の副団長殿です」
謎の人物の正体を告げてから、ラカンは再びゆっくり歩き出した。
こちらを迎えるように明かりを掲げているのは、背の高い男性だ。四十、いや、皺が深く刻まれた顔は五十代だろうか。後ろに撫でつけた髪も、形良く整えられた口ひげも灰色だ。口元に上品な微笑を湛えていて、妙に貫禄がある。
こんな傭兵もいるのか、という驚きと同時に、なるほど、兄を見張るには打ってつけだという感想が湧いて出た。
「ラカン殿。夜分遅くまでご苦労様です」視線を移して、彼は柔らかく目を細めた。「密偵から報告は受けています。いやあ、お懐かしい。眠らずに起きていた甲斐がありました」
ニコニコと微笑んだまま扉の前から動こうとしない男に、トウ=テンが仕方なさそうに声をかけた。
「ジャンドロン。仕事の邪魔をするつもりはない。通してくれ」
「よかった。忘れられたかと思いましたよ。四位殿」
「俺はもう四位じゃない」
「はっはっは」朗らかに笑いながら彼は道を空けた。「カルグ殿の治療に来なすったのでしょう。いやはやまさか、こんなに可憐なお嬢さんがいらっしゃるとは。このジャンドロンの目をもってしても……」
トウ=テンは自分の体を盾にしてジャンドロンを牽制しながら、素早くサクを室内に通した。目配せを受けてスイハも後に続く。
寝台には、出発前に会ったときと何一つ変わらぬ兄の姿があった。
こちらを見つめる瞳に明かりが映り込んでいる。改めて見るとユニと同じ色味だ。スイハはゆっくり近づいて兄の手を握った。
「兄さん。帰ってきたよ」
握り返してくる指は骨張ってゴツゴツしていた。まるで枯れ枝のようだ。
出発前と同じだなんて、とんでもない思い違いだ。兄は死に瀕していた。ユニにはうまく隠していたようだが、本当は、喋るのに声を出すのも辛いのだ。
ラカンの言うとおり、よく持ち堪えてくれた。
旅路の最中、死に別れを覚悟したこともあった。スイハは兄の手を強く握った。間に合ってよかった。込みあげる涙で視界が滲んだ。
「もう、大丈夫だから。元気になったらまた、ゆっくり話そう」
答える代わりにカルグはゆっくり目を細めた。
目の縁に溜まった涙を腕で拭い、スイハはサクを振り向いた。
「……サク」
息が震えてうまく声を作れない。カルグの顔を見た途端、張り詰めていた糸が切れてしまったようだ。
たった一つの思いが強く、切実に、胸から溢れ出す。奥歯を強く噛みしめて一呼吸置いてから、スイハは絞り出すように言った。
「兄さんを助けて」
「任せて」
兄の容態は気がかりだが、病室に居座って治療の邪魔をしてはいけない。ユニを連れて廊下に出たスイハは、閉じた扉を祈るような気持ちで見つめた。
今夜は典薬寮に一泊する。ラカンの厚意で空き部屋を使わせてもらえることになったのだ。ナサニエルに先に休んでいるよう言ってから、スイハはユニを送っていった。
廊下を歩くあいだ、ユニは言葉少なだった。兄と会ったときに感情を抑えきれなかったことを、スイハは後悔した。涙など見せるのではなかった。あれではひどく病状が悪いと言っているようなものではないか。
何か言わなければ、と考えていると、出し抜けにユニが言った。
「前にね、姉さまが言ってたの」
スイハは急いで聞き返した。
「なんて?」
「大人でも家族と離れるのはさみしいんだって」
それがどうしたというのだろう。
真意を探ろうと顔を覗き込むと、ユニは悪戯っぽく笑った。
「兄さまもそうなんでしょ。何日も出かけてたから、さみしかったのね」
「――うん。実はそうなんだ」
「やっぱり」
少し違うが、そういうことにしておこう。
ユニが使っている部屋に着いた。
扉を開けると、暗闇から冷たい風が流れ込んできた。スイハは進んでいって窓を閉じた。
「開けっぱなしじゃないか」
「えへへ。バンブたちを見送ったあとに閉め忘れたみたい」
「毛布は足りてるかい?」
「大丈夫、三枚あるから!」
何気なく寝台を見やり、スイハは首を傾げた。一枚足りないようだ。こんな夜中に洗濯係が持っていくとも思えない。開いていた窓から何者かが忍び込んだ可能性を考えて、念のため部屋の中を寝台の下まで調べた。
ユニが呆れたように腰に手を当てる。
「兄さま、心配しすぎよ。泥棒なんて来っこないわ。こっそり忍び込むために兄さまだって空を飛んできたじゃない」
「うーん……それもそうか」
毛布がなくなっている以上、誰かが入ったことに間違いはないだろうが、ユニの言うとおり泥棒より洗濯係のほうが現実的だ。スイハは一応納得して起き上がった。
「それじゃあ、ユニ。戸締まりに気をつけて。暖かくして寝るんだよ」
「うん。兄さま、今日はありがとう。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ユニと別れてひとりになった途端に、あくびが出た。
疲れた。
連日の移動で疲労が溜まっている。歩き出した足はしかし、寝室とは反対のほうへ向かっていた。父と話をしに行ったホノエのことが気がかりだったし、今もカルグの治療にあたっているサクやラカンのことを考えると、先に休むことに罪悪感があった。
それに、今なら。
薄暗い廊下を早足で進む。
旅を通して、色々な経験をした。だからといって過去が変わったわけじゃないし、父のことを見直したわけでもないけれど。
今ならもっと落ち着いて、父と話ができる気がした。
ラザロ=ヤースンの執務室に、スイハは足音を忍ばせて近づいた。ひやりとした扉に耳を当てて中の様子を探る。
「――おまえは、なぜそうなのだ」
聞こえてきた声は静かで、諭すようだった。
「いちいち自分を卑下するな。生きていれば誰でも過ちを犯すことはある。大事なのは、損なわれた信用をいかに挽回していくかだ。まだ十分間に合う。いいか、ホノエ。カルグの身に万が一があれば、家督を相続するのはおまえなのだ」
スイハは耳に神経を集中した。内容は聞き取れていたが、頭は混乱していた。この扉の向こうで喋っているのは本当に、ラザロ=ヤースンなのか。父は家庭に関心のない仕事人間のはずなのに、これはまるで、息子の将来を案じる父親の声ではないか。
応じるホノエの声には棘があった。こちらもまた、聞いたことのない声音だ。
「家督を継ぐべきはスイハです」
「馬鹿を言うな。そんな未来はありえん」
「旅の道中で、スイハは自身の天分を証明しました。誰に操られることなく、惑わされることなく、この国の先を見据えて行動しています」
「アレには資格がない」
「たとえあなたが認めなくとも、これから多くの人間がスイハを知り、その才を認めるでしょう」
ダン、と机を叩く大きな音が響く。
「あの小僧はヤースン家の正統ではないのだぞ!」
――なんだって?
なにを言っているのだ。父は、なにを。
「まだそんなことを……」ホノエの声がいよいよ怒気を帯びる。「いつになったら気がすむのですか」
「気がすむ、すまないの話ではない。血筋の問題だ」
「問題があったのは夫婦関係のほうでしょう。あなたも母も、どうかしている。メイサを迎えて和解したと思ったのに。どうしてスイハにだけ辛く当たるんです」
「わかった、もういい。もうよそう」
痛いところを突かれたのか、ラザロが早々に白旗を揚げた。
「続きはまた明日、落ち着いて話し合おう」
「意見を変える気はありません」
「功績があれば考える。誰もが認めるような功績があれば」
「スイハに対する態度を改めてもらえますか?」
「……ホノエよ。わしは狭量な人間だ。軽蔑してくれて構わん。妻が当てつけに産んだ子どもを、我が子と同じには思えんのだ。それでもおまえの言うように、あれが誰の目にも明らかな働きをしたのなら……認めざるをえないだろう」
スイハは急いでその場から離れた。
なにも考えずに、走った。誰にも会いたくなかった。
逃げるように寝室に駆け込み、靴を脱ぎ捨てて布団を被った。
心臓が激しく鳴る。体の内側でドクドクと血管が脈打っている。枕に顔を押しつけて、うるさい音をやり過ごす。ナサニエルが何か言ったようだったが聞き取れなかったし、聞き返すこともしなかった。
呼吸が落ち着いてくると今度は、頭からぶわっと汗が噴き出した。
自分は、父の子ではなかった。
嫌われていたのではなく、はじめから、受け入れられていなかった。冷淡な態度の真相は、そういうことだ。こじれた夫婦仲のとばっちり。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。長年愛人を囲っていた父と、意趣返しに不倫した母。そういった経緯で生まれた自分が、両親から愛されるわけがなかった。
理由がわかって納得した。見切りがついて、すっきりしたくらいだ。
――ああ、でも、でも。
スイハは拳を握りしめて呻いた。
父の子ではないということはつまり、姉と自分のあいだには、少しも血の繋がりがないということではないか。
胸に、真っ暗な底なしの穴が空いたようだった。
記憶がグルグルと目まぐるしく脳裏を駆け抜けていく。
「――明日、家族が増えるから」
六歳のとき、寝る前の読み聞かせの途中で次兄が言った。
「ずっと離れて暮らしてたんだ。父上が今、迎えに行ってる。俺の一つ下で、女の子だって。わかるか、スイハ。おまえに姉さんができるんだよ」
まるで想像もつかなかったが、初めて聞く『姉さん』という言葉にワクワクしたことを覚えている。
その翌日。次兄が言ったとおり、父親の馬車に乗って『姉さん』はやって来た。
スイハが挨拶すると、『姉さん』はしゃがんで目線を合わせてくれた。
「はじめまして、メイサです。スイハ、いいお名前ね。今日からよろしくね」
それは子どもながらに人生が一変した瞬間だった。
後ろをついていっても怒られなかった。そばにいることを許してくれた。話しかけたら返事をしてくれた。離れた場所からでも目が合うと微笑んでくれた。
『姉さん』が来てからの日々は、嬉しいことばかりだった。家の中に、いてもいい場所がまたひとつ増えたのだ。次兄がいないときは姉のそばに、姉がいないときは次兄のそばに。どちらもいないときは外に行くか、自分の部屋に籠もって透明になるしかなかったけれど、帰りを待つ楽しみが二倍に増えたと思えばなんてことはなかった。
誘拐された怖さも、母親の心ない言葉も、姉に抱きしめられているあいだだけは忘れることができた。
これまでのことが嘘になったわけではない。
あの優しさが、透明だった自分を色づけてくれた。凍えきって寒さもわからなくなっていた心を包んでくれた。おかげで生きて来られた。
それなのに。
血の繋がりがなかったという、それだけで、こんなにも胸が苦しい。
「うっ……うう……う……!」
――アレには資格がない。
父の言葉がひどく癪に障る。叫び出しそうになる。
黙れ、黙れ黙れ。
明日から、どんな顔をして姉に会えばいい。
動揺が抑えきれない。喉の奥から嗚咽が漏れると、もう止められなかった。
枕に顔を押しつけてスイハは泣いた。
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