11.逸脱者


 仲間の処刑に興じるその男は、集会場とおぼしき広場の真ん中に陣取っていた。

 周囲に倒れているのは四人。

 頭から血を流しているやつは、死ぬまで自分の愚かさに気づかなかった。肩や膝を砕かれてうめいているやつらにしても更生の余地はない。無辜の民の営みを壊し、命ばかりか尊厳まで奪った者たちには相応しい末路だ。

「ゆ、許してくれ……カーダン」

 膝を砕かれた男が、痛みに呻きながら懇願する。

 トウ=テンは家屋の陰から、カーダンと呼ばれた男の動向を窺った。

 酒に焼けた赤ら顔は、見た覚えがある。何の因果か。コヌサでほんの一時、顔を合わせただけの相手と立て続けに再会することになろうとは。

 カーダンは退屈そうに首を掻いている。仲間の命乞いに心を動かされた様子は微塵もない。初めて会ったときは知性の欠片もない男だと思ったものだが、悪事に関しては抜け目ないやつだったようだ。自分の痕跡を消すため、ひとりも証人を残さない。目撃者を殺し、村人を殺し、最後に仲間を殺す。生粋の悪党だ。

 首を掻いていた手を止めて、カーダンは爪に詰まった垢をズボンに擦りつけた。

「そんな命乞い、飽き飽きするほど聞いてんだよ」

 痰が絡んだ、酷く聞き取りにくいダミ声だ。

「おまえらのせいで稼ぎがパーだ。他にどう落とし前をつけるってんだ?」

「ほ、他の町を襲おうぜ……こんなしけた村じゃない、でかいとこをさ。へへ、あんたがいりゃ、楽勝……」

 男は薄ら笑いを一瞬で引っ込め、体の下から素早く銃を抜いた。

 トウ=テンはその瞬間を注視した。

 引き金を引こうとした男の手から不意に、銃が落ちた。

 苦悶の悲鳴が上がる。痛みにのたうつ男の手は、酷い有様だ。五本の指が前に後ろに、無茶苦茶に折れ曲がっている。

 カーダンは広場の中央に陣取ったまま、一歩も動いていない。苦しむ仲間を凝視しながら凶悪に口を歪めている。

 見えざる手による凶行。標的を凝視する共通点。古い記憶と合致する。

 ――逸脱者だ。

 首の骨を折る鈍い音がした。

 トウ=テンは調息しながら機会を窺った。雪崩に呑まれたことで消耗している自覚はある。調息で全身に血を巡らせても体が重い。握力が戻らない。膝は今にも折れそうだ。いつもの調子で動こうとしたら確実に足がもつれるだろう。普段の四割、良くても六割の力で勝機を掴むには、観察するより他にない。

 カーダンは立ち上がり、這って逃げようとしていた仲間に歩み寄った。右手を挙げ、手刀を入れるように振り下ろす。傷つき怯えた男の顔が弾け、脳漿が辺りに飛び散った。

 射程範囲、精密さ、息継ぎの間。

 どれをとっても、カーダンは十一年前に戦った逸脱者に劣る。しかし凡人のこちらからすれば、依然として脅威だ。カーダンを斬るには結局、見えざる手の射程内に入らざるをえないのだから。

 この死角から出れば命の保証はない。だがそれでも、やらねばならない。ナサニエルとスイハ=ヤースン。あの二人がサクを逃がすまで、時間を稼ぐ。トウ=テンは中腰で刀の柄を握り、足に力を込めた。狙いはカーダンが最後の一人を殺す、その瞬間である。

 当のカーダンはというと、どうも挙動がおかしい。

 しきりと体を掻きむしっている。白目は茶色く濁り、目の焦点も合っていない。酒で脳がやられているのだろうか。しかし、違和感があった。逸脱者とはいわば国際指名手配犯だ。各国の追跡を逃れ、正体を隠しながら犯罪を続けている時点で、本来この男は知能犯としての側面が強いはず。この状況で正体を失うほど酒を飲むとは思えないが。

 カーダンは浴びるように酒を煽ったかと思うと、銃を撃った。狙いはデタラメだ。しかしその支離滅裂な行動は、最後に残された一人が恐慌を来すには十分過ぎた。

 男は地面に伏せて頭を抱え、絶叫した。

「やめろ! もう勘弁してくれ、カーダン!」恐怖のあまり失禁しながら、男は取り乱してわめいた。「俺は違う、俺はやってない! 見張ってただけだ! 白いガキに指一本触れちゃいない!」

 トウ=テンは愕然とした。

 銃声が鳴った。

「許すかよ。おまえらのせいで大損だ。どいつもこいつも、役立たずのクズ野郎……」

 頭から血を流す男に唾を吐き、カーダンは地面に向けていた銃口を上げた。

「こそこそ隠れてんじゃねえぞ」

 一撃で仕留める絶好の機会を逸したが、そんなことは最早どうでもいい。

 トウ=テンは抜き身の刀をぶら下げて、家屋の陰から身を出した。空気中を舞う雪が、見えざる手の射程を教えてくれた。ギリギリの距離を円を描くように歩く。

 カーダンは撃った。また一発、もう一発。トウ=テンが刀身で弾丸を弾くたび、茶色く濁った目が驚愕と憎悪に染まっていく。

 連射式の拳銃。型はやや古いが、仲間が持っていたものより数段上物だ。ただ高価なわりに壊れやすいため、久鳳軍における評判はめっぽう悪かった。

 銃は軟弱者の装備だと、そう言ったのは誰だったか。

 最後の弾丸が空しく火花を散らした。

 カチカチと引き金を鳴らしながら、カーダンはぶほっと吹き出した。

「あーはっは! どうなってんだ、おい!」

 その笑いは狂気を含んでいる。

 直線上に障害物がない位置まで来て、トウ=テンは足を止めた。

「白い髪の子どもをどうした」

 笑いが止んだ。

「……てめえ、雪崩に呑まれたはずだろ。なんで生きてんだ」

「子どもを返せ」

 カーダンは大儀そうに、黒ずんだ爪でボリボリと胸をかいた。

「死んじまったよ」

 鈍器で頭を殴られたように、トウ=テンの視界が揺らいだ。

「あーあ、もったいねえ。ドデカい儲けになるはずだったのによ。このクズ共、やりやがった。回した挙げ句に絞め殺しやがって」

 立ち尽くすトウ=テンを見やり、カーダンは黄色い歯を剥き出してくつくつ笑った。

「まあ、ああいう珍種は死体でも欲しがるやつがごまんといるんでな。悪いが、返しちゃやれねえなぁ」

 調息で全身に巡らせた血が、激しく煮えたぎる。

 もう、帰る力を残す必要はない。

 出し惜しみはいらない。

 殺されても、殺す。

 刀を構え、トウ=テンは逸脱者の間合いに踏み込んだ。



 その子どもは人間ではなかった。

 オリジンは体内に霊素を生成する特別な器官を持っている。霊素とは本来不可視の物質だが、いくつか条件を調えるか、あるいはよほど濃度が高ければ視認することができるという。この子どもは垂れ流している霊素が高濃度ゆえに、体がほのかに光って見えた。

 白い髪、白い肌。見た目から推測できる年の頃は十四、五歳。体格は小柄で華奢だ。

 山中で目にした白い鹿とは別の個体だ。あれは成獣だった。つまりこの子どもこそが、ラザロ=ヤースンが血眼で捜している遺児というわけだ。ヨウ=キキが州都から姿を消したのが十六年前だから年齢も合っている。

 ナサニエルは倒れている子どものそばにしゃがんだ。

 捕まってから嬲り者にされたようだ。陵辱の痕跡が惨たらしい。首に強く絞められた跡があって一瞬ヒヤリとしたが、救命措置をするまでもなく息を吹き返していた。銃弾が貫通したとおぼしき足の傷もすでに塞がりかけている。常軌を逸した生命力だ。

 見張りが一人もいなかったのは死んだと思われたからだろう。冷え切った貯蔵庫に入れられていた理由については、あまり考えたくない。

 ナサニエルは子どもの体から汚れを拭き取り、乱れた服を直し、傷の手当てをした。脈拍と心音は落ち着いている。発光が消えかけているのは回復が進んでいる証左だろう。

 髪をよけて顔を見る。黒子もシミもない、滑らかな肌。無垢な印象を際立たせる柔らかな輪郭。オリジンの基準でいえば生まれたての赤子同然の年齢なのに、その吐息に混じる霊素は、ナサニエルの肌が粟立つほど、精霊が浮き足立つほどに濃い。

 なぜこれを、見つけることができなかったのか。なぜこれが、隠れて暮らしてこられたのか。二年間オリジンを捜して旅をしてきた彼の胸中は複雑だった。

 閉じていた瞼がピクリと震えた。目を覚ましそうだ。

 声をかけようと口を開いたナサニエルは、ギョッとした。

 表情のない、蝋のような白皙の貌。

 紫色の唇から掠れた声が漏れる。

「――これが人類だ、ホーリー」

 本能が警鐘を鳴らした。

 それは墜落するときの感覚に似ていた。はるか眼下に見える地上の景色が段々と迫り来る、逃れようのない死の予感。

 刺激しないよう慎重に手を引っ込める。

 あれほど捜していたオリジンをとうとう見つけたというのに、いざそれが目を覚ました瞬間、ナサニエルは恐怖に心臓を掴まれていた。きれいな顔、透き通った瞳が、底なしのがらんどうに見えるのだ。

「――考え直せ。人類にはまだ早い」

 子どもは体を起こした。立ちあがろうとして、しかし傷ついた足では体重を支えられず尻餅をつく。

 その瞬間、暗闇にパッと光が灯るように、虚ろな顔に表情が宿った。

 大きく見開かれた瞳に、混乱と、続いて恐怖が閃いた。喉から引きつった息が漏れる。それは声のない悲鳴だった。足を引きずり、より暗がりへと必死に逃げようとする。

 ナサニエルは金縛りが解けたように身を乗り出した。

 目と目が合う。

 そこにいたのは、未知の人間と痛みに怯える子どもでしかなかった。

 わけがわからないが、ナサニエルはひとまずホッと胸を撫で下ろした。

「落ち着け。ここから出してやる」

 とりあえず外へ出さなければ。そして安全な場所へ。

 スイハに上で待機しているよう伝えて、ナサニエルは子どもの腕を掴んだ。強引なのは承知だった。抱きあげた体は驚くほど軽く、持ち上げるのに支障はなかった。

 子どもを先に上がらせてからナサニエルは梯子を上った。

 西州公の遺児を前にして、珍しくスイハがあたふたしていた。

「あ、あの……その、も、もう大丈夫だから。僕たち……あ、ごめん!」慌てて繋いだ手を離す。「えっと……僕はスイハっていうんだけど……君は?」

 ――なんだこいつ。

 顔を真っ赤にしてどもっている。これまで相手が誰であろうと物怖じしなかったのに。スイハでもこういうことがあるのかと、ナサニエルは少し意外に感じた。

 子どもは視線を避けるように顔を伏せていた。

「……サク。サクナギ」

 目も合わせようとしない。

 スイハは三秒ほど考え込むように口を噤んでから、短く言った。

「いい名前だね」

 サクはゆっくり顔をあげた。微笑んでいるスイハを見て、目を丸くする。

 ナサニエルは舌を巻いた。

 何気ない口調。首を絞められた跡に気づいただろうに、それをおくびにも出さない。何があったか尋ねることもなく、かといって腫れ物扱いをするでもなく。初対面の自然な距離感を保っている。直前までどもっていたとは思えない冷静さだった。

 ナサニエルは貯蔵庫の蓋を閉じながら、横目でオリジンの幼体を見やった。穴蔵の中で見たときと同じ、きれいな顔に、透き通るような灰色の瞳。表情はあどけない。痛めつけられて弱っているが、目つきはしっかりしている。

 さきほどの異様な様子は何だったのだろうか。

「おまえら、ここを出るぞ」

 ナサニエルがそう言った時、タイミング悪く外から銃声が響いた。

 サクがビクッと体を竦ませた。震えながら傷ついた足を押さえる。

 不滅の魂を持つ竜とは違い、白い獣は代替わりするオリジンだ。この子どもは見た目通りの年齢だと考えていい。厄介なのは、未熟な精神に見合わぬ強大な力をどう御すかということだ。怯えきっている今は特に、下手に刺激すれば何が起こるかわからない。

 どうしたものかとナサニエルが思案しているところに、スイハが言った。

「大丈夫。トウ=テンが外で悪いやつと戦ってるんだ」

 そう聞いた途端、サクの体の震えが止まった。

「テン……トウテンがいるの?」

「うん。君を迎えに来たんだよ」

 怯えて強ばっていた顔が緩んだ。まるで息を吹き返したようだった。

「僕たちはトウ=テンと約束してるんだ。君を見つけて助けるようにって。一緒に来てくれる?」

「うん」

 一瞬で警戒が解けた。

 口が回るだけなら小賢しいガキだが、スイハは声音や言葉の選び方に育ちの良さが出ている。ナサニエルは感心しながら戸板に耳を当てて外の様子を窺った。

 銃声はもう聞こえない。だが、戦闘は続いているはずだ。念のため精霊を飛ばして状況を探った。目を閉じて、耳に神経を集中する。

 空気を震わせる息づかい、地面を蹴る忙しない足音、そして罵倒。

『クソ、クソクソ! ふざけんな! この……化け物が!』

 痰が絡んだダミ声は、焦燥で引きつっている。

 いい気味だ、と思ったのも束の間、足音がどんどんこちらへ近づいてくることに気づいてナサニエルは慌てた。この家には賊の荷物がまるっと置かれている。予備の弾丸はもちろん、火薬とおぼしき包みもあった。これを目当てに押し入られたらマズい。こちらには戦力外の子どもが二人いるのだ。

 足音は確実に近づいている。

 つっかえ棒をかけて籠城しようにも、玄関の戸板は隙間風が吹き込むほど貧相で、その気になれば一発で蹴破れるだろう。

 通り過ぎてくれることを祈るか、先んじて二人を逃がすか。

 いや、違う。受け身で接近を待つことはない。今ならトウ=テンと挟み撃ちにできる。優勢なのはこちらのほうだ。ナサニエルは二人を奥に下がらせ、戸口を開いた。いつでも魔術を使えるよう腕輪に手を添えて、外に出る。

 その途端、

「出るな!」

 鋭い声が耳を貫いた。

 反応するよりも先に、ナサニエルは強い衝撃で吹き飛ばされた。



 何かがぶつかったような大きな音と同時に、家全体がミシミシと揺れた。

 身を乗り出そうとするサクを押しとどめて、スイハは開け放たれた玄関の様子を窺った。四角く切り取られた外の光景に、ぎょっと目を瞠る。

 倒れているナサニエルに飛びかかる、大きな影。それがすぐに人間だと認識できなかったのは、まともな姿ではなかったからだ。

 まず、血まみれだった。左頬から耳までが削ぎ落ち、左腕の肘から先が欠損し、残された右腕も指が三本しかない。ひどい大怪我だ。

 しかし同情の余地はなかった。その男は、よろめきながら起き上がろうとするナサニエルを殴りつけて髪を掴み、あろうことか顔面を思い切り地面に叩きつけた。

 躊躇なく振るわれる暴力に、感情も思考も追いつかない。

「やめろー!」

 ただただ衝動に駆られて、スイハは無我夢中で男に体当たりした。

 雪まみれになりながら、二人は諸共に地面に転がった。

 キツい悪臭が鼻をつく。嘔吐きを堪えて起き上がろうとしたスイハは、背後から回された腕にぐっと首を締め上げられた。

 男が割れた声で吠える。

「動くんじゃねえ!」

 苦しい息の中、スイハは自分が人質、あるいは盾にされていることに気がついた。

 最悪だ。目を動かしてトウ=テンの姿を捜す。彼は思いがけなく近い距離にいて、刀を振り抜く動作の寸前で手を止めていた。

 ――だめだ、だめだ!

 ジタバタもがくスイハの耳を、男の絶叫がつんざいた。

「消えろォ!」

 キーン、と世界から音が消えた。その刹那。

 黒い塊が視界に割り込み、そしてバチュンと音を立てて弾けた。

 地面に落ちたそれが何かを認識する前に、拘束が解けた。一瞬遅れて我に返ったスイハは、呼吸を激しく乱しながら、目の前に横たわっているそれを乗り越えてトウ=テンの足下に転がり込んだ。

「ト、トウ=テン……」

 返事はない。

 ぐらりと、トウ=テンの体が傾いた。地面に刀を突き立て、それを支えにずるりと膝をつく。顔を覆う手の下から苦痛に呻く声が漏れた。よくよく見れば、彼の体はどす黒い血で汚れていた。

 一体、何が。

 スイハは荒い呼吸の合間に唾を飲み、状況を確認するために後ろを振り返った。

 そこに横たわっていたのは、獣だった。

 狼のような体躯。痩せた四肢。黒い毛皮。鋭い牙と爪。腹に空いた大穴からはどす黒い血が溢れ、破れた臓物が辺りに飛び散っている。

 ――黒い獣。

 心臓がドクドク音を立てている。これが本当にそうなのか、実物を見たことのないスイハには判断がつかない。黒い獣の特徴だという腐臭は、鼻がすでに麻痺しているのだろうか。微かにしか感じなかった。しかし混乱した頭でも、触ったらマズい、ということだけはわかる。スイハは湯気を立てる臓物から後ずさった。

 獣の亡骸の向こうで、男が仰向けに倒れている。彫りの深い顔立ち、浅黒い肌。サナン人だ。この男がカーダン、なのだろうか。いつの間にか右腕が切断され、目まで潰されている。乾いてひび割れた唇から、ぶつぶつと呪詛のような呟きが力なく漏れていた。こんな状態になってもまだ息があることに、スイハは慄然とした。

 おぞましいものから目を背ける。

 残った結果だけで、あの一瞬に何が起きたのかを理解するのは無理だ。

 それよりも今、もっとも深刻なのはトウ=テンが黒い血を浴びたということだ。腐傷をもたらす呪いの血を。

 何かしなければと思うのに、頭が真っ白で何も思い浮かばない。呆然とトウ=テンを見つめていると、視界の端から、サクが足を引きずりながらやって来た。

 サクは膝をついて、血で汚れたトウ=テンの手を握った。

「痛いところ見せて」

 トウ=テンがぎこちなく顔を上げた。スイハは思わず怯んだ。右目が返り血で完全に潰れている。よほど痛むのか、彼の顔は血の気が失せて汗だくだった。

「……サク?」無事なほうの左目が大きく見開かれる。「おまえ、無事で……」

 唐突に、顔に雪を押し当てられて彼はぐっと呻いた。

 サクはトウ=テンを雪まみれにしてあらかた血を落とし、右目の瞼を指でそっと開いた。白目の部分が真っ赤に充血している。ひどい炎症を起こしていた。

 トウ=テンは苦悶の声を喉の奥で押し殺した。逃れるように首を振る。

「右目は、もういい……」

「だめ、見えなくなっちゃう! 動かないで」

 黒い獣の血は、触れただけで火傷のように皮膚が爛れるという。正面から返り血を浴びたトウ=テンは、目だけでなく、顔の他の部分や手まで酷い状態だ。

 一方で、サクは血に触れてもビクともしない。医術の心得があるようで、トウ=テンを介抱する姿は頼もしい限りだ。

 そこまで考えたところで、スイハはハッとしてナサニエルのもとへ駆けつけた。

 そっと肩を揺する。

「ナサニエル。しっかり」

「あぁ……くそっ」彼は顔を押さえて悪態をついた。「踏んだり蹴ったりだ……」

 よろよろと立ち上がるナサニエルの体から雪を払いながら、スイハはホッと胸をなで下ろした。

「動けそうだね。よかった」

「なんにも良くねえよ。ガキに庇われるなんて……隠れてろって言ったろ」

「あとで反省する」

 ナサニエルは袖口で鼻血を拭い、周囲を見回した。

「……何が起きたんだ?」

「それもあとで。今は二人とも手当しないと」

 話をしているうちに、いつもの調子が戻ってきた気がする。

 サクがトウ=テンを支えながら、よたよたとこちらへ歩いてきた。支える役をナサニエルが無言で引き継ぎ、家の中へ入る。

 サクは台所と外を素早く行き来して、雪でいっぱいにした鍋を火にかけた。雪を溶かすあいだにトウ=テンの汚れた服を脱がせにかかる。意識が朦朧としているのか、トウ=テンは壁に背中を預けて項垂れ、されるがままになっていた。

 スイハは邪魔にならないよう、後ろから控えめに尋ねた。

「なにかできることはある?」

「もっとお湯が欲しい」

「わかった」

 スイハは雪を取りに外へ出た。

 そして、見てしまう。

 複数の獣が、一カ所に群がっている。

 鋭く尖った牙が、爪が、赤く濡れていた。大きく裂けた口が血の糸を引いている。

 金縛りにあったように足が動かない。

 あそこには、カーダンが倒れていたはずだ。両腕を落とされ、目を潰された状態で、それでもまだ生きていた。息があった。

 ブチブチと、肉を引きちぎる音がする。食っているのではない。念入りに、丹念に、引きちぎっては捨てている。まるで、忌まわしいものを消し去ろうとするかのように。

 もうどこにも人間の姿は見られない。

 獣たちの中心にあったのは、引き裂かれた布を纏った肉塊だった。

「うっ……う、うう……!」

 歯がガチガチ鳴った。膝が、手が、震えて止まらない。

 スイハは壁に手をつき、前屈みになって嘔吐した。

 息が吸えない、吐けない。狭い箱に閉じ込められたかのようだ。目の前が、どんどん暗くなっていく。

「スイハ!」

 ナサニエルの声がやけに遠くから聞こえた。

 それを最後に、スイハの意識は暗転した。

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