12.追悼の雪山、再会の約束
その日は、明け方から小雨がしとしと降っていた。
夏に不似合いな曇天の下、市井の片隅でささやかな葬儀が行われていた。
つい先日、裏通りを流れる水路の底から子どもの死体が見つかったのだ。溺死だった。引き上げ作業を見物しに集まった野次馬の中に、子どもの顔を知っている者が何人かいて、幸いにも身元はすぐ割れた。遺体はきれいな状態で両親のもとへ送り届けられたという。
スイハは次兄と並んで、葬儀場を離れた場所から見ていた。
知っている子だった。よく一緒に遊んでいた。
――もう名前も思い出せないけれど。友達、だったと思う。
別れはあっけなかった。スイハが誘拐されたとき、大人を呼びに行こうとして覆面男に殴られ、水路に落とされた。それきりだ。最後にどんな顔をしていたかもわからない。考えると、頭に靄がかかったようになる。沈んだ瞬間の重たい水音ばかり思い出す。
あの子は死んでしまった。もう二度と会えない。
それなのに、自分はこうして生きている。
「おまえのせいじゃない」
帰り道、並んで雨に打たれながら次兄が言った。
「帰ったら……部屋にいていいから、何か食べろよ。メイサが心配する」
今ならわかる。
辛くても悲しくても、それを慰めてくれる優しさはいつもそこにあった。
だが、このときのスイハはそれどころではなかったのだ。
寝不足の目に、世界が淀んで見えた。雨に濡れた並木の葉の暗い色が気分をより憂うつにさせた。次兄に手を引かれて歩いた帰り道、家が近づくにつれて死にたくなった。
薄々、感じていた。自分は両親に望まれていない子どもだということを。それが妄想ではなく事実であることを、スイハは七歳のときに思い知らされたのだ。
誘拐犯の隠れ家から逃げ出してから、顔を合わせて開口一番、母は言った。
「……子どもが死んだと聞いていたけれど」
冷淡な声。冷たい眼差し。
「あなたのことじゃなかったのね」
母が零した溜息には、深い落胆が込められていた。
スイハは目を覚ました。
寝覚めの悪い夢だ。全身に汗をかいている。記憶の底から不意に蘇った過去にうんざりしながら、目を閉じて呼吸を整えた。
体のあちこちが痛かった。頭がはっきりしない。
起きあがり、周囲を見回した。薄暗くて寒々しい。あちこちから隙間風の音がする。直前まで見ていた夢のせいか、誘拐されたときに閉じ込められた小屋に似ていると感じた。
ぼんやりと部屋の中を見ていたスイハは、近くで誰かが寝ていることに気がついた。
数秒目を凝らして、ハッとする。
「ナ……」何があったか、光が瞬くように記憶が蘇った。「ナサニエル!」
飛びついて肩を揺する。ナサニエルはバッと目を覚ましたが、スイハの顔を見ると拍子抜けしたようにまた横になった。
「なんだよ、もう少し寝させろよ」
「外! 外に黒い獣が……!」
「とっくに追い払った」
なんでもないことのように言われてしまった。
いまいち腑に落ちないまま、スイハは頭をかいた。
「……僕、どれくらい寝てた?」
「三時間ちょいかな。あんまり考えるなよ。忘れちまいな」
この素っ気なさは、ナサニエルなりの気遣いらしい。
気絶する直前に見た光景を思い出そうとすると、それだけで吐き気がこみ上げた。
「もう平気だよ」スイハは己の鼓舞した。「トウ=テンとサクは?」
「外だ」
「ちょっと出てくる」
「遠くに行くなよ」
後ろからかけられた声に手を挙げて応えながら、スイハは外へ出た。
獣が群がっていたところは閑散としていた。カーダンも、獣の亡骸も消えている。雪の上には獣の足跡と、なにかを引きずったような跡だけが残されていた。
人気のない村内を一人でうろつくのは心細かった。今にも通りの角から獣が飛び出してくるのではないかと、スイハはブルッと身震いした。
早足で村の外れまでやって来て、探していた二人を見つけた。
等間隔に盛られた土の前で、トウ=テンが膝をついて手を合わせていた。サクがその背中に手を回してぴったり横に寄り添っている。二人とも、両手が泥で汚れていた。近くにある大八車と、地面に置かれた鋤を見て、彼らが村人を埋葬してくれたのだとスイハは理解した。
スイハが近づいていくと、サクが泣きはらした顔で振り向いた。
「……スイハ。大丈夫?」
「うん。ごめん、手伝えなくて」
スイハは二人の隣に膝をついた。
トウ=テンは粛々と死者に黙祷を捧げていた。右目に手ぬぐいを裂いた眼帯をしている。黒い血を浴びた皮膚は、軽度の火傷のように赤くなっているものの、腐傷と呼べるほど酷い状態ではなかった。厳粛な横顔は深い悲しみに沈んでいるように見えた。
「……知り合いがいたんですか?」
トウ=テンは合掌を解いて薄く目を開いた。
「いいや」
「でも、お墓を作ってくれたんですね」
「……他に、どうしようもないだけだ」
どうしようもない、というトウ=テンの言葉をスイハは噛みしめた。
死んだ人間には、もう何もしてあげられない。どれだけ悲しみにくれても失われた命は戻らない。それはこの世にある真実のひとつだと思えた。
墓に手を合わせた。
弔い、祈る。
何もできない自分に唯一、できること。
悲しみと後悔に向き合い、また、前を向く。
あの日、葬儀の場を遠くから眺めることしかできなかった自分が、ようやく一歩を踏み出せたような気がした。
じきに、雪がハラハラと降り始めた。日暮れが近づきつつあった。
トウ=テンが腰を上げた。
「下山の支度をする。少し待て」
「手伝います」
「必要ない。サク、中で休んでいろ」
すげなく断られた。スイハは肩を落とし、サクの一緒にとぼとぼ元いた民家に戻った。
ナサニエルはまた眠っていた。試しに軽く鼻をつまんでみたが身じろぎすらしない。スイハは肩をすくめた。
「よく寝てら」
「ナサニエルが穴を掘るのを手伝ってくれたんだよ」
「そうだったんだ」
「……ありがとう」
急にお礼を言われて、スイハは目を瞬いた。
「どうしたの?」
「テンが言ってた。雪崩に埋まってたところを、二人に助けてもらったって。だから本当に……本当に、ありがとう」
頭を下げられても恐縮してしまう。ここに至るまで、自分がなんの役にも立っていないことに仄かな後ろめたさを感じていた。
「僕は何も。トウ=テンを掘り起こしたのはナサニエルだし、そもそも埋まってた場所だって……白い鹿が教えてくれたんだ」
「あいつが……」サクは訝しげに眉を顰めた。「言葉を話したってこと?」
「ううん。動きで……。あの鹿のこと、なにか知ってる?」
白い鹿を見たとき、ナサニエルはオリジン、と呟いていた。
もしあれがユウナギ公子だとしたら、サクにとって腹違いの兄弟にあたる。それに今の反応からして、まったく知らない相手というわけでもなさそうだ。
若干の期待を持ちながら、スイハは返答を待った。たとえどんな姿であっても、六年ものあいだ行方も安否もわからなかった公子が生きていたとなれば、これ以上の朗報はない。闘病中のカルグの励みにもなるだろう。
サクは申し訳なさそうに目を伏せた。
「よく知らない」
「ううん、いいんだ。こっちこそ、遭難した兵士たちを助けてくれてありがとう。おかげでみんな、元気にしてるよ」
「……よかった」
不意に微笑んだ顔に、心臓がドキリと跳ね上がった。
思えば、同世代の女の子と話したのは子どものとき以来だ。意識しては駄目だ、と首を振る。
「ぼ、僕たちも支度しようか」
スイハは荷物をまとめにかかった。
手を動かしながら、こっそりサクを見やる。
肩に触れない長さの白い髪。柔和できれいな面立ち。灰色の瞳と、優しげな目元。りんごのほっぺたが可愛らしい。
気後れしている場合ではないのだ。
聞きたいこと、話したいことが山ほどあった。
どこで暮らしているのか。トウ=テンとどういう関係か。なぜ二人で山の中をうろついていたのか。
「あの、さ……」
サクが首を傾げた。白い肌が紫色に鬱血しているのを見て、スイハは思い直した。
「また会おうよ。今度は安全な場所で」
サクはきょとんと目を見開いた。
スイハは弱気になった。
「だ……だめかな」
「だめじゃない!」
思いも寄らず大きな声だった。スイハも驚いたが、言った本人が一番戸惑っているようだった。サクは顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに縮こまった。
まさかの反応にスイハは胸がドキドキした。
「あ、あの……」
戸がガラガラと音を立てながら開いた。トウ=テンだった。彼は固まるスイハを不審げに一瞥して、一直線にサクのもとへ向かった。
サクは嬉しそうに顔を上げた。
「あっ、あのね、スイハがね……」
「行くぞ」
トウ=テンはサクの腕を引いて外へ連れ出した。
スイハは慌ててあとを追った。
外へ出ると、小屋の前に馬が二頭いた。村で飼われていたもののようだ。トウ=テンは片方の馬にサクを乗せると、スイハの前に来て言った。
「馬には乗れるな?」
「えっ」
トウ=テンがもう一頭の手綱をスイハに差し出した。
スイハは馬のつぶらな黒い瞳を見つめて途方に暮れた。
「どうした。受け取れ」
「……あのお……馬は、ちょっと、乗ったことが……」
「なんだと?」
居たたまれなさが極まると黙っているのも辛い。
「後ろに乗せてもらったことはあるんですけど……」
「姉に習わなかったのか」
「姉さんのこと知ってるんですか?」
予想もしなかった言葉に、スイハは勢い込んで尋ねた。
あまり知られていないが、姉は乗馬の名手だ。馬の産地として知られるシブライで生まれ育ち、農場で働いていた頃は毎日馬に乗っていたと聞いている。
トウ=テンは頷いた。
「コヌサでな。乗馬だけならそこらの兵士より達者だった」
家族も使用人も含めて誰も、姉以上に馬を乗りこなせる者はいない。異国の傭兵から見ても姉の乗馬が見事なものだったとわかって、スイハは少し得意な気持ちになった。
――習っておけばよかった。
教えてくれようとしたことはあったのだ。だがスイハはその頃、ロカがいる義塾跡に通うのが一番楽しくて乗馬には興味がなかった。後ろに乗せてもらったり、馬を撫でたりするだけで満足していた。まさかそれが今になって仇になろうとは。
トウ=テンは馬の首を撫でながら顔をしかめた。
下山の手段については、ナサニエルに頼めば解決する問題だ。来たときと同じように空を飛べばいい。しかし自分からそれを言い出すのは厚顔が過ぎる。というより、情けないにもほどがある。本当のお荷物だ。
「僕、歩けます。歩きます」
「ナサニエルを起こせ。それが一番……」
声が重なったそのとき、
「テン」
突然、サクが声をあげた。
東の方角を見つめながら、馬のたてがみを不安そうにギュッと握りしめている。
「あっちのほう……誰か来る。登ってきてるよ」
トウ=テンはすぐさま物見櫓に向かった。疑いを挟む余地のない迅速さだった。スイハもあとに続いた。近づいている何者かがもし賊の残党だったらと思うと、じっとしてはいられなかった。
梯子を登って物見台から顔を出そうとすると、トウ=テンに頭を押さえつけられた。
「隠れろ」
手をついて姿勢を低くする。
この物見櫓は元々村にあったものだろうが、賊の連中が村人や外の様子を見張るために使っていたのだろう。スイハは落ちていた単眼鏡を拾ってトウ=テンに渡した。
「なにか見えますか?」
「……少なくとも、敵ではないな」トウ=テンは拍子抜けした様子で単眼鏡から目を離した。「立っていいぞ」
スイハは手すりから顔を覗かせた。積雪を踏み分けて登ってくる人影が見える。一体誰だろうと、受け取った単眼鏡を目に当てた。真っ白だ。雪と、禿げた木々しか見えない。肉眼で人影を確認しながら上下左右に単眼鏡を動かしていると、トウ=テンが見かねたように手を伸ばした。固定された視界の中にぴったり人の姿が収まった。
「うーわっ」
セン=タイラだ。思わず声が出た。
「どういう関係だ?」
「赤の他人です。姉さんが……結婚するかもしれない相手ってだけで」
「義理の兄というわけか」
「まだ! 違いますから!」
トウ=テンは含み笑いを残してさっと梯子を下りていった。
スイハは単眼鏡をもう一度覗いた。毛皮の防寒着に身をつつんだセン=タイラは、亀の歩みで、しかし確実に一歩一歩こちらへ近づいてきている。黒い獣を警戒しているのか、注意深く周囲に視線を走らせていた。
大人しく宿場で待っていればいいものを。そこまでして姉にいい顔をしたいのかと、スイハは八つ当たりで単眼鏡を床に叩きつけた。得体の知れない不審者が実はセン=タイラだったとわかった瞬間、わずかでも安心した自分が忌々しかった。
地上に戻ると、トウ=テンはサクと二人で馬に乗って出発する準備を調えていた。
「おまえたちは迎えを待て。俺たちは行く」
――まあ、こうなるよな。
納得はできる。トウ=テンは一刻も早く、安全な場所でサクを休ませたいのだ。これ以上の面倒ごとは避けたいのだろう。
二人が先に山を下ることに反論はなかった。
「わかりました。道中の無事を祈ります。それから……」スイハは改めて、自分が取り残される場所を見渡した。「あの、考えたんです」
「なんだ」
今回の後始末をどうするか。自分なりの考えを口にした。
「僕とナサニエルが村に着いたとき、賊は分け前で揉めて殺し合っていた。ほかには誰にも会わなかった。西州軍にはそのように説明します。あなたたちのことは誰にも言いません。僕の名誉にかけて約束します」
トウ=テンは意外そうに眉を上げた。
「その代わりというわけではありませんが、また後日、改めて話をする機会を下さい」
「おまえには一刻の猶予もないと思ったが」
「あなた方の都合を無視して一方的に我を通したら、逆に兄に叱られてしまいます。僕としては、どこかでお時間をいただければ十分です。お願いする立場ですから。そちらの提示する条件に全面的に従います」
ヤースン家に不信感を抱いているトウ=テンを説得するのは、容易なことではない。
自分は今回、ほとほと足手まといだった。赤面ものだがスイハは認めた。体力も胆力も足りなかった。周りの足を引っ張った。それでも、顔を上げて立たなければならない。足りないところを今すぐ埋めろと言われても無理なものは無理だ。等身大の自分にできることは、最大限の誠意を示すことだけだった。
「……テン」
サクが上目遣いでトウ=テンの顔色を窺った。
トウ=テンはちらりと後ろに目を向けて、長い溜息をついた。
「ヒバリで待つ」
ただし、と彼は付け加えた。
「一週間だ。それ以上は待たん。大通りにある赤い柱の宿だ。おまえたち二人で来い」
サクが顔を緩ませて嬉しそうにトウ=テンに抱きついた。
スイハは心から礼を言った。
「ありがとうございます」
「ついでに、宿場に置いてきた馬を連れてきてくれ。黒鹿毛の若い馬だ。弓を積んでいるからすぐにわかる」
トウ=テンが馬の腹を蹴った。
二人を乗せて走り出した馬に向けて、スイハは急いで手を振った。
「待ってて! 絶対行くから!」
サクが手を挙げて応えた。
「……うん!」
二人は去り、雪の上に蹄の跡だけが残った。
荒れ果てた村に一人立ちつくして、スイハは冷たい空気を胸いっぱいに吸いこんだ。
体の奥から熱いものが込みあげた。
理不尽な仕打ちに怒りを抱いたり、無力感に打ちのめされたり、気絶をするほどの恐怖を覚えたり、誠意を伝えようと必死になったり。
自分の中に、こんなに激しく揺れ動くものがあった。州都にいたままだったら絶対にわからなかった。
たくさんの人が死んでいるところを見たばかりのに、こんなことを思うなんて不謹慎だし、おかしいと自分でも思う。
だが、それでもなお。
これまでの人生で、今が一番、生きていると感じた。
*
下山し終える頃には日が暮れかけていた。
トウ=テンは手綱を緩めて馬の首を撫でた。雪に足を取られず、見事に下りきった。山奥の集落で育った名もなき馬にしては上出来すぎる。大したものだと褒めてやると、馬は嬉しそうに耳を動かした。
降り積もった雪の向こうに宿場の明かりが見えた。残してきた黒鹿毛が気がかりだが、兵士たちの前に再び顔を出すつもりはない。スイハが約束を果たしてくれることを期待するしかなかった。
宿場が見えなくなるところまで進んでから街道に入った。
辺りは静寂の薄闇に包まれている。獣の気配も、人の影もない。あとはこのまま街道を辿ってヒバリへ向かうだけだ。トウ=テンは息を吐いた。無視していた疲労が全身に重くのし掛かった。
逸脱者に振り回されて、今回はいくつも判断を誤った。中でも最悪なのは目先の敵に気を取られて周囲への警戒を疎かにしたことだ。反応が遅れて雪崩に呑まれた。助けがなければまず間違いなく死んでいただろう。
しばらく無心で馬を走らせていると、不意にサクが言った。
「テン。スイハが来るまで待つよね?」
トウ=テンは前を向いたまま答えた。
「言っただろう。一週間だ」
「なんで一週間しか待たないの?」
期限を設けたことが腑に落ちないようだ。わかりやすく拗ねた言い方がおかしくて、トウ=テンはフッと笑った。
「宿代もただではないからな」
「赤い柱の宿、前におかあさんと行ったことある。コスもヒバリで仕事があるときはいつも泊まってるんだ。お願いしたらただで泊めてくれるよ」
「おまえはいいが、俺はそういうわけにはいかん」
「じゃあ、薬を売ってお金を稼ぐよ。コスと同じくらいうまくできるよ」
「サク。もっとちゃんと掴まれ」
トウ=テンは腹に回されたサクの手に触れ、異変に気づいた。指先がかじかんでいるのに手汗をかいている。馬を止めて額に触れると案の定、発熱していた。
一度馬から降り、サクを前に抱えるかたちで乗り直す。
「寒いか?」
「ううん」
ヒバリで宿を確保したらすぐ医者を呼ぼう。
トウ=テンは馬の足を速めた。
「ねえねえ」
「舌を噛むぞ」
「コヌサから帰るときもここ通った。覚えてる?」
「こんな雪まみれじゃなかったがな」
「全然喋んなかった」
「お互い様だろう」
「最初はちょっと怖かったんだ。喋らなかったし、こっち見なかったから。でも今はね、テンが一番好き」
「そうか」
調子外れによく喋る。熱が上がっているのかもしれない。
「生きててよかった。テン、雪の中にいたから。死んじゃったかと思った」
「そうだな。今回はさすがに……疲れた」
「うん。あったかいお風呂に入りたい」
「ああ。そうしよう」
少しずつ明瞭さを欠いていく声に、トウ=テンは静かに相づちを打った。
言葉を交わすこの時間が、かけがえのないものに思える。
いつの間に、こんなに大事になったのだろう。
まだ知り合ってから一ヶ月程度だというのに、幼い頃から何年も見守ってきた気がする。そんなわけがないと頭ではわかっているのだが、心で感じる思いは本物だ。死んだと聞かされたときの絶望も、生きていたとわかったときに込みあげた安堵も、すべて。
「右目の包帯、あとできれいなのに替えてあげる」
感傷から急遽、現実に引き戻された。
すでに右目の痛みはきれいに治まっている。
あのとき黒い獣があいだに割り込まなければ、逸脱者の見えざる手によってトウ=テンは頭を吹き飛ばされていただろう。偶然ではなく、どういうわけか庇われたのだ。
目の前で破裂した獣の臓物から、大量の血が吹き出した。逸脱者の力は強力だが息継ぎの隙がある。吹き出した血で視界を半分覆われながら、トウ=テンはカーダンを無力化するためにまず両目を潰し、次にスイハを拘束していた右腕を落とした。
痛みはその一瞬後に来た。
眼球に百万の針が突き刺さった。そう錯覚するような痛みだった。目の前が激しく明滅して、そのあとの記憶は曖昧だ。サクの声を聞くまで意識が朦朧としていた。
右目は元通り、見えるようになるという。
黒い獣の血を浴びたにも係わらず、だ。
こんなことが可能なのは。
――西州公の遺児。
その響きは不思議と腑に落ちた。
スイハが言うには、ヨウ=キキはかつて西州公の侍医だったという。それが主人に見初められ、子を身ごもり、隠遁した。そしてサクが生まれた。
精霊憑きとはまた違う、人並み外れた身体能力、超常の力。
少なくとも辻褄は合う。
憂鬱だ。
スイハにはヒバリで待つと約束したものの、トウ=テンは気が進まなかった。
ヤースン家は西州公亡きあと国の執政を担う名家だ。悪い噂は聞いたことがないが、今はなにを血迷ったか傭兵を雇ってまで西州公の遺児を捜している。
本音を言えば関わり合いになりたくない。だが、下手に逃げるよりはスイハともう一度会って、ヤースン家の内情を探るべきだろう。ヨウ=キキが逃げ出した、その理由も。帰ったあとでコスに確認を取れば、よりはっきりする。
情報が確定するまでサクには言うまい。
「迎えに来てくれて嬉しかった」
夢うつつに呟きながら、サクはトウ=テンに体重を預けた。
「一緒だから、平気だよ。なにがあっても」
トウ=テンはサクの体に回した腕に力を込めた。
親が誰だろうと、どんな力を持っていようと、サクはひとりの人間だ。泣いて笑って、ときに悩みながら、自分だけの人生を懸命に生きている。
――誰にも奪わせない。
街道の遙か向こうにヒバリの灯火が見えてきた。
トウ=テンは黙々と、夜の先に浮かぶ小さな明かりを目指した。
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