13.予期せぬお迎え


 窓から差し込む日が明るいなと、寝床から体を起こして何気なく空を見上げると、今の季節には珍しい晴れ渡った空が広がっていた。

 スイハは洗面器に水を注いで顔を洗った。窓を開いて冷たい風を浴びる。

 昨夜は夢見が悪かった。地面から湧き出した黒い泥が、顔のない死体を次々と飲み込んでいくのだ。泥が自分の足先に達したところで飛び起きた。それからろくに眠れなかったが、こうして朝日を浴びながら風を受けていると、寝不足の頭がスッキリするような気がした。

 とはいえ、だんだん寒くなってきた。肌を刺す風が容赦なくビュウビュウ吹き込んでくる。何かおかしいと、スイハは窓から体を出して上を見た。

 屋根の上でナサニエルが黒髪をなびかせていた。

 スイハは拳を振り上げて抗議した。

「寒いだろ!」

「目が覚めただろ?」

 ナサニエルは羽のように窓から部屋の中へ入ってきた。

「飯行こうぜ」

「先に食べてればいいじゃないか」

「人の金で食うからうまいんだろ」

「こういう大人にはなりたくないね」

 悪態をついて見せたが、スイハは悪い気分ではなかった。

 街道を旅する者に一時の安息を提供していた宿場は今や、ヒバリから届いた増員と物資のおかげで、ちょっとした前線基地の様相を呈している。

 慌ただしく過ぎた三日間、スイハは邪魔にならないよう基本的に部屋に籠もって過ごしていたが、食事時や馬の世話をするとき何人かと挨拶や世間話を交わした。こちらの目的地がヒバリであることは話してある。そこで誰と会い、何をするのかに関しては、機密事項で話せないと始めに断った。難色を示す者はいなかった。彼らはむしろスイハに同情的で、ヤースン家は娘だけでなくとうとう末の息子にまで危険な仕事を課すようになったのかと、西州公のいない世を嘆いた。

 スイハは炊き出しをしている顔見知りの兵士に代金を払い――不要だと言われたが手間賃として払うことにしている――軽い雑談をしつつ食事を受け取った。育ち盛りだから食っておけと、彼はおかずを一品足してくれた。

 二人は部屋に戻って朝食をとった。

「で? いつ出発する?」

「先生が戻ったら」

「待つ必要あるか? 二人で来いって言われてんだろ」

「もちろん会いに行くときは二人でだけど、何も言わずに行けないよ。ナサニエルだって先生に雇われたようなもんじゃないか」

「あいつはただの仲介人。報酬を払うやつが雇い主だ」

「じゃあ僕の意見を尊重してよ。お腹いっぱい食べていいから」

 ナサニエルは唇を親指で拭い、空になった椀をスイハに押しつけた。

「ギリギリまで待つ。それで来なかったら、引きずってでも連れて行くからな」

「決まりだね」

 スイハはおかわりを貰いに行った。

 その日の午後、ヒバリから大隊長の副官だという人が部下を引き連れてやって来た。

 暇を持て余した若い兵士たちに誘われて、二階の一室で賭け遊びに興じていたスイハは、車輪の音につられて窓から顔を出した。宿場の前に止まった馬車から、ちょうど見知らぬ女の人が降りてくるところだった。

 落胆するスイハの横から外を見下ろした兵士が、顔を青くした。

「ふ、副隊長殿だ!」

 その叫びを聞いた同室の兵士たちは、床に広げていた賭け札をかき集めて枕の下に突っ込み、慌てて身なりを整え始めた。

 ヒバリから増援の第一弾が到着したときはみんな手を取り合って喜んでいたのに、今回は随分と反応が違う。

「副隊長って、二番目に偉い人ってこと?」

「そうです! 早く出て! こんなところを見られたら大目玉だ!」

 彼らは慌てふためきながらスイハを部屋から放り出した。

 それから少し時間が空いて夕方過ぎ。副官を名乗る女性がスイハの部屋を訪ねてきた。

 上から見ただけではわからなかったが、彼女はスイハより背丈があり、綺麗な顔ながら軍服がよく馴染んでいた。兵士たちと並んでも見劣りしない。一方で、きっちり編み込まれた黒髪は艶やかで光沢がある。年の頃は三十半ばから四十手前。こんな場所、この格好でなければ、呉服屋の女主人かと見紛ったかもしれない。

「初めてお目に掛かります。スイハ=ヤースン様」

 椅子に座って彼女と向き合ったスイハは、若い兵士たちが慌てていた理由がわかる気がした。たおやかに微笑んでいるが、どことなく甘えを許さない気配がある。

「ヒガン大隊長の麾下より参りました。キリムと申します」

「はじめまして。お務めご苦労様です。キリム殿」

 彼女の後ろで、書記官らしき男がやりとりを書き留めている。

「大体の経緯は伝え聞いています。被害の状況についても報告を受けました。けれど不明瞭な部分も多くて。少しだけ、お話を伺ってもよろしいかしら?」

 事情聴取だ。兵士たちの報告と食い違うところがあれば余計な詮索をされる。

「もちろんです。僕でよければ」

 キリムは頷いて書記官に目配せした。

 宿場に着いてから起きたことを、スイハは客観的な視点で時系列順に話した。ただしトウ=テンとサクの存在は伏せて。一通り話し終わったあとは、聞かれたことにだけ淡々と答えるようにした。

 旅の理由は守秘義務があって話せない。村へ向かったのは正義感から。自分たちが着いたとき賊は口論しながら殺し合いをしていた。争いが収まるのを待ってから村内を捜索、生存者は発見できず。ナサニエルと共にセン=タイラに救助され、現在に至る。

 会話を記録している書記官が、ときおり呆れた目でこちらを見ていた。馬鹿な子どもだと思っているのだろう。好きに思わせておけばいい。スイハはすまして言った。

「話せることはこれで全部です。参考になるでしょうか?」

「はい。この事件の加害者たちは、非常に悪質かつ巧妙のようですね」

「同士討ちをしてくれて助かったというところですね」

「賊が全滅したとは限りません」

 言われてみればその通りで、別の場所に残党がいる可能性は大いに考えられる。ただ、キリムがそれをわざわざこちらに伝える意図がわからなかった。どう反応すべきか、スイハは少し迷ってから阿呆の顔を取り繕った。

「そうなんですか?」

 キリムは一拍おいて、スイハの目をじっと見つめた。

「街道を封鎖するよう働きかけて下さったそうですね」

「ええ、まあ」

「ここだけの話なのですが……」

 姿勢を崩さぬまま彼女は声を潜めた。

「先遣隊不明の報せを受けてから、我々はヒバリに出入りする異国人の取り調べを行っています。つい先日、久鳳人の二人連れが来ました。帯刀した四十歳の男と、白い髪の少女です」

 トウ=テンとサクだ。

 二人が無事ヒバリに着いたとわかったのは良いが、また別の心配ができてしまった。

 予想していなかったのか、あるいはよほど急いでいたのか、トウ=テンは軍の検問に引っかかった。帯刀している時点で民間人でないことは一目瞭然だ。取り調べは避けられない。そしてキリムの発言を鑑みるに、聴取を担当した兵士は子連れで現れた久鳳人の男に不審を抱いたのだろう。

 スイハは動揺を気取られぬよう表情、呼吸ともに努めて平静さを保った。

「事件に関与している可能性があるということですね」

「今の西州はわずかな綻びも見過ごせません。彼らは街道を通ってきたと言うんですが、ここを通りましたか?」

「僕は見てないけど――」スイハは斜め上に目線をやりながら、あたかも今思い出しましたという素振りをして見せた。「もしかして、みんなが言ってた親子のことかな」

「親子」

「本当は秘密なんですけど、先遣隊で生き残った人たちから聞いたんです。山で遭難してるところを助けられたとか。しかも子どもは精霊憑きだって言うじゃないですか」

「初耳ですね……」

 キリムの眉間に皺が寄った。

 トウ=テンにかかる疑惑を晴らすためとはいえ、仲良くなったみんながあとで叱られると思うと申し訳なかった。キリムの意識を別のところに逸らそうと、スイハは前のめり気味で捲し立てた。

「話を聞いてからずっと気になってたんです。キリム殿はその子に会ったんでしょう。どうでした。本物の精霊憑きでしたか?」

 キリムは呆気にとられたあと、毒気を抜かれたように目元を緩めた。

「精霊憑きに興味が?」

「もちろん。精霊憑きは吉兆の証だっていうし。僕だって実際、ナサニエルのおかげで無事だったようなものですから」

「ナサニエル?」

「黒髪のヨーム人がいたでしょう。護衛をしてくれているんです。凄いんですよ。空を飛んだり、風を起こしたり」

「あのヨーム人の方が? まあ……!」感激の声を漏らしたかと思うと、キリムはおもむろに書記官の男を振り返った。「調書に必要な証言は取れました。ここからは記録しなくていいわ」

 その言葉は聴取の終わりを意味していた。

 書記官の男が退出したあとに彼女が見せた微笑みは、先ほどとは打って変わって親しみを感じさせるものだった。

「根掘り葉掘りしてごめんなさいね。事実確認ができて助かりました」

「事実確認っていうのは、その親子の行動履歴……ですか?」

「ええ。十分な証言が取れなかったものですから。けれど、もし本当にあの子が精霊憑きなら……頑なに黙秘を通した父親の態度も納得できます」

「どういうことです?」

「精霊憑きは西州以外の国では凶兆とされ、白眼視されているのです。ゆえに、人前で力を振るうことはもちろん、彼らが自分から正体を明かすことはまずないとか」

「凶兆だなんて……みんなを助けてくれたのに」

「サナン解放戦争から生じた偏見です。奴隷に堕とされ、戦場に駆り出された精霊憑きこそ一番の被害者だというのに……嘆かわしいことですわ」

 伏し目に掛かった憂いを払い、キリムは目元を緩めてスイハを見つめた。

「ナサニエル殿はきっと、あなたを信頼しているのでしょうね」

「どうかな。そうだといいけど」

 今回の事件以降、他人から友人に近い距離感になったような気もするが、ナサニエルのことだ。状況が一区切りついたらそこが縁の切れ目だと言ってあっさり離れて行きそうな気がする。なにせ、彼の目的はサクを見つけた時点で達成されているのだ。トウ=テンが出した条件がなければ、とうに一人でヒバリに向かっているだろう。

 ナサニエルのほうに一緒にいる理由がないとしても、スイハにはまだ彼の力が必要だ。見限られないよう精々有用性を示すとしよう。

「あの、あまりみんなを怒らないで下さい。精霊憑きの子が、自分と会ったことは秘密にしてほしいってお願いしたそうなんです」

「わかりました。今回だけは大目に見るとしましょう」

 スイハはホッと胸を撫で下ろし、話を戻した。

「その親子は今、どうしていますか?」

 留置所に入れられていたら厄介だ。

 キリムの返答は想像よりはるかにマシだった。

「市内の宿泊施設にいます。子どもを休ませるまでは聴取に応じないと言うので。刀をこちらに預け、監視を置くことを条件に許可しました」

 サクの様子が気がかりだったが、あまり追求すると勘ぐられるかもしれない。無事がわかっただけで十分だと、スイハは己を納得させた。

「彼らが本当に兵の命を救ってくれたのなら、ヒガン大隊の副官として礼節を尽くさねばなりませんね」

「ありがとう。お願いします」

 頷いてから、キリムは口に手を当てて苦笑した。どうしたのかとスイハが困惑していると、彼女は言った。

「ごめんなさい。今の言い方が、メイサ様とあまりによく似ていたものだから」

 スイハはキョトンとした。

「姉さん……姉と知り合いだったんですか?」

「〈狩り〉の前、メイサ様は兵部省に相談に来られたのです。士官らしい立ち振る舞いを教えてほしいと」

 キリムはしみじみと目を伏せた。

「僭越ながら、私が指南いたしました。女性の軍人はそう多くありませんから」

兵部省はスイハにとって馴染みの薄い場所だ。典薬寮と同じ方向にあって、そう離れているわけでもないのに、以前は無意識に関わりを避けていたように思う。

「知りませんでした」

「メイサ様は立派にお役目を果たされました。これから先もきっと、あなた方は……どのような困難にも立ち向かっていくのでしょう。西州のため、民のために。私はそれがとても嬉しく、誇らしい。終わりの見えない戦いを、同じ志を持って共に歩んでくれる。勇気づけられます」

 キリムは席を立ち、背筋を伸ばして敬礼した。

「あなた方に敬意と、そして感謝を。亡き西州公様に誓って、我々は今後もヤースン家の方々をお助けいたします」

 こういう人たちだったのだと、ふと実感が湧いた。

 西州に徴兵はない。軍にいる者たちは皆、自ら志願して危険な現場に身を置いている。

 州都を出るまで、スイハは軍人というものを知らなかった。顔や名前はおろか、彼らが日々どういう仕事をしているかさえも。

 彼らは命懸けで黒い獣や無法者と戦い、民衆を守ってきた。西州公が亡くなってから六年間、ヤースン家を支えてきてくれたのだ。

「ありがとうございます、キリム殿」スイハは見よう見まねで敬礼した。「これからもよろしくお願いします」

 キリムは微笑んだ。

「こちらこそ。あなたの人となりがわかって良かった」



 夕食を終えたあと、スイハはこっそり厩を覗きに行った。

 奥から二番目の馬房に、トウ=テンが言っていた黒鹿毛の馬がいる。鞍に、弓と矢筒をつけたままだ。外そうとしたら触るなと警告するように前脚を鳴らされた。それ以来、食事の世話はさせてくれるものの一向に心を許す気配がない。

 明かりを掲げて音を立てないようすり足で近づくと、ちらりとこちらを見たものの、すぐ興味がなさそうに目を閉じてしまった。

 スイハは馬房の前で腕を組んだ。トウ=テンから頼まれたはいいが、こいつをヒバリに連れて行ける自信がない。手綱を引いても一歩も動いてくれなさそうだ。馬は甘い物が好きだというが、このプライドが高そうな黒鹿毛を食べ物で懐柔できるだろうか。

 明日にでも馬に詳しい兵士に相談しようと踵を返したスイハは、ギョッと足を止めた。

 見上げるほどの上背。硬質な無表情。

「失礼」

 よりによってセン=タイラと鉢合わせるなんて。

 脇に避けて道を譲ると、彼は会釈し通り過ぎた。そして自分の馬の元へ向かった。

 スイハは去ることもなく、かといって近づきもせず、その場でじっと立ちつくした。ばつが悪かったのだ。なぜなら、まだお礼を言っていない。あの日、もの凄い剣幕で説教をされて、それきりだ。このままでは不義理にもほどがある。

 迷って悩んで考えて、スイハは覚悟を決めた。

「あの」

 馬房の横木にもたれていたセン=タイラが、怪訝そうに振り向いた。スイハは決意が鈍らぬうちに一息で言った。

「このあいだは迎えに来てくれてありがとうございました」

 セン=タイラは小さく頷いて馬に視線を戻した。

 あっけないものだ。さすがに今回ばかりは嫌味のひとつでも言われるかと思ったが、セン=タイラという男はどうやら根っからの硬派らしい。過ぎたことをグチグチと蒸し返すことはしないというわけだ。

 寡黙で無愛想だが、そもそも悪い人間ではない。スイハも本当はわかっている。いちいち突っかかる自分のほうに問題があるのだ。これでは姉を取られると癇癪を起こしたユニを笑えない。

 スイハは明かりを足下に置いた。

「……あなたの言った通りだった」

 顔を見られなければ本音で話せる気がした。

「死んだら終わり。……たくさんの人の命が終わってしまった。僕も、助けられなければ死ぬところだった」

 キリムに隠し通した事実を、スイハは口にした。彼には知る権利があると思った。

「実は、僕たちだけじゃなかったんです。あそこにいたのは」

「知っています」

 息を呑んだスイハとは対照的に、セン=タイラは淡々と言った。

「村に向かう途中、あなたが何者かと物見櫓にいたのが見えました。見間違いかとも思いましたが、辺りを調べたら、北側の斜面に新しい馬の足跡が残っていた」

 彼は物憂げに馬の耳を撫でた。

「それに、あれだけの墓をあなたが作れたはずがない」

 村を去る前、セン=タイラは村人の墓に手を合わせていた。本当はあの時から気づいていたのだ。それきり黙り込んだ横顔を、スイハはじっと見つめた。

 こちらから話を切り出さなければ、この男はずっと黙っていたに違いない。

 敗北感で無性にムシャクシャしたが、以前までと違ってスイハは意固地にはならなかった。こうなったらとことんまで巻き込んでしまえと、開き直りの境地に至った。

「秘密にして下さい。ヒバリで落ち合う予定なんです。僕の目的のためには、その……彼の協力がどうしても必要なんですけど、表沙汰にはできない事情があって」

「何者ですか」

「久鳳人の、トウ=テンという人です」

「――トウ?」

 馬を撫でていた手がピタリと止まった。化かされたように両目を見開く。

「トウ=テン、と言いましたね」彼は唐突に、鬼気迫る顔でスイハの肩を掴んだ。「そう名乗ったんですか? どんな男です。名前以外に何か……」

「ど、どうしたんですか」

「あなたは、村を襲った賊共は同士討ちで死んだと言った。ですが本当は、彼がやったのではないのですか。あの墓も……」

「ちょ、待って……待てったら!」スイハは両腕を振り上げてセン=タイラの手を振りほどいた。「声が大きい! 秘密だって……!」

 厩舎に響いた自分の声が一番大きかった。

 スイハは口を閉じて耳を澄ませた。幸い、誰かが近づいて来る気配はなかった。

 セン=タイラが粛々と頭を下げた。

「申し訳ありません。取り乱しました」

 謝罪しつつも落ち着かない様子で、らしくもなくそわそわしている。

 彼は声を潜めた。

「トウ=テンは、四十歳くらいの男性ですね? 背丈はこれくらいで、眼光が鋭くて、右利きで、よく通る声をしていて……それから、刀を持っていたのでは?」

「全部その通りですけど……知り合いなんですか?」

「若い頃、とてもお世話になりました。最後にお目にかかったのが十年前なので、向こうが私を覚えているかはわかりませんが……」

 セン=タイラはメイサより九歳年上の三十二歳だ。スイハが以前調べた経歴によれば士官学校を卒業後、すぐ軍に入隊している。その頃世話になったということは、トウ=テンは元々、久鳳の軍人だったということだろうか。だとしたら、あの身のこなしや強さにも納得がいく。

 そういえば、物見台からセン=タイラの姿が見えたとき、トウ=テンはその正体を誰何しなかった。「どういう関係だ」とだけ尋ねて、スイハが姉の婚約者だと答えると、含み笑いを零した。

 今になって腑に落ちた。彼は、セン=タイラのことを覚えていたのだ。

「あなたは以前からトウ殿と面識が?」

「会ったばかりです。だから、どんな人かもよく知らないんですけど」

「信頼できる方です」

 その言葉からはトウ=テンに対する深い恩義が感じられた。

 会いたいだろうなと、スイハは微かに罪悪感を覚えた。

「実は、ナサニエルと二人で来いって言われてるんです。あなたは連れて行けない」

「わかりました。お話の邪魔をするつもりはありません。ただし道中の安全のため、ヒバリまでは同行させていただきます」

 さすがに聞きわけが良すぎやしないだろうか。

「いいんですか?」

「私の目的は、あなたを無事に州都まで連れ帰ることです。あるかもわからない治療法を捜す旅など無謀でしかないと思っていましたが、あの方が関わっているとなれば話は別。協力は惜しみません」

 全面的に信用したわけではなかったが、スイハはもう迷わないことにした。姉の婚約者であるという点を抜きにすれば、セン=タイラは案外、心強い味方になるかもしれない。ラザロと通じている心配もないし、何よりナサニエルの負担を減らせる。

「じゃあ、早速なんですけど……あの馬をお願いしていいですか」スイハは黒鹿毛の馬を指差した。「トウ=テンの馬なんです」

「なんと」

 セン=タイラはいそいそと馬房へ向かった。

 黒鹿毛の馬と、馬に積まれた装備を見つめる眼差しには微かな興奮が見える。彼にとってトウ=テンは、スイハでいうロカのような存在なのだろう。

 スイハは初めて彼に近しいものを覚えた。

「……。……あの」

 この程度、歩み寄りでもなんでもないと自分に言い聞かせる。

「トウ=テンはあなたのこと覚えてると思う。誰かって聞かなかったから」

「それは……もし本当にそうだったら、嬉しいですね」

 セン=タイラが頬を緩めて笑うところを、スイハはこのとき初めて見た。



 翌日。

 朝の散歩から戻ってきたナサニエルを捕まえて、スイハは昨夜の出来事を伝えた。

「……というわけで、今度から作戦会議にタイラも呼ぶから」

 ナサニエルは火鉢にかざして温めた両手で自分の首を包み、襟巻きを外して、服に突っ込んでいた髪を外へ出した。長い黒髪を後ろでひとつにまとめながら、彼はニヤニヤして言った。

「ようやく雪どけってわけだ」

「別にいいだろ。意地を張ったって疲れるだけだし」

「早めに気づいて何より。息苦しいのは勘弁だからな」

 朝食後、セン=タイラを交えて今後の予定を話し合った。

 トウ=テンから言い渡された期日を考えると、遅くとも明後日にはヒバリに着かなければならない。ここでロカを待てるのは当日の朝までだ。ギリギリまで待つと言っていたナサニエルは、ヒバリに検問が張られていると知るや前言を撤回し、明日にでも出発することを強く主張した。

「ヒバリには軍の検問があるんだろ。取り調べで時間を取られる」

 長時間拘束されると決め込んでいるところに、これまでの苦労が偲ばれた。

「大丈夫だよ。キリム殿に頼んで書状を書いてもらおう」

「それはいい考えですが、彼の言うとおり出発は早いほうがよろしいかと」

 スイハが不満を込めて見やると、セン=タイラは黙り込んだ。

 長い沈黙の間があった。

「なんか言って下さい」

 ようやく重い口を開いたかと思うと、彼はとんでもないことを言い出した。

「ハン=ロカとは、このまま別れて行動することをおすすめします。トウ殿の前で彼の名前を出してもいけません」

 スイハは反感を押し込めて尋ねた。

「どうしてですか?」

「トウ殿の協力を得られなくなるからです」

「前に言ってた、先生が久鳳にいた頃の話?」

 セン=タイラは険しい顔で頷いた。

 スイハは何か言おうとしたが、言葉が出て来なかった。ロカが暗い過去を背負っていることは知っている。セン=タイラが嘘をつく理由もない。会わせないほうがいいと言われたら感情論以外で否定できなかった。

 だがそれでも、嫌なものは嫌だ。期日の都合でやむを得ず先に発つならまだしも、意図的にロカを置いて行くことなどスイハには考えられなかった。

「別行動を取るとしても、このまま別れるのはだめだ。ちゃんと話したい」

「……わかりました。あなたがそう決めたなら」

 浮かない顔をしつつも、セン=タイラは頷いた。

 ナサニエルは面白くない様子で腕を組んでふんぞり返った。

「おれは明日までしか待たないからな!」

 セン=タイラを交えての作戦会議は、どこか気まずい雰囲気で終わった。

 キリムに書状の件を頼んだあと、午前中いっぱい、どうしたものかとスイハは頭を抱えた。ロカを待ちたいのはやまやまだが、ナサニエルがその気になったら待ったなしでヒバリまでひとっ飛びだろう。簡単に連れて行かれないよう服の下に重しでも仕込んでおこうかと半ば本気で悩んだ。悩みすぎて、昼過ぎにナサニエルが部屋に飛び込んできたとき、とっさに寝台にしがみついたほどだ。

「荷物をまとめろ」

「まだ行かないよ!」

 ナサニエルは呆れ顔でスイハの頭をぺしっと叩いた。

「ロカのやつが戻って来たんだ。見てみろ」

 急いで窓から身を乗り出して、スイハは歓声を上げた。街道から馬車がこちらに向かってくるところが見えた。

 四頭立ての四輪大型車は、小さな宿場とはいかにも不釣り合いだった。スイハに待ち人がいることは兵士たちも周知していたから、馬車の受け入れ自体は滞りなく行われた。

 スイハは兵士たちの隙間を縫って馬車へ近づいた。

 ふと、違和感を覚える。

 州都を旅立つにあたり目立たない幌馬車を用意したロカが、こんな立派な乗り物を選ぶだろうか。中の様子は内側から窓に布がかかっていて見えない。なんとなく怪しい感じだった。

 扉が開いた。

 降りてきたロカの顔を見た瞬間、スイハの不安はかき消えた。

「先生。おかえりなさい!」

 ロカは見物に集まった兵士たちを見て、困った顔をした。

「スイハ」

「大変だったんだよ。話したいことが……」

「少し、人払いできないか」

 小声でそう言うロカの顔は緊張を帯びている。かき消えたはずの不安が再び蘇った。スイハは人いきれから離れた場所にいるナサニエルの存在を意識しながら、ロカの肩越しに馬車を見やった。扉の隙間から、何者かがこちらの様子を窺っている気配があった。

「誰かと一緒なんですか」

「うん。まあ……」

 やはりおかしい。別れているあいだに何があったか知らないが、今のロカはまるで首に縄でもかけられているようだ。

「顔を見ればわかる。とりあえず中に」

 スイハは一歩後ろに下がり、馬車の中にいる何者かに向けて言った。

「中にいる人たち。今すぐ全員、降りて下さい」

 ロカがギョッと目を剥いた。

「スイハ!」

「いくら先生の言うことでも……だって、怪しすぎる。顔も見せない人間と話すことはありません」

 スイハはロカの腕を掴んで引っ張り寄せながら、さらに一歩、馬車から距離を置いた。中にいるのが何者であれ、西州軍に囲まれたこの状況で下手な真似はできないはずだ。

 ほどなく、馬車の扉が開いた。

「用心深いのはいいことだ」

 スイハは目を瞠った。

 一つ結びにした髪。母譲りの切れ長の目。少しやつれているが、見間違えるはずもない。馬車から降りてきたのは、この数ヶ月間行方が知れなかった次兄だった。

「ホノエ兄さん!」

 スイハは感激のあまり人目も憚らず兄に抱きついた。

 最後に会ったのはいつだったか。正確な日時も、服装も思い出せない。それぐらい突然だった。ホノエが帰って来ないとメイサが騒ぎ出すまで、いや、その時ですら、ちょっと遠出しているだけだろうと軽く考えていた。

 それがまさか何ヶ月も続くなんて、思ってもみなかったのだ。

「兄さん! 兄さん、心配したんだよ! 今までどこにいたんですか!」

「カイ=フソン殿の世話になっていたんだ」

 久しぶりに会うというのにホノエはにこりともしなかった。

 続けて馬車から降りてきたのは、同時期に行方が知れなくなった使用人たちだった。護衛官のゼン、近侍のウノ、馬丁のジン。昔からヤースン家に仕えている者ばかりだ。

「ジン、ゼン、ウノ。みんな、兄さんと一緒だったんだ」

 彼らの無事な姿を見て、スイハは心から安堵した。

 ホノエが行方をくらませてから、宮中のそこかしこで憶測や陰口が囁かれるのを耳にした。中には妹に責任を押しつけて逃げただの、どこかで野垂れ死んだだのとひどいことを言う者もいて、悔しい思いをしたものだ。

 ホノエが何も言わず姿を消したのには、特別な事情があったに違いないというのに。

「とりあえず中に入ろうよ。寒いし」

「ここの責任者は誰だ」

「キリム殿っていう人だよ」

 早速案内しようとスイハはウキウキと宿場に足を向けた。

 しかし、誰もついてくる気配がない。奇妙に思ってロカを見やると、彼は険しい顔で首を横に振った。

 スイハはやや緊張しながら兄を見やった。

「兄さん?」

「キリム殿とやらに挨拶をしたら帰るぞ」

 帰る、という言葉を聞いた瞬間、再会の興奮から一気に現実に引き戻された。

 浮かれている場合ではなかった。ロカの様子がおかしかったのはこのためだ。

 ヤースン家に居候していた頃、ロカはホノエの家庭教師をしていた。付き合いの長さでいえばスイハ以上に気心の知れた仲だ。おそらくカイ=フソンのもとで予期せぬ再会を果たし、街道を封鎖する理由を説明する中でスイハが州都を出たことを隠しておけず、こってり絞られたのだろう。

「だめだよ。まだちょっと……大事な用事があって」

「ロカから話は聞いた。州都の外がどれだけ危険な状況か、おまえがわかっていないとは思わないが……。何かあってからじゃ遅いんだ」

「でも」

「言い訳はあとで聞く。先に乗って待っていろ」

 そう言って背中を押すホノエの手には、いつか繋いだときと同じ温かさがあった。

 反発心が萎えると同時に、スイハは悟った。家族に何も告げず姿を消した兄が今、こうして現れたのは、自分を連れ帰るためなのだと。

「冒険ごっこは終わりだ。家に帰るぞ、スイハ」

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