第25話 終わりのはじまり

 静かになった室内に、フレイズはホッと息を吐いた。

 察するに、サントノーレという男は魔女を殺したいほど憎んでいて、トゥイルのことも悪魔だと思っているようだ。

 自分のせいだと一概には言えないことを知って、フレイズは少しだけ気持ちが軽くなった。


(こわ、かった……)


 気持ちに余裕ができた途端、ブルブルと手が震えだす。

 試着室の扉にもたれかかりながら、フレイズはずるずると床に座り込んだ。


(私、随分と弱くなってしまったわ)


 卵を投げつけられても、悪意の視線に晒されても、怒声を浴びせられても、前は平気だった。

 今も平気だと、本気で思っていた。


(それが、なに……? ちょっと言われただけで、このありさま。魔女としてどうなの?)


 ギュッと握った指先が、白くなっていた。

 それほどまでに弱くなったのだと、フレイズは愕然とする。


「フレイズ? 開けても、大丈夫か?」


 ノックとともに聞こえてきたトゥイルの声に、フレイズは考える前に扉を開けていた。

 飛びつくように出てきたフレイズを、トゥイルの腕が抱きとめる。腕の中でカタカタと震える彼女を、トゥイルは優しく抱擁した。


「すまない。怖い思いをさせた」


 怯える子供を慰めるように、トゥイルはフレイズの柔らかな髪を撫でる。

 額にかかる髪を耳にかけ、あらわになったまろやかな額に、唇を寄せた。


 そのキスがあまりにも衝撃的で、フレイズは額を手で押さえながらゆるゆると顔を上げた。

 眉を下げて心配そうに見下ろすトゥイルが、そこにいる。


「な、なななな⁉」


「あ、落ち着いた?」


 平然としているトゥイルの前で、フレイズはボンと音がしそうなくらい一気に顔を赤らめた。


「フレイズも昔、僕にしただろう。だからこれは、おあいこってことで」


 ニヤリといたずらな笑みを浮かべるトゥイルに、フレイズは言われていることが分からずにまばたきを繰り返した。

 ポカンと開いた唇の端を、トゥイルの親指が意味深に撫でていく。


「は……? おあいこって……」


 同じことなんて、一度しかしていない。

 正確には似たようなこと、だけれど。


(よく考えたら、私ってかなり失礼なことをしたんじゃない……? 初対面の少年を黙らせるためにキスをする、なんて。仕方がないとはいえ、もっと他に方法があったのでは?)


 フレイズは自分がされてようやく、当時のトゥイルの衝撃を知った。

 しょんぼりと肩を落とす彼女に、トゥイルは「そんなに怖かったのか?」と的外れなことをつぶやきながら、優しく頭を撫でたのだった。


 ***


 しばらくしてようやく落ち着きを取り戻したフレイズは、扉の影から覗き見していたベティーズと目が合った。


「それじゃあ、仕切り直して……お楽しみの、試着タイムよぉ!」


 わかりやすいごまかしに苦笑いしながらも、今はそれがありがたい。

 再び試着室へ案内されたフレイズは、慣れないヒラヒラした生地に悪戦苦闘しながら、なんとか着替えた。

 不安がにじむ顔で扉を開けて出てきた彼女に、ベティーズが拍手で出迎える。


「んまぁぁ……最高じゃないの!」


 試着室から出てきたフレイズを見るなり、ベティーズは汚い高音でキャッキャと──実際にはカラスの鳴き声のようなギャッギャという濁声だったが──騒ぎ立てた。

 フレイズは恐る恐る、ヒールの靴を履いた足で一歩を踏み出した。


「どう、かしら……?」


 トゥイルは持ちうる限りの美辞麗句で褒め称える気満々で待っていたのに、出てきた彼女の美しさに、声も出なかった。


 胸下からの切り替えで、スカート部分が多いのが特徴のエンパイアラインは、ふわふわと裾が揺れて可愛らしい印象だ。

 着慣れない女性らしいデザインに、フレイズは不安げにしている。


 男性は揺れるものに目がないと世間では言われているが、トゥイルも例外ではないようだ。胸元から床へと流れるような裾の動きに、ついつい目が離せなくなる。

 その上、フレイズは心細そうに、自分を頼るように見つめてくるのだ。トゥイルはたまらない。


 フレイズが着ているのは黒のドレスだというのに、彼の頭の中では純白のドレスでバージンロードを歩く彼女の姿が描き出されていた。

 それだけでは飽き足らず、お姫様抱っこをして寝室へ向かい、そのまま初夜へと傾れ込むシーンまで妄想が及ぶ。


「ちょっと。コンフィちゃん、息するのを忘れてるわよ」


 呼吸さえ忘れて魅入るトゥイルを、ベティーズは肘で突いた。

 はたと我に返ったトゥイルは、気まずそうに身じろぎする。


「あ、ああ。とても、よく似合っている。今まで着ていたタイトなデザインも綺麗だったが、そういうデザインも似合う……というより、そっちの方が断然良いと思う。フレイズさえ良ければ、それにしよう」


「本当? ヒラヒラして、なんだか着慣れないのだけれど……本当に大丈夫?」


「大丈夫だ。すごく、かわいいから」


 トゥイルの目は熱に冒されたようにぼんやりとしながら、フレイズから離れられないようだった。


「でも……これ、お高いのでしょう?」


 フレイズは裾をヒラヒラさせながら困ったように眉を下げていたが、このドレスを気に入っていた。

 だが、薄い生地に細やかな刺繍が刺されたドレスはいかにも高級そうで、持ってきたお金では買えそうにない。


(いかにも上等な生地……買えたとしても、スカートの部分だけになりそうだわ……)


 ぼんやりしているトゥイルでは、値段交渉なんてしてくれそうにない。

 そして、売り手であるベティーズは健康そうで薬の必要でもなさそう。


「玉の輿にでも乗らなくちゃ、買えそうにないわね……」


(……なんて。口ではどうとでも言えても、実際に結婚なんてできるわけがないわね。だって、私は魔女だもの。結婚する魔女もいるにはいるけれど、かなり稀だわ。あの師匠でさえ、していないのだから)


 そもそも、フレイズは魔法のことで手一杯なのだ。

 旦那様のことなんて考える暇があるのなら、魔法薬の研究を進めたいと思ってしまう。


(嫌だわ……玉の輿っていうワードが出てくること自体、トゥイルのせいよ。好きだとかかわいいだとか、臆面もなく言ってきて……それに、さっきの、おでこにキスされたのもいけないわ。だからちょっと期待して……って期待? 期待ってなに? 私はトゥイルになにを期待しているの⁈)


 つらつらと考えていると、不意にフレイズの上に影が落ちた。

 気づけば至近距離から、トゥイルが見下ろしている。それも、清々しいまでの笑顔を貼り付けて──。


「ふぅん……僕のプロポーズは百年早いと断ったのに、玉の輿を考えているのか……?」


「え? いえ、今のは……」


 言葉の綾、と続けようとして、フレイズは押し黙った。


 とても失礼なことを言ったという自覚はある。

 けれど、弁解する意味などあるのだろうか。

 だって、すべては惚れ魔法のせい。溶けてしまえば、跡形もなくなるのだ。


「ああ、気にしなくていい。だが、どうして未だ僕のものになってくれないのかは知りたいな」


 トゥイルは、優しげに微笑んだ。


「百年早いと言われたあの日、僕が子供だったから? じゃあ、九十九年待った今は? もう、子供じゃないけれど」


「あの、トゥイル……?」


 笑顔のはずのトゥイルに、フレイズは寒気を覚えた。

 ゾクっとするほどの冷たい視線は、今まで彼から向けられたことのないものだ。

 フレイズが困りきってトゥイルを見つめることしかできないでいると、そこへ助けが入った。


「あらあら、そんなに間近で見つめ合っちゃって! 独身に見せつけないでちょうだい! さぁフレイズ様、鏡はこちらよぉ〜」


 ベティーズは、壁に設置されていた大きな鏡の前に彼女を案内した。

 大きな鏡に映るフレイズは、想像していたものより随分と可愛らしく見える。


(本当にこれで大丈夫なのかしら……?)


 フレイズが不安に思っていると、不機嫌な顔を隠そうともしない仏頂面のトゥイルが、彼女に体を寄せるようにさりげなく腰に手を回してきた。


「ちょっと。この手は、なに?」


 ムッとしながら鏡越しにトゥイルをにらんだフレイズに、彼は内緒話をするようにささやいてくる。


「ねぇ、知っている? この店は、試着するのにもお金がかかるんだ」


「……ハ? キイテイナイノデスガ」


「今、言っただろう?」


「……騙したわね?」


「人聞きが悪い。言い忘れていただけじゃないか」


 フレイズが自由にできるお金は、試着代で泡となって消えてしまうかもしれない。

 そう思うと、この店に連れてきたトゥイルに腹が立ってきた。同時に、どうにかしてこの男に一泡吹かせてやりたいという、反抗心が沸々と湧いてくる。


(この際、デートとかデートじゃないとかはどうでも良いわ。今はただ、こいつに一矢報いるだけ! くらえっ、師匠直伝おねだりのポーズッ)


 フレイズは瞬きを我慢して目を潤ませると、顎を引いて上目遣いでトゥイルを見上げた。イメージするのは、捨てられた子猫──拾ってニャアと言わんばかりに目に気持ちを込めるのがポイントだ。


「ねぇ、トゥイル。私、このドレスが気に入ったの。買ってくださらない? あと……お店の一番奥にあった、キラキラの漆黒のドレス。あれも欲しいなって思っていて……。駄目、かしら?」


「……っく。ベティーズ、分かっているな?」


 トゥイルは既視感を覚えながらも、彼女の誘惑に負けた。

 だって、彼女の口から初めて、名前を呼んでもらえたのだ。反抗心からの誘惑だとわかっていても、トゥイルにとっては抗いがたいものだった。


「かしこまりましたぁ。お買い上げ、ありがとうございまぁす」


 試着していたドレスはこのまま着ていくことになり、展示していたドレスはオランジェット商会のスタッフが丁寧に包んでくれた。綺麗に箱詰めされたそれらは、トゥイルがしっかりと持っている。


(王子様を荷物持ちにさせるなんて。私はなんて悪い魔女なのかしら!)


 トゥイルの隣で、フレイズは達成感に満ちあふれたすてきな笑顔を浮かべていた。

 心の中では、彼を振り回してやったと小躍りしている。


「うふふ!」


「その笑い方、シュゼットにそっくりだな。さっきのあのねだり方も……」


「ええ、そうよ。師匠直伝だもの」


「まぁ、もとより僕が買うつもりだったから構わないが……それより、良いのか? 僕が買ったら、これはデートになるのだろう?」


「そうよ。デートにしてあげる。これからあなたは、この大荷物を持ったまま、私をエスコートするの。そうねぇ、喉が渇いたから、まずはカフェがいいわ」


「カフェか。それなら──」


 腹をくくって甘えてみたら、自分でも驚くぐらい素直になれた。

 無駄だから、とはもう思わなかった。


(だって、今日の終わりには消えてしまうのだもの。今くらい、楽しんでもバチは当たらないわ)


 迷子にならないようにと言い訳をして、フレイズはトゥイルの腕に自分のそれを絡ませる。

 嬉しそうに笑うトゥイルの隣で、フレイズはどこか寂しそうに笑うのだった。

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