第17話 魔女の秘密手帳

 ホゥホゥとフクロウが鳴き、アオォォンと人喰い狼の遠吠えが響く、森の夜。

 こんな夜はひとり、静かに考え事をしたくなるものだ。


 ふんわりと落ちる月明かりを頼りに、フレイズは窓のそばへ置かれた小さな机に、淹れたての紅茶と、分厚い手帳を置いた。

 部屋の隅にあるベッドからは、プゥプゥとポヴィドルの微かな寝息が聞こえてくる。

 彼は、干した布団のお日様のような良い匂いを嗅いでいるうちに、はやばやと眠りについてしまったようだった。


 キャンドルの優しい灯りに照らされて、机の上の手帳が浮き上がったように見える。

 もとは生成の色をしていた革の手帳は、もう随分と使い込まれているのか、味わい深い飴色をしていた。


 表紙についた小さな傷跡を、愛おしむように指先で撫でてから、フレイズはパラパラとページをめくった。


 この手帳は、シュゼットからもらった大事な手帳だ。

 彼女に拾われて魔女になることを決意した日、彼女の弟子となった証しとして贈られた。


 もらった当初は薄っぺらだったこの手帳は、もう片手では持てないほどにずっしりと重みを増している。


 これは、フレイズが書けば書くほどページが増えていく、魔法の手帳。

 この手帳をもらった時、シュゼットは言っていた。


『あなたのこと、あなたが考えること、あなたが思ったこと、なんでも良いから書きなさい』


 そう言った師匠に、フレイズはこう答えた。


『しゅぜっとさん。わたし、もじもよめないし、かけないの』


 フレイズは、貧しい農村で生まれた。

 彼女が生まれた農村は、村長一家以外は女どころか男でさえ文字の読み書きができないのが当たり前。農作業さえできれば、なんの問題もなかった。


 家族が生き残るために森へ置き去りにされたフレイズも、当然のことながら読み書きなんてできなかった。


『それなら、絵を描きなさい。字は、これから覚えるから良いのよ』


 だから、この手帳の最初の方のページは絵ばかりだ。

 森にある、あらゆる植物の絵。毒になるもの、薬になるもの、食べられるもの、食べられないもの。たくさんの絵が、この手帳に描いてある。


 しばらくページをめくると、今度は文字ばかりになった。

 文字の読み書きができるようになって、この頃のフレイズは毎日のように手帳に向かっていたのだ。

 そのうちに、難しい魔法陣や計算式なんかも出てきて──、


「懐かしいなぁ」


 パラパラとページをめくると、古い紙やインクの独特の匂いが鼻をくすぐる。

 最後のページまですっかり読み終えると、月は随分と高い位置に昇っていた。


 机の引き出しから取り出したインク瓶は、夜空と星屑を液体にしたようなインクを閉じ込めている。

 フレイズがインク瓶のふたをあけると、中からシュポンと羽が一本飛び出てきた。


 出てきた羽はふんわりと宙を舞いながら、フレイズの手の中に落ちてくる。

 落ちてきたペンを手にとって、ペン先をインクへつけたフレイズは、ゆっくりと文字を運びながら、手帳に書きつけていった。





 今日も、コンフィズリー・トゥイル・フォレノワールがうちに来た。


 毎日やって来て鬱陶しいけれど……でも、トゥイルが作るお菓子は好きよ。

 なんでも美味しくて、止まらなくなってしまうの。

 おかげで体にメリハリがついてきて、今まで着ていたドレスが窮屈になってきたくらい。近いうちに、ドレスを新調しないといけないわ。


 はやりのドレスなんて分からないし、ポヴィドルについて来てもらった方が良いかもしれない。どうせ黒しか着られないし、動けるものならなんでも良いけれど。


 センスは悪くないようだから、トゥイルでも良いかも?

 いえ、ないわね。なんで、そこでトゥイルが出てくるのかしら。


 魔法解除=愛のキス、トゥイルの愛する人=恋する人=私


 つまり、私がキスをすれば、魔法は解ける?

 ないない。これはない。





「解けると言えば、トゥイルは取り消しとかいう見たことがない魔法が使えたわ……って、そうよ、取り消し! どうして気がつかなかったのかしら?」


 勢いよく立ち上がったせいで、ガタンと椅子が倒れる。

 ベッドで寝ていたポヴィドルが、その音でむにゃむにゃと煩わしそうにまぶたをこじ開けた。


「うにゃ……フレイズぅ、うるしゃいぞぉ」


「あ、ごめん……」


「うにゅう……」


 再び意識を手放していくポヴィドルをそっと見つめ、フレイズは静かに椅子を戻して座った。


「もしかしたら、トゥイルは惚れ魔法のせいで私に恋をしていることを未だ認知できていないのかもしれないわ。だから、魔法がかかったままなのね」


 トゥイルに真実を伝えて、彼自身に惚れ魔法を取り消ししてもらえば、元通りになるはずだ。

 目が覚めた彼はここへ来なくなり、フレイズはここでポヴィドルと今まで通り生きていく。


「それがきっと……たぶん……一番……良いこと……だわ」


 フレイズの言葉は、少しずつ心細い音になっていった。


 一番良いことのはずなのに、どうしてか、脳裏に描くトゥイルは嬉しそうに笑っていない。

 フレイズも、ポヴィドルも、ちっとも嬉しそうではなかった。


「……おかしいわ。私、どうしちゃったのかしら?」


 それ以上、どう書きつけたら良いのか分からなくなったフレイズは、羽根ペンをインク瓶に押し込んだ。

 そして、魔法以外のことを考えようとする自身を戒めるように、力強くインク瓶を締めたのだった。

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