第18話 ボタンは旅に出た

 それは、唐突に起こった。


 ここ最近のいつものようにフレイズはベッドで目覚め、着の身着のまま寝間着姿でトゥイルの訪問を確認して──毎朝彼は律義にノックするが、招き入れるのはポヴィドルの役目なのだ──それから奥に引っ込んで魔女の黒いドレスに着替えた。


 近頃、以前より随分と肉付きが良くなったせいで、わりとタイトなドレスは着づらくなってきていた。

 息を詰めたりベッドへ寝転がってみたりと、四苦八苦しながら着替えたフレイズは、トゥイルが用意してくれた朝食を食べようと食卓について──事件は起きた。


 ブチブチブチブチ……パツゥゥゥゥン!


 まず、フレイズの胸元を留めていたボタンの糸が、耐えきれなくなって切れた。

 支えを失ったボタンは、最近質量を増してきた胸に押し出されるように、勢いよく飛んでいく。


 近くにあった水差しに当たり、弾かれたボタンは進路を変えてポヴィドルの方へ。

 獣の危機回避能力を発揮して持っていた皿でボタンを打ち返したポヴィドルに、トゥイルは称賛の拍手を送った。


 打たれたボタンは勢いよく、砂糖でできた窓を突き破って外へ飛んでいく。

 トゥイルが拍手を終えると、静かな室内になんとも言えない空気が漂った。

 最初に声を上げたら負けというゲームでもしているかのように、三人の視線が交錯する。


「……ぶっ」


 最初に沈黙を破ったのは、ポヴィドルだった。

 彼は腹を抱えて割れた窓を指差しながら、目に涙を浮かべて遠慮なくゲラゲラと笑う。


「そんなに笑わなくたって良いじゃない!」


「こんなっ、笑わないわけ、ないだろっ! ぐふっ! だっ……ぼた、飛んで……にゃははは!」


 顔を真っ赤にしてフレイズはポヴィドルをたたきに行こうとしたが、開放感いっぱいになってしまった胸を晒して動くこともできない。

 椅子の上で精一杯体を縮こめて、悔しそうに拳を握るので精一杯だ。


「そうだぞ、ポヴィドル。それだけ、フレイズが魅力的になったってことなのだ。喜びこそすれ、笑うようなことじゃない」


 椅子の背に掛けてあった膝掛けを手に取ると、トゥイルはフレイズの体にそっと掛けた。

 紳士的なトゥイルに一瞬絆されかけたものの、彼からの言葉に顔をさらに赤らめる。


「あ、あんたも、何言っているのよ?!」


「ん? 特におかしなことは言っていないが」


「み、みみみ魅力的って……頭おかしいんじゃないの!?」


 フレイズは知っている。

 自分がどんなに女としての魅力がないのか。


 薄っぺらな体になんとか見られるけれど病的に白い肌。髪だけはトゥイルがくれたせっけんのおかげもあって女性らしい艶やかさが出ていたが、バニラ色は老婆のようで好きになれない。

 もっともフレイズは、自覚した上でそのままで良いと思っていたし、直す気なんてちっともなかった。


(それなのに……トゥイルが当たり前みたいに魅力的なんて言うから。なんだかそのままで良いんだよって言われているみたいでドキッとしたじゃない。しかも、それを嬉しいって……ちょっとだけ、そう、ノミの心臓くらいちょっとだけよ?! 思ってしまったのは……不覚だわ)


 嬉しくて、恥ずかしくて、悔しくて。

 いろいろな感情が交ざり合って収拾がつかなくなったフレイズは、顔を真っ赤にしてトゥイルへ叫んだのだった。


 ピンで膝掛けを留めてあげながら、トゥイルはフレイズの反応に両眉をひょいと上げた。

 今までどんなにトゥイルが甘ったるい言葉をかけても「へー」「ほーん」とのらりくらりしていた彼女が、初めて反応している。彼が驚くのも、無理はなかった。


「……なるほど」


「なるほどって、なにが?!」


 ムキになっているフレイズは、知らないのだろうか。

 潤んだ目に、逸らされる視線、肩を丸めて猫背になる、その全てが恥ずかしいと言っているのと同義だということを。


 他国に比べればかなり平和とはいえ、王族ともなればそれなりに聡くなる。

 トゥイルには、フレイズの動揺が手に取るようにわかった。


 けれど、ここで教えてしまっては意味がないのだ。

 彼女自身が、気付かなくてはいけない。


 無関心から気になる存在へ。

 これは大きな前進と言えるだろう。


 とはいえ、ここで余計に突っついておかしなことになるのは大変だ。

 シュゼットから「じっくり攻めていきましょう」と言われていたこともあって、トゥイルは慎重に事を進めることにした。


「いや、こっちの話だからお気になさらず」


 そそくさと背を向けてキッチンへ逃げようとしているトゥイルに、フレイズは手を伸ばした。

 トゥイルの皺一つないシャツをむんずと掴むと、あごを胸の方へ下げて上目遣いで彼を睨みつける。


「気になるでしょうよ! 教えなさいよ」


「聞いたら、後悔するかもしれません」


「余計に気になるような言い方をしないでよ」


「じゃあ、聞きます?」


 そう言うと、トゥイルは急に距離を詰めた。


 長いまつ毛に縁取られたブルースギライトのような目が、真正面からフレイズを見つめてくる。

 口元にはどこか皮肉っぽい、それでいて蠱惑的な笑みが浮かんでいた。


 艶っぽい空気を垂れ流すトゥイルに、ぎゅっと何かを握られたような、不思議な感覚を抱く。

 思わずフレイズが胸元で手を握ると、その下で心臓が馬鹿みたいに早鐘を打っていた。


「聞かない」


「僕は構いませんよ?」


「私が構いそうだから遠慮しておくわ」


「残念」


「ちっとも、残念そうな顔じゃない」


「そうですか?」


「そうよ」


 フレイズが身を引くと、トゥイルはクスクスと笑いながらキッチンへ消えていった。


(な、なんだったの、今のは……あんな、かお……初めて、見たわ……)


 離れてもなお治まる気配のない派手な心音に、フレイズは「歳かしら」と悲し気に呟いて、薬棚へ向かうのだった。

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