第32話 夜の森で出会ったのは……

 意地悪な猫の目のような三日月が、夜空のてっぺんからやや降りた頃。

 フレイズはそっとベッドから抜け出すと、椅子の背に掛けてあった上着を手に取り、静かに外へ出た。


「おかしいわ……静かすぎる」


 いつもなら、フクロウが鳴いている時間だ。

 それに、人喰い狼の遠吠えも聞こえてこない。


「何かあったのかしら……?」


 嫌な予感がして、フレイズは一度家へ戻って魔法のつえを持ってこようと振り返った。

 しかしその途中で、白い何かがユラユラと移動していくのを視界の端に捉える。


「この森に、ゴーストの類はいない。人喰い狼にしては……小さいわね」


 気になったら一直線の傾向がある彼女は、魔法のつえを取りに行こうとしていたことも忘れて、フラフラと白い影を追い始めた。


 よく見ると、白いものは人間のようだった。

 だが、こんな夜更けに、それも人喰い狼が出るこの森を歩いているだなんて、正気の沙汰ではない。


「もしかして、捨て子……?」


 身に覚えがあるシチュエーションに、フレイズの心がチリリと痛む。

 もし本当にそうならば、師匠がそうしてくれたように自分も保護してあげるのが筋だろうと思った。


 暗い森の中を、白い影は何かを恐れるように何度も振り返っている。


「もしかして、人喰い狼から逃げているの?」


 このまま追いかけても追いつけないと判断したフレイズは、先回りをすることにした。

 森の中は、彼女の庭も同然だ。

 目の前に現れた少年の腕を、フレイズはガシリと掴む。


「止まって。もう、大丈夫だから。お願いだから、逃げないで。これ以上、私、走れない……」


 ゼェハァと息も絶え絶えな様子のフレイズに、少年はピタリと止まった。

 言うことを聞いてくれて良かったと、フレイズは腕を掴んでいた手から少しだけ力を抜く。


 少年は、探るようにフレイズを見て、それから恐々と尋ねてきた。


「バニラ色の髪に真っ赤な目……あの……もしかして、お菓子の家の魔女様でいらっしゃいますか?」


「そう、だけど」


「お願いです、助けてください!」


 フレイズの胸に飛び込んできた少年は、彼女の腰に手を回し、がっしりと抱き着いてきた。

 わけがわからず、フレイズは手を宙に浮かせたまま困惑する。


「えっと……よく分からないのだけれど、何から助ければ良いのかしら? 人喰い狼?」


「いいえ。サントノーレから」


 聞き覚えのある名前に、フレイズはいぶかしげに眉を寄せた。

 少年は、震える手でフレイズにしがみついたまま、切々と訴える。


「ボク以外にも十五人、捕まっているのです。ボクはなんとか隙をついて逃げ出すことができましたが、他の子は……。お願いです、お菓子の家の魔女様! どうか、まだ捕まったままのあの子たちを、助けてください!」


 必死な様子で懸命に訴えかけてくる少年は、見るからに良い服を着ていた。滑らかな手触りのシャツにズボン、それからボロボロのジャケット。ところどころ破れているのは、何かに引っ掛けたのかもしれない。


「あなた、名前は?」


「……ボクは、ノエル・オペラと申します。オペラ辺境伯の息子でございます」


「オペラ辺境伯の……」


 オペラ辺境伯のことは、フレイズでも知っている。

 ブルドロで唯一と言ってもいい、昔から魔法使いや魔女に寛容な奇特な貴族。かつて魔女狩りが横行していた時は、魔女たちを秘密裏にフォレノワールへ逃していた、親切な一族だ。


 そんな一族の子供から懇願されて、放っておけるはずがなかった。

 魔女たちの恩をフレイズが仇で返せば、それは恥になる。気まぐれな魔女も、それなりに筋は通すのだ。


「分かった。その十五人の子供たちは、どこにいるの? この近く?」


 フレイズの問いに、ノエルは来た道の先を指差した。


「この先の……池がある場所です。その近くに小屋があって、ボクたちはそこで監禁されていました」


「池ね。分かった。でも、あなたは危ないから一緒には連れて行けないわ。そうね……ここから真っすぐ歩いた先に、イチョウの木があるの。黄色い葉が生えた木よ。その木の、下から二番目の枝を引いてちょうだい。そうしたら、お菓子の家に着くから。お菓子の家に、使い魔の黒猫がいるから、その後のことは彼に指示を仰いで」


「でもボク、猫の言葉なんて……」


「大丈夫。うちの使い魔は、人の言葉を話せるわ。さぁ、急いで。この森には人喰い狼も出るから」


「わ、わかりました!」


 ノエルは、ビクビクしながらフレイズからそろりと離れた。

 勢いをつけるようにフレイズが背を押すと、弾かれたように走っていく。


 フレイズはノエルの姿が見えなくなるまで見送ると、池の方角へ歩き出した。


 彼が言っていた池に着いたのは、それから間もなくのことだ。

 池の畔は真っ赤に染まり、毛の塊のようなものが落ちている。鼻につく獣の匂いに、フレイズはそれが何かの生き物だったものだと理解した。


 辺りを見回すと、大きな木に隠れるように小屋が建っている。

 フレイズは、足音を忍ばせて小屋へ近付いた。


 窓の影から中をのぞいてみると、小さな檻が複数個並んでいる。

 檻の一つ一つに子供が入れられていて、どの子供もボロボロの服を着て死んだように眠っているようだった。


 さらに観察すると、部屋の隅にたくさんの剣が無造作に立てかけてあるのが見えた。


(もしかして……あの剣で、獣を殺したの……?)


 剣の数と、子供の数は同じ。

 きっと子供たちはこの剣で、あの生き物だったものを作り出したのだろう。


 ムカムカとした何かが、喉の奥からせり上がってくる。

 フレイズはたまらず手のひらで口を覆い、しゃがみ込んだ。


(なんてひどいことをするの。それに、子供たちはどうして檻へ入れられているの? 獣を殺すような、危険な子供だからなのかしら)


 そんなことを考えていると、フレイズの耳に微かな声が聞こえてきた。


「……けて……かあ、さん」


「嫌、だ……こんなこと……たくない」


 再び中を見ると、目を覚ましたらしい二人の少年と目が合った。

 フレイズは慌てて、静かにするように唇に指を当ててジェスチャーで伝える。


 獣を襲うような恐ろしい子供だったら、言うことなんて聞かないだろう。

 このまま襲われる可能性もあることを考えて、フレイズはゾッとした。


(まさか、ノエルという子供も罠じゃないわよね? ポヴィドルは大丈夫かしら)


 しかし少年たちは、フレイズを見て目をまん丸にするだけだった。


「ま、魔女様だ……」


「ノエルが魔女様を、呼んできてくれた……」


 見開かれた目から、ボタボタと大粒の涙を零し始める。


「あなたたち、ノエルを知っているの?」


「うん。ノエルはそこの檻に入れられていたんだ。だけど、今日は運良く鍵が閉まりきっていなくて……この森に魔女が居るって教えたら、助けてもらおうって言って、それで……」


「ごめんなさい、ごめんなさい。いつもひどいことをしているのに、こんな時ばっかり頼って。でも、魔女様しか、思い、つかなくって……」


 小さな体を震わせて泣く少年たちに、フレイズは胸が痛くなった。


(こんな泣き方をする少年が、危険なはずがない。きっと、なにか事情があるはずよ)


「私のことを知っているということは、村の子供ね?」


「うん……」


 村の子供なら、助けなければ。

 だって、村があるから、フレイズはここに居るのだ。

 あの村は、フレイズが生まれた村だから。


 フレイズは、どうにかしてこの十五人の子供たちを救出しなくてはいけないと、奮い立った。

 けれど、魔法のつえも、薬も、フレイズは何も持っていない。


 何かなかったかと上着のポケットを探ると、小瓶が一つ。

 触れると中身がチャプンと音を立てた。

 ラベルには、あらゆるものをグニャグニャにする薬、と書いてある。


「なんで、よりにもよってこれなのよ……」


 どうやら、隣にあった薬と間違えて入れてしまったようだ。

 けれど、今はこれで良かったのかもしれない。

 これがあれば、鉄をぐにゃぐにゃにして檻から脱走することができる。


「ねぇ、ここにサントノーレという人がいるでしょう? その人は今、どこにいるの?」


「たぶん、ノエルを探しに行ってる」


「そう。じゃあ、逃げるなら今のうちね」


「逃げられるの?」


「ええ、できるわ」


 フレイズは安心させるように笑顔で答えると、微かに開いていた窓からなんとか体をねじ込んで、小屋へ侵入した。

 不法侵入なんて、人生で初めてだ。

 危なげな足取りで小屋の床に足をつけたフレイズは、小瓶の中身を次々と檻にかけて回った。


 あっという間に使い物にならなくなった檻から、子供たちはスルリと抜け出すことができた。

 眠っていた子供たちを起こし、状況把握もままならないまま追い立てる。


 悪いとは思ったけれど、今はそれどころではない。

 見つかれば助かる可能性はほぼなくなるのだ。魔法が使えない以上、急ぐしかないのだから。


「さぁ、喜ぶのはまだ早いわ。早く、逃げないと」


 互いに抱き合って喜び合う子供たちを、フレイズは次々に窓から外へ逃がした。ノエルへ言ったように、イチョウの木からお菓子の家へ逃げるように指示をして。


 脱出した子供たちは、二、三人に別れて森の奥へと走り去っていった。

 最後の二人が手をつないで逃げていくのを見送って、次は自分の番だと窓枠に足をかけたその時、フレイズの背後から不気味な物音が響いた。

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