第31話 はじめての嫉妬
トゥイルがお菓子の家へ来なくなって、ひと月が過ぎた。
同時に、彼とキスをしてからひと月も経っていることに気が付く。
朝起きて、すぐに聞こえるノックの音。
着替えながら聞く、朝食を作る音。
行き詰まった時にかけられる、お茶に誘う声。
小腹が減った時、鼻をくすぐる美味しいお菓子の匂い。
眠る前、枕カバーから香るラベンダーの匂いと、お布団から感じるお日様の匂い。
当たり前にもらっていたものが当たり前ではなかったと、フレイズはこのひと月で嫌というほど思い知ることになった。
「トゥイル……あなたからもらったせっけん、もうなくなっちゃったわよ……」
王都へ行けば、いくらだって買える。
(だけど、そういうことじゃないのよ……)
トゥイルからもらったから、特別だったのだ。
彼がフレイズのためを思って買ってきたものだから、使おうという気になったのだと、今なら分かる。
「早く持ってきなさいよ……」
そうしたらフレイズは、ツンとすまして扉を開けてあげるつもりだった。「遅かったじゃない」と迎え入れて、それからドレスのお礼と今までのことに対するお礼を言おうと思っていたのだ。
「間が悪い……」
キスをされた翌日、トゥイルから一通の手紙が届いた。
綺麗に整った、お手本のような流麗な字でつづられた手紙。そこには、キスをしたことに対する謝罪と、デートが楽しかったということ、キスをしたのは後にも先にもフレイズとだけであるということ。それから、問題が起きたからしばらくお菓子の家へは行けないということが書かれていた。
二通目の手紙は、オーダーしていたドレスとともに。
問題がなかなか解決しないこと、まだしばらくお菓子の家へ行けないということ、フレイズがちゃんと生活できているか心配していること。それから、早く会いたいと切に願う気持ちがつづられていた。
「私も、早く……会いたいと思っている」
手紙は、もう何度読み返したか分からない。
読み返した手紙を丁寧に封筒へしまい、隠すように手帳へ挟んだ。
「問題って、何が起きたのかしら?」
毎日お菓子の家に通ってきていたトゥイルが、来られなくなるほどの問題とは。
フレイズには、答えなんて出せない。
だって、トゥイルのことをほとんど知らないのだ。
シュゼットから聞かされていなければ、トゥイルがフレイズのために今までしてきたことも知らないままだった。
知っていることと言えば、この家に居る間の幸せそうな顔をしたトゥイルと、この前外出した時の少し強引なトゥイル、それからサントノーレという男に向けていた冷たい声をしていたトゥイルくらい。
「会えなくなってから、知りたいと思うなんて。私は、愚かね」
日に日に、お菓子の家の中からトゥイルの気配が薄れていく。
悪あがきでラベンダーの香を焚いてみても、同じ匂いはしなかった。
「なくしてはじめて気付くものって、あるよな」
「ポヴィドル……」
「見てくれよ、このボロボロの毛並み……坊っちゃんが来ないせいで、毛繕いする時間が減って、このありさまだ」
「……」
そういうことを聞きたかったんじゃない。
フレイズの顔には、そう書いてあるようだった。
魔法のつえに手を伸ばす彼女に、ポヴィドルは慌てて「分かっているさ」と言い返す。
「ちょっと冗談を言っただけじゃねぇか。そうピリピリすんなよ」
「……ねぇ、ポヴィドル」
「なんだよ」
「私、イライラしたのよ」
「そうだなぁ、見るからに」
「今じゃないわ。トゥイルと買い物に行った日よ。私、帰り際に彼からキスされて、イライラしたの」
フレイズの言葉に反応するように、ポヴィドルのヒゲがヒョイと動く。
まさか、彼女が倒れたあの日、そんなことがあったとは思いもしなかった。
なんでも話せる親友兼兄だと思っていただけに、ポヴィドルの答えは少しだけぶっきらぼうになった。
「嫌なら突き飛ばすとかして逃げりゃあいいだろ」
「そういう気は起きなかった」
「じゃあ、なんだよ?」
「私、気付いたのよ、イライラした原因。今更だけど。あれって、嫉妬というものだわ。彼のキスには躊躇いも不安もなかったから、さぞ豊富な経験があるんだろうって思ったの。私が知らない女性たちとキスしてきたのだと思ったら、なんだか穢らわしく思えてきて……」
フレイズの言葉を聞いて、ポヴィドルはやはりなと思った。
だってここ最近の彼女ときたら、あちらでハァ、こちらでハァと煩わしいくらいため息ばかり吐いていたのだ。
「らしくねぇな。本当に、おまえが嫉妬したのか?」
ポヴィドルは、あえてそう尋ねた。
この後に及んで勘違いだった、なんて結末になったら、トゥイルがかわいそうだからだ。
フレイズという人をよく知っているからこそ、彼女の答えが信用ならなかったというのもある。
「ええ、そう。私らしくもなく。魔法のことさえ考えていられたら他はどうでも良かったこの私が、トゥイルのことで気を煩わせている」
棘のある言い方だが、フレイズの表情は穏やかなものだった。
煩わせているなんて言いながら、その唇には微笑みが浮かんでいるのだ。
慈愛に満ちた聖女のような微笑みは、長年そばに居たポヴィドルでさえ見たことがないものだった。
ポヴィドルは思わず、目の錯覚かと思って目をグシグシと擦る。
けれど、どんなに擦ってもフレイズの表情が変わることはなかった。
後にポヴィドルは語る。「あの時ほど、坊ちゃんに殺意が湧いたことはなかったね」と。
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