100年早いと求婚をお断りしたら100年後に溺愛されました(そういう意味じゃない)
森湖春
プロローグ
第1話 深い森の奥にあるのは……
フォレノワール王国の属国であるブルドロ国には、深い森がある。
暗く不気味な森の奥深くには、お伽噺にあるような家がポツンと建っていた。
屋根はケーキ、壁はビスケット、窓が砂糖でできた、子供の憧れを実現したような家。その周りをぐるりと囲むように設置された花壇には、飴細工のような花が色とりどりに咲き乱れている。
国中を探し回っても、この家を見たことがある人はいない。
それでも「お菓子の家はある」とまことしやかにささやかれるのは、森の奥から村に向かって風が吹き抜けると甘い香りがするからだった。
お菓子の家には、魔女が住んでいると言われている。
魔女の名前は、フレイズ・バニーユ。
苺のように真っ赤な目と、バニラアイスのように少しくすんだ白色の髪を持つ、年齢不詳の胡散臭い女性だ。
フレイズは、魔女らしくいつも真っ黒なドレスに身を包み、お菓子の家に引きこもって大釜の中身を掻き混ぜている。
時折、森へ出かけて行っては、魔法薬に必要な材料を採って来るが、それ以外は決して外へ出かけない。森の外なんて、もう百年近く出ていなかった。
誰に会うこともないので、魔女の髪はいつだってボサボサ。肌は辛うじてハーブウォーターをつけていたが、それだって実験で余ったものを持て余した結果だ。
そう。魔女はいわゆる干物女──つまり、恋愛を放棄し、さまざまなことを面倒くさがり適当に済ませる人なのだ。
引きこもっている間に森があったブルドロ王国は敗戦し、フォレノワール王国の従属国になったが、それでも彼女の生活が変わることはない。
お菓子の家があるこの森には、昔から人喰い狼が棲んでいるため、村には『決して森の中へ入ってはいけない』という掟があった。そのため、フレイズは静かな森で心置きなく魔女業に勤しんでいたのである。
魔女に用がある時は、森の入り口にある小さな鐘を鳴らすのが約束となっている。
鐘を鳴らすと森の奥から黒猫が現れて、村人たちの用件を聞いてくれるのだ。
ある時は、腰の痛みに効く鎮痛剤を。またある時は、風邪をひいた子供に甘い飲み薬を。
フレイズは村人たちに、惜しみなく魔法の恩恵を分け与える。
村人たちは魔女やその使い魔である黒猫を不気味に思っていたが、貧しい農村では医者にかかるのも難しく、フレイズに頼らざるを得ない状況だった。
今日も今日とて、森の入り口にある小さな鐘が、リンゴンと錆びた音を立てる。
すると、フレイズの使い魔である黒猫のポヴィドルは、きっちり三角に尖った耳をピンと立て、チョコレートでできた扉から世間一般的な猫らしく四足歩行でスルリと出て行った。
森の奥深くから入り口までかなり距離があるが、秘密の通路を使えばあっという間に到着だ。
ポヴィドルが姿を現すと、村人はいつだって眉を顰めて忌ま忌ましげに用件を伝えてくる。だから今回もそうだろうと、ポヴィドルは金の目をつまらなそうに伏せて、鐘のそばへ向かった。
だが、どうだろう。
今日に限って、鐘のそばには誰も待っていなかった。キョロキョロと辺りを見回しても、ひとっこ一人見当たらない。
「イタズラか?」
それはそれで困りものだ。
だって魔女は、ポヴィドルが家を出る時、とても嬉しそうにしていたのだから。
新しい魔法薬の出番かしらと、そうでなくとも真っ赤な目を、寝不足でさらに充血させてギラギラと血走らせていた。
そんな魔女に、イタズラだったと報告すればどうなるのか。
憐れな使い魔であるポヴィドルが、魔法薬の餌食になるのは目に見えていた。
「この前の薬は尻尾の先が金色になったし、その前の薬は……思い出すのもおぞましい」
ポヴィドルはブルリと体を震わせると、ググッと立ち上がって長い尻尾を慰めるように抱き締めた。
「いないのなら、仕方がない。適当に時間をつぶして帰ろう」
お菓子の家に住む魔女は、お菓子が大好きだ。
魔法の通路を使って王都へ行って、はやりの菓子の一つや二つを買って帰ればごまかせるだろうと、ポヴィドルは思った。
やがて、ポヴィドルは「面倒だけど、尻尾のためだ」とぶつくさ文句を言いながら、二足歩行で森の奥へと姿を消していった。
さて、一方その頃。
森の奥にあるお菓子の家では、チョコレート製の扉を半開きにして、魔女フレイズが真っ赤な目を驚きに見開いていた。
扉の向こうでは、麗しい青年が優しく微笑んでいる。
夜明け前の空を溶かしたような濃紺色の髪。日焼けを知らない白い肌。気品溢れる雰囲気に、彼が庶民でないことはありありと想像できた。
形の良い唇は品良く口角を上げ、理知的な切れ長の目は眩しいものでも見るようにフレイズを熱心に見つめている。
「ねぇ、魔女様。あと一年で約束の百年ですよ」
そう言って甘く微笑む青年に、フレイズの目には彼よりももっと幼い、一人の少年の姿が重なって見えた。
(でも、あの少年は……)
フレイズが知るその少年は、九十九年も前の人物だ。
出会った時は十二歳、生きていたとしたら百十一歳のお爺さんのはず。
それなのに、目の前に居る青年は、フレイズと同じかそれより少し若いくらいに見える。
(じゃあこの子は一体、誰なの……?)
不信感に満ちた目で見返すフレイズに、青年は甘い微笑みを絶やすことなく言った。
「お忘れですか? 僕ですよ。コンフィズリー・トゥイル・フォレノワール。あなたに恋する男です」
トゥイル。その名前に、フレイズは覚えがあった。
そう、それは九十九年前のこと──。
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