第4話 百年経って、少年は……

「魔女様?」


 コンフィズリー・トゥイル・フォレノワールと名乗った青年は、顔だけでなく声まで甘かった。


 出会ったあの日のような、可愛らしいボーイソプラノではなくなっていたけれど、百歳を超える老人の声とは思えない、若々しい声。砂糖や蜂蜜でもまぶしたような響きに、フレイズは回想から引き戻された。


 ようやく焦点があったフレイズに、青年はホッとしたように唇を緩める。


「……わ、」


(忘れてたぁぁ!)


 叫ぶ代わりに、フレイズはチョコレート製の扉を閉めようとした。


 だって、嫌な予感しかしない。

 不可解なことが多すぎるし、なにより、彼の言い分が真実ならば、彼はフレイズの言葉を間に受けて九十九年も待った挙げ句、のこのことやってきたということになる。


(なんという執着!)


 もはや、ストーカー以上の何かに進化しているとフレイズは恐れ慄いた。

 渾身の力で扉を閉めようとするも、青年を閉め出すことはできない。閉じようとした扉の隙間に、青年が足を挟んだからだ。


「まさか、忘れた……なんて言いませんよね?」


 青年はガシッとチョコレート製の扉に手を掛けた。

 神々しい微笑みがどことなく闇の属性を帯びているように見えるのは、気のせいではないだろう。

 青年の握力の強さに、強化の魔法をかけていたはずの扉にミシッと亀裂が入る。


「ひっ……!」


 青年は、麗しい見た目に反して、とんでもないゴリラ男のようだ。


(みっ、見た目だけなら王子様みたいなのにっ! なんなの、その握力は!)


 フレイズはヒュッと息を飲むと、早々に力での抵抗を諦めた。


 魔女は、扇子より重いものは持てない貴族令嬢よりは強い。

 だがしかし、ほとんどのことを魔法で済ませてしまう彼女は、農家の女性より弱いのである。


 フレイズは慌てて扉から手を離すと、急いで家の中へ戻った。

 そして、つい先ほどまで掻き混ぜていた大釜のふちに乗せておいた、魔法のつえに飛びつく。


 彼女の魔力を受けて、ただの小枝のようだったものが、まるで精緻な飴細工のような美しい杖に変化する。

 あとは、つえを振りながら呪文を詠唱するだけ。

 この家から青年を放り出す魔法が最適だろう。


 まるでタクトを振る指揮者のように、フレイズは緩やかにつえを振った。


「お菓子の家の魔女が命じる。この男を、放り出せ!」


「おっと。では、【取り消しキャンセル】だ!」


 青年をつまみ出そうと動き出していたほうきが、彼の一言でポテッと床に転がる。

 フレイズはその様子を目の当たりにして、震えあがった。


 だって、魔法を消されてしまったのだ。


 今まで、フレイズの魔法を取り消すことができる者なんて、彼女の師匠くらいしかいなかった。だというのに、青年はつえもなしにそれを為してしまったのだ。

 魔法という武器が無意味だと知ったフレイズに、何ができるというのか。


「もう。魔女様はおてんばですねぇ。そんなところも、可愛らしいのですが」


 もしもフレイズが魔法についてなにも知らない町娘だったら、彼の輝かしい笑みにうっとりとしていたかもしれない。

 だが、フレイズは魔女である。どんなに見た目が素晴らしかろうが、今の彼女にとって魔法が通用しない相手は恐怖の対象でしかない。


(ひぃぃぃぃ! 私に向かって、おてんば? かわいい? 意味わかんない!)


 フレイズの怯えもあながち間違ってはいない。

 だって彼女の見た目ときたら、まるで路上生活者のようだったからだ。


 バニラアイスのようと言えば聞こえは良いが、白い髪は所々煤けていて、あちこち絡まってグルングルンになっている。櫛なんて使ったら、髪飾りのように刺さってしまいそうだ。

 イチゴのように真っ赤な目は、今日も研究に没頭するあまり充血していたし、お肌はカサカサ、服はヨレヨレ、女子力なんて遠いお空のかなたへフライアウェイ──な状態なのだから。


 つえを握りしめて、殺人犯にでも遭遇した人のような表情を浮かべるフレイズに、青年は「おやおや」と眉を下げて困ったように笑った。


「そんなに怯えないでください。僕だって、久々の再会であなたを奪おうなんて思っていませんよ。まぁ、あなたがどうしてもって言うならやぶさかではありませんが……でも、約束までまだ一年ありますよ? 僕としては、そんなに焦らなくても良いかなと思っているのですが」


 人好きしそうな柔らかな微笑みが、妖艶な笑みに塗り変わる。唇をぺろりと舐めるしぐさは、正常な年頃の娘なら「キャッ」と体が火照りそうな色気がダダ漏れだったが、フレイズには獲物を前にした猛禽類のようにしか見えなかった。


「うっ」


(奪うって何をだぁぁぁぁ!)


 フレイズは、最後までセリフを言うことができなかった。「うっ」と言うだけで息を全て使ってしまい、ゲホゲホと咳き込んでしまったのだ。

 そんなフレイズに歩み寄った青年は、咳き込む彼女の背を介護するように優しく撫でてくれる。


「大丈夫ですか? 咳き込むほど興奮するなんて……成長した僕にさっそく一目惚れでもしてくれたのですか?」


 うっかり「ありがとう」と言いかけていたフレイズは、言葉を飲み込んだ。


(違うわ、ボケェ)


 咳き込むフレイズの心の中でのツッコミは、当たり前だが青年に届くことはない。

 ゲッホウェッホと散々咳き込んだ後ようやく落ち着いたフレイズは、青年にエスコートされて椅子へ腰を下ろした。


 大釜から飛び散った魔法薬や埃が付いた椅子はとても汚らしい。青年は、ハンカチを広げてフレイズのお尻を守った。

 しかし、青年の紳士らしい一面は、咳き込みすぎて息が上がり、涙目になっている彼女に伝わることはなかった。


「魔女様、大丈夫ですか?」


 青年はそばにあった机に手をつき、上から覗き込むようにフレイズを見る。

 彼は流れるようにフレイズの髪を一筋すくい、指を滑らせた。甘いしぐさに、フレイズは胸をドキドキと高鳴らせ……ることはない。


(ひぇぇぇぇ。なになになに? ……ハッ! もしや、魔女の髪を原料に何かするつもりっ?)


 魔女の髪には、魔力が蓄積されている。

 魔力が宿る髪は、マジックアイテムや呪術、あるいは魔法を研究する者に重宝されているのだ。金欠な魔女は時に、自分の髪を売ることもあるほどである。


 ひったくるように髪を取り戻すと、フレイズは猫が威嚇するようにフーフーと青年を睨みつけた。

 大事な髪を奪われるわけにはいかない。髪が減れば、その分の魔力貯蓄量が減るからだ。


 そんな彼女に気分を害するどころかますます嬉しそうに破顔する青年に、フレイズの心はますます乱れる。

 彼女の心情を表すように、大釜の中身がボコボコと音を立てた。


「すみません。あなたの髪が、甘そうだったから、つい」


 そう言って、青年はちょっかいをかけるようにフレイズの髪をちょんと突つく。


「ぴゃっ!」


 小さな木の椅子の上でブルブル震えるフレイズはビクビクオドオドしていて、青年の目には、まるで子うさぎのように可愛らしく映っていた。白い髪に赤い目は、なかなか的を射ている。


「もう、やだ。助けて、ポヴィドル」


 どうしていいのか分からなくて、フレイズは涙目で使い魔である黒猫の名を呼ぶ。


 ポヴィドルが鐘の音を聞いて家を出て行ってから、大分時間が経っていた。

 魔女をさげすんでいるくせに頼らざるを得ない人間たちは、いつも手短に用件を話す。だから、ほんの少し時間があれば戻ってくるはずなのに。


(そもそも、主人のピンチなのにどうして助けに来ないわけ?)


「……ねぇ、魔女様。いえ、フレイズと呼ばせて頂きましょうか。フレイズ、ポヴィドルって、男ですか?」


(ぴゃぁぁぁぁ! 今度は何! なんで名前を呼ぶ! しかも呼び捨て! こいつ、たぶん年下なのに!)


 フレイズは、心の声を飲み込んだ。

 青年を見ると、先程までの浮かべていた砂糖菓子のような笑みはどこへやら、魔王降臨かというような形相に様変わりしていたからだ。


(綺麗な顔は、怒っても綺麗なのねぇ)


 のんきな感想を抱くのは、現実逃避以外のなにものでもない。


 フレイズはもう何年もポヴィドル以外と会話をしたことがなかったから、彼以外と会話をすることがとてつもなく苦痛だった。

 だというのに、突然やって来たこの青年は、「百年前の約束を果たしにきたよ」と甘ったるい笑みを浮かべてフレイズに言い寄ってきているのだ。


 筋金入りの干物女であるフレイズは、もう訳がわからなかった。年増で、見た目もアレで、唯一の美点は仕事に対してのみ真摯しんしだということくらい。

 極め付きに、彼女は魔女なのだ。嫌われる要素は多々あれど、好かれる理由など一つも──、


(いや、一つ、あった!)


 そう、たった一つ。

 青年がまだ少年だった九十九年前、失敗魔法のせいで彼はフレイズに恋をしてしまったかもしれないという懸念があった。


(いや、でも。師匠がそばにいたんだし、帳消しにしたんじゃないの?)


 こんな場面だというのに、フレイズの意識は再び回想へと戻りそうになっていた。

 だって彼女は、魔女の仕事にのみ真摯な女性なのだ。失敗魔法についていろいろ考察したくなってしまうのは、もう癖というか習慣のようなものになっている。


「フレイズ。ポヴィドルは男なのですか、女なのですか?」


 思考の海へ舟を漕ぎだしてしまったフレイズに、苛立たしげな声が問いかけてくる。その声を煩わしいなと思いながら、フレイズは答えた。


「ポヴィドルはオスおとこよ」


「男!」


 ポヴィドルは、男か女かで言えば、男だ。正しくは、オス。

 黒い毛並みが美しい、二足歩行の猫である。


 ポヴィドルとは、フレイズが幼い頃、口減らしのために森へ置き去りにされた際、魔女シュゼットに一緒に拾われた仲だ。

 最初はどこにでもいるような普通の猫だったが、いつのまにか二足歩行を始め、フレイズが魔女として独り立ちする時に使い魔として契約を交わした。


 便宜上使い魔と言っているが、フレイズからしたら兄や弟、親友のような存在だ。

 けれど、そんなことを知らない青年は、白い肌に青筋を立てて怒っていた。


「フレイズ。あなたは、僕が知らない間に男を作っていたのですか? ……いえ、良いのです。それならそれで、相手をどうにかするだけですから。あと一年の間に、あなたが僕を選べば問題ありません。それで、そのポヴィドルには、どこまで許したのですか?」


「うるさいな……今考え事をしているの……許すってなにを?」


「例えば、キスをするとか、共寝するとか、そういうことです」


「キスなんかするわけないでしょう。共寝? ……はよくわからないけど、ポヴィドルはいつも私と一緒に寝ているわ」


 ポヴィドルは猫だ。主人のベッドの隅で寝たり、主人の上で寝たり、寒い時は布団の中に入ってきて主人の股の間で寝たり……なんてことは猫飼いなら経験があることだろう。


「いつも?」


 とはいえ、ポヴィドルが使い魔の猫だと知らない青年は、見たこともない男がフレイズとベッドで同衾しているシーンを想像して、血管をブチブチと焼き切っていた。


「あなたは、キスはしないのに体の関係は持つふしだらな魔女なのか?」


 青年は、フレイズの肩を掴んでガクガクと揺さぶった──と、その時である。

 開けっ放しになっていたチョコレート製の扉から、するりと黒い影が家へ入ってくる。


「ただいまー。フレイズ、扉開けっ放しだぞ……あれ? お客さん? ……って、えぇ? あのフレイズが、まさか男を連れ込んでいるっ? こりゃあ、シュゼット様に報告しなくちゃいけない事案だ!」


 そう言っていそいそとメモ帳を取り出す二足歩行の猫に、フレイズは「おかえり、ポヴィドル」と言い、青年は「おまえがポヴィドルか」と殺気に満ちた視線を送った。

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