第15話 由々しき事態
チョコレートの扉をノックする音に、フレイズは大釜を覗き込んでいた顔を上げた。
「ポヴィドルかしら」
ふと砂糖でできた窓を見れば、窓枠のところへ器用に横たわって、ポカポカ陽気にうたた寝をする黒猫がいた。
猫の鼻からはプウプウと、鼻ちょうちんがこんにちはしている。
「ポヴィドルではない。ということは……」
タイミングよく鼻ちょうちんがパチンと割れて、ポヴィドルは口もとをむにゃむにゃさせながら目を覚ました。
顔をしかめて嫌そうにしているフレイズを金の目で非難するようにチラリと見てから、眠たげに欠伸を一つして答える。
「まさかっていうか……坊ちゃん以外いないだろ。こんな辺ぴな所に来るやつなんてさ。別にいいじゃないか。あいつ、結構使えるし」
「いいわけないでしょ。毎日毎日通ってきて、邪魔だわ」
薄情な使い魔の言葉に、フレイズはしかめ面で答えた。
部屋をピカピカに磨いたその日から、トゥイルは毎日のようにお菓子の家へやって来ている。
掃除洗濯、料理にお菓子作り。フレイズが「おまえはハウスキーパーですか」と言いたくなるような尽くしぶりで、さらにこちらへ来るついでに買い物や薬草の採取までこなす万能ぶり。
最初こそフレイズと二人きりの気兼ねない生活に満足していたポヴィドルは、トゥイルの訪問を嫌がっていた。
しかし心境の変化でもあったのか、ここのところトゥイルに対して態度が軟化してきている気がしてならない。
(そういえば、毛繕いの時間とお昼寝の時間が大幅に増えたって喜んでいたわね)
裏切りもの、とフレイズはポヴィドルをにらみつけた。
だがポヴィドルも慣れたもので、フレイズの鋭いにらみなんて気にもしない。
「邪魔なんてしてないだろう。むしろ、坊ちゃんのおかげで今までよりずっと生活が楽になったくらいだ。荒れ果てた部屋を片付けて、毎日清潔にしてくれて、フレイズがほしいタイミングで薬草を採ってきてくれて、考え事に詰まった時は見計ったようにティータイムに誘ってくれる。夜だって、ベッドに入って眠るようになったじゃないか。お日様の匂いがする布団も、坊ちゃんが布団を干してくれるおかげなんだぜ?」
「……ぐぬぅ」
窓から飛び降りたポヴィドルは、ぐうの音も出ないフレイズの横をトテトテと横切り、玄関へ歩いていく。
いつものように施錠されていない扉を開けると、そこには大荷物を抱えたトゥイルが立っていた。
「おいおい、坊ちゃん。今日はやけに大荷物だなぁ?」
「そうなんだ。実は王都に珍しいせっけんを取り扱う店ができてな。つい楽しくなって買い込んでしまったから、お裾分けだ」
そう言ってテーブルにドサリと置いた紙袋の中には、色とりどりのせっけんがたくさん入っていた。
どのせっけんも、とてもいい匂いがしている。
「猫用のせっけんも買ったんだ。ほら、これ」
ガサゴソと紙袋から取り出した魚の形をしたせっけんを、トゥイルはポヴィドルに手渡した。
せっけんの中にうっすらと見える骨の形を見て、ポヴィドルは「へぇ」と感心したように声を漏らす。
「これ、使い終わったら骨が出てくるのか? おもしれぇな!」
「だろう? ポヴィドルなら喜ぶと思った」
仲が良い友人同士のような会話をするトゥイルとポヴィドルに、大釜の中身を混ぜるフレイズの手が知らず乱雑になる。
コポコポと浮き上がっては消えていく泡を見つめていると、水面に不細工な顔が写っていた。
つまらなそうに目を半分にして、文句を言いたげに口を尖らせてこちらをにらみつけている顔は不細工で、そして少しばかり寂しそう。
(親友を取られたような気がしているのかしら……?)
フレイズとポヴィドルは、一人と一匹で随分と長い時を過ごしてきた。
ポヴィドルがトゥイルと仲が良さそうにしていると気持ちがピリピリしてしまうのは、嫉妬しているからだろう。
果たしてその嫉妬の矛先がポヴィドルなのかトゥイルなのか、フレイズは問いかけることもしない。
考えることさえ無駄とばかりに、考えることを放棄してしまうのだ。
フレイズに必要なのは、魔法のことだけを考える時間だ。魔法以外のことなんて、どうだって良かった。
口をへの字にして、フレイズは持っていた木のスプーンでガチャガチャと鍋底を突いた。
本来ならば乳白色になるはずの薬がだんだんと奇妙な色になっていくのを見ていると、顔をしかめて悪態をつきたい気持ちでいっぱいになる。
「はぁ……なにをやっているのよ、私は」
持っていたスプーンをポイっと近くにあった水差しへ突っ込み、パチンと指を鳴らして火を止めたフレイズは、疲れたように椅子へ座り込んだ。
「これくらいで取り乱して、馬鹿みたい……」
背中を優しく包み込んでくれたクッションから、爽やかなラベンダーの香りがしてくる。
ささくれた気持ちが、ほんの少し和らいだ気がした。
クッションカバーも、香りも、トゥイルが持ってきたものだ。
そのことを思い出して、フレイズは苦い表情を浮かべた。
「魔法以外、どうだっていい……はずなのに……」
トゥイルが連日訪れるようになって、お菓子の家は随分と様変わりした。
どこもかしこも人の住む場所には見えなかった空間が、今では田舎のおばあちゃん家のような温かみのある空間に変貌している。
手作りのテーブルクロスに、手作りのクッションカバー。枕カバーもベッドカバーも、全部手作り。
この家のあらゆる布ものがトゥイルの手で差し替えられ、今やお菓子の家に似合いのファンシーな空間に成り果てている。
もう、怖い魔女がいるような家には見えなかった。
「あぁ、こうして侵食されていくのだわ」
家の中の何かが変わるたび、フレイズのトゥイルに対する警戒心は薄れていく。
あの綺麗な顔で笑い掛けられると、まぁいっかと流してしまいそうになるのだ。
それは、由々しき事態だった。
魔女たるもの、人間の男如きに絆されてはならないのだから。
フレイズは、寝食を忘れて薬の調合に没頭する充実した日々から、遠く離れてしまったような気がした。
そして一刻も早く元の生活に戻らなくてはいけないと、焦燥感を顔ににじませる。
(そもそも、トゥイルが私に惚れた腫れたと言っているのは、魔法の失敗による惚れ魔法化でしょう? それなら、それを解除してしまえば、もう笑いかけてきたり押しかけてきたりしないのでは……?)
魔法の失敗による惚れ魔法化は、もちろんフレイズの勘違いだ。
トゥイルは魔法の影響など関係なく、フレイズに恋をしている。
大前提として、トゥイルはあらゆる魔法を無効化する取り消しという魔法が使えるのだから、もし魔法による気持ちなのだとしても、とうの昔に無効化されているはずなのだ。
「フレイズ」
悶々と考え込むフレイズの前に、せっけんを持ったトゥイルの手が差し出される。
おかげでフレイズの思考は、トゥイルの取り消し魔法まで考えが及ぶことなく中断されてしまった。
「あなたにはこれをやろう。甘い蜂蜜の匂いがする、髪用のせっけんだ。お菓子みたいですてきだろう? 風呂も、たまには良いものだぞ?」
クリーム色のせっけんの上に琥珀色のせっけんを重ねた、蜂蜜をたっぷりかけたパンケーキのような見た目のせっけんからは、花と蜂蜜を混ぜたような、フレイズが好ましく思う香りがしている。
「……ありがとう」
差し出されたせっけんを受け取って、フレイズはポツリとお礼を言った。
すると、トゥイルはそれはもう嬉しそうに顔を緩めて……。
だからフレイズは、堪らずせっけんを握りしめた。
「使ってくれたら嬉しい」
「……うん」
(──って、違うでしょ!? なに、素直にお礼を言っているの、私! さっそく絆されて……魔女の名折れじゃないの、もう!)
うっかりキュンとしてしまった心臓に、フレイズは内心もだえる。
ここ最近少しずつ無防備な姿を見せはじめたフレイズに、トゥイルは嬉しくて仕方がなかった。
せっけんを渡した時に少しだけ触れた彼女の手のぬくもりがあれば、今夜どころか数日は思い出してもだえそうである。
長らく拗らせていた恋心は、トゥイルの欲のハードルを低くしていた。
指先が触れたくらいでガッツポーズをしたくなるなんて、抱きしめたりキスをしたりしたら知恵熱を出してしまうのではないだろうか。
シュゼットから「気持ち悪い」と言われる締まりのない顔をしないように取り繕いながら、内心ではゴロゴロと悦顔でのたうち回っているなんて、トゥイルのやわらかな笑みからは想像がつかない。
少なくともポヴィドルは、フレイズの心の変化だけは感じ取っていた。
男性に贈り物をされることも、優しくされることも、ましてや微笑みかけてもらうことも初めてに近い彼女が、トゥイルに心を傾けるのは致し方がないことだ。
「シュゼット様公認なら大丈夫……だよな?」
妹や親友のように想っている不器用な主人が、悪い人間に
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