第10話 魔性の王子様

『罰として、床を磨いておきなさい!』


 考え事に没頭するあまり、いつものように寝室に置かれた椅子の上で寝落ちていたフレイズは、夢の中で師匠に罰掃除を命じられていた。

 つい先ほどまで師匠は『恋ってすてきね』とうっとり熱弁していたくせに、どうして急に罰掃除になったのだと、夢のことながら理不尽さにうなる。


 ブラシを水につけて、汚れた床を磨く。

 こんな作業をするのは、ずいぶん久しぶりのことだ。

 いつぶりだったかなと記憶を探っていると、床を擦る音が徐々に近づいてくることに気が付いた。


(おお、さすが夢。手元の音のはずなのに、近づいてくるなんて、不思議……この夢にはどんな意味があるのだろう。あとで、文献を読んで調べてみようかしら)


「……んん?」


 何かが床を擦るような不快な音で、フレイズは目を覚ました。


 どうやら、急な罰掃除はこの音が原因らしい。

 眠りを妨げる音に眉を寄せて、彼女は辺りを見回した。


 少しだけ開いた扉の向こうで、何かがせっせと動いているのが見える。

 目を凝らすと、艶やかな藍色の髪が青年の動きに合わせてユラユラと揺れていた。


「……なにしているの、あいつ」


 見覚えのある髪色に、フレイズはどうしてトゥイルが隣の部屋にいるのだと首をかしげた。

 床に四つん這いになって、せっせと床をブラシで磨いていたのはトゥイルだったからだ。


「最近の王族は床掃除が趣味だったりするのかしら……?」


 のんきに欠伸をしながら、フレイズは椅子から降りて伸びをした。

 おかしな格好で寝ていたせいで、体中がギシギシしている。


「いや、それより、なんであいつがウチにいるわけ? 私、寝ていたのだけれど。不法侵入じゃない?」


 トゥイルが来なくなって、数週間。

 再会し、その翌日にも訪問してきたが、それ以降ぱったりと姿を見せなくなったので、フレイズはすっかり興味がうせたのだと思っていた。


 トゥイル対策で取り付けた鍵だが、施錠の習慣がないフレイズやポヴィドルは数日もするとその存在を忘れた。

 そもそも、人喰い狼の生息地であるこの森に入る者なんていないので、トゥイルさえ来なければ無用のものなのだ。


 人喰い狼は、魔女を食べない。人のことわりを外れた魔女は、人のようにおいしく感じないからだ。その上、「骨と皮しかないようなフレイズを食べるくらいなら、森の生き物を食べた方がマシ」と狼から言われたこともある。


 フレイズがそろりと足音を忍ばせて隣の部屋を覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。

 あちこちに塔を作っていた本は本棚に収められ、使いっぱなしの実験道具は綺麗に洗われて伏せられている。大釜の表面はいつもならべったりと怪しい液体がくっついているはずなのに、ピカピカと輝いてまるで新品のよう。ビスケットの床はいつもアイシングしたばかりのクッキーのようにベタベタしていたが、しっかりと磨かれて甘い匂いを発していた。


 久方ぶりに見る清潔な室内に、フレイズは思わず「ほぁ」と間抜けな声を漏らした。

 使い古されたテーブルに繊細なレースのクロスがかけられているのを見て、「ポヴィドルよ、ちょっと少女趣味過ぎやしないか」と思いながら。


 熱心にブラシで床を磨いていたトゥイルの額から、ポタリと汗が落ちる。

 朝日に照らされた雫がキラキラと光りながら床へ落ちる様は、まるで宝石が落ちていくようだ。


 フレイズはそれを、眩しそうに目をすがめながら見つめた。

 彼女がこっそりのぞいているとも知らず、トゥイルはブラシを持った手でグイと額を拭う。

 顔の優美さにごまかされていたが、その手はゴツゴツとしていて王族というより剣士や騎士のような男らしさが漂っていた。


(うわぁ……これ、村の広場で見せたら、どんな洗剤でも瞬殺で売れそう。美形、すごい。めちゃくちゃ爽やか。これで洗剤の効果がきちんとあったら、爆発的な人気になるかも。次は薬じゃなくてよく落ちる洗剤でも作ってみようか……?)


 まだ覚醒しきれていないからなのか、それとも根っからの魔女だからか、フレイズは頭の中でよく落ちる洗剤の作り方を考え始めた。

 いつものようにその辺で棒立ちになってブツブツ呟く様は、どう見ても不審者だ。


 ここが彼女の住み処、お菓子の家で良かったと思わざるを得ない。

 そうでなかったら、とっくの昔に彼女は投獄されていただろう。


 そんなフレイズの独り言に気付いたトゥイルは、まるで巣穴から顔をのぞかせるプレーリードッグのようにピッと姿勢を正すと、前髪に泡がついたままだというのに、爽やかに笑みながら言った。


「君は今日だけかわいいの? それとも、毎日かわいいの?」


「……は?」


 思考を邪魔する声がなんだかおかしな言葉を言っていた気がして、フレイズは眉を寄せて考えるのを一時中断した。


「いま、なんて言った?」


「だから、君は今日だけかわいいの? それとも、毎日かわいいの? と言ったのですよ。しかし、この問いは愚問でしたね。だって、僕の魔女様は出会った日からずっとかわいいままですから」


 あざとく小首をかしげて微笑むトゥイルの顔は、フレイズが初めて彼と出会った日の顔とそっくりだった。

 いや、そっくりどころか威力を増しているようである。


 もしもこの笑顔を向ける先がフレイズでなければ、どんな者も彼の言うことを素直に聞いてしまうだろう。

 魔性とは、まさに彼のためにある言葉だ。


 フレイズは、毒にも薬にもならない雑草を収穫してしまった時のような残念そうな目で、トゥイルを見た。

 それから、心底かわいそうなものを見てしまったように、ため息を吐いてそっと目をそらす。


(……って、あれ? 私にしては記憶力良すぎじゃない? いつもだったら、人の顔なんて数日で忘れちゃうのに)


 フレイズはとても優秀な魔女だが、魔法以外のことを記憶するのがとても下手だった。

 壊滅的と言っても過言ではない。


 トゥイルの魔性は少なからず、フレイズにも効いているようだ。

 すぐに忘れてしまう残念な記憶の隅に、その存在を押し留めるくらいには、効果が出ているようだった。

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