第28話 あれをキスというのですか⁉

「おかえりなさい。ごはんにする? お着替えする? それともわ、た、く、し?」


 帰宅したらすぐに休もう。

 そう思っていたフレイズだったが、扉を開けるなり鈴を転がしたようなかわいらしい声に出迎えられ、げっそりとした顔で表情を凍り付かせた。


(なんで今、この瞬間に、この人はここに居るのかしら)


 ピンクブロンドの長い髪に、魔女のトレードマークである真っ黒なドレス。青空のような目はいつだって澄んでいて、まるで天使か花の妖精のようだ。

 見た目だけならかわいいの権化である彼女は、フレイズにとって最も会いたくなくて、最も会いたい人だった。


「……全部外で済ませてきました」


 こんなことを言ってしまうのも、疲れているせいに違いない。

 うっかりとしか言いようがない失言に気付かないくらい、フレイズはゲンナリとしていた。


 持っていた荷物をテーブルに放り出して、それはもう深いため息を吐くくらいには、今日はいろいろあった。

 だから、致し方がない。はずだ。


「あら〜あらあらあら? 全部、外で、済ませてきた、ですって?! 魔法以外興味がない、ねんねのフレイズちゃんが? うそぉ〜」


 ひらひらレースの白エプロンを身にまとい、シュゼットは「やぁん!」と騒いだ。


「うそなものですか! あん、あんな、あんなこと……うあぁぁぁぁ」


 顔を覆ってその場に倒れこんだフレイズに、シュゼットは「きゃあ」と語尾にハートマークがつきそうな声を上げている。

 まるで恋に恋する無邪気な乙女のように夢見心地な目で、彼女はフレイズを見つめた。


「どういうこと?」


「あれをキスというのですか?! 師匠!」


「見てないから知らないわよ。ほら、お師匠様が懇切丁寧に説明してあげるから、ちゃっちゃと教えなさいな」


「いっ……言えるわけがないじゃないですか! 恥ずかしい……」


「へぇ……ふぅん……フレイズちゃんは、口に出すこともはばかられるようなことをされたのか。なるほどなるほど」


 ニンマリと笑みを浮かべたシュゼットは、指先をチョイチョイと指揮するように動かした。

 すると、食器棚からティーカップが、キッチンからは水の塊がピューンと飛んでくる。


 水の塊がチャプンとティーカップに入ると、シュゼットはそれを両手で持って、そうっと中をのぞいてみた。


 映り出されるのは、鮮やかな朱色。寂れた公園。そして、ベンチで重なる二つの影。

 まるで童話のエンディングのような風景に、シュゼットはうっとりと息を吐いた。


「なにこれ……恋する乙女も垂涎もののシチュエーションじゃない!」


 床にうずくまってうなっている弟子の背を、シュゼットは高まる感情のままにバンバンたたいた。

 いつもだったらすぐに飛び起きて文句を言うか部屋に引きこもるフレイズは、再起不能なのか身動き一つしない。


「あらまぁ。でもあなた、もう百五十歳は超えているでしょう? いい歳して、ちょっと恥ずかしくない?」


「うぅぅ……」


 邪魔されないのを良いことに、シュゼットはさらに時間をさかのぼって二人の様子を見ることにした。

 市場を歩いてお買い物をして、カフェでカップルのようにはしゃいで。映し出されるものはどれも、蜜月の恋人同士のような二人の姿だ。


「これで片思いっていうのだから、おかしいわよねぇ……って、あら? やだ、サントノーレ・ブルドロじゃない。あらあら、細剣なんて振り回しちゃって。ブルドロの王族はどうしてみんな魔女が嫌いなのかしら。先々代のシュトロイゼルの時は最悪だったわ。魔女でもなんでもない女の子を処刑するわ、私の弟子を処刑しようとするわ……本当に、最悪だった」


 シュゼットの言葉に、瀕死ひんし状態になっていたフレイズがムクリと顔を上げた。

 その顔にはくっきりと、困惑の二文字が浮き出ている。


「……え?」


「……あら。私ってば、ついうっかり」


「師匠。私、魔女狩りの対象にされていたのですか?」


 シュトロイゼルによる魔女狩りは有名である。

 引きこもりのフレイズでさえ、知っているほどに。


「そ、そうねぇ。そんなこともあったかしら?」


 ぺろりと舌を出してかわい子ぶっても、弟子であるフレイズに通用するはずがない。

 立ち上がったフレイズは、シュゼットの肩をガクガクと容赦なく揺らした。


「ちょっと、どういうことですか? もしかして、森から出るなって言われたあの時、かなり危なかったんですか!?」


 フレイズが思い切り振り回すものだから、シュゼットはついぽろりとこぼしてしまった。

 そう、ついうっかりだ。悪意はない。


「いえ……ちょっと時期は違うかなぁとか……まぁ、でも、そうね……次の魔女狩りのターゲットがあなただったのは確かよ」


「うそ……」


 今更ながらに顔を青ざめる弟子に、シュゼットは開き直ったようにケロリと答えた。


「うそじゃないわよ。だから、トゥイル様が怒って、ブルドロ制圧して、従属国にして、あなたが外へ出ても大丈夫なようにしているのだもの」


「……は?」


 フレイズの顔色はどんどん青くなって、そして白くなっていった。

 それでもシュゼットは、言葉を続ける。だって、あまりにもトゥイルが報われていなさすぎて、かわいそうになってしまったものだから。


 ティーカップの水面には、今のトゥイルの姿が映し出されている。

 ションボリと肩を落として、彼はオランジェット商会へ入っていくところだった。


「ぜーんぶ、あなたのため。キスくらいじゃ全然足りないくらいよ」


 そう言って、シュゼットは弟子のおでこをペチンと弾いた。

 赤らんでいく額を押さえて、フレイズは涙目でシュゼットを見る。


「何回キスしたら足りるのかしらねぇ」


 ニマニマと妖艶な笑みを浮かべるシュゼットの前に、フレイズはガクリと膝をついた。


「そんな……私のために、彼はブルドロを制圧したというのですか? 今のブルドロが、魔女を受け入れ始めているっていうのも……?」


「全部って言ったでしょう? 恋ってすてきね。なんでもできちゃうんだから」


 シュゼットは歌うように語る。

 嬉しくて、楽しくて、仕方がないとでも言うように。


「重すぎる……」


「ね? そんな事実に比べたら、今日あった出来事なんて、なんてことないでしょう? 悩みが一個減って、良かったわね。そうそう、最初の質問だけれど。あれは、キスよ」


 プシュウと音を立てて、とうとうフレイズは倒れこんだ。

 奥から忍び足で部屋へ入ってきたポヴィドルが、彼女の生存を確認して、シュゼットへ報告する。


「許容量を超えました」


「そのようね」


 お菓子の家は今日も平和である。

 誰のおかげかなんて、言うまでもなく。

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