第16話 お嬢さまの侍女になりました


 最後の一針を縫い終わった。

 糸を巻きつけた針を引き抜き玉結びを作る。そして、万感の想いを込めて、萬姜は余った糸を鋏で切った。


 幸せだった子ども時代。


 優しく賢かった姉は早くに死んでしまったけれど、その代わりに梨佳を残してくれた。店が忙しかった両親に頼まれて、十三歳の時に、母親代わりとして梨佳を育て始めた。まるでままごとのような子育てだったが、それでも梨佳はいい子に育ってくれた。


 やがて萬姜は年頃の娘となって、働き者の入り婿を迎えて範連が生まれた。あの時、自分はこの国一番の幸せ者だと本気で思ったものだ。その後に嬉児が生まれたときは、このまま順調な人生を過ごして、夫とともに歳をとっていくのだと信じていた。


 新開の町を襲った流行り病が、両親と夫の命を奪うまでは。そのあとに起きたことは思い出したくもない。


 ……こんなに美しい絹の着物に触れることが出来たのだもの。田舎町の呉服屋の娘としては、大満足な終わり方だと思わなくては。過ぎ去った自分の人生に恨み言を言ってもしかたがない……


 先に仕立てて畳んでいた薄黄色の上衣とズボンに、縫いあがったばかりの鶯色の羽織りものをこれも畳んで重ね、朱色の細帯をその上に置いた。


 ……一文無しのあたしが出来るお嬢さまへのお礼はこれくらいのもの。気に入ってくださるといいのだけど……


 そう考えながら小さなため息を吐き出したとき、遠慮のない足音が後ろからドタドタと聞こえてきた。


「おや、萬姜さんがため息とは? さては、萬姜さんもお嬢ちゃんの我がままに手こずっているようだな」


 少女の足の傷を診にきた医師の永但州の声だ。


 その声に萬姜は慌てて平伏したが、医師の突然の来訪に驚いたのは彼女だけではない。奥の部屋で嬉児とともに梨佳に絵草紙を読んでもらっていた少女も慌てて立ち上がろうとした。染みる傷薬をたっぷりと塗る永但州の治療が、彼女は好きではない。


 そんな少女に梨佳が優しく言う。


「お嬢さま、お嬢さまの足の傷はもうよくなっておられます。永先生はご様子を見に来られただけでしょう」


「これは、賢いことを言うお嬢さんだ。そうだよ、お嬢ちゃんは特別に傷の治りが早い性質だ。だが、今夜あたりに興が帰ってくると聞いて、様子を見に来た。やつが出かけるときに、傷跡も残してはいかんと面倒なことを言いおってな。子どもの怪我など元気な証拠だというに」


 そして彼はやってきた渡り廊下を振りかえると言葉を続けた。


「おい、小僧。薬箱をここへ」

「はい、先生」


 そう答える範連によく似た声に、萬姜はまたまた驚く。その様子を見て永但州は愉快そうに言った。


「そうか、この小僧は萬姜さんの倅か。井戸端で水汲みをしている賢そうな男の子をみつけてな。聞けば、読み書きも出来ると言うではないか。それで薬箱を持つ手伝いを頼んだわけだ」


「範連がお役に立っているようで嬉しく思います」


 そのとき、今度は永但州とは違う静かな足音がした。


「允陶、おまえもか。忙しそうだな」


 静かな足音の持ち主は少女の部屋をさっと見回して、部屋に満ちたなごやかな雰囲気に満足し、永但州の問いに答える。


「お出かけの前の宗主にいろいろと言いつけられております」


「よい歳をした男のくせに、あいつは細かいことを気にする」


 しかし家令は医師の軽口を無表情に聞き流すと、萬姜に向かって言った。


「萬姜さん、話があります。今から、私の執務室に来て欲しい」


「あっ、は、はい」


 立ち上がろうとした萬姜の足がもつれた。

 何の話なのかわかっている。ついにこの日が来たのだ。これが見納めとなるのだろう部屋を、萬姜もまた見まわした。


 投げ出した少女の足の包帯を、やさしく話しかけながら梨佳がほどいている。それを好奇心を顔いっぱいに浮かべた嬉児が覗き込んでいた。


 ふと、少女が顔を上げて萬姜を見た。


 形のよい眉毛の上でまっすぐに切り揃えられた前髪。不揃いながらも耳の下でなんとか収まっている横髪。短い白い髪に囲まれた美しい少女の顔が、よろけた萬姜の姿が可笑しかったのか、にこりと微笑んだ。


 その微笑みは、厚く垂れこめた雲間の裂け目から射しこんだ一筋の陽の光のようだった。それは、萬姜の不安な心に降りてきて、彼女の心を一瞬ではあるが暖かく満たした。




 ※ ※ ※


 家令の執務室の壁を飾る調度品はけっして華美ではないが、そのひとつひとつの趣味のよさは、そういうことに疎い萬姜にもわかった。


 部屋の中央にはいかにも実用的な、しかし品のよい装飾を施した大きな卓がある。きっちりと巻かれたいくつもの木簡や大小の筆がぶら下がった筆立て、硯に墨に水差しに算盤が、その持ち主の気性そのままにその上には整然と並べられている。


 その卓を前にして允陶が座っていた。


「萬姜さん、新開に人をやってあなたのことを調べさせてもらった。そしてこの十日ほどのあなたの働きぶりも見せてもらった」


 まったく姿勢を崩すことなく、そして抑揚はないが意志の強さが表れた声だ。


 そんな允陶を前にして、萬姜は居心地が悪い。

 自分のふくよかな体や、その体に合っていない地味なお仕着せの着物や、田舎者であることが、穴があったら入りたいほどに恥ずかしく思えた。


 片手でもじもじと窮屈な襟元をいじりながら、彼女は頭を深く下げて家令の前に立っていた。あまりの緊張で家令の言葉は耳にとどまらない。


 自分の言うべき言葉で萬姜の頭の中は一杯だ。

 自分から申し出れば、きっと惨めさも少しは減るに違いない。


「厚かましくもご厚意に甘えて、この十日間、母子ともどもお世話になりました。そろそろお暇せねばとは思っていたのですが、あまりの居心地のよさに言い出すことが出来ず、申し訳ございません。


 今日にでも出て行く所存ではありますが、つきましてはお願いがございます。梨佳と範連は気働きのできるよい子たちです。このお屋敷で雇っていただけませんでしょうか。あたし……、いえ、わたしは嬉児と二人であれば、どこかで慎ましく暮らしていけることと思います」


「萬姜さん」


「えっ?」


「梨佳も範連もおまえの言うとおりのよい子どもたちだが、おまえもまた正直もので働き者である。ただし、少々、早とちりする性質のようだな」


「あ、は、はい……?」


「お願いがあるのはこちらのほうだ。このまま屋敷に留まり、母子ともどもで、喜蝶さまのお世話をしてもらえないだろうか」


「えっ?」


 あとは言葉にならなかった。

 熱い大粒の涙が彼女の頬を転がり落ちた。

 あまりの安堵に両目の涙腺が壊れたのだ。


 しかし、痩せて小柄でネズミのような尖った顔の家令は、三十路の女の涙にまったく同情も動揺も感じていない。彼は淡々と話を続ける。


「では、萬姜。これで話は決まった。給金などの取り決めは後日に行うことにする。そしてもう一つ、言っておくことがある」


 彼の口調は客人に対するものではなく、使用人に対するものとなっている。


「喜蝶さまは1か月前に屋敷に来られた大切な客人であるが、宗主はいずれ娶られるつもりであられる。そして宗主は使用人のあれこれの詮索がお嫌いだ。そのうちにいろいろと耳に入っては来るだろうが、それまで、口は慎むように命じておく」




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