第16話 彩楽堂の主人



 客寄せの声も賑やかな露店が並ぶ通りを、允陶がまたがった馬と少女と嬉児が乗った馬車と、徒歩で付き従うものたちはゆるゆると歩む。その露店が途切れて少し進んだところに〈彩楽堂〉はあった。


 正面の両開きの門の上に飾られた『彩楽堂』と書かれた扁額がなければ、呉服商とは誰も気づかないだろう。高い塀に囲まれて静かに佇む金持ちの屋敷と見まがう店構えだ。彩楽堂は一見客がふらりと入る店ではない。豪族・豪商を相手に一枚の豪奢な着物を見立て、そして誂えるという商いをしている。


 屋敷に背をむけて馬車を降りる少女と嬉児の手助けをしていると、後ろから、物腰柔らかく耳に心地いい若い男の声が聞こえて来た。


「白麗さま、允さま。わざわざのお越し、痛み入ります……」


 その言葉が途中で切れて、はっと呑んだ息づかいにかわる。男が何に驚いたのか、振り返らなくても萬姜にはわかった。


 馬車の乗り口の垂れ幕をはねあげて姿を現した少女は、昨夜、萬姜が縫いあげたばかりの着物を身にまとっていた。


 薄い黄色の筒袖の上衣とゆったりとしたずぼん。そのうえに重ねているのは、絹の光沢も美しい深緑色の地に、色とりどりの刺繍で秋の花が美しく刺繍されている羽織りものだ。長く垂れていた袖は肩先で切り落とされ、惜しげもなく短くなった裾は膝辺りまで。朱色の細帯をその上にきっちりと巻いた少女の姿は、いかにもいまの季節にふさわしい。


 差し出した萬姜の手を借りることなく、少女は身軽に馬車を飛び降りた。肩の上でまっすぐに切り揃えた短い白い髪がふわりと舞う。


 男が言った。

「なんと、お美しい。天女だという巷の噂もまことにございます。人目に触れさせたくないという荘さまのお気持ちも、わたくしにも男としてわかります」


「彩楽堂、そうではない。白麗さまは言葉が不自由であられるので、宗主はそれを不憫に思い、屋敷内から出されることを迷っておられただけのこと。しっかりものの萬姜に世話を任せることになって、このたび、白麗さまにも慶央の街を楽しんでいただくこととなった」


 いつもの慇懃無礼な声で允陶は答え、そして彼は言葉を付け足した。


「美しいと言えば、彩楽堂が最近迎えたという二番目の妻の美しさも、巷では評判ではないか。花も恥じらう十八歳だと聞いている」


「いえいえ、白麗さまとわたくしめの妻を比べるとは、とんでもない話にございます。允さまのおかげで、わたくしも今日は眼福にあずかることができました」


 允陶が振った話題にそつなく答えて、若い男はあらためて萬姜に向かい合った。

「萬姜さん、ご挨拶が遅くなりました。誼青之ぎ・せいしと申します。これを機会にぜひお見知りおきを」


「萬姜。誼さんはこの慶央で六代続いた老舗・彩楽堂の当主だ」


 今度は萬姜が驚く。


「まあ、なんとお若い当主さまでいらっしゃいますこと!」


「先代が早死にいたしましたので、若輩者のわたしが彩楽堂を継ぐこととなってしまいました。萬姜さんのご実家も呉服商であられたとか。さぞやわたくしなど頼りなく見えることでしょう」


「そ、そ、そのようなことはございません。失礼なことを申し上げてしまいました。ど、どうかお許しを……」


 萬姜の慌てぶりを、ふたたび笑みを浮かべた彩楽堂は顔の前で手を振り否定した。そして初めて気づいたというふうに彼は言う。


「お二人に長々と立ち話をしているわたくしのほうこそ失礼なことをしているというもの。さあ、どうか店の奥に設えている客間にお入りください。道中のお疲れを癒すためにも、茶を点てて差し上げたいと存じます」


 そう言ったあと、その男は後ろを振り向き、数歩離れて控えている美しく着飾った妻たちに命じた。


「おまえたち、白麗さまのお相手を頼みますよ。梨佳さんと嬉児ちゃんがおられるので大丈夫とは思いますが、白麗さまは荘本家・宗主さまの大切なお客人です。くれぐれも粗相のないように」


 女たちが甲高い声で口々に姦しく言う。


「白麗さま、池の鯉を見に行きましょう」

「白麗さま、美味しいお菓子もご用意いたしております」

「さあさあ、梨佳さんも嬉児ちゃんもご一緒にまいりましょう。遠慮など無用ですよ」




※ ※ ※


 彩楽堂の奥座敷は、咲き乱れる花を透かし彫りにした衝立で仕切られた二間続きとなっている。


 緋色の絨毯が敷かれている広いほうの座敷には、家具らしきものは置かれていない。壁をくりぬいて作られた棚に置かれた小さな香炉からよい香りを漂わせて紫煙が一筋立ち昇っているだけだ。


 この部屋で、貴族・豪族・豪商の妻女たちが品定めをするのであろう。目にも鮮やかな色とりどりの染めや織りの反物、もしくはすでに仕立てあがった豪華な着物。それらが彩楽堂の手によって広げられるたびにあがる女たちの嬌声。田舎町の小さな呉服商の女房でしかなかった萬姜だが、彼女にも十分想像できた。


 そしていま彼女がいる部屋は……。

 女たちの嬌声を聞きながら、夫や允陶のような立場である家宰がその値段の交渉をするところだ。彩楽堂の手もとの算盤の玉を見て、彼らの口から出るのは盛大なため息だけだろう。


 萬姜が頑なに拒んでも、「允さまと同じく萬姜さんも、彩楽堂の大切な客人に変わりはありません」と彩楽堂の主人は言って、彼女を同じ卓に座らせた。


 そして相変わらず彫像のように姿勢を崩さない允陶と、赤くなったり青くなったりしながらもぞもぞと体を動かす萬姜を前にして、彼は慣れた優雅な手つきで茶を淹れはじめた。


 赤く熾った炭の上に置かれた鉄釜に差し水を足し、錫の入れ物から茶葉と一つまみの塩を入れる。そしておもむろに竹の柄杓でかき混ぜると、鉄釜の口から湯気とともに馥郁ふくいくとした緑色の香りが立ち昇った。



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