第9話 こんな大きなお屋敷、見たことがない


「こら、クソガキ、どこへ行くつもりだ」


 手にしていた槍を横に構えると、門番は少女の前に立ちはだかった。しかし少女は身をかがめて、するりとその槍の下をくぐり抜ける。


「おい、待て! 待てと言ったら、こら、待たんか!」


 もう一人の門番が叫んだ。そして槍の下をくぐり抜けた少女の上衣の後ろ衿をつかまえようと、手を伸ばしてきた。ぴょんと横跳びした少女は、今度もその手から逃れた。


 しかし、すんなりと屋敷の中に入るのは無理だと思ったようだ。立ち止まって、破れ笠の中から屋敷の中を窺っている。その表情は見えないが、侵入する次の手段を思案しているのだろう。


 少女のそのような様子につられて、荷車の上の萬姜も門の中を窺った。


 人の背丈の二倍の高さはある金属の鋲を打ち込んだ板戸の大きな門扉の向こうには、手入れの行き届いた生垣に両側を囲まれて、白い石を敷き詰めた道が続いている。その遠く奥にある建物の入り口である玄関も大きく広い。


 それは獣が開けた黒々した大きな口に見える。目隠しに立てられている透かし彫りの板の衝立は、艶々と濡れた獣の舌のようだ。土塀越しに聞こえてくる人々の喧騒と馬の嘶きとは違う別世界にいざなう入口のように、萬姜には見えた。


「おい、屋敷に用があるのなら、あちらから入れ。だがな、おまえみたいな薄汚いガキが、入れるかどうか」


 つかみ損ねた手をあり得ないという表情で眺めたあと、門番は言う。そして長く続く土塀の端を顎でしゃくって指し示した。


 どうやらそちらが通用門となっているようだ。人が立ち並んでいる。そしてそこの門番は、差し出された札を見ては一人一人の検分を行っていた。検分を終えた人々は門番に深く頭を下げると、塀の中へと消えていく。


 しかしその言葉が耳に入っているのかどうか、少女は動こうとしない。


「ガキだと思って、さきほどは手加減してやったのだ。今度は、容赦はせんぞ」


 胸ほどの背丈の子どもに軽くいなされた門番の顔が、怒りでだんだんと赤くなった。横にかまえていた槍を持ち代えると腰に溜める。


「おいおい、ガキを相手に本気になるなよ」


 もう一人の門番は高みの見物を決め込んだようで、腕を組むとそう言った。突き出された槍の切っ先がぎらりと鈍く光った。


 突然のなりゆきに、荷車の上で萬姜の体は固まってしまった。それは梨佳も範連も同じだ。


 少女を助けたい。しかし人というものは歳を重ねるほどに分別が備わってくる。ここで飛び出せば、自分たちも危険にまきこまれるとわかっているので、体が動かない。しかしまだ六歳の嬉児の反応は違った。


「おねえちゃま!」


 叫んで駆けだそうとした。その嬉児の着物の帯を、荷車から手を伸ばした萬姜はかろうじてつかんだ。


「わたしが、わたしがなんとか……」


 語尾が消えいったのは、言ったものの妙案があるわけではないからだ。そのうえに、嬉児の帯はつかんだが、その口をふさぐことまで気がまわらなかった。喉も裂けよとばかりに嬉児が叫んだ。


「ひ・と・ご・ろ・しぃぃぃ――!!!」


 幼い女の子の甲高い声が響きわたる。通りを行き交っていたものたちの足が止まり、何ごとが起きたのかと、彼らの視線が門番と少女に集まった。


「おい、おい。人が集まりだしたぞ。宗主さまは、町民たちとの揉め事がお嫌いだ。お咎めがあるやも知れん。ガキを相手にするのは止めておけ」


 高みの見物を決め込んでいた門番が慌てて言った。しかし、頭に血がのぼった男の耳には入らない。男は本気になって槍を繰り出す。


 一度目。

 少女はひらりと後ろに飛び跳ねて槍の切っ先を避けた。


 二度目。

 これもまた少女は難なく避けた。


 そして三度目。

 打ち下ろされる槍の下をするりとくぐると、少女は男の後ろに回った。目標を見失った男は振り回した槍の勢いに負けてたたらを踏む。


――あらまあ、華奢な体つきから弱々しい女の子かと思ったのに。うちの嬉児に似て、意外にもお転婆だったのだわ――


 嬉児の帯をつかんだまま、一瞬、萬姜はその光景に見とれてしまった。そしてまた見物人たちも思うところは萬姜とは同じだ。


「どこの子どもか知らないけれど、そんな乱暴な男はさっさとやっつけてしまいな」

「相手は大の男だ。敏捷の子どもでもそのうちに大怪我するぞ」

「荘本家の男が子どもを相手に槍を振り回すとは」


 しかし、見物人たちの悲鳴や怒声は、男をますます煽り立てた。焦りで我を忘れた男は立ち上がると真っ赤な顔をして叫んだ。


「おい、クソガキ。今度こそ、今度こそ、おれは本気だ。おれを怒らすということがどれほど怖いことか、その体に教えてやる。よほど痛い思いがしたいようだな」


 男の大声に萬姜の体が反応した。

『よほど痛い思いがしたいようだな』

 それは、新開にいた時によく聞かされた言葉だ。


 両親と夫が亡きあとに店に乗り込んできた叔父が、商いの仕方に意見を挟んだ彼女によくそう言った。手を振り上げてそう言われると、悲しみにとらわれていた当時の彼女はうつむいて黙り込むしかなかった。


――だけど、いまはそんな場合じゃない。饅頭を分けてくれたあの子を助けなくては。でなければ、このあたしの名が廃る。もうあの時のように、怖いからといって見て見ぬふりをするなんてことは、絶対に、絶対に、わたしはしない――


『義を見てせざるは勇無きなり』

 夫の言葉が脳裏に浮かぶ。


 彼女もまた男と同様に頭に血が上った。痛めていたことを忘れて、萬姜はその足を荷車からおろす。そして、地面におろしたものの、萬姜の痛めた足は彼女の体の重さを支えきれなかった。騒々しい大きな音とともに、彼女は荷車から転げ落ちた。


「ふん、命知らずなガキだと思ったら、親も親だ。こうなれば、親から痛い目に合わせるしかないな」


 威嚇と決心を見せつけるために、胸を反り返らせた男の槍の先が、今度は萬姜へと向けられる。


 しかし動じることなく少女は立っていた。

 破れ笠の紐を結んでいた顎へと、その白く細い手がつうっとあがる。紐の端に指をかけて外すと、彼女の両手は破れ笠を持ち上げた。


 そのとき、門の内側より大きく真っ黒な影が飛び出してきた。その影は槍をかまえた男と地べたに転がっている萬姜の間に立ちはだかった。そして一瞬にして、巨体を低く折り曲げると門番の懐に飛びこんだ。その巨体にまともにぶち当たって、門番の体が宙を舞う。


「愚かものが! おまえは何をしているのかわかっているのか。白麗さまがお戻りになられたのだ」


 その声と同時に、少女は被っていた破れ笠を宙に放り投げた。笠の下から、うなじも見えるほどに短く散切りになった白い髪と美しい顔が現れる。


 見物人たちがいっせいにどよめいた。


「あのお人が、噂の白麗さまか!」

「おお、なんと可愛らしい」

「それにしても、あの短い髪はどうしたことだ?」


 

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