人生初のお屋敷勤め

第10話 大きな<熊>は恐ろしい


  年齢は五十歳前後だろうか。男が土間にひざまずき、湯を張った盥の中で少女の足を洗っていた。


 ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷ、……。

 床に落ちた針の音さえ聞こえてきそうな静寂の中で、水音だけが響く。

 

 男のうつむいた横顔は陽に焼けて浅黒く精悍だ。その上背のある骨ばった体つきもまた、年齢を感じさせない。


……お召しになっていらっしゃるものは、上等な絹で織られた仕立ても素晴らしいものだけど……


 梨佳・範連・嬉児とともに身を寄せ合って土間の隅で身を縮こまらせて座っていた萬姜だが、もと呉服屋だった彼女は男の容姿よりもどうしてもそちらのほうが気になる。


……だけど、動きやすいようにと、この方も上衣の袖口や褲の裾を革紐で縛っている。あの門番たちと同じように、槍や剣を振り回して問答無用で人を斬るのにちがいないわ。なんて恐ろしいところに、あたしは来てしまったのだろう。あのまま、母子で餓死していたほうがましだったかも……


 萬姜は嘆息とともにかすかに身震いした。そして芽生えた不安を伝えたくて隣にいる梨佳の袖をひっぱろうとした。


 そんな彼女の心の迷いと動きを察したのか、彼女たち母子の前に立っていた大きな男が振り返った。屋敷の中より俊敏に走り出てきた黒い大きな影のように見えた男だ。


 いまその男は大きく広い背中を見せて、萬姜母子と盥を使う男との間に立ちはだかっている。


 間近に見るその男の後ろ姿はまるで立ち上がった黒い熊のようだ。

 

 生きている熊を見世物小屋で見たことがある。

 幼い萬姜が見ている前で、鎖につながれた熊はのそりと二本足で立ち上がった。見上げるように大きくなった熊の丈は、横に立つ鎖を持った男より高くなった。


 萬姜は父の背中に隠れ震える手で上衣の裾をつかみ、それでも顔だけを覗かせて熊を見る。そんな娘の怖がるさまを面白がって、まだ若かった父が笑って言った。


『ああ見えて、熊は素早く走り動く。鎖を外そうものなら、熊はここにいるものたちに襲いかかる。おまえもあっというまに食い殺される』


 そのときより、萬姜は熊が怖い。

 熊が嫌いだ。


 振り返った男が眼光鋭く彼女を睨んだ。静かにせよとその目は言っている。そのうえに彼の右手は左手に持った剣の柄にかかっている。


 山道で飢えた熊に遭遇した子鹿のごとく、萬姜の体は固まった。

 悲鳴が漏れかけた口を押えて、彼女は熊にむかってこくりと頷く。




 外から見る長く続く土塀から想像した以上に、実際の屋敷の中は広かった。

 山を背にした広大な敷地に何十棟もの建物がたっていた。


 住居・厩舎・倉庫、そして何に使われているのか萬姜には見当もつかない形の建物が整然と並んでいる。


 山間のくぼみに開けた田舎町の新開で生まれ、そこから出ることもなく育った萬姜は心の中で呟いた。


……まるで、一つの村みたいだわ……


 その建物の間の迷路のような道を、多くの人と荷車と馬がせわしなく行き交っている。


 人の多くは門番と同じような恰好した屈強な男たちだ。

 鎧に兜まで身につけた男たちもいて、その男たちの動きはいちおうに荒っぽい。


 少女と同じ麻布を茶色く染めたお仕着せを身にまとった男や女もいる。

 彼らは男たちの世話をする下働きなのだろうか。


 皆せわしなく行き交っているが、少女と萬姜たち一行を見ると足を止め道の端へと寄った。


 少女を見て囁き合っているがその内容まではこちらの耳にまで届かない。

 ただ、彼らの目には少女への明らかな好奇心と、少女が無事に戻ってきたことへの安堵が浮かんでいた。


 梨佳と範連に両側から支えられ、痛む足を引きずりながら、萬姜は前を行く白い髪の少女を取り囲んだものたちのあとをのろのろと付き従った。嬉児も不安げな表情を浮かべて姉の梨佳にその身をぴったりと寄せている。


 そんな萬姜たちが気になるのか、少女は何度も振りかえった。そしてこちらに駆け寄ろうとする。


 そのたびに少女のまわりを取り囲むものたちに緊張が走る。

 だが、誰も手を伸ばして少女を止めようとはしない。取り囲んだ輪を縮めて行く手をさえぎるだけだ。皆が皆、少女に触れるのを怖れている。


……この屋敷で、この少女はとても大切にされている。でも、誰もが遠巻きに見守ってるだけ。少女はきっとそのことが息が詰まるほどに不満で、この屋敷を抜け出したのに違いないわ……


 三人の子どもたちを愛情深く育ててきた萬姜には、そういうことが手に取るようにわかった。


 しかしそれにしても、笠をかぶっているいる時は気づかなかったが、なんと可愛らしい顔立ちをした少女なのだろう。そしてなんと光り輝くような美しい白い髪なのだろう。


 その白い髪はうなじあたりで短く不揃いに切られて、少女が振り返るたびに顔のまわりで跳ねた。


 ……あたしたちのせいでお屋敷に戻ることになってしまって。もしかしたら、申し訳ないことをしてしまったのかしら。いやでも、あのまま人買いにさらわれてしまったら、とりかえしのつかないことでもあるし……


 答えのでない考えごとに頭を悩ませているうちに、一行は広い屋敷の奥深い場所へと着いた。




 その一画だけが装飾のある瓦をのせた趣のある低い塀で囲まれていて、騒々しさから隔離されていた。


 世間を知らない萬姜にも、ここがこの屋敷の主人の私邸であることは想像できた。そして瀟洒な門の前に立っている五十絡みの男がこの屋敷の主人であるらしいことも。


「宗主、喜蝶さまがお戻りになられました」


 白い髪の少女を取り囲んでいたものたちの一人が緊張した声を張り上げる。

 宗主と呼ばれたその男はその呼びかけに応えて、おうようにうなずいた。




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