第11話 少女の足を洗う男


 私邸への入り口ということもあるのか、それともここに住む主人の好みなのか。玄関は装飾もなく黒光りのする太い柱が目立つ質素で剛健な造りだ。土間もまたそれほど広くはない。


 上りかまちに腰かけた少女とその前にひざまずき少女の足を洗う男。


 その横には顔を伏せた下僕らしき男が、土間の冷たさもいとわず正座して白い布を差し出している。彼らを取り囲むように〈熊〉を含めた剣をたずさえた男たちが数人。そして隅で身を寄せ合っている萬姜母子。


 そのうえに彼らの後ろの開け放たれた木戸の周りには、どこから集まったのか、中を伺おうとするものたちが幾重にも重なっている。


 彼らは少女が無事に戻ったことを安堵する屋敷のものたちだろう。だが、後ろに立つものは、背伸びをしても土間の様子は見えていないはずだ。


 それでも、押し合うものもいなければ話すものもいない。咳の一つくしゃみの一つさえ聞こえてこない。彼らはただただ聞き耳を立てている。運よく前に立てたものは、自分の見ている光景に丸い皿のように目を見開いていた。


 少女が腰かけている上がりかまちの後ろは、板の間となっていた。


 柱と同じく磨き込まれて黒光りしているその中央には、座って微動だにしない男が一人。その横に立っているもう一人の男は、座っている男とは対照的にそわそわと落ち着きがない。


 二人ともズボンが隠れる長さの上衣をゆったりと着込んでいて、その袖口も広く垂れている。帯刀もしていない。屋敷においてこの二人の立場は特別なものだと見てとれた。


 そして二人の男の後ろに隠れるようにして身を縮こまらせている女が二人。

 この二人も派手ではないが艶のある絹ものを身にまとっている。髪も複雑な形に結い上げて何本かの簪を挿している。


 外で忙しそうに行き交っていた下働きの女たちとは違う雰囲気だ。彼女たちはこの私邸で働いているのだろう。


 それにしても彼女たちの顔は青ざめ、正座した膝の上でかたく握りしめている手は小刻みに震えている。まるで屠殺場に連れて来られた家畜のような怯えようだ。少女の失踪は彼女たちの失態によるものに違いない。


 この場に満ちている緊張感はいまにも切れそうな細い一本の糸のようで、狭い池の中の酸欠の鯉のような息苦しさを萬姜はおぼえた。




「素足で草鞋を履き、遠出をされるとは。足が擦り傷だらけではございませんか」

 

 少女の足を洗う水音に、宗主と呼ばれた男の低く優しい声が混じる。

 その丁寧な言葉遣いに、男と少女は親子でもなく、まして祖父と孫という関係でもなさそうだ。それでいて使用人にまかせることなく、自ら跪いて汚れた足を洗ってやるとは。


 萬姜を睨みつけたあと再び大きな<熊>がその背をむけたので、両手で口を押えたまま萬姜も興味津々に目の前の光景を見守った。


 洗いあがってまだ雫の垂れている少女の片足を、目の高さまで持ち上げてしげしげと眺めると、男は言葉を続けた。


「永先生にお願いして、傷薬をたっぷりと塗ってもらわねばなりませんな。しかしながら、あの塗り薬は効くには効くが、塩をすり込まれたかのようにひどく滲みる」


 話せないが聞いて理解することは出来る少女が、その言葉に可愛らしい顔を曇らせた。白い華奢な首筋を伸ばして後ろに立つ男を見上げる。


 物言わぬ少女に不安げに見つめられて、永先生と呼ばれた男が、そわそわと落ち着きのない体の動きはそのままに、慌てて顔の前で手を振った。


荘興そう・こうよ、その言い草はなかろう。良薬は口に苦くよく効く傷薬は滲みるものと、昔から決まっているものだ」


 洗いあがった片足を盥に戻しもう一方の片足を洗い始めた男が「ふん」とあからさまに苦笑する。男と医師の年齢は近い。どうやら二人はお互いに遠慮なくものを言い合う仲のようだ。


「それにな、あの塗り薬は、わしが長い年月をかけて調合したもの。炊事女のあかぎれから荒くれ男の刀傷まで、なんにでもよく効く。医師ではないおまえにとやかく言われたくはない」


 永先生の言い訳に、この場のようすを固唾を飲んで見守っていたものたちの間から笑いが起きた。


 彼の塗り薬がよく効くことと、しかしそのひどく滲みる痛さを彼らは知っている。そしてまたその笑いは、自分たちの主人の怒りが収まっているらしいと知った安堵でもある。


 少女が部屋にいない。

 いないどころか、厳重な屋敷の警備の隙をついて一人で屋敷から抜け出したらしい。


 その報告を受けたとき、この屋敷の主人は執務室でいくつかの書状に目を通したあとで、一息入れていた。


「喜蝶さまの捜索のために、すでに多くの男たちを慶央の街に放っております。子どもの足であれば、すぐに見つかるかと……」


 しかしその言葉を主人は最後まで聞かなかった。


 返事の代わりにまさに口に運ぼうとしていた茶の入った器を、彼は床に平伏していた男に投げつけた。茶の飛沫をまき散らしながら器は男の頭に当たり、そして転がった。


「それが斬り落とされて血を噴きながら転がる、自分の首のように思えた」


 脂汗を流しながら男が仲間に語った言葉が、またたくまに屋敷中に知れ渡ったからだ。




「喜蝶さま、鬼子母神の縁日は楽しまれましたかな?」


 その言葉に、首を反り返らせて後ろに立つ医師を見ていた少女の視線が、足を洗っている男に戻る。


 少女は自分の想いを言葉以外に託すものはないかと、小首をかしげてしばらく考え、合わせた衿元に手を入れた。そしてその手が引き出されたとき、まだ飴のかけらがついた竹串がしっかりと握られていた。


 男がふたたび苦笑する。しかしもう男の表情には険しさはない。

 縁日の楽しさを思い出した少女が萬姜たちを見やったので、男も彼らに振り返った。


「おお、そうであった。おまえたちには、喜蝶さまを助けてもらった礼を言っていなかったな。名前は何というのだったかな?」


旺萬姜おう・まんきょうと申します」


「旺さん、今日のことには、感謝の言葉もない」


「いえ、道に迷っておられたお嬢さまに、当然のことをいたしましただけでございます。それに、助けられましたのは、あたし……、いえ、わたくしたちのほうでございますれば……」


 突然、話を振られて飛び上がらんばかりに驚いた萬姜だが、小さい店ながらも客商売をしていただけにあって、口を開けばなんとか言葉は出てきた。

 しかし母の言葉に嬉児が割り込んできた。


「変な男から、あたしがお姉ちゃんを助けたんだよ!」

「変な男? そうであったか……。おまえにも礼を言うぞ」

「うん!」


 母親の制止を振りほどいて嬉児は胸を張り、低い鼻の穴を膨らませて得意げに頷いた。


 姉の忘れ形見である梨佳は賢く思慮深い。

 範連は夫に似て果敢ではあるが慎重でもある。

 しかし嬉児の後先かえりみない猪突猛進ぶりは、いったい誰に似たのかと萬姜は思う。




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