第12話 〈熊〉にも名前があった!


 萬姜たちを見つめたまま、男は誰かの名前を呼んだ。


「允陶!」

「はい、宗主。なんなりとご命じください」


 名前を呼ばれて、板の間に正座していた男が答えた。と同時に、石の像が着物を着たように微動だにしなかったその体がかすかに動いた。


 三十代半ばの痩せた小柄な男だ。


 貧弱な体では、槍や刀を振り回し人を斬ることは到底無理だろう。目が細くとがった鼻筋とまばらな口ひげが小動物のネズミを思わせる。しかし竹を飲みこんでいるとしか思えない姿勢のよさと、大きいとは言い難いのによく通る声は、この屋敷において彼が只者ではないという証拠だ。


「旺さんたちは長旅の途中のように見受けられる……」

 浮浪者も同然の萬姜たちの姿を見て、宗主は慎重に言葉を選んでそう言った。

「……、まずは湯浴みをして、こざっぱりとした着物に着替えてもらい……」


 允陶がそのあとの言葉を引き継ぐ。


「宗主、そのことについては、わたくしにお任せください。もし、今夜の宿がまだ決まっていなようであれば、当屋敷でゆるりと休んでいただきましょう」


「そうだな、允陶。すべてをおまえに任せる。おまえに任せれば、なにごとにも抜かりはない」


「身にあまるお言葉にございます」

 控えめだがよく通る声が答えた。


 そのとき、屋敷の奥からこちらに向かってくる足音が聞こえた。

 ドタ、ドタ、ドタ、……。


 床も抜けよとばかりの乱暴な足遣いだ。それは不機嫌と怒りをあらわにしている。和んでいた場の雰囲気が一瞬にして再び緊張に包まれた。


 下男から受け取った白い布で洗いあがった少女の足を拭いていた男が、その手を止めることもなく聞えよがしに呟く。


「やれやれ、めんどうな御仁が現れたか。奥でおとなしくしていてくださればよいものを。やはり、ご自分の目で確かめられたいと思われたのか」


「興、全部、聞こえているぞ! わしの耳は、おまえが思うほどには、まだ老いぼれてはいない」


 割れ鐘を叩いたような濁声の持ち主は、白髪で髷を結った老人だ。しかし、眼光鋭くあたりを睨みつけるさまといい、その上背のある体格といい、老人という言葉で一括りにしてしまうにはあまりにも矍鑠かくしゃくとしていた。


「これはこれは、叔父上。わざわざのお出まし痛み入ります」


「何が、痛み入りますだ? たかが小娘一人に朝から大騒ぎしおって。騒がしくてたまらんので、様子を見に来ただけだ」



「ご覧のとおり、喜蝶さまは無事に戻られましたので、ご安心を」

「ふん! この屋敷の居心地が悪いのであれば、戻ってこなくてもよかったのだ」


 やたら元気な老人は鼻息も荒くそう吐き捨てる。しかしこの一回り年上と思われる叔父の言葉の悪さに、甥である男は慣れている様子だ。少女の足を拭く手を休めることなく、涼しい声で応じた。


「叔父上、喜蝶さまは慶央に来られて、まだ一か月ほど。こちらの暮しに慣れていないのかと。それにどうやら、人買いにかどわかされる寸前であった様子。あちらにいる旺さんたちに助けられて、戻ることができました」


 人買いと聞いて、一瞬、老人は言葉に詰まった。人買いにかどわかされたらよかったのだ、とまでは言えない心の優しさを彼は持ち合わせている。


 それで、汚いものでも見るように、土間の隅で固まっている萬姜たちを睨みつける。そして、その前に仁王立ちしている〈熊〉に気づいた。彼は八つ当たりの矛先を変えた。


「堂鉄、どうしておまえがここにいる? おまえの持ち場はここではないだろう。さっさと戻って、自分の仕事をせよ!」


 その言葉に、堂鉄と呼ばれた〈熊〉が間髪入れず老人に拱手した。

「関景さま、お言葉に従います」


 そして拱手したまま、宗主の後ろ姿に頭をさげて一礼する。そのままの姿勢を保ちつつ、その巨体から想像できない軽やかな身のこなしで彼は出ていた。


 萬姜はどんぐり眼を見開いたまま、〈熊〉の後ろ姿を目で追った。

 老人の出現とその口の悪さと睨みつけた眼光の鋭さに驚いたが、〈熊〉に名前があったことのほうにもっと驚いた。そして、老人の命令に忠実に動く彼もまた〈人〉なのだということにもっともっと驚いた。


 自分の目で実際に見て満足したのか、老人もまたもと来た方向へと足を向ける。苛立ちが収まったのか、来た時よりも足音は静かだ。しかし、置き土産として、聞えよがしの悪口を吐き散らすことは忘れていない。


「荘本家の宗主ともあろうおまえ自らが跪いて、小娘の足を洗うとは。見てはおられん。年端もいかぬ小娘に腑抜けになるのも、たいがいにせよ」




「はぁ……」


 入り口を取り巻いていたものたちの間から、溜めていた息を吐きだす声が漏れる。それが呼び水となって、お互いの体を小突き合いながら囁き合う声がざわざわと広がっていった。


「関景さまの口の悪さは、相変わらずだ」

 男の声に続いて、女の声。

「あのお方のお怒りは、突然、頭の上に落ちてくる冬の雷のようで、おっかないったらありゃしない」


 その例えに皆の想いは同じらしく、押し殺した笑い声がそこかしこで漏れる。


「人は齢を重ねると穏やかになると聞いているが、関景さまは別格だ」

 誰かがぼそりと呟き、そして誰かが「静かにせよ」とあたりを鎮めた。


 ふたたび戻った静寂の中で、少女の足を丁寧に拭き終えた宗主が少女を見上げて言う。


「蒸籠の中から蒸かし上がったばかり饅頭がいくつか消えたと、台所方の女たちから報告を受けたが。それにいま着ているものも、正当な持ち主に返さねばなりません。喜蝶さまに盗られて、そのものはたいそう困っているとか。それにしてもまあ、思い切りよく髪を切られたものだ」


 今まで赤子をあやすように優しかったその口調が一変していた。だんだんと厳しくなってくるその声音に、永医師が口を挟んだ。


「言葉の不自由なお嬢ちゃんを、そのように厳しく問い詰めなくてもよいだろう。お嬢ちゃんも悪気があって、屋敷の外に出てしまったわけでもないに違いない。その証拠にこうして無事に戻ってきたのだ」


「いや、だからこそ、一人で屋敷の外に出る怖さを知ってもらわねばならない。言葉が不自由であればなおさらのこと、その心に痛みをともなって知ってもらう必要がある。」


 聞こえてくる男の言葉に、萬姜はわが身が責められているような気がした。


 再会門の下で、お嬢さまはあたしたちを助けてくださいました……、そう言おうとしたとき、ふいに「旺さん」と声をかけられた。床に正座していた男が、いつのまにか横にいる。


「旺さん、この屋敷には、客人用の建物があります。そちらに案内いたします」


 まるで幽霊か何かのように、この屋敷の男たちは気配を消して動く。




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