第17話 ブチ切れてみました⁉


 彩楽堂の客間は、咲き乱れる花を透かし彫りにした衝立で仕切られた二間続きとなっていた。


 緋色の絨毯が敷かれている広いほうの座敷には、家具らしきものは置かれていない。壁をくりぬいて作られた棚に置かれた小さな香炉からよい香りを漂わせて紫煙が一筋立ち昇っているだけだ。


 この部屋で、貴族・豪族・豪商の妻女たちが品定めをするのであろう。


 目にも鮮やかな色とりどりの染めや織りの反物、もしくはすでに仕立てあがった豪華な着物。それらが彩楽堂の番頭たちの手によって広げられるたびにあがる女たちの嬌声。田舎町の小さな呉服屋の女房でしかなかった萬姜だが、彼女にも十分想像できた。


 そしていま彼女がいる部屋は……。


 女たちの嬌声を聞きながら、彼女たちの夫や允陶のような立場である家宰がその値段の交渉をするところだ。彩楽堂の手もとの算盤の玉を見て、彼らの口から出るのは大きなため息だけだろう。




 萬姜が頑なに拒んでも、「允さまと同じく萬姜さんも、彩楽堂の大切な客人に変わりはありません」と彩楽堂の主人は言って、彼女を同じ卓に座らせた。


 そして相変わらず彫像のように姿勢を崩さない允陶と、場慣れしていないためにもぞもぞと体を動かす萬姜を前にして、彼は慣れた優雅な手つきで茶を淹れはじめた。


 赤く熾った炭の上に置かれた鉄釜に差し水を足し、錫の入れ物から茶葉と一つまみの塩を入れる。そしておもむろに竹の柄杓でかき混ぜると、鉄釜の口から湯気とともに馥郁ふくいくとした緑色の香りが立ち昇った。


 彩楽堂は顔立ちもよく人当たりもよい。話しかけてくるときにはぴたりと視線を合わせてくるが、目尻に刻まれる皺が相手の警戒心をほぐす。そして何よりも声がよい。女の楽しみに気長につきあう穏やかな雰囲気が、その声にはある。


 顔つきも体格も違うが、彩楽堂の主人のやさしげな声と腰の低さは亡き夫とよく似ていると思う。


――まあ、わたしったら、死んだあの人と、彩楽堂さまを比べるなんて――


 茶で満たされた茶碗が目の前に置かれて、彼女は我に返る。しかしなぜか彩楽堂はもの言いたげに顔を近づけたままだ。


「えっ? なにか?」


「白麗さまのお着物の袖と裾を切って、縫い直されましたか? 白麗さまがお召しになっておられるお着物に、わたくしは見覚えがあります」


――やはり気づいておられたのだわ。わたしや梨佳や嬉児の名前を知っておられることに驚いた時に、すでに家宰さまは、わたしについていろいろと話しておられるのではと思ったけれど――


 彩楽堂の問いに、萬姜は言葉の返しようもなく頭を下げた。顔は火を噴いたように真っ赤になり、柔らかな肉で盛り上がった背中を氷のように冷たい汗が伝う。


「で……、出過ぎたことをしてしまいました。お許しくださいませ」


「白麗さまのために心を込めて、彩楽堂が誂えましたお着物にございます」


「そ、それは、わたしも重々に承知いたしております」


 萬姜の頭は傾き落ちるところまで落ちて、額がごつんと音を立てて卓にぶつかった。そのままの姿勢で首を傾げて、我関せずと涼しい顔をして茶を飲んでいる家宰を見る。着物を縫い直したいとお伺いを立てたとき、たしか『おまえの好きなようにしたらいい』と言ったはず。『どの着物でもよい。そして何枚でもよい』とも言ったはず。助け舟を出そうとしない彼を恨めしく思う。


「萬姜さんもお着物を扱う商いをしていたのであれば、あの切り刻まれたお着物の値打ちが、見当もつかなかったという訳ではないですよね?」

 彩楽堂の追及は止まらない。


――彩楽堂さまに死んだあの人を重ねて、一瞬でも、懐かしさにとらわれたなんて……。でも、確かに、あの美しいお着物を仕立て直したのはこのわたし。鋏を入れる前に、申し訳なさにお着物に手を合わせましたと言っても、言い訳と思われるだろう。でも、でも、お嬢さまは喜んで着てくださっている――


 そこまで思って、突然、彼女の負けん気に火がついた。


 垂れていた頭をくいっとあげた。

 自分をうかがっている彩楽堂と目が合う。


 さぞ憎々し気な目で睨みつけられていると思ったのに、意地悪な口調とは違って男の目は優しく細められている。気づかいの色さえ浮かんでいる。しかし、開きかけた口を閉じることは出来ない。


「お着物は着る人に似合ってこそでございます。そして、そのお人に喜んで着てもらってこそでございます。彩楽堂さまがなんとおっしゃられようとも、お嬢さまに喜んで着ていただければ、それがわたしの幸せです」


 彼女は一気にまくし立てた。

 慶央一の老舗呉服屋・彩楽堂に田舎町の古着屋に毛の生えた呉服屋の女が口答えをしたのだ。はっと気づいて、自分の手で自分の口を塞いだがもう遅い。


『おまえの気持ちはわかるが、なるべくその口は慎んだほうがいいよ。ときに無用な争いごとの種になることがある。とくにおまえは女なのだから』


 亡き夫の心配する声があの世から聞こえてきた気がした。彩楽堂を怒らせたとして、屋敷に戻れば家宰より厳しい叱責を受けて、母子共々、寒い空の下に放り出されるのか。


――お客にお着物を見たてて売る商売も好きだったけれど、お嬢さまのお世話をさせていただくのも、天がわたしに与えてくださった仕事かと思えるほどに楽しい日々だった――


 再び、卓上に頭を打ちつける。隣に座っていた家宰が、飲み干した茶碗を戻す気配がする。そして鼻先でかすかに笑った気配もした。


 彩楽堂が大きなため息を吐き出す。

 怒りに満ちた声が頭上から降ってくるかと萬姜は覚悟したが、彩楽堂の声は物静かだった。そしてその内容も意外なものだった。


「萬姜さん、お着物を扱う彩楽堂としては、決して口外したくはない恥ずかしい話を聞いてくださいますか?」


「えっ……?」


「私は今日まで、白麗さまのお姿を拝見したことがございませんでした。ましてや、彩楽堂のお着物をお召しになったお姿を。白麗さまのおおよその年恰好を允さまにお伺いして、お着物を仕立てさせていただいておりました」


「まあ! そのような!」


「それでも、美しいと噂される白麗さまに似合うお着物をあつらえる自信が、わたくしにはありました。ところがなぜかお着物を気に入ってくださらない。気に入ってくださらないどころか、毎朝、それらのお着物を着たくないために足で踏みつけられるとか。彩楽堂の面目が丸つぶれではありませんか。それでわたしも允さまに言ってしまったのです。白麗さまが喜んでお召しになってくださるまで、お着物の代金は受け取らないと……」


 その言葉に、再び、允陶が鼻先で笑う。允陶の薄笑いを受け流して、彩楽堂は言葉を続けた。


「……、白麗さまのお着物で、いつ彩楽堂の身代が傾くかとひやひやしておりましたが。萬姜さんという心強いお方が現れて、わたくしは今、胸を撫でおろしたところです」

 

 允陶が口を挟む。

「だからあの時に、そのような意地を張るのはやめておけと言ったはずだ」


「さようでございました。ついついあのときに、この慶央で六代続いた彩楽堂の名誉にかけてなどと、大口を叩いてしまったわたくしが愚かでした。しかし、これからは萬姜さんのお知恵をお借りして、白麗さまに喜んで着ていただくお着物をあつらえることが出来ます。允さま、彩楽堂はおおいに儲けさせていただきます」


「たかが着物くらいで身代が傾くような荘本家ではない」


「それを聞いて安心いたしました」

 そう言うと彩楽堂は磊落に笑った。


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