第18話 二つのお針箱
状況を理解できない萬姜は、彩楽堂の楽しそうな顔を、そして家宰の表情の読めない顔を交互に眺めるしかなかった。彼女の戸惑いに気づいた彩楽堂が言う。
「そうでした。萬姜さんのおかげで久しぶりに楽しい想いをして、肝心なことを忘れていました。萬姜さんは針と糸をお求めと、允さまより伺っております。それで、彩楽堂で用意いたしました」
彼はそう言うと、奥にむかって手を叩いた。
すぐに現れた使用人が頭を下げたままで言う。
「ご主人さま、お呼びでございましょうか?」
「こちらの萬姜さんのために用意しているあれを持って来なさい」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
そう言って引き下がった男は次にその姿を現したとき、三人の男を引き連れていた。二人の男たちはそれぞれの手に小さな箱を持ち、三人目の男は反物を積み重ねた盆を持っていた。そしてその二つの箱と反物を萬姜の前に恭しく並べ置くと、揃って部屋を出て行った。
卓上に並べられた箱の一つは黒く一つは赤い。
光沢を放つ漆に咲き乱れる花々が螺鈿細工で施されている。それがどこかの令嬢の嫁入り道具にしても恥ずかしくない針箱であることは、呉服屋育ちの萬姜にはすぐにわかった。
しかしながら、盆の上に重ねられた反物はしっかりと打ち込んで織られた木綿で、彩楽堂がいつも扱っているような豪奢な絹ではない。だが、刺繍もなく色味もまた地味であっても品がある。
――針箱は、なんとまあ、見たこともない贅沢品だわ。でも、この反物……。これで梨佳や嬉児の着物を縫ってやったら、どんなに喜ぶことだろう――
彼女は両手で胸もとを押さえた。その下に忍ばせている銭の入った巾着の小ささは、上から触れただけでわかる。正直に言うしかない。
「彩楽堂さま、わたしが欲しいのは針と少しばかりの絹糸でございます」
「ええ、この針箱の中にご所望の針と糸と鋏も入っています。お年頃のお嬢さまがおられると允さまよりお伺いしていましたので、色違いで二つ用意いたしました。それからこちらの反物は、萬姜さんと二人のお嬢さんにお似合いの色柄を、わたくしが見立てたものにございます。気に入ってくださるとよろしいのですが」
彩楽堂の主人に見つめられて萬姜は思わず恥じ入って目を逸らす。またまた顔から火が出る思いだ。
――貧しいものの懐事情なんか、お金持ちを相手に商いをなさっている彩楽堂さまには、きっと想像もできないのだわ。遠回しに言ってもわかってもらえないのであれば――
正しいと思えば猪突猛進する萬姜を誰にも、いや、彼女自身でさえ止めることは出来ない。再び、萬姜は今度は叫んだ。
「たとえ気に入ったとしても、わたしには買えません! 絶対に!」
その声がよほど大きかったのか、それとも彼女が叫んだ言葉の内容がこの静かな部屋にはふさわしくなかったのか。二杯目の茶を口元に運んでいた允陶の手が止まった。
これ以上は無理というところまで豊満な体を縮めて彼女はどもりながらも言う。
「か、家宰さま。けっして、お給金が少ないとかそういうのではなくて。彩楽堂さまの品々は、わたしにはもったいないと言おうとしただけです。も、申し訳ございません」
そう言い終えたあと、彼女の頭は三度目に垂れ下がり、額はまた卓上にぶつかった。允陶の当てこすりもさらりと受け流していた彩楽堂が慌てふためく。
「ま、萬姜さん、だ、大丈夫ですか。ああ、見ていられない。お願いです、どうか、顔を上げてください。萬姜さんは思い違いをされている。お買い上げいただくなど、とんでもないこと。この二つのお針箱と反物は、彩楽堂からのお礼の気持ちでございます」
「えっ、いまなんとおっしゃられました?」
彩楽堂の言葉の意味を測りかねて、素っ頓狂な声をあげて萬姜はおもわず顔を上げた。手を伸ばせば届くほどの近さに、目鼻立ちの整った若い男の顔があった。
「白麗さまのお着物への助言です。お針箱二つでは足りないほどにありがたく思っています」
「そのようなこと……」
「それよりも、額は大丈夫ですか。かなり赤くなっています。店のものに塗り薬を持って来させましょう」
二人に好きに喋らせていたのでは埒があかないと思った允陶が横から口を挟んできた。
「彩楽堂がそういうのだ。萬姜、やるというものはなんでも、つべこべ言わずにもらっておけ」
允陶の冷たい口調には逆らえない威圧感がある。ここでぐだぐだと言い訳を並べれば、なおさらにこの場は収まらなくなるに違いない。受け取れないと言いつのろうとした言葉を彼女は飲みこんだ。
「では、お言葉に甘えて、お針箱二つは嬉しく頂戴いたします。しかし、お着物の反物は受け取ることは出来ません。いつの日かお給金を溜めて参りますので、その日までどうか預かってくださいませ」
細められた彩楽堂の目尻に皺が刻まれる。
声も客を相手にする商売人に戻る。
「おや、萬姜さんはまだお気づきではないと。この反物で誂えた着物を皆さんでお召しになって、再度、白麗さまとともにご来店いただければ、もう、支払っていただいたも同然でございますよ。店の外に出れば、萬姜さんにもきっと、わたくしの言葉の意味がわかっていただけることと思います」
そして、苦笑いを浮かべている允陶に向かって、彼は言った。
「さすが、允さまはわかっていらっしゃるようでございます」
こうなれば仕方がないというふうに、彩楽堂に話を振られた允陶が口を開く。
「所詮、彩楽堂は商売人ということだ。転んでもただで起きないどころか、手には石の一つ草の一本をつかんで立ちあがる」
「鋭いご高察、痛み入ります。かねがね思っていたことですが、允さまには商いの才がおありのように見受けられます。呉服屋でも始められましたら、彩楽堂など赤子の手をひねるように潰されそうです」
「彩楽堂、世辞など必要ない。それにおれは商売には興味もない」
彩楽堂の言葉を即座に否定すると允陶は立ち上がった。
彩楽堂も立ち上がる。
「これはこれは、わたくしめの長々とした無駄話でお引止めいたしてしまいました。さぞや、舜ご老人さまが首を長くして、白麗さまをお待ちでございましょう」
そして二人に続いて慌てて立ちあがった萬姜に彼は言った。
「荷物になりましょうから、二つの針箱はこちらから荘本家にお届けします。そして反物のほうは、こちらで仕立てて、後日にお届けします」
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