第19話 慇懃無礼な家令さまを笑わせたい!

 

 荘本家の宗主・荘興は、萬姜の目から見ても忙しそうだった。


 ヤ・ク・〇の大親分の仕事の内容を萬姜が知るよしもないが、それはきっと心身を休める暇もないほどのものなのだろう。屋敷を出ると、そのあと何日も帰ってこない。


 仕事のほうも大変なのだろうが、彼には城郭内にある本宅に住む病弱な妻と子がいる。時々は様子を見に行っているのだろう。そして側室は抱えていないが、妓楼に馴染みの妓女がいるらしい。


 その名を春仙といって、若くはないがたおやかな美人で楽器の琵琶を巧みに奏でるという。そちらにも出かけて、仕事の憂さを晴らしているとのこと。


 允陶がどのように厳しい緘口令をしこうと、噂好きの下働きの女たちの口の前では、泣く子も黙ると恐れられる荘康でさえその私生活は丸裸だ。


 荘興が留守の間は、長男の健敬が荘本家を任されている。


 幾度か、萬姜も彼の姿をみかけた。

 三十歳前の穏やかそうな好青年で、すでに妻帯して子もいる。


 私兵を含めて三千人を抱えた荘本家を一代で成した手腕は驚愕に値するが、荘興は短気極まりなく、理不尽とも思える怒りを時々爆発させる。彼にそろそろ隠居していただいて、二代目を健敬が継げばよいのにと願っているものも多いとか。


 そいう事情もあって、荘興が留守の日の夜は、萬姜は家令の允陶の部屋に出向き、奥座敷でその日あったことを報告するのが決まりだった。




※ ※ ※


「今日のお嬢さまにはなんのお変わりのご様子もなく、楽しい一日をお過ごしになられました」


 部屋の入口近くに立って、頭を垂れたまま萬姜は言った。家令の人を人と思わぬ慇懃無礼な態度が苦手で、緊張のために彼女の声はかすれた。


 しかし『お嬢さまは、楽しい一日をお過ごしになられました』としか、彼女には言いようがない。


 少女は言葉が不自由で。

 そしてどうやら記憶が長く保てないという噂も本当のようで。


 そうなると、令嬢といわれる年頃の女子が嫁入りのために修養しなければならないものを、少女には教えることはできない。


 萬姜の縫った着物を着て、優しい梨佳に世話を焼かれ、お転婆な嬉児と遊ぶ日々に、髪の白い少女は満足しているようだった。

 侍女たちを困らせ屋敷から逃げ出すという癇癪は、すっかり影を潜めた。

 寝台の下に溜め込んでいたものは、すべてもとの持ち主に返された。


 しかし、『楽しい一日をお過ごしになられました』だけでは、少女の世話を任されて給金まで戴いているものとして、言葉が足りないとは思う。今日一日、何があったかを思い出すためにしばらく考えて、萬姜は言葉を続けた。


「お屋敷内に住みついているネコを、今日一日、嬉児とともにお嬢さまは追いかけておられました」


 家令の部屋は卓上の燭台だけが灯されていて、薄暗い。部屋のあちこちにさりげなく置かれた趣味のよい家具や置物は、いまは闇に沈んでいる。


 何もかも飲みこんだ闇を背負うようにして允陶は卓に向かって座っていた。


 萬姜が部屋に入って来ても喋りだしても、まるで石の彫像のように姿勢を崩さない彼は、萬姜の報告を聞きながらも書付けに余念がない。


 止まらぬ水の流れのように筆を持つ手が動く。

 さらさらと筆の先が紙の上を走る音が聞こえてきそうだった。


 彼が早朝からいそがしく働いることは間違いない。しかし着物に乱れのいっさいもなく、髷も結ったばかりのように整っている。髷を解き寝衣をまとったあられもない姿で寝台に横たわることがあるのだろうかと、家令の姿をみるたびに萬姜は思う。


 裕福な米問屋の子として允陶は生まれ育った。


 幼いころより賢く、何よりも先が読めた。

 一を教えればおのずと十を知る。神童だとまで言われた。


 このまま家業を継がせてもよいし、本人が望むのであれば学問を修めて科挙を受けるのもよいだろうと、親を含めた誰もが期待を寄せていた。


 しかし彼が十歳のとき、生家の米問屋から火事が起きる。


 店と家屋を焼いても火の勢いは鎮まることなく、隣近所を巻きこむ大火となり死傷者も多く出た。奉公人の火の不始末が原因とも、または允家の商売を妬むものが火を放ったとも言われた。


 結局そのどちらともわからぬまま、允家は慶央での商売を諦め、一家は離散の憂き目となる。

 

 紹介してくれるものがいて、允陶は荘本家に住み込みで雇われた。そして水汲みと薪割りから始めた彼は、二十年後、荘興がもっとも信頼する一人となって家令の地位に昇りつめた。


 常に屋敷内に目を光らせている過酷な仕事ゆえか、それとも荘興の怒りを買えば首が胴から離れるとの覚悟ゆえか、彼は妻帯していない。


 そもそも彼の妻になりたい女はいないだろう。彼の几帳面さと美意識の高さについていける女は、慶央にはいない。妻になどなったら、すぐさま神経の病に罹り気が狂うこと間違いなしだ。


 しばしの沈黙に耐えて、萬姜は家令の返事を待った。


 家令はそのネズミ顔を伏せたまま上げようともしない。書付けの内容に気をとられて、端から萬姜のことばなど聞いていないのか。それとも、萬姜の言葉が気に入らず、次の言葉を待っているのか。


 家令の沈黙を前にして、着物の下の背中を湿らせていた汗が冷たくなってきた。彼女の腹の奥からだんだんと込み上げてくるものがある。


……美人じゃないからって、太っているからって、寡婦だからって。無視はないでしょう。家令さまのお仕事がお忙しいのは、あたしだって知っている。でも、あたしだって忙しいのは同じ。田舎町の小さな呉服屋だったけど、あたしは……。あたしは看板娘として、気難しい客もあしらってきた……


 萬姜の頭の中で何かがぷつんと切れた。

 刻の流れが止まった。


「ネコを追いかけられたお嬢さまは、嬉児とともに、縁の下に潜られまして。しばらくして、お嬢ささまは子ネコを抱いて縁の下から出てこられたのですが……」


 そこで言葉を切り、うつむきながらも上目遣いに萬姜は家令の様子を見る。心なしか男の筆を走らせる手の動きが遅くなったような気がする。


「お嬢さまの顔にも体にも、びっしりと蜘蛛の巣が絡んでいました」


 そこでもう一度言葉を切り、今度は、少し長い沈黙を保つ。


……こうなれば、乗りかかった舟だわ。言葉で造った船が沈んでも溺れることはないし。うるさいと叱られても大丈夫。それに、いつもからかわれてばかりのこのおデブな体。恥は掻き慣れている……


 家令の筆の動きが止まった。しかしそれは筆に墨を含ませるためかも知れず、書いていたものを読み直すためかも知れない。それとも、彼女の話に多少とも興味をおぼえてくれたのか。


「そのあと、お嬢さまの白い御髪に絡んだ白い蜘蛛の巣を払うのは、それはそれは大変でございました」


 家令の細長くとがった顔が上がった。その目の焦点が定まっていないのは、美しい少女の白い髪を前にして悪戦苦闘している萬姜の姿を想像しているのだろう。


 落ち着き払った男の口元の表情が、突然、崩れる。

 かすかだが、允陶が笑った。




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