第20話 舜庭生という老人



 彩楽堂を後にした允陶と白麗と萬姜たち一行が次に訪れたのは、舜庭生しゅん・ていせいの屋敷だった。


 古物を商う舜庭生の屋敷の門は、彩楽堂の店のある大通りから外れた場所にひっそりと建っていた。彩楽堂とちがって扁額も掲げていない目立たぬ門だ。出迎えの人影もない。


 彼ら一行の到着と同時に、ギギギッと軋む音を立てて両開きのものものしい門が内側より開かれ、馬も馬車もそのまま中へ引き入れられる。敷地に一歩足を踏み入れれば、立ち並ぶ蔵が影をつくり街中とはおもえない静寂に包まれていた。二番目の門の前で、彼らはやっと馬と馬車からおりることができた。


「高齢の主人は足が悪うございますれば、お迎えにあがれない失礼をお許しください」


 頭を深く垂れて恭しくそう言った男に案内されて、右に左にそして交差した迷路のような屋根つき渡り廊下を歩く。やっとたどり着いた部屋の奥の椅子に座って、この屋敷の主人は彼らを待っていた。小さな頭巾を頭にのせた皺だらけの顔をした小柄な老人だ。


「これはこれは、白麗さま。ご来訪をいまかいまかと待っておりました。ごらんくだされ、老人の首が鶴のように長くなりましたぞ」


 見かけとちがって洒脱な人柄のようだ。そう言いながら、椅子のひじ掛けにすがるように立ち上がろうとするのを、見かねた允陶が駆けよってその体を支えた。


「すまぬな、允さん。お世話をかけるが、どうしても白麗さまにご挨拶をせねばならぬのじゃよ」


 允陶に支えられて少女の前に立った老人は、自由の利かぬ足をゆっくりと折り曲げ、床に跪きその体と手を前に投げ出して平伏する。そして床に額を繰り返し三度打ちつけた。都・安陽にある宮中でもめったに見ることのない、貴人に対する最高の礼だ。


 なにが起きたのか理解できない萬姜は呆然と立ち尽くし、しかし驚きを顔に出さない允陶は老人が立ち上がるのを助ける。そして立ち上がった老人はおぼつかなく揺れる手で、少女の手を取った。


 感極まっている老人の頬にはすでに幾筋もの涙が伝っている。


「なんとまあ、お美しく神々しいお姿でございましょう。中華大陸を放浪していた若いときに、白麗さまのお噂は何度か耳にいたしました。それゆえに、いつかはお会いできると信じていたときもありましたが。長年の放浪生活で足を痛め、歩くことが難しくなり……。しかしながら、あなた様を探し求めている荘興という男を知り、その日よりこの慶央に屋敷を構えての隠遁の日々でございます。それがなんとまあ、我が命が終わろうかというときに、お会いできることが叶うとは。まるで夢のようでございます」


 喋れないが人の言葉の意味は少なからず理解できる少女だ。突然、老いた男に手を握られてまくしたてられた。さぞ驚いているに違いないと、萬姜は女主人の様子を盗み見る。しかし手を振りほどこうとせず、少女は微笑んで老人をただ静かに見つめていた。


 枯れ木のように骨ばった染みだらけの手をもとに戻し、袖口で涙をぬぐうと、舜老人は言葉を続ける。


「ささやかな昼餉の用意をいたしております。が、その前に、白麗さま。我が屋敷の自慢の庭を、梨佳さんと嬉児ちゃんとともにお楽しみくださいませ。ご覧になっていただく日が必ず来ると信じて、庭には中華大陸のあちらこちらの風景がしのばれるように、いろいろと仕掛けを施しております。白麗さまに愛でていただければこれに勝る喜びはございません。それから允さんと萬姜さんは、こちらへ。允さんの淹れる茶を飲みながら、老人の繰り言につき合ってくださいますかな」


 不思議な雰囲気を漂わせ不思議なことをする老人だが、その言うこともまたなんと不思議なのだろうと、萬姜は思う。




※ ※ ※


 鉄瓶がおかれた風炉とこまごました茶器が並べられた卓の前に允陶は座る。そして慣れた手つきで茶を淹れはじめた。彩楽堂は男らしくてきぱきとした豪快な所作で茶を淹れたが、允陶のそれは流麗で繊細だ。


 煮立った鉄瓶から青く爽やかな香りが立ち上がる。それを銀の柄杓で掬って茶器に注ぎ淹れ、允陶は老人と萬姜の前に置いた。茶を一口すすって老人は言う。


「允さんの茶の味はさすがですな。この茶を毎日飲める荘さまが羨ましいですぞ」


「いえ、ご老人。このような珍しい茶葉で、茶を淹れられるわたしこそ幸せと言うもの」


 茶の味の違いがわからない舌の持ち主である萬姜には、男二人の会話は退屈で面白くもない。無作法とは思いながらも、ついついきょろきょろと部屋の中を見まわしてしまう。


 舜老人の座敷は、彩楽堂のそれとはまたちがった贅の極みだった。


 あちこちに置かれた飾り棚や小さな卓の上には、所狭しとばかりに美しい壺や皿や置物が並べられている。彩楽堂の広い客座敷が着物をあつらえに来た金持ちとの商談目的のためにあるとすれば、この座敷はその設えで古物商という商売のすべてを語っていた。


「あっ!」

 萬姜は思わず声をあげた。


――この雰囲気、その贅は及ばないにしても、家宰さまの執務室の雰囲気に似ている。そういえば、お嬢さまのお部屋の雰囲気にも――


 自分の茶器に、そして老人には二煎目の茶を注いだ允陶が言った。


「萬姜、気づいたか? 舜ご老人の審美眼は天下一品だ。本物を見抜く眼と豊富な知識に、荘本家もたびたび世話になっている」


 舜庭生の商いは、彩楽堂のように門に扁額をかかげ客を待っているのではない。口頭で客の注文受けてから、屋敷の蔵の中や中華大陸に散らばる伝手を頼りに探しだしてくる。


「舜ご老人にそのようなことができるのは、お若いときに中華大陸を歩きまわって、ご自分が美しいと思われる品々を、あるいはその情報を集めてこられたからだ」


 家宰はめずらしく饒舌に語った。

 誰に対しても心を開かず慇懃無礼にふるまう。そんな彼が熱く語るのは珍しい。


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