第20話 義を見てせざるは勇無きなり
允陶が笑った。
確かに目の前の男は、ネズミのように尖った表情のない顔の口角を少し上げて、声を立てることなく笑ったのだ。
……もしかして、あたしの言葉遊びが家令さまに受けた?……
萬姜は一瞬そう思ったが、すぐに心の中の声が否定する。
……自分にも人にも厳しい家令さまが、お嬢さまの白い御髪に絡んだ白い蜘蛛の巣なんて、そんなことでお笑いになるわけがない……
その証拠に、男の顔にはもう笑みの欠片もない。いつもの表情のない顔にもどっている。ほんとうに家令さまは笑われたのか?……と、萬姜は不安になりかけたとき、彼は言った。
「報告、ご苦労であった。もう下がってよい」
萬姜は自分の耳を疑った。気難しい男から聞く初めてのいたわりの言葉だった。あまりにも思いがけないことで、礼の言葉が口から出てこなくて退室が遅れた。
「何か言いたいことがあるのか?」
うす暗い灯火に彫像のような姿を浮かび上がらせて、男が突っ立っている萬姜に訊く。
「家令さま。おおそれながら、お願いがございます」
筆を筆立てにもどす男の手が止まり、彼は萬姜を見た。
いや、睨んだ。
豊満な胸の下にある萬姜の小さな心の臓がどきんと跳ね上がる。まさか自分の口が勝手に動くとは思っていなかった。
しかし、答える男の声はなぜか穏やかだ。
「言ってみよ」
「針と糸を買いに、慶央の街に出かけてもよろしいでしょうか。いまは借りておりますが、やはりそれだけでは……」
「そうだな、おまえが縫い物に励んでいるのは知っている。それほど難しい願いごとではない。考えておこう」
またまた口が勝手に動いた。
「そのときに、お嬢さまもご一緒にお連れできればと思います。お嬢さまはお元気で活発な方にございます。お屋敷の中だけで過ごされるのは、あのお年頃のお嬢さまには、あまりにもお可哀そうでございます」
勝手に動いた口をおもわず両手でふさいだが、出てしまった言葉を腹の中に戻すにはもう遅い。
流行り病で、突然、逝ってしまった夫は物知りだった。
ある日、帳簿付けをしていた夫の横で、萬姜は憤慨した口調で喋り続けていた。
その内容は、理不尽な要求を突き付けてきた客への怒りだったのか。それとも、近所の悪たれガキのいたずらへの怒りだったのか。いまとなっては覚えていないが。
事の次第を話し終えて、萬姜は言った。
「聞いて聞かぬふり、見て見ぬふりをすべきとは、あたしだって考えたのです。でも、そうすればそのときのその場は収まっても、またいつかは繰り返すではありませんか。出しゃばり女と嫌われても 言うべきことは言わないと、問題の解決にはなりません」
夫は帳簿を閉じると、書き損じた紙を手元に引き寄せて、その隅に何ごとかをすらすらと書いた。そしてそれを萬姜の前に置く。
「読んでごらん」
「ぎ・を・み・て・せ・ざ・る・は・ゆ・う・な・き・な・り……」
「義を見てせざるは勇無きなりと、読むんだよ。その昔、人の道を説いた偉いお人の言葉だ。正義の行いだと知りながら、それを実行しないのは勇気がないからであるという意味だ」
夫は優しく微笑むと言葉を続けた。
「おまえの正義感にケチをつけようとは思っていない。それどころか、おまえのそういうところを、おれは好ましくさえ思っている。しかし、正義感というものはやっかいなものだ。例えるなら諸刃の剣だ。後先を考えずに振り下ろすと、相手だけでなく自分までも傷つけてしまう。そのことだけは忘れるな」
そしてまたある日、夫は言った。
「おまえを見ていると、孵ったばかりの雛を守ろうとして、うるさく騒いでいる雌鶏を思い出すよ。いや、決して、おまえを貶めて言っているんじゃないよ。そういうおまえを見ていると、おれも頑張って働いて、この店とおまえと子どもたちを守らねばと思うからね」
その日から、夫は人目のないところで、『可愛い雌鶏ちゃん』と萬姜を呼ぶようになった。
「やめてください。恥ずかしいじゃありませんか」
口では言い返しながら、そう呼ばれるのが萬姜は嬉しくもあった。
二人きりの寝屋で抱き寄せられて、耳元で『可愛い雌鶏ちゃん』とささやかれると、彼女の体の奥に火が点った。
「お可哀そう……?」
家令が萬姜の言葉を繰り返したので、萬姜は我に返る。
「で、で、出過ぎたことを申し上げてしまいました。どうか、お許しください」
一度引いていた背中の冷や汗が、再び、どっと噴き出して滝のように流れる。しかし、家令は細い指で尖った顎を撫でてしばらく考え込んだのち、呟いた。
「いや、それも一興かも知れんな。しかし、いま、ここで即答することは出来ない。何よりも、宗主の意向を伺わねばならないからな……。決まれば、追って知らせることにする」
「ほ、ほ、ほんとうでございますか。あ、あ、ありがとうございます」
もつれる足でなんとか後退って、彼女は部屋を出た。
奥座敷に続く渡り廊下の中ほどで足を止めて、ふううと萬姜は長い溜息を吐く。
見上げると冴え冴えと星々が瞬いている。それは新開の町で見るのと変わらぬ晩秋の夜空だ。
『……可愛い雌鶏ちゃん……』
生前の夫の優しい声をのせた冷たい風が、彼女の頬をそっと撫でて過ぎ去っていく。
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