第21話 すべては天の計らいと、舜老人は言う



「ふぉ、ふぉ。萬姜さん、なんぞ、気に入ったものでも?」


 抜けた歯の間から息を漏らせて笑い、老人が問う。無作法にも部屋の中をきょろきょろと見まわしていた萬姜は慌てて頭を左右に振った。


「ご存じかな、作られた時代も定かではないいにしえの美しい物は、人の魂を取り込むと言われておる。もしや、この中のどれかに、萬姜さんの知っておられるお人の魂が?」


 もう一度、萬姜はよりいっそう激しく頭を振った。


「ご老人。この女を怖がらせないでいただきたい。見かけ通り体は大きくがさつな萬姜だが、その肝はウサギほどに小さい。眠れないなどと言い出したら、あとが面倒です。」


「ほう、そうかな? 鬼子母神の縁日で、人買いの男より白麗さまを助け出したという武勇伝、わしの耳にも入っておるぞ」


「屋敷に籠られているというのに、そのようなことまでご存じであられるとは」


「允さんも知っておるだろう、わしの体はここにあっても、耳と目は慶央のいたるところにあるのじゃよ」


「いや、慶央どころか、中華大陸のそこかしこにもあると聞いております。ご老人の地獄耳と千里眼に、荘本家は何度も助けられています」


「そんなことがありましたかな。ふぉ、ふぉ。ところで、允さん。中華大陸の西の果ての西華国から東の果てのこの青陵国に、白麗さまは荘さんを頼って来られたのだと思っていたが。萬姜さんの武勇伝を伝え聞いてな。これはもしかすると白麗さまが頼ったのは、荘さんではなく萬姜さんだったのかと、考えを改め始めていたところじゃ」


 老人の言葉を允陶は即座に否定した。


「この礼儀も知らぬ田舎者で年増の萬姜を、白麗さまが頼られる? ご老人のお言葉でも、それはありえませんでしょう」


「礼儀も知らぬ田舎者で年増? それは言い過ぎじゃぞよ。老いたわしの目から見れば、萬姜さんは野に咲く花のように可憐じゃぞ」


 突然に自分の名前が出て、茶を口に含んでいた萬姜がむせかえる。


「萬姜、舜ご老人の前で無作法なことを!」


「まあまあ、允さん。そのように叱責せずとも」


「萬姜は退室させましょう。理解していなくとも、我々の話をこれ以上聞かれることは不都合です」


「いやいや、我々の話を理解できなくとも、萬姜さんはこの場に必要だ。それは、天の意向でもあるとわしは思う。萬姜さん、我ら男二人の話は難しく退屈であろうが、しばし我慢して付き合って欲しい」


 目を白黒させながら頷く萬姜を見て、老人は言葉を続けた。


「允さん。この下界は神々が気まぐれに造られたもの。それゆえに、知ると知らざるとにかかわらず、人の短い一生は神の造られた道を歩くしかない。それを天の定めとか天の計らいとか、人は皆、わかったふうなことを言っておるがな」


「わたしに言わせれば、ご老人のお言葉こそ、天の計らいよりも不思議に満ち満ちています」


「おお、それで思い出した。天の計らいといえば、荘さんが次男の英卓さんを連れ戻す決心をしたと聞いたが」


「なんと、そのことが、もう、ご老人の耳に入っておりましたか!」


「穏やかな性質の賢敬さんを引きずり降ろして、三男の康記を荘本家の跡目にしたいと考えている本宅の園剋の頭の中くらい、密偵の報告を待つことなく、この呆けた頭で考えてもすぐにわかる。あの園剋は李香さんの後ろに隠れてはいるが、よからぬことを企む悪知恵だけは右にでるものがいない。

 そのために、英卓さんを探し呼び戻して長男の賢敬さんの補佐をさせようと、荘本家の志ある皆さまが常々思っておられることもな。だが、英卓さんは、荘さんが外に囲った妾の子だ。荘家の居づらかった英卓さんの気持ちもわかる。そして、病弱な李香さんを気遣って、荘さんが乗り気でなかったこともわかる」


「確かに、出奔された英卓さまを、宗主はよくは思っておられず。それゆえに、今まで探そうともされなかったが。それが屋敷を抜け出された白麗さまが萬姜母子と戻って来られた夜のこと。突然に、『英卓を連れ戻そうと思う』と言われました。しかしながら、十五歳で慶央を出奔された英卓さまの行方はようとして知れず。生きておられれば、二十歳の若者となっておられましょう」


「中華大陸をさまよう白麗さまのお身と、行方知れずのわが子の身を、荘さんは重ね合わされたのか……」


 舜庭生は天を仰いだ。


「允さん、これを天の計らいと言わずして、なにを天の計らいというのか? わしには見えるようじゃ。白麗さまが慶央に来られたことによって、ここに住む多くのものたちの運命が天の力によって動き始める……。だがな、動き始めてどうなるのかは、いまだ、わしにもわからぬが……」


 その時、部屋の戸口に人影が現われた。

「ご主人さま。昼餉の用意が整いました」


 天井を仰いでいた舜庭生がその視線を使用人に移す。

「おお、白麗さまもお待ちかねであろう。すぐに参ると伝えてくれ」


 そして去っていく使用人の背中を見とどけたあと、「忘れるところであった。歳は取りたくないものよ」と呟いて、卓上の隅に置いてあった小さな布包みを手に取った。布を開けると、美しい乳白色に輝く玉石に彫られた猫の置き物が姿を現す。猫の前足はこれもまた美しく輝く真珠の上にのせられている。


「これを、允さまにお返しせねばと思ってな」


「舜ご老人、これは! 白麗さまをお慰めしたいと思い、ご老人より買い求めた猫の置き物。あの日より行方不明となっておりましたが……」


 允陶の言葉に重なるように萬姜も言う。


「それは、鬼子母神の参道で、お嬢さまが荷車と引き替えに飴売りの男に渡してくださった猫の置物ではありませんか? 範連から聞いています」


「それがこうして、巡り巡ってわしの元に戻ってきた。允さんにお返ししよう」


「しかし、ご老人。これは受け取る訳にはいきません。もう一度、代金を支払う余裕はわたしの懐にはありません」


「允さん、何を言うか。一度売ったものの代金を二度も受け取っては、商人である舜庭生の名が廃るというもの。そうだ、これは萬姜さんに渡しておこう。白麗さまの部屋の元あった場所に返しておいてくれ。さて……」


 彼はすくっと立ち上がった。

 老人の足を心配して駆けよった允陶が怪訝な声で訊く。


「ご老人、足は?」

「おっ? なんと、痛まぬぞ」


 立ち上がった舜庭生は、数歩、すたすたと歩く。そして驚く允陶と萬姜を振りかえると言った。


「いま、天がわしにお命じになったのだ。白麗さまのために老骨に鞭打って働けと。白麗さまの下界での目的がなんであるかはいまだわからぬが、老いたからといって、ただ座って死を待っていられようか」


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