彩楽堂と舜老人

第21話 初めて見る慶央の美しい街並み


 少女を伴って慶央城郭内に買い物に出かけたいという萬姜の願いは、家令の允陶から宗主の荘興に伝えられた。


 意外にも、荘興はあっさりとそれを許した。


 屋敷内に閉じ込めておくと、言葉を喋らず記憶も長く保てない少女は何をしでかすかわからない危惧がある。荘興のもとに身を寄せている美しく髪の白い少女の噂はすでに広まっている。


 その少女の美しさは、まこと天女のようだ。

 その少女の奏でる笛の音を聞けば万病も治る。


 人は見えないものに対して、勝手な想像を膨らませる生き物だ。このような噂を放っておけば、このうえにどのような尾ひれがつくことか。


 木を隠すには森の中、人を隠すには人の中という。そうであれば少女の姿を人目に触れさせるのも、一計かも知れない。そうやって少女は、二人の姉弟に伴われて、遠く離れた西華国から五年をかけて、青陵国にたどりついたのだ。




 昨夜、部屋の隅で頭を垂れていた萬姜に家令は言った。


「宗主の許しは得た。おまえの望みとおり、喜蝶さまと梨佳と嬉児を伴って、慶央の街中でしばしの買い物を楽しむがよかろう。さればこれはその時のための銭だ。わたしは男ゆえに、そういった買い物にどのくらいの銭が必要なのかわからぬが、とりあえず渡しておこう。足りないようであれば言ってくれ」


「いえ、先日、過分な給金をいただいたばかりにございます。受け取るわけにはいきません」


 畏れ多いと身を縮こまらせた萬姜に、家令は続けて言った。


「銭はいくらあってもよいものだ。おまえの息子の範連はなかなかに利発そうではないか。永先生がいたく気にいっておられる様子。いずれ勉学の道に進むとなれば、銭は入り用となる」


 萬姜と娘二人は、奥座敷の一画に部屋をあてがわれて、そこで寝起きをしている。しかしまだ十歳とはいえ、男である範連はそうはいかない。


 下働きの男たちと寝起きを共にし、朝から晩まで薪割りと水汲みをこなし、医師の永但州が来た時は彼の手伝いをする日々だ。允陶が言うことは確かに一理ある。それでもと言い返せなくなった萬姜をみて、彼は再び言葉を続けた。


「いずれそのうちに、二人の娘たちも嫁入りさせねばなるまい。そちらにも銭は必要だ」


 荘本家の屋敷に来て命を長らえた喜びはあるが、それはそれとして、この先の子どもたちの将来のことを、彼女は女の身一つで考えなければならない。允陶の言葉をそれ以上拒むことは出来なかった。




 ※ ※ ※


 慶央の街をぐるりと囲む城郭の大門をくぐり抜けてより、萬姜は物珍しさにきょろきょろと頭を動かし続けている。


 ……ここが、青陵国の南の都と言われる慶央の街。なんと華やかで賑やかなこと……

 

 黒真珠に例えられた慶央の美しい街並み。


 家々の甍は艶のある釉薬がかけられた薄い灰色で、初冬の心もとない陽射しの下で輝いていた。柱は紅殻で赤く染められ、石の壁は白い。行き交う人々も、田舎の町の新開と比べようもないほどに活気に満ちている。


 敷き詰められた石畳は、過ぎ去った歴史とともに削られ丸くなっている。


 今朝は、暖かい慶央の地にも、この冬初めての霜が降りた。それが朝陽に照らされて解け始め、冷たい湯気を立ち昇らせている。そのために、湿り気を帯びた冷気が履物の底を通して伝わってきたが、美しい街並みに目を奪われている萬姜には気にするほどのことではなかった。 


 馬に乗った允陶が先頭を行き、喜蝶と足の遅い嬉児が乗った馬車がその後ろに続く。馬車の後ろには萬姜と梨佳が徒歩で従い、槍や剣を携えた警護のもの達が前と後ろに五人づつ。なんとあの巨体の熊までいる。


 支度の整った少女と萬姜たちが屋敷の門まで出てくると、馬車一台とこの人数だ。そのうえに、荘興の見送りまで受けた。可愛らしい少女の姿に目を細めた荘興は言った。


「所用があって、一緒に出かけられないことが残念だ。喜蝶さま、慶央の街を存分に楽しまれるとよい」


『糸と針を買って、ついでに散策を楽しみたい』という気軽な願いが、このような大げさな行列になるのだと知って、萬姜は思わず申し訳なさに首をすくめてしまった。


 そして今は、荘本家の馬車の行くところが気になる物見高い見物人たちが、遠巻きで見守っている。


 馬車の窓の目隠しの垂れ布を跳ね上げて、喜蝶と嬉児の二人は顔を覗かせていた。時おり、嬉児が短い手を差し伸べて何かを指さし、言葉の喋れない少女に囁く。幼い子のお喋りの一つ一つに、少女は楽しそうに頷いてそれに応える。


 窓枠に並んだ忙しなく動く二つの顔は、枯れ枝に身を寄せた白い頭と黒い頭をした二羽の小鳥のように愛らしい。


 ぞろぞろと後をついてくる物見高い野次馬を従えたまま、客寄せの声も賑やかな露店が並ぶ通りを、馬車と允陶がまたがった馬と十数人の一行はゆるゆると歩む。


 その露店が途切れたところに呉服屋の〈彩楽堂〉はあった。

 高い塀に囲まれた屋敷と見まがう店構えだ。


 正面の両開きの門の上に飾られた彩楽堂と書かれた扁額の字に、萬姜は見覚えがある。少女の贅を凝らした着物一枚一枚を包んでいた紙に、黒々とした墨の跡も鮮やかにその字があった。


 しかし、門扉の奥にある店舗の格子戸を透かして見えるのは、衣桁に広げた見事な赤い一枚の着物だけ。そして、冷やかしの客の姿もない。萬姜が生まれ育った呉服屋のように、壁面の棚に所狭しと反物や古着や身を飾る商品が並んではいない。扁額が掲げられていなければ、静かな佇まいの屋敷だ。


 ……彩楽堂さまは、豪族・豪商を相手に、この世でたった一枚の着物を見立て誂えるという商売をなさっている……


 萬姜は銭を入れた巾着を仕舞っている胸元に手を触れた。巾着には、針と糸を買い求めるつもりの小銭が入っていた。


 ……こんなに格式ある大店に、わたしったら、わずかな銭を持って針と糸だけを買いに来たなんて。家令さまも、一言、教えてくださればよいものを。なんとお人が悪い……


 恥ずかしさのあまり萬姜の顔から火が噴き出た。すでに馬を降りて前を歩く小柄な男の背中を、彼女なりのありったけの意地を込めて睨む。


 そのとき、家令の後ろに立っていた熊が、突然、振り返った。その手はすでに刀の柄にかかっている。


 ……ひぇぇ!……


 恥ずかしさと恐ろしさで、何もかも放り投げて逃げ帰ろうか彼女は思った。だが、物腰柔らかく耳に心地いい男の声が、彼女を引き止めた。


「喜蝶さま、允陶さま、そしてお連れの皆さま。わざわざのお越し、痛み入ります。お疲れでございましょう、茶など用意しておりますれば。どうぞ、店の奥にお入りくださいませ」





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