銀狼と青龍

第22話 銀色に輝く狼



 夜具に潜り込めばすぐに夢の世界の住人となる萬姜だったが、その夜はなかなかに寝つけなかった。


 暗闇の中で目を瞑れば、豪商らしく余裕の笑みを浮かべた彩楽堂の顔と、年齢すらさだかではない舜老人の姿が、瞼の裏側に交互に現れる。そして顔と姿が現れれば、彩楽堂の男らしい深みのある声と、老人の「ふぉ、ふぉ」という怪しげな笑い声が耳の奥でこだまする。


 眠るのを諦めて目を開ければ、外は満月のようだ。

 玻璃をはめ込んだ小さな丸窓から、青白い煌々とした月明かりが一筋、部屋の中に流れ込んでいる。


 首をもたげて枕もとを見れば、彩楽堂からもらった黒い針箱が、月光を受けて銀色に輝いていた。鏡の表面のようになめらかに黒漆が塗り重ねられ、美しく咲き乱れる花々が緻密な螺鈿細工でほどこされた豪奢な針箱だ。





 萬姜は少女の寝室の隣の部屋に、毎夜、床敷きした夜具で眠っている。梨佳と嬉児は、奥座敷の端にある納戸を片づけてそこを寝室としている。雑多な家具や道具類を隅に寄せての、やはり床敷きにした一つの夜具に二人で身を横たえる窮屈な生活だ。


「ここでのおまえたち母子の立場が安定したものになれば、それなりの待遇を考える。それまでは不自由ではあろうが、しばらく我慢せよ」


 先日、家宰にそう言われた。


「いえ、不自由などと思ったことはありません。いまの暮しで十分でございます」


 鬼子母神の再会門の下で首を吊る木の枝を探していた立場からすれば、いまの暮しはまるで夢のようです――、とまでは、言えなかった。彼女の返答に、家宰はネズミ顔の薄い唇の片端を上げた。


「おまえは騒がしくてドジな女だが、欲のないところは美徳だ」


 褒め言葉だか皮肉だかわからない、いかにも家宰らしい言葉だった。




 眠れぬ辛さに「はぁぁぁっ……」とため息を吐いて、慌てて隣の部屋の様子に耳をそばだてる。日中に遊び疲れた少女の眠りは深いようで、寝息も寝返りの気配も伝わってこなかった。


――お嬢さまに、何を縫ってさしあげよう?――


 これで何度目だろうか。首をもたげて枕もとに置いた針箱を見る。

 

 先ほどより、針箱がひときわ美しく輝いていた。まるで銀粉をまぶしたような眩しさで、暗闇の中で浮き上がっているようにさえ見える。夜空に浮かぶ月と小さな明かり取りの窓と針箱が一直線上に並んだのか。


 萬姜は頭をまわして小さな窓を見上げた。桟にはめ込まれた玻璃が青白い炎の中で燃えるように輝いている。部屋を見まわすと、中庭に面した戸と窓の隙間から銀色の光がまるで漏れこぼれるかのように射していた。


――満月にしては明るすぎる。夜の警護の男たちが手に持つ松明でもなく、火事でもないようだし。まさか、月が落ちてきたとか――


 萬姜は聞き耳を立てた。このように外が明るければ、騒ぎ立てる人の声がしても当然だ。


――あまりにも静かすぎる――


 その時、夜具の上に身を起こした萬姜の耳に彼女の名前を呼ぶ声がした。 

「萬姜、萬姜、……」

 男の声だ。


――誰が、わたしを呼んでいるのだろう?――

 

 体の上にかけていた寝具をひきはがすと、彼女は立ち上がった。




※ ※ ※


 おそるおそる戸を開けて、濡れ縁の上に素足で立つ。薄い寝衣一枚の体に、初冬の夜気は身にしみるほどに冷たい。


 目の前の中庭は青白く怪しい光で満ちていた。しかし光の源は落ちてきた月ではないことは、萬姜にもすぐにわかった。中庭の真ん中にある小さな池の向こうに四つ足の獣がいて、こちらを見ている。獣の毛並みは光輝く銀色で、それが中庭を眩しく照らしている。


 輝く銀色の毛並みを逆立てているのは、犬か……。いや、犬ではない。犬でないものは仔牛ほどに大きく、「おいで」と呼んで、その頭を撫でてみたいとは思えない強面な顔つきをしている。狼だ。


「ひぃぇぇ!」


 驚いて叫んだ萬姜はその場にへたり込んだ。しかし驚くことはまだ続いた。覗く牙もするどい口を開けて、銀色の大きな狼は人の言葉を喋った。


「萬姜、そのように怖がらなくてもよい」


「お、お、お助けください!」


 腰が抜けたので這って部屋に戻ろうとした萬姜の背に、銀狼の言葉が追いかけてきた。


「取って食おうとは思っていない。たとえ、おまえが肥え太って美味そうであっても」


『取って食う』という言葉に、彼女は這うことをやめた。あとの言葉は耳にはいらなかった。命をかけてもお嬢さまを守るという自分の使命を彼女は思い出した。逃げている場合ではない。振り返って座り直す。


――どんなに飢えた狼でも、わたしの体一つで満足するに違いない。お嬢さままで襲うことはないはず。太った体がこんなところで役に立つとは――


 そう思うと肝が据わった。

 寝衣の胸元の着崩れを直しながら、彼女は答えた。


「狼さま、遠慮は不要です。わたしを食べてください。あなたさまのご想像通り、わたしの太った体は、美味しい豚の味がするはずです」


 腰が抜けてしまったが、肝は据わった。口は自分でも不思議なほどに動く。もう、声も震えていない。


「萬姜、おまえの心根はよいが、その早とちりが玉に傷だな」


 その口を横に広げて狼は笑い、そして言葉を続けた。


「どうやらこの体では、おまえとまともな会話は出来そうにない。元の体に戻ることにする。しばし待て。だが、萬姜。おれがもとの体に戻る間に、助けを呼ぼうとしてもそれは無理だ。いまここの時は止まっている。おまえ以外には誰も動くことはできない。おれの言葉が理解できたなら、頷いてみせろ」


 かくんと首を折って萬姜は頷く。


 夢の中で、それはたぶん萬姜が見ている夢の中で、中庭に満ちていた銀色の光が狼に向かって渦を巻きながら集まり始める。やがてその中に白い人影が現れた。


 長身の若い男だ。

 漆黒の髪を一筋の乱れもなく結い上げて、頭頂部でまとめている。白い顔の目鼻立ちは美しく整っていて涼やかだ。


 遠目にも織りの複雑さが想像できる銀色の着物を身にまとっている。

 袖も裾もゆったりと長いそれは、銀狼の毛並みのように中庭を一面に照らすほどには光り輝いてはいなかったが、白い靄となって若い男のまわりでたゆたっていた。ひれ伏したいほどに若い男は神々しい。


 歩くでもなく飛ぶでもなく、男はすっと動いて萬姜の横に立った。


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