第22話 彩楽堂の主人
そう言ったあと、その男は後ろを振り向き、数歩離れて控えている女たちに命じた。
「おまえたち、喜蝶さまのお相手を頼みますよ。しっかりものの梨佳さんと嬉児ちゃんがついているので大丈夫とは思いますが、くれぐれも粗相のないように。お店の奥の部屋で、わたしは允さまと萬姜さんに大切な話があります」
……えっ、荘家の使用人でしかないあたしと梨佳と嬉児の名前を、このお方はすでに知っておられる?……
萬姜の驚きをよそに、優しい男の声に応えて美しく着飾った女たちが口々にかしましく言う。
「喜蝶さま、池の鯉を見に行きましょう」
「喜蝶さま、美味しいお菓子もあります」
「さあさあ、梨佳さんも嬉児ちゃんもご一緒にまいりましょう」
そして賑やかであでやかな女たちの集団は、彩楽堂の私邸へと続く門の中へと消えていった。その後ろ姿を見送っていた男がつぶやいた。
「まことに美しいお嬢さまにございます。天女だという巷の噂も、あながち偽りではないような。人目に触れさせたくないという荘さまのお気持ちが、わたしも男としてわかります」
「あっ、いや、彩楽堂、そうではない。喜蝶さまは言葉が不自由であられるので、宗主はそれを不憫に思い、屋敷内から出されることを迷っておられただけのこと。しっかりものの萬姜に世話を任せることになって、このたび、喜蝶さまにも慶央の街を楽しんでいただくことになった」
そしていつもの慇懃無礼で抑揚のない声で、彼は言葉を付け足した。
「美しいと言えば、彩楽堂の妻女たちの美しさも、おれの耳に入るほどの評判ではないか」
「妻たちを比べるなどとはとんでもないこと。允さまのおかげで、わたしも眼福にあずかることができました」
允陶の皮肉にも動じることなく答えると、男はあらためて萬姜に向かい合った。
「萬姜さん、ご挨拶が遅くなりました。彩楽堂の
「萬姜、誼さんはこの慶央で六代続いた老舗・彩楽堂の当主だ」
允陶が男の言葉を補足する。
「まあ、なんとお若い店主でいらっしゃること!」
あまりにも場違いなところに来てしまったと、萬姜は二人の男の顔を交互に見ているだけだった。それで返す挨拶の言葉も忘れて、ぼうっとした頭に浮かんだままのことを思わず口走ってしまった。
しかし
「先代が早死にいたしましたので、若輩者のわたしが彩楽堂を継いで、十年が過ぎました。萬姜さんのご実家も呉服屋であったとか。さぞや、若造のわたしなど頼りなく見えることでしょう」
「そ、そ、そのようなことはございません。失礼なことを申し上げてしまいました。ど、どうかお許しを……」
萬姜の慌てぶりを、ふたたび笑みを浮かべた誼は顔の前で手を振り否定した。そして初めて気づいたというふうに彼は言う。
「お二人に長々と立ち話をしているわたしのほうこそ失礼そのもの。さあ、どうか店の奥に設えている客間にお入りください。道中のお疲れを癒すためにも、茶を点てて差し上げたいと存じます」
※ ※ ※
彩楽堂の客用の座敷からは、敷きつめた白砂を海に奇岩を島に模した中庭が望めた。座敷は咲き乱れる花を透かし彫りにした衝立で仕切られた二間続きとなっている。
広い座敷のほうには、床に緋色の絨毯が敷かれているだけで家具らしきものは一つもない。壁をくりぬいて作られた棚に置かれた小さな香炉からよい香りを漂わせて紫煙が一筋立ち昇っているだけだ。
この部屋で、貴族・豪族・豪商の妻女たちが品定めをするのであろう。
目にも鮮やかな色とりどりの染めや織りや刺繍の反物。
もしくはすでに仕立てあがった豪華な着物。
それらが彩楽堂の手代たちによって広げられるたびにあがる女たちの嬌声。
田舎町の小さな呉服店の女房であった萬姜にも十分想像できた。
そしていま彼女がいる部屋では……。
妻や娘たちの嬌声を聞きながら、彼女たちの夫や兄や允陶のような立場である家令が、彩楽堂を相手に値段の交渉をするのだろう。きっとため息しかないに違いない。
萬姜が頑なに拒んでも、「允さまも萬姜さんも、わたしの店の大切な客人です」と彩楽堂の主人は言って、彼女を允陶と同じ卓に座らせた。
そして相変わらず彫像のように姿勢を崩さない允陶と、赤くなったり青くなったりしながらもぞもぞと体を動かす萬姜を前にして、彼は慣れた優雅な手つきで茶を淹れはじめた。
赤く熾った炭の上に置かれた鉄釜に差し水を足し、錫の入れ物から一つかみの茶葉と一つまみの塩を入れる。そしておもむろに竹の柄杓でかき混ぜると、鉄釜の口から湯気とともに馥郁とした緑色の香りが立ち昇ってきた。
彩楽堂の主人は髭のないつるりとした色白な肌をしている。それで初めは自分と同年齢と思ったが、もしかしたら実年齢はもう少し高いのかも知れない。背が高く、太っているというほどではないが肉付きはよい。呉服商という女に夢を売る主人が色黒く貧相に痩せているのも、また武人のようにごつごつと厳ついのも歓迎はされない。
頭頂で一つにまとめた髷には磨かれて艶のある黒檀の簪が挿されていた。身にまとっている着物は華美でないが、さりげなく大店の主人であることを主張している。
彼は雰囲気もよいが顔立ちもよい。
話しかけてくるときにはぴたりと視線を合わせてくるが、目尻に刻まれる優し気な皺がこちらの警戒心をほぐす。
そして何よりも声がよい。女の楽しみに気長につきあう商売人が醸し出す穏やかさがその声にはある。
俯いてその声だけを聞いていると、萬姜は店先に立ち接客する夫を思い出した。顔つきも体格も彩楽堂の主人と病死した彼女の夫とは違うが、やさしげな声とおだやかな腰の低さはよく似ていた。
……まあ、あたしったら、こんな大店のご主人様と死んだあの人を比べるなんて。なんと畏れ多いことを……
茶が満たされた茶碗が目の前に置かれて、我に返った。このような場合、自分のような立場のものが茶を飲んでよいものだろうかと、茶碗を見つめて、一瞬、彼女は悩んだ。それを察した彩楽堂の主人は言う。
「萬姜さん、わたしの淹れた茶がお口に合えばよろしいのですが」
そう言われれば、茶碗を手に取るしかない。
ほどよく熱くさわやかな渋みとほのかな甘みを含んだ茶は、緊張で乾いていた彼女の口を湿らせ喉の奥へと流れていく。
「たいへんに美味しいお茶でした」
萬姜が空になった茶碗を卓上に戻すのを見とどけて、男は満足そうに頷いた。そして柔和な目尻の皺をいっそう深めて言った。
「萬姜さん、彩楽堂が仕立てた喜蝶さまのお着物の袖と裾を切って、縫い直されたと聞きましたが?」
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