第23話 お着物はその人に好まれてこそ……


 彩楽堂の主人の問いに、萬姜は卓上に額がつくほどに頭を下げるしかなかった。

 恥ずかしさに顔は火照って真っ赤になり、柔らかな肉で盛り上がった背中を氷のように冷たい汗が伝う。


「出過ぎたことをしてしまいました。お許しくださいませ」


 今日の少女の着物は、淡い桃色の上衣に下はお揃いのずぼん。そして織り模様の美しい朱色の羽織りもの。これから寒くなることを考えて羽織り物には短い袖を付けて、肩には薄く伸ばした綿も入れてある。きりっと巻いた共布の細帯に金色の飾り紐を結んだ。


 家令に慶央の街の散策を願い出た夜、部屋に戻ると、長持ちの中に仕舞い込まれていたあまたある少女の着物を広げた。そしてその中から選んで縫い直したものだ。


 たしかに荘本家の奥座敷で何不自由なく暮らす少女が纏う着物ではない。

 だが、自分が縫ったからと自慢するつもりはないが、白い髪を耳の下で切り揃えた少女にそれはよく似合っていた。


 彩楽堂が畳みかけるように言葉を続ける。


「喜蝶さまのために心を込めて、彩楽堂が誂えさせていただいたお着物にございます」


「そ、それは、あたしも……、いえ、わたしも重々に承知いたしておりました」


 萬姜の頭は傾き落ちるところまで落ちて、ごつんと音を立てて額は卓上にぶつかった。そのままの姿勢で首を傾げて、我関せずと涼しい顔をして茶を飲んでいる横に座る家令を見る。


 ……あたしは糸と針を買いたかっただけなのに。彩楽堂さまに立ち寄るのであれば、そう言ってくださればよかったのに……


 着物を縫い直したいとお伺いを立てたとき、たしかに家令は『おまえの好きなようにしたらいい。どの着物でもよい。そして何枚でもよい』と言ったはずだ。いまさらながらに、彼を恨めしく思う。


「萬姜さんもお着物を扱う商いをしていたのであれば、あの切り刻まれたお着物の値打ちが見当もつかなかったという訳ではないですよね?」


 彩楽堂の追及は止まらない。


……彩楽堂さまに死んだあの人を重ねて、一瞬でも、懐かしさにとらわれたなんて。でも、確かに、あの美しいお着物を仕立て直したのはこのあたし。鋏を入れる前に、申し訳なさにお着物に手を合わせたと言っても、彩楽堂さまには言い訳しか聞こえないはず……


 そのとき、開けていた窓から初冬の風が吹き込んできた。


 それは熾った炭火のせいだけではない火照った萬姜の頬を撫でた。その一陣の風はまた、彩楽堂の私邸の庭で池の鯉を相手に遊んでいる女たちの楽しそうな声も運んできた。


……あの笑い声の中にはお嬢さまの声もあるはず。あたしの願いは、荘本家の奥座敷に閉じこもっておられるお嬢さまに、久しぶりの外出を楽しんでいただきたいだけ。そうだわ、あたしの恥や怖れなんかどうでもいいこと……


 彼女の仕立てる着物を少女も気に入ってくれている。今朝の着替えの間、梨佳と嬉児に「可愛い、可愛い」と褒められて、まんざらでもない顔を見せてくれた。相手が慶央一の呉服商の彩楽堂であっても、自分の想いを心の中に閉じ込めてここで引っ込むわけにはいかない。


 萬姜はくいっと頭をあげた。


 自分をうかがっている彩楽堂と目が合う。さぞ憎々し気な目で睨みつけていると思ったのに、意地悪な口調とは違って男の目は優しく細められていた。不思議なことに気づかいの色さえ浮かんでいる。しかし、開きかけた口を閉じることは出来ない。


 我慢していた想いが一気に溢れ出し、彼女はまくし立てた。


「着物は着る人に似合ってこそでございます。そして、そのお人に喜んで着てもらってこそでございます。彩楽堂さまがなんとおっしゃられようとも、お嬢さまに喜んで着ていただければ、わたしはそれだけで幸せです」


 慶央一の老舗呉服商・彩楽堂に田舎町の古着屋に毛の生えた呉服屋の女が口答えをしたのだ。はっと気づいて、自分の手で自分の口を塞いだがもう遅い。


『萬姜、おまえの気持ちはわかるが、なるべくその口は慎んだほうがいい。ときに無用な争いごとの種になることがある。とくにおまえは女なのだから』


 亡き夫の心配する声があの世から聞こえてきた気がした。彩楽堂を怒らせたとして、屋敷に戻れば家令より厳しい叱責を受けて、母子共々、初冬の寒い空の下に放り出されるのか。


 ……お客に着物を見たてて売る商売も好きだったけれど、お嬢さまのお世話をさせていただくのも、天があたしに与えてくださった仕事かと思えるほどに楽しい日々だった……


 再び、彼女の重い頭は垂れ下がり、卓上に額を打ちつける。今度は先ほどより大きな音が響きわたった。


 隣に座っていた家令が、萬姜がまくし立てている間に飲み干した茶碗を戻す気配がする。そして喜怒哀楽を表情に出さない彼がふんと息を吐きだして鼻先でかすかに笑った。


「おい、彩楽堂。我が屋敷の女中がこのように申しておるぞ」


「允さま、喜蝶さまは、心強いお味方を得られたようにございます。いまの萬姜さんの言葉、彩楽堂の心に沁みました。喜蝶さまは遠く中華大陸の西の果てからこの青陵国に来られたと聞いています。そのうえに天涯孤独の身であられるとか。そのような気の毒な身の上を知れば、いまの萬姜さんの言葉はほんとうに喜ばしいことと存じます」


「えっ……?」


 大木ですら真っ二つにする雷のような怒声が落ちてくると覚悟していた萬姜は、素っ頓狂な声とともに顔を上げた。目を細めますます目尻の皺を深くした彩楽堂の顔が自分を見つめている。


「萬姜さん、勘違いされては、わたしのほうが困ってしまうではありませんか。今までのわたしの言葉は、萬姜さんを責めるために言ったのではありません。着物は着る人に似合ってこそです。そして、そのお人に喜んで着てもらってこそです。まことに、萬姜さんの言われる通りです」


 小さなため息を吐き出すと、彩楽堂は言葉を続けた。


「萬姜さんを困らせた償いと言うのもなんですが、着物を扱う彩楽堂としては、決して口外したくはない恥ずかしい話を、萬姜さんに聞いて欲しくなりました」


「えっ……?」


「実を言うと、今日まで、わたしは喜蝶さまのお姿を拝見したことがございません。ましてや、彩楽堂の着物をお召しになったお姿を。喜蝶さまのおおよその年恰好を、荘さまと允さまにお伺いして、着物を仕立てさせていただいておりました」


「まあ! そのような!」


「それでも世に美しいと言われるお嬢さまに似合うお着物をあつらえる自信がわたしにはありました。それがなぜか、彩楽堂の納めるお着物を喜蝶さまが気に入ってくださらない。気に入ってくださらないどころか、毎朝、それらの着物を着たくないために足で踏みつけられるとか。彩楽堂の面目が丸つぶれではありませんか。それでわたしも允さまに言ってしまったのです。喜蝶さまが喜んでお召しになってくださるまで、着物の代金は受け取らないと……」


 その言葉に、再び、家令が鼻先でかすかに笑う。


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