第23話 小さな青龍まで現れた!



――あらら、昼間に彩楽堂さまのよい男ぶりを見てしまったので、わたしの夢の中まで若くてよい男が。明日の朝に目覚めたら、新開の町に向かって手を合わせて、死んでしまったあの人にお詫びをしなくちゃ――


 これは夢だと信じてしまえば、怖れるものは何もない。


「萬姜、白麗が世話になっている。ありがたく思う。白麗は喋ることもできずその記憶も長く保つことは出来ない。そもそもが自分がなぜここにいるのかも、あれはわかっていない。それはすべて、罪を得て天上界より下界に落とされたときの、天帝のお計らいだ」


 若い男の不思議な言葉は、まるで一陣の風のように萬姜の頭の中を通り過ぎた。


――天帝のお計らい……? 舜ご老人さまから難しいお話を聞かされたので、寝ているわたしの頭の中まで、難しい言葉でいっぱい。でも、目が覚めれば消えてしまう言葉ばかりだから、その意味を深く考えてもしかたがない――


 しかし、萬姜の心の中の声は若い男に筒抜けだった。


「萬姜、これは夢ではない。なぜに言葉も喋れず記憶も失ったままで、白麗は中華大陸をさまようことになってしまったのか。そしてなぜにおまえが選ばれたのか。おまえの白麗への忠義に報いるために、その仔細を少しばかり語って聞かせようと思い、今夜は下界に降りてきたのだが……」


 言葉を切って、若い男は満月の浮かぶ夜空を見上げた。男の視線につられて萬姜も夜空を見上げた。


 月が二つある!

 満月がぽっかりと二つ並んで夜空に浮かんでいる。

 若い男が舌打ちを響かせた。


「どうやら、今夜はそのときではないようだな。面倒くさいやつに気づかれた」


 二つある月の一つの月が、目に見える速さで大きくなる。いや、大きくなっているのではない、こちらに向かって一直線に落ちてきている。


――狼に食い殺されるかと思ったら、今度は落ちてきた月に潰されるなんて。なんていう変な夢なのでしょう――


 しかし落ちてきた月は若い男の横に並んで止まった。中庭は再び、まぶしいばかりの銀色の光に包まれた。


 銀色に渦巻く球がはじけて、青い鱗に覆われた細くて小さい子どもの龍が姿を現す。青龍は若い男の体にからみつくようにその周りを旋回すると、甲高い声で叫んだ。


「あにうえ、ボクをのこしてひとりでにおりるなんて、ずるい!」


 その声の舌足らずな調子からして、六歳の嬉児と同じくらいの歳のように思えた。からみつく子どもの青龍をうるさいとばかりに振り払って、若い男は答える。


「皇太子のおまえを下界に連れてきたら、天帝のお叱りを受けるのは、このおれだろう」


「そんなの、いやだ、いやだ。ボクだって、ハクレイのことがしんぱいなんだ。だって、ハクレイはボクのになるんだもの」


「性懲りもなく、まだそのようなことを言うのか、このマセガキが!」


 だが、若い男の怒りもその強い口調も、青龍にとっては慣れたもののようだ。その幼さの残る小さい顔、それでも突き出した鼻の下に立派な二本の髭のある龍の顔を萬姜に向けると、無邪気な声で言った。


「もしかして、あにうえ。このおんなのひとがマンキョウなの? ボクもマンキョウと話をしてもいい?」


 若い男の苦り切った声が、無邪気な声に重なる。


「皇太子とはいえ、大人の話に首を突っ込むな。それにその口の利きようはなんだ。おまえには兄を敬う気持ちはないのか? おまえはいつになったら恩義というものを知るのだ? もったいなくも皇太子の座を譲ってやったというのに」


「あにうえ、それはちがうよ。ボクのははうえのほうが、あにうえのははうえよりがうえなんだ。ボクのほうがやんごと……、ええと、おしえてもらったのに、おぼえられないや。やんごと……、そうそう、やんごとなきなんだ。だからボクがになるのはとうぜんなんだ」


「馬鹿が。取り巻き連中のおべんちゃらに乗せられたな。天上界に戻ったら、すぐさま、その根性を叩き直してやろう」


「うん、いいよ。ボク、あにうえのことだいすきだから、しかられてもへいきだよ。おしりぺんぺんだってがまんできる。でも、そのまえに、ボクはマンキョウとお話がしたい。ねえねえ、マンキョウ、ハクレイはげんき?」


 小さく幼いとはいえ相手は龍だ。その龍に気安く『マンキョウ』と呼ばれた。萬姜はかくかくと首を振って頷く。しかし、銀狼と青龍の兄弟喧嘩はなんやら微笑ましい。そう思えば、子どもを三人育てている萬姜にとって、兄弟同士の口喧嘩は聞き慣れた光景、見慣れた日常でもある。


「はい、青龍の皇太子さま。お嬢さまはお元気でございます。ご安心くださいませ」


「それはよかった。ほらね、あにうえ、ハクレイはげんきでいるって」


「愚か者につける薬はないとは、おまえのことだ。誰のせいで、白麗が下界をさまようことになったと思っている?」


「あにうえはしんぱいしすぎなんだよ。そのうちにボクがのおいかりをとくよ。そうしたらハクレイはにもどれる。だって、ボク、きれいでやさしいハクレイのことだいすきなんだもの。としのさなんか、かんけいないよ」


「少しはその口を閉じろ。おまえは喋り過ぎだ」


「だいじょうぶ。マンキョウはゆめだとおもっているから。ねえ、そうでしょう、おばちゃん?」


「おばちゃん……? あっ、そ、そうですとも。これは全部夢です、青龍の皇太子さま」


「ほらね、あにうえ」


 青龍の無邪気な言葉に、若い男は天を仰いで嘆息した。


「遅く生まれた末子だからということで、天帝はおまえを甘やかしすぎておられる。さあ、天上界のものたちに気づかれぬうちに戻るぞ」


「いやだ、いやだ。もっとここにいたい」


 その白く輝く着物をまとった体を、若い男はくるりと反転させる。その姿はふたたび狼の姿に戻った。「まだ、帰るのはいやだ」と騒ぎ暴れる青龍を、狼はなんなく組み伏せた。細く長い体をくねらす青龍に前足を乗せると、萬姜に言う。


「とんだ邪魔者が入ってしまったが、いずれまた来る」


 そう言うと、青龍の後ろ首筋を咥えて銀狼は大きく跳躍して天へと戻っていった。



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