第24話 青龍の皇太子に<こころ>を教えるって?
あの夜から、やんちゃな青龍の皇太子は、萬姜の夢の中に幾度となく現れた。
いや、萬姜が夢だと思っている中に現れた……、といったほうが正しい。
今夜、青龍は六歳の嬉児ほどの人の子どもの姿となって、萬姜に身を寄せて座っている。
二人が仲良く並んでいる中庭に面した濡れ縁は、冴え冴えとした初冬の月光に照らされて影までもが青白い。明日もまた冬晴れのよい天気となるのだろう。霜が降り始めたようで、辺り一面、キラキラと輝く白い粒子が幻想的に舞っていた。
青陵国の南に位置する暖かい慶央には雪が積もることはめったにない。それでもすべてが凍りつきそうな夜であることは確かだ。だが、素肌に夜着一枚の萬姜は寒さを感じていなかった。なぜなら、やはりこれは夢の中の出来事であるに違いないからだ。
夢の中で、萬姜の豊満な体に縮こまらせた身を寄せて、子どもの姿となった青龍の皇太子はぐすんぐすんと鼻水をすすりあげて泣いていた。
天上界の神だと名乗った年の離れた兄は変身前の銀狼の姿にふさわしく銀色に輝く着物を着ていたが、弟のほうは清流のような水色の着物を着ていた。美しく輝いているのは兄の着物と同じだ。
兄と同じように後れ毛もなくきっちりと結い上げた黒髪は、繊細な透かし彫りが施された小さな冠で纏められている。兄の顔立ちは神々しいほどに美しく整っていた。弟のほうもいまはぐしゃぐしゃに泣き崩れた顔だが、いずれは兄と比べても遜色のない顔立ちの若者になると想像させた。
※ ※ ※
青龍の皇太子が一人で現れたのは、萬姜の夢の中に兄弟で現れて、十日も過ぎた真夜中のことだった。
「おばちゃん、おばちゃん。マンキョウおばちゃん」
聞き覚えのある幼い男の子の声に目覚めて、部屋の外に出るとすでに子どもの姿に変身した青龍の皇太子が中庭に立っていた。
夢である不思議を忘れて、萬姜は思わず訊ねた。
「あらまあ、今夜は、お一人で? お兄さまはどうされました?」
その小さな体の胸を張ってせいいっぱいに反りかえらせて、青龍は答えた。
「あにうえがいったんだ。ひとりでげかいにおりて、おばちゃんにいろいろおしえてもらえって。なまいきなおまえには、いまいちばんそれがひつようなことだって。でもね、いったいなにをおしえてもらうのか、ボクにはわからないけど……」
そう言いながら、青龍の皇太子は歩くでもなく走るでもなくすうっと近づいてきて、萬姜の傍に立った。
欠けた月は満月ほどではないが、それでもすべてを青白く見せるには十分な明るさだ。その青白い光のために、青龍の皇太子の整った顔がよく見える。顔の真ん中にある鼻の穴がえらそうに膨らんでいる。よほど実際の年齢よりも自分を大きく見せたいらしい。貴い身分であっても、考えていることは嬉児と変わらない。可愛らしく思えて、萬姜の顔には笑みが浮かんだ。
「まあ、そのようなことを、あのお兄さまが……。でも、わたしにもなんのことか見当もつきません。そもそもが、このわたしに青龍の皇太子さまに教えるなどということがあるとは思えませんが」
萬姜の笑みを、軽く扱われたと思ったのか。
青龍の声が甲高くなる。
「そうだよね。ボクにはたくさんのせんせいがいて、まいにちまいにち、すごくむつかしいていおうがくっていうのをまなんでいるんだよ。おばちゃんにおしえてもらうようなことはないよ」
それから小首をかしげて、思い出したように言葉をつけ加える。
「ボクをまえにしてたつことのできるのは、ちちうえとあにうえだけだ。マンキョウ、ぶさほうだとしれ! ひざをおれ!」
その言葉に、「これは夢だ、夢だ」と心の中で呟き、萬姜は慌てたふりを装って跪き、寝衣の衿を掻き合わせて整えた。その様子に青龍は満足すると、声はまた子どものそれに戻って、濡れ縁に正座した萬姜を見下ろして言葉を続ける。
「でも、あにうえはいうんだ。おまえはていおうがくよりもまえに、こころをまなぶひつようがある。それをおしえてもらうには、マンキョウが、さ、さ……。ええと……。さ、さいてきのせんせいだって。ねえ、おばちゃん、こころをまなぶってどんなべんきょう?」
「青龍の皇太子さま、無学なわたしが答えるには、それは難しい質問にございます」
「そういうだろうとおもっていたんだ。ひとごときおまえに、このボクがおしえてもらうことがあるわけがない」
子どもの生意気な言葉を「これは夢の中だから」と、甘んじて聞き流していた萬姜だった。しかし、いまの『人ごとき』という言葉に怒りを覚えた。絶対に許すことは出来ない。
「お言葉を返すようでございますが、青龍の皇太子さま。人ごときおまえとは……? それをわたしに向かって言われるとは? ええ、お見かけ通りに、わたしは大した女ではありませんが、それでもあなた様であっても、『人ごとき』などと貶められたくはありません」
この言葉を使ったのが、範連、もしくは嬉児であれば、お尻を叩いて懲らしめ、暗い納戸の中に半日放り込んで反省させたことだろう。それが母親の役目だ。
案の定、人ごときに反撃されて、萬姜を見下ろしている子どもの子どもらしからぬ整った色白な顔が真っ赤になった。跪いている相手に、言い返されることに慣れていないのに違いない。
「おまえは、ひとごときだろう? ほんとうのことを、ボクはいっただけだ」
知恵のまわる口の立つ子どもというものは、大人が言い返せない理屈で攻めてくる。
――わたしは十歳の時から、姉に託された梨佳の母親代わりだった。だてに、子どもを三人育ててきたわけではない。夢だか龍だかわからないけれど、この甘えん坊でいて、突然に威張りだす六歳の子どもの心の中は、わたしには手に取るようによくわかる。口に出して言えない大きな悩みを持て余しているんだわ――
彼女は母親の顔になって、青龍を見上げた。
「青龍の皇太子さま。その小さな胸の中に、もしかして、大きな悩みごとがあるのではありませんか? 解決してさしあげることは出来なくとも、聞いてさしあげることはできます」
怒りで赤くなっていた子どもの顔がますます赤くなった。
「な、な、なやみって、なんのこと。ボクはちちうえのあとをついで、いつかはてんていになるんだぞ。てんていになれば、ボクのひたいにあるしんがんはひらいて、すべてがみとおせるようになるんだぞ。そんなボクになやみごとなんかあるわけない」
「天帝? 神眼?」
豆鉄砲を食らった鳩の顔になった萬姜が言葉を繰り返す。
ぷいっとそっぽを向いてそれに答えず、くるりと体を反転させて青龍の皇太子は子どもから龍の姿に戻った。そして青く輝く丸い靄に包まれて、別れの言葉もなく天に昇っていった。
それが夜空に消えてしまうまで見上げて見送ったのち、萬姜は言葉に出して呟いた。
「あの怒りと慌てよう……。わたしの言葉は図星だったのだわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます