第25話 萬姜の胸の中で泣きじゃくる神の子ども


 懲りるという言葉は、龍という姿であれ皇太子という身分であれ、子どもの頭の中にはないのか。それとも、下界への好奇心が抑えがたかったのか。それとも、あの銀狼の姿をした年の離れた兄に厳しく諭されたのか。


 怒ってぷいと空の上に戻っていったにしては、青龍の皇太子はその後も、数度、萬姜の夢に現れた。そして、彼を悩まし苦しめ続けている天界の出来事について、ぽつりぽつりと語り始める。


 しかし、神であっても子どもの口から語られる天界のありさまは、あまりにも断片的だ。


 都・安陽にある天子が住まわれる宮殿のありさまを、巷の噂話を寄せ集めてあれこれと萬姜も想像はしてみたことはある。しかしながら、田舎町で生まれ育った萬姜には、盲人が象の足の先を触って、その大きな姿をあれこれと考えるのと同じもどかしさがある。


 それが、青龍の皇太子の口から語られるのは、空の上に住まわれる神々の世界の話だ。


 子どものたどたどしい言葉で、彼女が理解できるわけはない。天の上の神々が住まわれる世界とは、彼女にとっては、空にむかって手を合わせお願いごとをするときに思い出すくらいのものでしかない。


 そのような世界におられるという神々が、ひとりの美しい少女をめぐってあれこれと画策し、そのために大騒動が起きたなど、学のない彼女の想像外だ。


 舜老人の言葉を思い出す。

『下界に落とされた不老不死の白麗さまは、広大な中華大陸をさまよわれている。ただ、何が目的なのかは、わしにもまだわからぬのだがな。ふぉ、ふぉ」

 その言葉ですら、理解の外だというのに。


 ただ、彼女にわかるのは、目の前に立つ我が子の嬉児とそう変わらぬ歳の神の子どもが、そのことで悩み深く傷ついていること。そして、その子どもが皇太子という立場で将来の天帝の地位を約束されているがために、彼の心の奥深くまで立ち入って、彼を慰め諭す術をどの神も持っていないということだ。


「あにうえはいうんだよ。おまえはしょうらいはちちうえのあとをついでとなることをされただって。そして、そういうたちばのものがいうは、とてもおもいんだって。おばちゃん、がおもいって、どういうこと? におもさなんかあるの?」


「さあ、そのような難しい問に、学のないわたしがどのように答えてよいものか……」


 時おり見聞きする宗主の荘興や家宰の允陶、そして魁堂鉄の言葉遣いについて、しばし萬姜は豊満な胸に手を当てて考えた。


「……、さようでございますね。重い言葉というものは、一度口から外に出してしまったら、もう引っ込めようがない言葉をいうのではないでしょうか?」


 だから宗主の言葉は明瞭で、家宰の言葉は冷淡で、魁堂鉄の言葉は端的なのだ。


「ひっこめようがないって?」


「言ってしまったら、聞いたものたちが、必ず、その通りにせざるを得ない言葉のことです」


「ああ、そういうことか。それであにうえは、よくかんがえてからはなすようにって、いつもボクにいうんだね」


「青龍の皇太子さまの言われることは、まわりの方々にとっては、きっとご命令のように聞こえてしまうのかも知れませんね」


「でもね、でもね。ボクはハクレイのことがだいすきなんだ。ずっとハクレイにそばにいてほしいんだ。だから、ボクがおおきくなったとき、にするっていうことが、そんなにわるいことなの?」


「人を好きになることに、悪いことはございません」


「そうだろう? だのに、ボクがにするっていったばかりに、おおさわぎになったんだ。それで、おこったはハクレイをにおとしたんだよ」


「難しいことは、わたしにもわかり兼ねますが。きっと、いろいろな方々には、それぞれの思惑があるのではないかと」


って?」


「ええと、それは……。人それぞれの、いえ、神さまそれぞれのお考えのことです」


「ああ、そうなんだ……」


 萬姜の言った『それぞれの思惑』という言葉に心当たりがあったのだろう。そこまで言って、青龍の皇太子は口を噤んだ。その見かけは子どもとはいえ、神ともなるとやはり賢い。


 だが、再び口を開こうとした青龍の皇太子を、彼女は押しとどめた。

 聞いたところで、舜老人でもない自分に、神々の思惑など全く理解できないに違いない。


「ただ一つ、わたしに言えることは。誰かを好きになるということで一番大切なことは、ご自分の想いの強さでもなく、周囲の方々の思惑でもなく、お相手のお心の中の想いでございます。青龍の皇太子さま、白麗お嬢さまのお心の内を訊かれたことはありますか?」


「えっ? おばちゃん、なにをいっているの? いつかになるボクのになること以上に、嬉しいことなんてあるの?」


「訊かれたことはないのですね?」


 萬姜の問いに、白麗と同じ金茶色をした目が大きく見開かれた。思い当たることがあったのだ。見る見るうちにその両目から大粒の涙がぽろぽろと溢れてきた。




 そしていま、胸の中にあった悩みを人ごとき女に吐き出した青龍の皇太子は、彼女の前で盛大に鼻水を垂らしながら泣いている。


「青龍の皇太子さま、お辛いことでございましょう」


 そう言いながら、その顔を汚している涙だか鼻水だかわからないものを、萬姜は寝衣の袖口で拭いてやった。嗚咽はますます大きくなり、抱えきれない悩みに押しつぶされた小さな体が、萬姜の豊満な胸の中に倒れ込んできた。


「思いっきり、泣いていいのですよ、涙が涸れるかと思えるほどに」


 流行り病で両親と夫を一度に亡くして、毎日、泣くしかなかった日々を彼女は思い出していた。


――あの時は、涙が涸れるのに一年かかったけれど。青龍の皇太子さまの涙が涸れる日は、どのくらい先のこととなるのだろう?――


 震える小さな肩を撫でさすりながら、萬姜は優しく言葉を続ける。

「泣いて泣いて、胸の中がからっぽになれば、その隙間に知恵の芽が生えます。それを大切に育てていれば、必ず、悩みごとの解決策は見つかります」

 

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